年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

靖國神社の靖國偕行文庫で

2024年06月22日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
3連敗の図書室訪問で、休みの無い神社の図書室へ行くことを計画する。するとまだ叔父の特攻隊へなぜ入隊したかの理由が不明で普通の徴兵と異なっている事実が見つかっていて、その確認を怠っていた。その事実とは何かというと、陸軍は昭和18年にミッドウェー海戦後の戦局の悪化で、米軍が本土攻撃が増すことを予想し、飛行機の乗組員を緊急増員することになった。この報道は昭和18年7月に新聞記事となって大々的に報道されていた。人気のある海軍の予科練は競争率10倍の難関であった。ところが陸軍は大々的な報道にもかかわらず、不人気でやっとのことで5倍程度だった。
 昭和18年9月8日に陸軍と海軍の航空士官の試験の結果が毎日新聞埼玉版で見ることが出来る。叔父は今の埼玉大学教育学部の前身の埼玉師範学校に学んでいたことが親族から聞いていたが卒業を証明するものが無かった。そこで埼玉大学へ行って、戸籍謄本を出し、叔父の軍歴から昭和18年頃の資料があったらと頼んで家に帰った。帰ったら大学から資料があったことの伝言があって、見に行くことになった。そこにあったのは昭和18年9月30日に卒業した成績表だった。一応個人情報と言うことで叔父の部分を写真に撮り、家に持ち帰って分析するとおじの航空士官の合格の理由が判った。それは視力が1.5あったということに尽きる。さらに卒業後の行き先が、陸軍特別操縦見習士官となっていた。今思うとこれは今の越谷市大袋小学校という名前が書いていない。昭和18年9月の終わりに毎日新聞と埼玉新聞の師範学校卒業生の勤務先が出ていた。それによると大袋小学校だった。
 9月8日の新聞には叔父の名前が10名の合格者には無かった。そこで埼玉文書館で師範学校の卒業者名簿から10名の名前と海軍の22名のリストを作成した所、陸軍の合格者の9名が戦後にも生きて学校の先生となっていた。ただ1名の人が卒業者名簿に勤め先が不明で安否が判らなかった。その1名は海軍のも合格していた。リストから埼玉師範から22名が海軍・いわゆる予科練に合格したのだが、5名の死者がある。そのうち特攻死したのが1名でそのほかは記録が不明だった。
 叔父の軍歴から、繰り上げ合格ということが解かるがその根拠として、両方に合格した人を聞くには埼玉大学へ行くのが簡単だが今の常識で個人情報は教えてくれないと思い軍隊の資料が豊富な靖國偕行文庫へ行って調べることにした。コロナ以前は休館は1日しかないが今は週3日しか空いていない。多分戦後も80年になると記憶も薄れ調べる人は少ないと思い予約せずお願いして資料を調べる。まず陸軍特別操縦見習士官1期生写真集を出してもらい2600名のリストを見ると陸海軍に合格した人の名前が無かった。そこで靖國偕行文庫の掛かりの人に海軍13期生の名簿を出してもらったが関東地方しかなく、ふと思って13期生の戦死者の名簿を出してもらった。この名簿は戦死の電報の番号順で苦労すると思ったが昭和20年4月に沖縄攻501飛行隊で沖縄本島東の米軍艦船の夜間攻撃で未帰還飛行機という記録があった。
 靖國偕行文庫の掛かりの人は招集令状は事前に連絡する仕組みが無いので、両方に合格した人が10月1日の入隊日にどこへ行ったかから始まるという。このことは叔父の陸軍の繰り上げ合格が10月になることを意味していて軍歴も11月1日から始まる。親族の言い伝えでは小学生の慰問袋が届いていたというがほんの数日勤務した大袋小学校の児童の可能性もある。

 靖國偕行文庫には現在、靖國神社の蔵書を併せ約14万冊の図書資料が収蔵されています。神道関係の資料をはじめとして、蔵書の多くは戦史・戦記・部隊史・教程・教範類・英霊の追悼録・回想録等の日本近代軍事史関係資料です。
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