年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

7月25日日本経済新聞夕刊で福神漬

2022年07月28日 | 福神漬
ブログを読んでいる人のコメントで7月25日の日本経済新聞で福神漬が取り上げていた。ネットで検索し見ると今絶好調の日本郵船と共に記事が出てきた。内容としてカレ―ライスと福神漬の関係が書かれている。多くのカレ―本には日本郵船と福神漬の関係が書かれている。
 福神漬には明治18年頃(1885)からの話が伝わっていて諸説も誕生している。
 日経の記事では1877(明治10年)頃の創製のように書かれている。明治10年と言えば西南戦争の時期で武士の象徴である刀が大砲に負けた。下谷上野の戦争で徳川将軍の霊地が戦火で荒廃し復興に向けていた時だった。江戸時代の下谷上野は桜の名所や不忍池などの観光地で多くの江戸市民の行楽地でもあった。福神漬を創った酒悦主人は復活した観光地の客のために新商品の開発を始めた。明治10年頃から始まり上野公園で開催された水産博覧会等で見た缶詰にこの漬物を入れることにした。しかし当時は缶詰が高く今の物価に換算すると1缶2000円程度になってしまった。そこでこの漬物を名物とするべき商品名を著名な戯作者梅亭金駕に依頼した。彼が命名し福神漬となった。なぜ酒悦主人が梅亭金駕に依頼したかというと当時は読者人口が学制によって急拡大していてさらに活版印刷の普及もあって安価に大量出版出来て江戸時代の戯作が安く再出版されていた。梅亭金駕の妙竹林話七偏人に不忍池周辺の話の香煎茶屋の話があって江戸時代は3軒あったのが1軒だけ生き残った。この生き残りの香煎茶屋が酒悦だった。漬物に商品名を入れる工夫は上野池之端仲町の薬舗「守田宝丹」の宣伝方法を見習った。新橋停車場跡地にある電通ビルのアドミュ-ジアムに初めに日本の近代広告の歴史があって薬の宣伝で守田宝丹の役割が展示されていた。
 福神漬を調べることは近代日本において食の文明開化という存在だったことを今は思っている。

コメント
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