近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

天理市の西山古墳とは!

2011年03月08日 | 歴史
西山塚古墳は、大和古墳群の中で5世紀後半の古墳としては、唯一の前方後円墳で、前方部は北に向いている。

前期古墳が大半を占める大和古墳群の中で、後期の大型前方後円墳はこの古墳だけ。叉大和古墳群の中で唯一前方部を北に向けている。

本古墳は、全長約114m・前方部幅70m・高さ8m・後円部径65m・高さ13mほどの前方後円墳で、円筒埴輪が発掘されており、その型式から、この地域の古墳としては異例の5世紀後半の築造と見られる。

前方部が竹林になっているが、墳丘は2段・後円部が3段と見られる。

これまで発掘調査は行なわれておらず、埋葬施設や副葬品は不明だが、墳丘の地面から古墳時代後期前葉の埴輪が採集されている。

明治20年頃、墳頂部が開墾された際に、石棺・勾玉・管玉・鈴・土器・人造石が出土したと云う記述が“山辺郡誌”に見られるが、現在その所在は不明。







写真は上から、西山古墳の看板越しの光景、同古墳正面の墳形及び同古墳の荒れ果てた南側からの光景。

山辺の道沿いには、多くの巨大前方後円墳があって目立たないが、全長約114mという本古墳墳丘規模は、5世紀後半の古墳としては、かなり大きな古墳。

山辺の道が萱生(かよう)集落に入り、狭い道を西側に行くと出会う、生活感に満ち溢れた古墳が西山古墳で、その後円部上には、石垣を積み上げたミカンの段々畑が見える。

一部に本古墳の濠などが残っている墳丘の裾には、一般の住宅が入込んでいて、後円部の南の狭い道にも古い風格のある住宅が並んでいる。

古墳の周囲を囲む幅12~20mの溜池は、当時の周濠痕跡と考えられ、後円部南西側の溜池外側には幅10m・高さ2mほどの外提が残っている。

なぜ、前期古墳の巨大前方後円墳が集中するこの地帯に、前方部が大きく開いた後期古墳をこじ入れるように築造したのか?

ちなみに大和古墳群・柳本古墳群ともに前方部を北に向けた古墳もなければ、100mを越す5世紀後半の古墳も西山塚古墳以外皆無らしい。

萱生集落の山側には、継体天皇の后の“手白香皇女”(たしらかのひめみこ)の墓とされる“衾田陵”(ふすまだりょう)がある。前方部を北に向けた西山塚古墳の右手端の奥には衾田陵の後円部が見える。



写真は、衾田陵・西殿古墳の後円部光景。

衾田陵と呼ばれる西殿塚古墳は、3世紀後半築造と考えられ、墳丘が約240mもある、古墳前期の前方後円墳のため、5世紀後半の手白香皇女の墓所ではありえない。

5世紀終りの本古墳は、仁徳天皇陵と伝えられる大仙陵古墳よりも新しいことになる。

継体天皇皇后の手白香皇女は、衾田に葬られたとされているが、衾田付近で時代の一致する古墳を探すと、西山塚古墳以外にはない。

従って、ほぼ間違いなく本古墳が手白香皇女陵で、延喜式に記されている継体天皇妃・手白香皇女の衾田墓は、西殿塚古墳ではなく、西山古墳だという説が圧倒的に有力。

その証拠としては、埴輪が継体天皇の真陵と言われる今城塚古墳と同じく、高槻市の新池遺跡で焼かれていることが挙げられる。

6世紀の継体皇女・手白香皇女の皇后墓が、何故オオヤマト古墳群内に築かれたのか、疑問が残るが、継体天皇が地方豪族であっただけに、あえて皇后をオオヤマトに葬ることで大和系列を誇示したかったかもしれない。