近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

縄文人の謎・ロマン “伝統的美意識”の“ハレ”の文化とは!

2007年10月30日 | 歴史
縄文人が、毛皮を着ていたものが進歩して、繊維の衣類に変わったのであろうか?今日まで発掘された考古学的資料では、調査に限界はあるが、それでも縄文前期・中期・後期の遺跡から“編布”(“あんぎん”と呼び、俵・むしろのような編み方。)が出土したことから、文様・衣類のデザインを類推できる。





写真は、久留米市の正福寺遺跡から出土した“編布”2点。

衣類以外の出土遺物から、縄文人は“ハレ”と云う非日常性と“ケ”と云う日常性のライフスタイルを使い分けていたことが明らかになっている。

例えば、漆塗りなど高度な材料・細工・文様・装飾を付けた用具が発見されているが、関連して当然“ハレ着”も存在していたと考えられる。





写真は上から、さいたま市の“真福寺貝塚”から出土した“ミミズク土偶”及び山形県真室川町の“釜淵遺跡”から出土した“髪を結う土偶”。

縄文土偶の頭部の造形を眺めると、ピアスをした土偶・髪を結う土偶・日本髪の島田・三つ編み、出土した“櫛やペアピン”・“かんざし”などを組み合わせると、髪型が具体的に分かるようだ。

織物の素材は、多くの樹皮や麻からの繊維を利用していたと見られる。
布は大麻やシナ・フジなどの茎・樹皮から採った糸で作っていたらしい。

他にはシカ皮製の冬の肌着、毛皮を組み合わせた厳冬期の“狩り装束”なども考えられる。或いは麻・苧麻製の衣類を重ね着して厳冬を過ごしたかもしれない。

“縄文土器文化”の伝統が今日まで連綿として引継がれ、世界に冠たる陶磁器王国を維持し、昨今では“ニューセラミック・テクノロジー”に形を変えて、世界の最先端を走っている。

又現在のファッション情報の発信機能においても、ブランド品消費量の多さ、美的センスと選択機能の高度さにおいても、世界をリードしていると云える。

又世界のファッションの中心地・パリのデザイン界においても、日本人デザイナーの活躍を見ても、日本人の“衣”に対する文化レベルの高さが見て取れる。



写真は、日本伝統文化を象徴する、京都四季彩の着物。
織・染・刺繍・模様・デザインなど衣料の構成要素が卓越していることに加え、伝統的美意識・色彩的感性・独創性がバックボーンになっていると云える。

編み込み模様・組紐・刺繍などに絶技巧を凝らして再現された、祭りの“縄文衣装”を纏って、縄文美人が現代の六本木や原宿辺りを歩いても、違和感はないと思われる。