近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

縄文人の謎・ロマン 縄文人の本土内移動・分散

2007年07月21日 | 歴史
縄文人の典型的なムラ単位は、円形や楕円形の土地の外周に竪穴住居が7・8戸建てられ、その中央に広場が広がる配置が最小単位のムラで、そのような小さなムラが7・8戸集まって、標準的な大きなムラ社会を構成していた。

従って1家族が5・6人として、標準的なムラの人口は、300から400人ほどで構成されていた。それらムラの集積である日本全土の総人口の推移は、一説によると、縄文草創期(紀元前10,000年~7,000年)が約1万人、早期(同7,000年~5,000年)が3万人、前期(同5,000年~3,000年)が5万人、中期(同3,000年~2,000年)で7万人、後期(同2,000年~1,000年)で7万人、晩期(同1,000年~300年)が5万人と推測されている。

縄文前期・中期には昨今心配されている、「地球温暖化現象」により、平均気温が現在より2度ほど高い状態にまで上昇し、札幌の気候が東京並みになったことで、青森市の「三内丸山遺跡」に代表される一大集落が誕生している。



写真は、現在も発掘調査が進んでいる、青森市内“三内丸山遺跡”現場。
海面が5mほども高くなった、「縄文海進」現象が植生にも影響して、ナラなどの温暖帯落葉樹林が西日本から東日本にまで拡大し、“三内丸山遺跡”からは、大量のクリの残滓が出土している。



写真は、世界自然遺産に登録された、和歌山県那智勝浦町の常緑広葉樹林に覆われた那智山の光景。当時の東北地方も照葉樹林に囲まれた温暖地帯であったと見られる。

地球温暖化現象により、食住環境に恵まれた、東日本に人口が集中して、東北地方が当時の日本の一大中心地であったと云う。
縄文早期には2万人程度であった本土総人口が、縄文中期には26万人ほどまでに膨れ上がったという説もある由縁。

と云うように、縄文中期の本土総人口予測値には、大きな落差がある。

その間、縄文人は狩猟・採集・漁労を中心に、いくぶんの植物の栽培・動物の飼育などで、原始共産社会を創っていた。

縄文時代を通じて日本全土の総人口は、転変地変などにより余り増えていないが、地球規模の寒冷化により、暖かい地方への人口移動が活発になり、全国に分散していった。



写真は、現在の長野県八ヶ岳高原ののどかな風景。
海面は陸地から遠のき、海の恵みと山の幸とを併せ享受した、“東北中心時代”は終わり、縄文人は東北地方より南下して、森がもたらす資源豊かだった、八ヶ岳地方に集まっていた。



写真は、関西地方の代表的農場・大阪河内長野地方の風景。

又縄文後期以前までは中部地方以北に多くの人口が集まり、近畿以西は過疎地帯であったのが、弥生時代から古墳時代にかけて、再度の寒冷化現象と共に、寒い山中から暖かい平地に下りて来た人々による農耕生活が始まったことで、近畿地方をはじめ四国でも人口が爆発的に増えた。

弥生後期の近畿地方の人口は、縄文後期から20倍以上増え、ある試算によれば、4,500人から11万人に急増したが、増加分の8割は、東日本から寒冷気候に追われてやってきた人たちで、単なる自然増ではなかったと云う。