光秀物語シリーズ、最後に光秀に纏わる史蹟探索の締めくくりとして、光秀ゆかりの地最新情報を現地よりレポートする。
山崎の合戦に敗れた光秀は、再起を期して数人の近臣と夜陰に乗じて勝竜寺城を脱出し、坂本に向かう途中、この地で落武者狩の土民に竹槍で突かれ、無念の最後を遂げたと伝えられる。
当時の様子は、「豊鑑」や「明智軍記」に明記されていると云う。
時に、天正10年(1582)6月13日、ここが光秀終焉の地で、現在の「京都市伏見区小栗栖」。
この写真の場所が、光秀が土民に襲われたという小栗栖の「明智藪」で、記念石碑が建てられている。
起伏のきつい住宅地に向けて、自動車でやっと通れるほどの狭い路地を精一杯入り込むと、突如として明智藪の記念碑に出会う。
小栗栖のある山科盆地は、平らな面と崖とが階段状の地形を作っているところで、盆地の中ほどには北から南へ流れる山科川があり、この山科川に沿った段丘面に、明智藪が所在する。
写真のように、住宅地周辺は年月を感じさせる、鬱蒼とした背高い森林・竹林で覆われ、恐らく当時は落武者が出没しそうな竹薮に包まれていたと想像できる。