近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

光秀物語 サイドストーリー編そのⅦ

2006年09月23日 | 歴史
次に細川ガラシャ・玉子の精神的苦悩の側面について、振り返ってみたい。
1、玉子は父の光秀や家族を助けることなく見殺しにした、忠興を許せなかったと思われる。
冷淡な夫と義父、孤立無援で死んでいった光秀の哀れさを思うにつけ、孤独感にさいなまれ続けたのではないか・・・・・・・。
光秀の娘である玉子を殺せ、そうしなければ細川家も危ないと、家来に迫られていた夫忠興が、玉子の身は何があっても自分が守ると決意し、結局、玉子を人里はなれた丹後味土野の山村に隠すことになった。
政略結婚だらけの戦国時代、実家が敵方となった嫁は実家に帰されたり、殺されたりするのが常だった。まして謀反人の家族は根絶やしが「常識」。
しかし、忠興は玉を隠した。 
琵琶湖畔大津市の坂本城、堀のある長岡京市の勝龍寺城、天橋立を望む海辺にある丹後の宮津城等々、広々とした水のある風景の中で暮らしてきた20歳の玉子は、丹後の辺境での暮らしをどう受け止めただろうか?
いつ帰れるともわからない山村で、言いようのない孤独感に押しつぶされそうになっていたはず。そんなとき玉子はキリスト教に出会い、洗礼を受けた。
付き人の佳代がすでに洗礼を受けていたが、その佳代の思いやりのある言葉と信仰に玉子が興味を持つようになったと思われる。

2、秀吉から許しが出て、玉子は都に帰れる日がやってきた。
しかし、そこには小さいころに別れたために、すでに自分にはなつかなくなっている子供たちや、玉子のいない間に忠興が娶った側室が待っていた。
“仲が良かった”という夫婦仲は、様変わりした。
忠興が留守中に側室を置いたのも一因だったが、玉自身も大きく成長し、変わっていたのだろう!
せっかく待ちに待った機会が訪れたというのに、山奥で生活していたときよりも大きな孤独感が玉子を苦しめた。
そして、そんな玉子を慰めてくれたのがキリスト信仰であった。

3、徳川家康に対抗している石田三成は、細川忠興を自分の側につかせることで
優位に立てると考え、妻の玉子を武力で人質に取る作戦に出た。
何があっても人質になっては、夫忠興や徳川家に人質になっている息子・忠利のためにならないと分かっていた玉子は、信仰の助けもあり、むしろ死を選んだ。
その後忠興は、玉子の死のおかげで徳川家康に信頼され、その後徳川家3代にわたって腹心の家来として仕えることができた。

玉子の苦悩・決断が、その後の細川家を救ったと云える。