近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

光秀物語 サイドストーリー編そのⅢ

2006年09月15日 | 歴史
織田と明智が時を超えて和解!
「信長と光秀の子孫が、京都中央区の本能寺で対面し、本能寺執事長立会いのもと、信長の墓前で握手したことにより、本能寺の変から422年ぶりに和解した!」と云うニュースが2004年6月に報道された。
この時期、織田家は武田家とも和解しており、和解で大忙しといったところ。
戦国史を塗り替えることは出来ないが、その意義・解釈を今風に置き換えると、“和解”という選択肢が成立するのかもしれない。

以前は主君を討った大逆臣というイメージで描かれていた光秀像が、近年は横暴な上司と有能な同僚に苦労させられる中間管理職として描かれるという、光秀に対する評価が変わったからかもしれない。

それにしても、今回和解した両家当事者のうち、信長宗家の13代当主は家系図からいって由緒正しいと思われるが、明智家の場合「光秀の流れを汲む」と言う表現からも、明智家の家系がハッキリしていない現状から、疑問を挟まざるを得ない。
少なくとも光秀の直系ではないということか? 或いは直系かどうかも分からない?
何分光秀の父親候補ですら、“光綱”・“光隆”・“光国”と三人もおり、いずれの名前も書状や古文書には見られないということから、判然としていない。
光秀の子供たちについても、ほんの一部を除いて、判然としていないなど、先祖の系譜は依然闇の中にあることからも、子孫の脈略について今も疑問が残る。

織田家と明智家が和解したとはいうものの、「お主殺し」を断行した光秀の逆臣行為は、日本の風俗・伝統を真っ向から否定するもので、以来歴史の舞台から遠ざけられたために、明智家のツケは永遠に返すことが難しいと云える。