近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大阪岬町の西陵古墳とは!

2015年03月08日 | 歴史
ここからは、大阪岬町の古墳群のうち、西陵古墳について紹介する。

西陵古墳は、墳丘長約210m・後円部直径115m・高さ18m・前方部幅108m・長さ110m・高さ14mほどの前方後円墳で、全国第31位の大きさを誇り、又近くには全長約170mの“宇度墓古墳”(淡輪ニサンザイ古墳)があり、巨大古墳が二つも並ぶこの地は、重要な紀伊水軍拠点であったことが窺い知れる。

ここでは、紀氏の活躍ぶりについて、和歌山市に境界を接する、大阪府岬町の中期の古墳を取上げる。

と云うのは、朝鮮半島との密接な交流を物語る貴重な資料の数々や、大和朝廷の生命線とも云える、大阪湾岸・河川を含む制海権を牛耳っていたこともあり、当時の紀氏の絶大なパワーを追ってみたい。





写真は、西陵古墳の墳丘と周濠光景。

本古墳が所在する淡輪地域は、番川によって形成された小さな平野で、そのほぼ中央に大阪湾を見下ろすような位置にあり、太正11年に国史跡に指定されている。

墳丘の周りは、写真の通り、幅25~40mの水をたたえた周濠が巡り、これらを含めると全長が300mにもなると云う。

本古墳は、垂仁天皇王子・五十瓊敷入彦(いにしきいりひこ)宇度の陵墓として宮内庁が管理しているが、古墳時代中期の5世紀前半頃の築造。

周濠外部からは、円筒埴輪・朝顔形埴輪・蓋形・盾形・短甲形・家形埴輪といった埴輪類が見つかり、墳丘にはこれら埴輪が配列され、葺石も施されていたと云う。

後円部には、主体施設として、かつて凝灰岩製の長持形石棺の蓋石が一部露出していたが、大正11年に埋め戻されたと云う。

大和政権が、大和から河内そして和泉に進出し、仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳が作られたのは、5世紀の半ばで、紀伊から和泉へ向かう海上交通路として、その中間地点となる岬町は、大阪湾の入り口にある点から重要な戦略拠点。

岬町の古墳時代は、まさに巨大古墳を中心とした時代であり、古墳の規模或いは豪華な副葬品からすれば、相当な権力をもつ被葬者が想像されるが、紀伊水軍を管掌する首長の古墳ではないか?

被葬者としては、紀小弓宿禰とする説、紀船守とする説、五十瓊敷入彦命とする説があるが・・・・・。





写真は、岬町白峠山古墳頂上から見下ろす、大阪湾と岬町風景及び船守神社と楠木。

岬町は、大阪湾に面した町であることから、海上交通に関連した職務に携わった、しかも古代国家政権に大きな影響のある町であったことは間違いない。

本古墳近くには、淡輪の氏神にもなっている船守神社があり、紀船守・紀小弓宿弥・五十瓊敷入彦命の三神を祀っている、由緒深い紀氏の氏神神社。

船守神社本殿は、桃山式三社造千鳥波風神殿造りで重要文化財として登録され、又境内の大楠の木は、樹齢700年ほどと大阪府随一の大きさを誇る。





宮内庁、大阪・岬の陵墓を公開「淡輪ニサンザイ古墳」とは!

2015年03月01日 | 歴史
大阪岬町の古墳といえば、先ずは代表的な淡輪ニサンザイ古墳について紹介する。

大阪府泉南郡岬町淡輪にある前方後円墳は、宮内庁が平成26年12月5日、垂仁(すいにん)天皇の皇子、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)の墓「宇土墓(うどのはか)」に指定している陵墓「淡輪(たんのわ)ニサンザイ古墳」(前方後円墳、全長172m)とされ、当古墳の発掘調査現場を報道関係者に公開した。

岬町は和歌山県境に近く、大阪湾に面した場所に築かれている。学界では水運に影響力を持つ紀伊地方(和歌山県)の首長クラスの墓とする説が有力。

午後には考古・歴史学の学会代表らに公開するが、同古墳の本体が発掘調査されるのは初めてと云う。







写真は上から、淡輪ニサンザイ古墳の上空写真、同古墳の墳丘光景及び発掘調査で出土した葺石・埴輪群等。

昭和42年以降、同庁は全国の陵墓等で整備工事を実施しているが、事前に遺構を確認し、工法を決める目的で考古学的調査を行い、現場を公開している。

淡輪ニサンザイ古墳でも、周濠の水に浸食されて墳丘が崩れるのを防ぐため護岸が検討されており、平成26年10月から同庁書陵部が墳丘の裾部分を発掘していた。

古墳の裾部分を20カ所発掘。墳丘は農業用水に使われた堀の水の量を増やすために後世に削られており、築造時の全長は200m前後だったことが分かった。

現在、前方部と後円部の間から突出する「造り出し」は南側だけに残っているが、当初は北側にもあったことも確認された。

南側の造り出しには墳丘表面を覆った葺石がよく残っており、古墳本体との間から円筒形と朝顔形の埴輪が列になって出土。

上面や周囲から家や盾、貴人にさしかける蓋などの形をした埴輪片が多数見つかったが、埴輪の形から古墳が5世紀中ごろ~後半に築造されたことが確実になった。

日本書紀によると、五十瓊敷入彦命は景行(けいこう)天皇の同母兄で、鉄刀など武器の生産を指揮したとされる。

しかし研究者の間では、古墳は過去に出土した埴輪などから、465年に雄略天皇の命で朝鮮半島の新羅と戦い、現地で病死して「田身輪邑(たむわのむら)」に葬られた、と日本書紀に記された豪族・紀小弓(きのおゆみ)(現在の和歌山県地方の豪族)の墓とする説もある。

和歌山県境に近く、大阪湾に面した場所に築かれているため、学界では水運に影響力を持つ紀伊地方(和歌山県)の首長クラスの墓とする説。


大阪府岬町の古墳群とは!

2015年02月13日 | 歴史
ここからは、大阪府岬町の古墳群について、4回に分けて紹介します。

先ずは、岬町の特徴・歴史的経緯・古墳時代の役割などについて。総覧してみたいと思います。

岬町は大阪府の西南端に位置し、背後に和泉山脈を望む。大阪湾に面して対岸に淡路島が見え、古くから紀伊国や淡路国・四国へ渡る、陸海南海道の交通の要衝であった。





写真は、大阪湾を望む岬町光景と岬町に点在する古墳群マッピング。

ここ大阪湾に面して造られた古墳群は、被葬者の海とのかかわりの深さが想像でき、紀伊を本拠地とする人物かも知れない。

渡来人達が海からやってきてまず海岸縁に居を構え、そこに覇を唱えたのがよくわかる。

朝鮮半島からの渡来人達は、瀬戸内海を東進し、大阪湾岸南部、泉南部、そして紀州北部へと根付いていったと思われる。

あの山向こう側の紀伊地方には大谷古墳があり、そのずっと南には広大な山肌におびただしい数で造られた岩橋千塚(いわせせんづか)古墳群がある。

いずれも朝鮮半島からの渡来を窺わせる出土品が出ている。大谷古墳の馬兜は、近年発掘された釜山の福泉洞古墳のものとそっくり同じものであると見られているし、宇度墓古墳がほんとに垂仁天皇の皇子・五十瓊敷入彦命(いにしきりひこのみこと)の墓だとすれば、古事記・日本書紀にかかれた古代天皇達の物語は、その多くが渡来人達の物語かも知れない。

次回からは、古墳の背景に潜む当時の様子を覗いてみたい。



静岡県沼津市高尾山遺跡の驚くべき新発見とは!そのⅢ

2014年12月20日 | 歴史
ここからは、首題の第三弾として、今後の遺跡動向に注目していきたい。

振返ってみると、平成20年度から平成21年度にかけて実施した発掘調査の結果、高尾山古墳は東国では最古級の古墳であることが判明しました。

この古墳については、研究者の間で、卑弥呼の墓と云われる箸墓古墳よりも古いと考える説(西暦 230年頃)と、これとほぼ同じ年代(西暦 250年頃)と考える説が併存していました。

そのため、教育委員会文化振興課では、古墳の構築年代についてのより詳細な資料を得るため、平成26年5月より試掘調査を開始し、7月中旬に調査が完了したので、その結果は以下の通り。

・墳丘は、原地形を2mほど削平にしたのち、4mほど盛り土・版築によって構成されている。
・墳丘内から大量に出土した土器(約2,000点)に、西暦230年より古い年代のものはなかった。
・古墳の主体部から出土した遺物から、古墳へ埋葬されたのは、西暦250年頃と判断できる。また、主体部から西暦230年頃の土器も出土しているが、これは埋葬時混入した可能性が高い。
・別の主体部(埋葬施設)が墳丘内に存在する可能性は少なくなった。

以上の通り、東日本最古級の古墳の一つとされる沼津市東熊堂の高尾山古墳(旧辻畑古墳)について、沼津市教委は今年行った追加試掘の結果、「古墳の築造は230年ごろで、埋葬は250年ごろとみられる」と発表した。

築造と埋葬の時期にずれがはっきりと分かるケースは珍しい。市教委は今後、「空白の20年」の謎に迫っていく。

年代を明確にするため、市教委は平成26年5月15日~7月18日、棺が眠る後方墳に溝を掘り、出土した2千点の土器片を調べた。

この結果、230年のものが大半だったことから「古墳の築造は230年ごろ」とした。

埋葬時期は、平成20~21年度の調査の際、矢が抜け落ちないように工夫した「逆刺(かえ)り」という細工がしてある鉄製の矢尻が、埋葬者の足元に、副葬品としてあったことや、埋葬の際に行った祭事に使ったとみられる土器片が250年のものであったことから「埋葬は250年ごろ」と結論づけた。



上の写真は、本古墳の保存を巡り最終意思決定が留保されたまま、道路工事が中断している様子。

全体の道路工事事業は継続しており、用地買収も99%終了した。だが高尾山古墳の調査のため、現在一部周辺の工事がとまっている。

沼津市は今後、試掘調査の結果をふまえ、保存の方針を検討していく。

市道路建設課によると、古墳を完全な形で残しての道路建設は難しいという。

市当局は「道路建設も古墳の保護も大切。調整しながら保存の方法を考えていきたい」と話した。

今後の動向に注目していきたい。




静岡県沼津市高尾山遺跡の驚くべき新発見とは!そのⅡ

2014年11月24日 | 歴史
ここからは首題の第二弾として、更なる驚きの一端を紹介します。

高尾山古墳が近畿地方で本格的な古墳の築造が始まったのとほぼ同時期にあたり、特にヤマト王権の象徴的墳形である前方後円墳に対して、前方後方墳であることは、独自性の強い、当地固有の古墳形態として、その歴史的意義付けや古墳発祥から発展の経緯を考える上で、貴重な発見と云える。

後方部の木棺跡に検出された、鏡・鉄鏃などの副葬品と土器の組み合わせからも、3世紀前半頃のものと分かったという。

次に出土遺物について、概観してみたい。





写真は、高尾山古墳から出土した高杯及び土器。

墳丘の周囲に掘られた周濠からは、祭事に使われたとみられる、高さ約20cm・直径約25cmの高坏には円錐形の脚部があり、写真の通り、割れた状態で見つかった。古墳完成後の祭事に使われたものと推測できる。

脚部上方に“くし”で引いたような横しまがあることから、3世紀前半に作られたと見られる。これらの土器の様式は、ほぼ「纏向3式」と同年代ということになる。

何となく、古墳築造については、近畿の方が東日本よりも先行していたイメージがあるが、西日本と東日本は、ほぼ並行していたと見られる。

沼津市には、本古墳から北西3kmほどに“清水柳北1号墳”と呼ばれる、8世紀前半築造の上円下方墳があるが、主体部には棺はなく、遺骨を納めた蔵骨器を入れる石櫃が確認された。

古墳築造にも、当時の仏教思想が反映され、土葬から火葬に移行する時代であった。

このことは、西暦645年の“大化の改新”から間もなく、“大化の薄葬令”が出され、大規模墳墓築造が禁止されてからも、地方では権力者が、権威を示すために依然として墳丘を持った上円下方墳が築造されていたことになる。

高尾山古墳が最古級の古墳に対して、本古墳は「最も新しい時代の古墳」と云うことができ、古墳の最終の形態を示している。

一方で、高尾山古墳のように、同市教育委員会が「高尾山古墳は、卑弥呼の墓とされる奈良県桜井市の箸墓古墳とほぼ同じころに築かれた!」としている。

と云うことで、沼津市には最古級の古墳と最新の古墳が揃っていたことになり、しかも同じ地域から、前方後方墳であり、上円下方墳であったりと、ヤマト王権の象徴・思想とは異なる、むしろ反逆とも取れる思想・行動は、当地の豪族が一大勢力を誇示していたからだとも云える。



写真は、本古墳から出土した銅鏡片。

本古墳からは、同時代のものと思われる銅鏡などの副葬品も多く出土したことから、3世紀前半から中頃の築造と見られる。

埋葬品は、鉄鏃を含めコンテナ30箱分にも上がったらしい。

本古墳の遺構は、幹線道路の計画ルートの真ん中にあり、いずれ消えてしまう運命にあるが、全国的にも、考古学上も大変貴重な発見だけに、何とか保存して欲しい。

「邪馬台国の時代に、東海から東方面では独自の文化が形成されていたことは分かっていた。古墳の位置は愛鷹山麓から見下ろし、駿河湾入江の最も深いところに位置していることから、豊かな湿地帯で人の流れが活発だったとみられることを証明する貴重な史料と見られる。

弥生時代には低墳丘墓が一般的であったが、この時期平野部の前方後方墳にも土を盛り上げて高塚を持つように築造されたことになる。

邪馬台国大和説では、前方後円墳は、大和地域を中心にヤマト王国として広がったとされ、一方前方後方墳を造営したのは、東海地方を中心に邪馬台国に対立していた狗奴国(くなこく)であったと云う説が有力だと云われている。

日本列島各地に点在した地域国家が、ヤマト王権によって徐々に統合され、古代国家が成立する過程で、前方後円墳に代表される首長の権威に対して、アンチ・ヤマト王権の象徴として、前方後方墳も並存したと考えられる。

卑弥呼が生きている時代に、前方後方墳を造るだけの有力豪族が、この地に存在していたことは、3世紀中頃の支配構造を考える上で貴重な史料であり、この地は狗奴国の勢力圏内の一つであったかもしれない。

今後の更なる発見・情報収集が待たれる。



静岡県沼津市高尾山遺跡の驚くべき新発見とは!

2014年11月10日 | 歴史
ここからは3回に別けて、静岡県沼津市の小都市から、全国レベルの古墳時代史を揺るがすような新発見について紹介する。

沼津市の東熊堂(ひがしいくまんどう)という所に、わずか6年前の平成20年に発見された墳丘長62mの前方後方墳がある。

発見されたのは最近だが、畿内から遠く離れた駿河にあって、造られたのは西暦230年頃まで遡るとされ、わが国の国家形成の過程を解明する上で大きな意味を持つ古墳である。そのため、現在この古墳の築造時期を巡って、研究者の関心を集めている。

そこで、市教育委員会は平成26年5月15日から2ヶ月間、主体部を中心に幅1m・深さ2mの溝を計7本試掘して、追加試掘調査を実施した。

調査結果を踏まえ、私が生まれ育った故郷であることから、また当ローカル古墳が全国的に関心を集めている折からも、ここで当古墳発見の経緯から遡って振返ってみたい。

先ず沼津市古墳時代前夜を振り返って見ると、当地は温暖な気候と豊かな自然に恵まれ、当時既に片浜から原、さらに田子の浦海岸や内浦湾沿岸の海岸地域は、当時の海岸線は愛鷹山麓に迫っていたとは云え、既に集落が開けていたと云う。

このことは、これらの場所に点々と古墳がつくられたことからも推測される。

沼津市は、眼下に駿河湾、南東に伊豆半島が延びる風光明媚な地で、在地豪族が墳墓を築造しそうな立地。

そのような自然・社会環境の中で、今回話題を呼んだ、辻畑古墳は沼津市東熊堂の熊野神社旧境内地から発掘され、南北約62m、西側4分の1は道路で削り取られていたが、東西約35mと見られ、高さは約4.5mの前方後方墳。

当初は辻畑古墳と呼ばれていたが、なぜか最近は高尾山古墳と改称されている。

墳頂の1.0mほど下には、副葬品を伴う木棺跡が検出されたと云う。





上の写真は、発掘調査現場で平成21年10月初旬の光景及び年輪を感じさせる、大木の根っこが取り残されたまま、崩し落とされた古墳墳丘の高さが窺い知れる。

発掘調査は、国道1号から同246号に抜ける都市計画道路の建設に伴って実施され、平成22年~23年度中には古墳を撤去して、計画された道路を建設する予定と云うが、本古墳が保存されることを切望する。

高尾山はこの道路の建設予定地内に位置しており、小山の上には熊野神社と穂見神社という2つの神社が鎮座していた。そこで、平成20年にこれらの神社は東の隣接地に移された。

市街地でありながら、遺構の大半が残っていたことに、関係者からは「奇跡だ!」との声も上がったと云う。









上の写真は順番に、辻畑古墳の現地説明会光景、古墳と共に出土した弥生時代後期の竪穴式住居跡及び住居跡全景。

本古墳は国道1号線沿いの住宅地にあり、平成20年5月以降、本格的な調査を進めてきたが、市教育委員会は、平成21年9月、出土した土器や副葬品を分析した結果、同古墳が弥生時代後期から古墳時代初期に築かれた東日本最古級の古墳であると発表した。

出土した高杯から、本古墳の築造が230年前後と見られ、奈良県桜井市の纒向石塚古墳と同じ古墳初期に分類されるらしい。






奈良明日香村都塚古墳で階段状の「ピラミッド型」方墳発見!そのⅢ

2014年10月26日 | 歴史
最新一大発見の、首題のタイトル案件、以下最終回を締めます。







写真は、明日香村の石舞台古墳全景、同石室正面入口光景及び都塚古墳から北西方向を望む石舞台古墳方面光景。

7世紀前半、権勢を誇った蘇我馬子(稲目の子)の墓とみられている石舞台古墳が近くにある。墳丘上部が失われているが、こちらも方墳だ。

関西大教授(考古学)は「下から見上げると石の山のようだっただろう。後に営まれた飛鳥の宮から、西日に映えて、石舞台とともにピラミッドのように見えたのではないか」と威容を想像する。

蘇我稲目の娘を母とする、上述の3人の天皇の陵は方墳で築かれ、方墳は蘇我氏のシンボルとされてきた。

大阪府立近つ飛鳥博物館長によると、都塚古墳の石棺の形は6世紀第3四半期で、稲目の時期にぴったりだが、石室は6世紀末~7世紀初めの新しい形という。

「6世紀後半まで有力者は前方後円墳に葬られた。都塚古墳の被葬者は蘇我氏の有力者だろうが、前方後円墳の時代になぜこれだけが方墳なのか?」と頭を悩ませる。

稲目は朝鮮半島の百済から伝わった仏教を積極的に取り入れようとしたと云う。

奈良県立図書情報館長(歴史地理学)は階段状の墳丘に注目し、「仏教思想で世界の中心にあるという須弥山(しゅみせん、古代インドの世界観の中で中心にそびえる想像上の高峰)を表し、稲目がそこに葬られたいと思ったのではないか」と推測するなど諸説が併存する。

奈良明日香地域は、日本の国・倭国が初めて国家として基礎を固めるにいたったとき、政治・文化の中心となっていたこと、また、現在は明日香法の制定により歴史的風土や自然環境が保存されていることなどにより、数多くの見どころがあるだけに、一度散策されては如何ですか?





写真は、明日香村朝の光景と山麓に広がる棚田の風景。

明日香村は、山・川・田園等々に彩られ、千四百年前の飛鳥時代の歴史や文化を感じ取ることができます。

明日香村を探索することで、歴史・自然・文化・農・食等を通じて、歴史のロマンあふれる明日香の地で、地元民と触れ合い、ひと味違った思い出に出会えること間違いと思います。

当地の農産物としては飛鳥米が有名ですが、丁度この時期は葡萄の収穫期に当り、生産者直売の巨峰の看板があちらこちらに散見されました。





奈良明日香村都塚古墳で階段状の「ピラミッド型」方墳発見!そのⅡ

2014年10月05日 | 歴史
近年、古墳時代の一大発見である、首題の件、第二弾を続けます。





写真は上から、奈良明日香村都塚古墳の石室正面入口と同古墳家形石棺の石室内部光景。

同古墳は石舞台古墳の約400m南に位置し、横穴式石室(全長12.2m)に巨大な家形石棺(長さ2.2m、幅1.5m、高さ1.7m)が残っており、江戸時代には既に入口が開いて、家形石棺を納めてあることが知られていたと云う。



写真は、都塚古墳の現地説明会当日の様子。

石を階段状に積み上げた、国内では類例のない大型方墳とわかった、奈良県明日香村の都塚古墳で平成26年8月16日、現地説明会があった。

“奈良のピラミッド”を一目見ようと、約4100人の古代史ファンらが列を作った。午前10時の開始が約45分前倒しされるほど盛況であったと云う。

調査した関西大は「階段ピラミッド形の墳墓は百済や高句麗などでみられるが、1世紀以上時期が早く、切り石を積むなど構造も異なる。内外で類例がないか、さらに確認する必要がある」と話す。

日本では都塚古墳の後、石舞台古墳や山田高塚古墳(大阪府太子町、推古天皇陵)など大型方墳が築かれ、7世紀半ば以降、天智天皇陵(京都市)など墳丘が八角形をした天皇陵が登場する。

専門家からは国内で類例のない貴重な発見に様々な見方が出ている。

「デザイン重視の古墳の先駆けではないか」と推察されたりしている。

「6世紀までの前方後円墳が巨大さを誇示するのに対し、7世紀の八角墳の天皇陵などは段築を視覚的に強調するようになり、都塚古墳はその移行期に当たっている」とする。

一体誰が、何のためにこのような前代未聞の古墳を造ったのか。3人の天皇(用明天皇・推古天皇・崇峻天皇)の外祖父となった蘇我稲目らを巡って被葬者論が熱を帯びている。

毎年元旦にこの塚で金鶏が鳴くという言い伝えがあるため金鳥塚とも呼ばれことから、「金鳥塚」の異名を持つ都塚古墳。

巨大な石室の中に豪華な家形石棺があることは分かっていたが、一辺30m程度で、段差はあっても3段とみられていた。

発掘調査している明日香村教委の文化財課は「墳丘をできるだけ高く築くために、急傾斜になっても崩れないよう階段構造にしたのではないか」と推測する。

都塚古墳があるのは、飛鳥の中心部から南東に飛鳥川をさかのぼった標高約150mの傾斜地。






奈良明日香村都塚古墳で階段状の「ピラミッド型」方墳発見!その1

2014年09月14日 | 歴史
突然ですが、ここらは先般マスコミで報道された、最近にない考古遺跡発掘のホットニュースをお届けします。

と言いますのも、奈良県明日香村の都塚古墳(6世紀後半)が、石を積んで階段状のピラミッドのようにした国内では例のない方墳とわかったと、関西大が平成26年8月13日、発表したことです。

一帯は飛鳥時代の大豪族・蘇我氏の拠点で、蘇我馬子(?~626年)の墓とされる石舞台古墳(7世紀前半、方墳)を見下ろす丘にあり、被葬者を馬子の父・稲目(いなめ)(?~570年)とする研究者の指摘もあります。




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写真は上から、都塚古墳の全貌遠景、同古墳墳丘の様子、平成26年9月初旬当時の発掘調査中全景及び遺跡裏側のぶどう畑にもシートで覆われた調査中現場光景。

都塚古墳は後世の耕作などで壊され、墳丘の形や規模は不明だったが、昨年度からの発掘調査で1辺が41~42mの大型方墳と判明。





写真は上から、階段状石組みの様子と墳丘イメージ像。

墳丘の東側で、石を積んだ遺構を4段分(1段の高さ30~60cm)確認した。

元々7~8段あったとみられ、高さ4.5m以上に復元でき、方墳としては石舞台古墳(1辺約50m)に次ぐ大きさになると云う。



大阪難波宮とは!そのⅣ

2014年09月08日 | 歴史
大阪難波宮跡の調査から導き出された数々の驚き・謎などについて、更に続けます。





上の写真は、難波宮跡に復元されたが草木で覆われた八角殿及び難波宮跡から出土した柱根。

内裏南門の東西に、回廊で囲まれた八角殿が配置されたが、外観は重層であり、宮殿の中心部を荘厳化する目的があったとされる。

八角殿の目的がはっきりしないが、時を告げる「鐘楼」、「鼓楼」のようなものであったと考えられている。





上の写真は、難波宮宮殿の屋根を葺いた板材の一部及び祭祀用に使われたとみられる土馬など。

難波宮前期宮殿建築には、石材による基壇を採用せず、木材と云う我が国の伝統的材料を使い、屋根を瓦葺きにせず、意識して伝統的な板葺きにしたのも、同じ理由と見られる。

宮殿跡の北西隅には谷が入り込んでおり、そこには湧き水を利用する施設やその水を更に遠くへ流す石組みの地下水路が造られていたが、ここで祭祀が行われていたと見られ、人形・舟形・土馬などが見つかったと云う。

木製基壇の上に立つ建物は、内裏前殿や八角殿等の中枢部の建物に限られている。

朝堂院南門や南面中央門(朱雀門)の平面規模は東西が23.5m、南北は8.8mで、柱は直径約60~80cmという太い柱が使われていた。

一方後期難波宮は、奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした。

中国の技法である礎石建、瓦葺屋根の宮殿が造られた。天平15年(744年)に遷都され、このとき難波京も成立していたと考えられている。

そして翌天平16年1月1日には、難波宮から紫香楽宮へ遷都した。



大阪難波宮とは!そのⅢ

2014年08月27日 | 歴史
ここから更に、大阪難波宮の謎・深層に迫ります。

昭和29年(1954年)以降、長年にわたる発掘調査の結果、前期・後期二時期の難波宮跡が、中央区法円坂一帯の地に残っていることが明らかになった。

発掘当初は、前期難波宮宮殿に関わる掘立柱の発見をきっかけに建物配置が徐々に判明し、昭和36年に行われた第13次調査では、ついに奈良時代の後期難波宮大極殿を発見した。

現在、内裏・朝堂院部分90,677㎥が国の史跡に指定され、発掘調査により、前述の通り、難波宮は大きく分けて前・後2回の宮殿遺跡とそれ以前の建物群があることが解っている。

孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県明日香)に戻っていた皇祖母尊・皇極天皇は、孝徳天皇が没した後、655年1月に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった。

683年(天武12年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、686年(朱鳥元)正月に難波の宮室が全焼してしまった。





写真は上から、前期難波宮の再現模型及び後期難波宮模型のうち、中央が大極殿。

前期難波宮は、この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であった。宮殿の中軸線上に三つの門が発見されている。北から内裏の南門、次に朝堂院の南門、宮城の南面中央の門(朱雀門)。

宮殿の中枢部には、北寄りに天皇の住まいである内裏を、その南に朝廷の公式行事や重要な政務を行う朝堂院を配置する。天皇が出御する場である大極殿は、宮殿の中で最も重要な建物となった。

後期難波宮の大極殿や朝堂院は中国風の建物で、基壇上に建ち、屋根は瓦葺きで、柱は赤に彩色しているのに対して、内裏の建物は掘立柱形式で屋根は檜皮葺きとして彩色をしないなど、我が国古来の建築様式だったと推定されている。

内裏南門は東西32.7m、南北12.2m。日本の歴代宮殿の中でも最大級の規模である。

この門は、木製基壇の上に立っている。



大阪難波宮とは!そのⅡ

2014年08月17日 | 歴史
引続き、大阪難波宮の歴史を辿ります。

今回難波宮の発展史を振り返る特別展を機に、難波宮創建の経緯を辿ってみると、飛鳥板葺宮での蘇我入鹿暗殺(乙支の変)に始まる大化の改新。皇極天皇が退任し、新たに孝徳天皇が就任したが、645年孝徳天皇が遷都したのが難波宮(難波長柄豊崎宮)で652年に完成した。



写真は、現在の甘樫丘から望む明日香村飛鳥の里風景.






写真は、難波宮跡の宮殿基壇越しに僅かに覗く大阪城を望む光景及び難波宮跡から北西方面のNHK大阪支局ビルや大阪歴史博物館ビルを見上げる光景。

653年、叔父の孝徳天皇と中大兄皇子(後の天智天皇)が対立し、中大兄皇子は都を飛鳥に戻すといい、孝徳天皇を難波に残したまま、さっさと奈良に戻ってしまったと云う。

中大兄皇子と一緒に飛鳥に戻ったのは母である皇極上皇、弟の大海人皇子(後の天武天皇)のほか、更には孝徳天皇の皇后である間人(はしひと)皇女も飛鳥へ行ってしまったと云う。

そして654年孝徳天皇は病に倒れ、その後寂しく難波長柄豊崎宮でこの世から去った。

そうなると次期天皇は中大兄皇子となるはずだったが、次期天皇は皇極上皇が再び斉明天皇として飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で即位重祚した。中大兄皇子が皇太子のまま残ったのには、諸々の謎が隠されているようだ。

難波宮はそれ以来、8世紀末までの約180年間、首都としてまた副都として日本の古代史に大きな役割をはたした。




大阪難波宮とは!その1

2014年08月11日 | 歴史
引続き、大阪市内古代史跡を巡ります。

今年は難波宮の発掘調査が開始されてから60周年となる記念すべき年にあたり、長年に渡る調査成果とその発展史を所蔵資料とともに、平成26年6月21日から8月18日まで、大阪歴史博物館で特別展を開催中です。

特別展の内容に入る前に、「難波」の生い立ちについて遡ってみる。

難波は、宮殿が造られる以前から外交窓口として倭王朝にとって重要な地域であった。その開発は5世紀代に始まるとされ、難波堀江が瀬戸内海と現在の河内平野に存在した河内湖を繋ぐために開削された。



写真は、大阪心斎橋付近の御堂筋沿いに面した三津寺側壁。この辺りが当時の難波津と見られる。

堀江は現在の大川と呼ばれる淀川の旧流路にあたり、その近辺には難波津(現在の大阪市中央区三津寺町付近)と云う港があり、中国・朝鮮の外交使節が来航した際、彼らを迎え入れるための儀式を行う施設が存在し、滞在するための施設も存在したと云う。

日本書紀によれば、608年遣隋使小野妹子に伴われたて倭を訪れた随使一行を難波津で飾船30艘を出して迎えている。
倭から中国・朝鮮半島へ派遣される使節もやはり難波津から出航したと云う。

又難波津と云えば、『日本書紀』の推古天皇21年(613)11月条にある「又、難波より京に至る大道を置く」の記載が示すように、飛鳥時代に飛鳥と難波を繋ぐ主要官道(現在の国道)があったと捉えられており、難波宮から摂津と河内国の境を直線的に南下し、長尾街道・竹内街道のいずれかの東西道に接続し、飛鳥に通じていたと考えられている。

大阪市内の古代宮殿に纏わる謎とは!ー高津宮は何処にあったのか?その2

2014年07月29日 | 歴史
大阪市内の古代宮殿に纏わる謎について、引続き取上げます。

高津宮址には諸説ありますが、もう一つは以下の通りです。



写真は、大阪市天王寺区の生國魂神社本殿。

高津宮は、生國魂神社と同様に、豊臣秀吉の大坂城築城に当たって現在地に遷座したと云う。高津宮は、現在は摂社になっている比売古曽(ひめこそ)神社のある地に遷座された。

仁徳天皇を祀っていた高津宮神社は、現在は東高津宮神社として存在するが、当初は秀吉の命令でこれを比売許曽神社のあった現社地に遷座され、比売許曽神を地主神としたと伝わる。なお、比売古曽神社は、延喜式内社の論社とされている。

主祭神は、仁徳天皇であり、祖父・仲哀天皇、祖母・神功皇后、父・応神天皇、后である葦姫皇后(あしひめこうごう)のほか、長子・履中天皇もまつられている。昭和20年3月の大阪大空襲で焼失し、36年に再建された。

高津宮跡の場所は諸説あり、一番有力な説は難波宮跡らしいが、まだ確定されていない。





上の写真は、高津宮址の石碑のある大阪府立高津高校正門入口と高津宮址石碑。

高津宮址の石碑は難波宮跡から1kmほど南の大阪府立高津高校(大阪市天王寺区餌差町)の正門を入って左へ数十m奥にある。

高津宮神社は清和天皇の時代に高津宮跡に建てられたと伝えられているが、元々は大阪城あたりにあり、正親町天皇の時代に今の場所に移されたらしい。

以上のように、高津宮跡については諸説が混在し、真相は未だに不明。



大阪市内の古代宮殿に纏わる謎とは!ー高津宮は何処にあったのか?その1

2014年07月07日 | 歴史
これからは、首題の如く、大阪市内の宮殿に関して今日までに分かっていること、未だ謎を引きずっているもの等々について取り上げてみたいと思います。

先ずは、第16代・仁徳天皇の皇居・難波高津宮は、そのあった場所に諸説があり、今日に至るまで確定していない。

いずれにしても、仁徳天皇はここ高津宮に都を置かれ、大阪発展の礎を築かれた。又仁政(恵み深い、思いやりのある政治)を敷かれたことでも有名。

難波高津宮の創建沿革などは明らかではないが、当初は「仁徳天皇社」或いは「平野社」と称したようです。



上の写真は、大阪天王寺区の東高津宮神社入口。

かつては現在の大阪市天王寺区上本町6丁目にある近鉄上本町駅に鎮座していたのが、昭和7年当駅拡張のため、300m余り北東寄りの現在地に遷座したと云う。

高津宮の正式な位置については、のちに第36代・孝徳天皇が皇居を設けた難波宮のあった、上町台地の北端、大阪城の南あたりにあったのではないか、という点ではほぼ一致しているようだ。

ところで、後に詳しく触れるが、難波宮跡の発掘調査は1954年に開始され、宮殿に関わる掘立柱の発見をきっかけに建物配置などが徐々に判明し、1961年の第13次調査では、奈良時代の後期難波宮大極殿が発見された。

その結果、長らく幻とされて難波宮跡の存在が世に知られるところとなり、現在では飛鳥時代と奈良時代の前・後二時期の宮殿跡が明らかになっている。

大阪城の前に難波宮があったとすれば、政治を行う上で、地勢上の利便性を為政者が考慮するのは当たり前のことで、そうであってみれば、難波高津宮が難波宮址付近にあったとしてもそれほどおかしなことではない。



上の写真は、大阪市中央区高津1丁目にある高津宮。

もう一つの候補として、千日前通を挟んで、生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)のほぼ北にある、高津宮(こうづぐう)。

貞観8年(866年)、清和天皇の勅命により、難波高津宮の遺跡が探索され、その地に、難波高津宮を皇居とした仁徳天皇をまつる神社が置かれたのが、高津宮の興りであると云う、新たな説が登場した。