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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大坂の伝統上方文化 能楽・茶道

2007年02月08日 | 文化
伝統上方文化で、忘れてならないのが能楽と茶道で、以下ふれてみたい。
先ず能楽について、日本の伝統芸能の一つで、舞と謡と囃子の3要素から成っており、囃子は笛・大鼓・小鼓・太鼓の四つの楽器によって演奏される。

猿楽から発展し、民衆芸能を取入れて、一つの芸能として南北朝・室町
時代に確立したのが、「観阿弥」・「世阿弥」親子であったと云う。

奈良から京都に進出し、時代と共に変化する、人々の好みに合わせながら発展し、江戸時代には幕府のお墨付きを得て、各大名の城には能舞台が造られ、お祝いごとに演じられてきた。



写真は、中央区上町の「難波宮」南側に位置する、「大槻能楽堂」。



写真は、北区中崎町の「大阪能楽会館」。

能楽は、伝統芸能に新しい試みを取入れながら、現在も演じられている。
現在では、「薪能」と呼ばれ、夜間に野外に舞台を造り、篝火を焚いて演じられる能を指し、夏の風物詩として全国各地で行われている。

室町時代から継承されてきた、日本を代表する舞台芸術は、舞う人・楽器演奏者・地謡が揃い、源氏物語など古典文学を題材に劇が演じられる。

生きた芸能として、歌舞伎・文楽などにも大きな影響を及ぼしてきた。
しかし明治維新以降、幾多の存亡の危機を乗り越えて、今日に至っている。
地味な舞台芸術ではあるが、引続き上方の伝統を継承してもらいですね。
「たのみまっせ!」

次に茶道は、礼儀作法のみならず、日本の伝統文化にも大きく影響を与え、庭園・建築様式・建具・置物・花・掛軸・床の間・畳などに茶道文化の精神が反映されていると云う。



写真は、堺市観光スポットの千利休屋敷跡。

奈良が発祥の地といわれる茶の湯は、“千利休”によって、お茶文化が昇華・形成されていく過程で、仏教特に禅の思想が大きく影響を与え、禅僧の行動・振る舞いがお茶の作法を形作ったと云われている。

江戸時代に茶の湯に精神的規範が付与されて、「茶道」として確立し、武家社会から一般庶民へと茶道文化が普及していった。
お茶を通じて、禅における仏教的な礼節精神が一般庶民へ浸透していったわけ。
打水も茶道の精神性を意味する作法からスタートし、今日ではどこにでも見られる風情。

それにしても茶道と大阪人気質はどうもしっくり合わない。
慌ただしい「動」の世界に対して、ゆったりした時の流れの中で季節の変化を味わい、歴史と伝統にふれる「靜」の時間は、大阪人には似合わない。
「静」よりも「動」の方が大阪人にはぴったりくるが、どう間違ったか、大阪人は、本来の伝統文化を「ホカシテシマッタ」のでは?
「あほくさ!」


大坂の伝統上方文化 お笑い文化

2007年02月07日 | 文化
大阪人が二人寄ると、漫才になると云われている。
冗談が分からないと、無粋な人間と軽蔑される。このような大阪風土で生まれた漫才などのお笑い文化は、大阪文化そのもの。

大阪人の笑い芸人に対する要求は厳しく、「払ったお金の分だけは笑わせろ!」とお笑いには妥協しない。
と云うことで、東京のお笑いタレントは大阪の舞台には立ちたがらないと云う。






写真は、千日前商店街の中心に位置する、「なんばグランド花月」で知られる「吉本会館」。

お笑いといえば、吉本興業が思い浮かぶほど、現在ではお笑いの代名詞となっているが、演芸会のみならず、テレビ番組制作・プロモーター・飲食・アミューズメント業なども手がける、日本最大手の総合芸能プロデューサーで、東証一部上場企業でもある。

吉本興業は1980年前後の漫才ブームでライバルを完全に抜き去り、演芸界では一人勝ちの状態となり、現在では所属タレントが約800人という陣容で、全国に直営劇場・寄席を47館持つ、文字通り第一人者。

次に落語について、約300年前の江戸時代中期に誕生し、中でも上方落語は屋外のざわめきの中で、通りすがりの人々を相手にしていたので、目立つ必要があった。
そのために小道具・鳴り物を使うなど、江戸落語より派手な点が特徴とされる。

上方落語は、聞き手に語りかける話法をとり、愛嬌・サービス精神が旺盛で、聞き手とのコミュニケーションを大切にすると云う。
噺のネタも、落語が元々町人の間で生まれたものだけに、毎日のつらい生活を題材に、人々の知恵が笑いと一緒に語られるのが常道。

一方江戸落語は、座敷ばなしが始まりで、少人数を相手にした噺なので、簡潔でさらっと噺することが粋なものとされている。
聞き手の反応を気にせず、噺家のペースで噺を進めていくことができると云う。
このように落語界にも、大阪・東京の地域性・風土の違いが反映されているようで、興味深い。「ほんま!」

ところで、大阪には落語の常打ち小屋が1軒も無く、「なんばグランド花月」や「B1角座」などの演芸場では落語が1本だけ興行されるという寂しい状況。





写真は、「大阪天満宮」参道にオープンした「天満天神繁盛亭」の活況ぶり。

ということで、上方落語の定席は、200人を超える上方噺家全員の長年の悲願だったというが、上方落語協会・桂三枝会長が中心となって、天満の天神さんの敷地内に、平成18年9月に「天満天神繁昌亭」という噺小屋がやっとオープンした。「ええやん!」

天満という土地には元々寄席が8軒もあったと云い、寄席以外にも芝居や他の興行の小屋が建ち並び、嘗ては一大文化圏を築いていたとのこと。

しかし上方落語のような伝統文化価値が高い演芸でも、人気に陰りが出れば、切り捨てられるという運命にあり、伝統ある演芸文化の持続・発展の難しさを物語っている。新しい噺小屋にかける期待は実に大きい。

お笑いを抜きにした、大阪の文化生活は考えにくい。「なんぎやな!」

大坂の伝統上方文化 上方歌舞伎・人形浄瑠璃

2007年02月06日 | 文化
歌舞伎は、1573年頃、出雲で始めたとされる、当時の風俗演劇。
上方歌舞伎は、江戸時代後期に大坂・京都で生まれた、北新地・祇園など花街で、主に酒宴席の座敷で行われる舞として発展した。

この上方舞は、能の動きを基本に歌舞伎の舞踏や浄瑠璃の要素を加え、優雅な落ち着いた舞が特徴で、女性の心理を表現した演目が多く、深い心情を舞で表現していると云う。
上方歌舞伎は、町人の町らしく、義理・金・色恋が絡んだ話や心中物が人気を集めたと云う。

一方江戸は武士の町らしく、歌舞伎の題材は、喧嘩や勧善懲悪の話が多く、凛とした正義の味方が悪人をやっつける筋書きの「荒事」嗜好で、上方の「和事」とは演出・型が際立って違うと云う。
関東で上方舞が行われるようになったのは、昭和に入ってからのこと。



写真は、現在歌舞伎興行が時折催される、道頓堀の松竹座。
松竹座は、大正12年に大阪初の洋式劇場として誕生。
築後70余年を経て、ルネッサンス様式の正面アーチを残し、最新設備を導入した演劇専門の劇場としてリニューアルし、歌舞伎からミュージカルまで、あらゆる舞台芸術を上演する演劇専用の劇場になった。



写真は、道頓堀商店街の西端である、御堂筋西側の大阪新歌舞伎座。
唐破風桃山様式の大阪新歌舞伎座は、元々現在の千日前商店街にあった「3,000人劇場」を縮小し、昭和33年現在の地に移転・開場した。

歌舞伎座の名の手前、当初は歌舞伎興行を行ったが、昨今は歌舞伎にこだわらず、より収益のあがる新しい興行形態の開拓に積極的に乗り出した。

現在では、ライトアップした外観は一段と豪華になり、人気のある映画スターや歌手を中心に据えた「座長芝居」「歌手芝居」などを月替わりで公演している。
これも時代の流れで致し方ないところ。「ええやん!」

大坂の伝統芸能の代表格は、文楽であり、人形と浄瑠璃が一緒になった世界遺産。
人形遣い・物語を語る太夫・三味線弾きの三業から成り立っている芸能で、大坂で人気語り手であった竹本義太夫が近松門左衛門の作品を舞台にかけて、大人気となったことで知られている。
いつしか大坂が本場の地位を確立した。

江戸時代中期以降には、新興の江戸文化に対して、伝統的な上方文化が並存したが、近松門左衛門・井原西鶴などが登場し、元禄文化が上方で花開いたと云える。



写真は、現在の大阪国立文楽劇場。
一体の人形に3人もの遣い手がかかり、人間のように喜怒哀楽を表現する文楽芝居は、300年以上の歴史を持つ。





写真は、現在のお初天神、別名露天神社の社と拝殿。
近松門左衛門が「曽根崎心中」として発表し、「お初天神」と呼ばれるようになった。
ここ「天神の森」であった実話、平野屋の旦那と北新地の遊女・お初の心中事件を作品として書上げ、一躍有名にした。「ほんまでっか!」
現在は縁結びを願う、参拝者で賑わう。

文楽は、戯曲・舞台装置・音楽としての三味線・朗唱・演技が一体化した舞台芸術で、文楽劇場は、舞台と観衆を巻き込んだ小宇宙を実現すると云う。
なるほど世界遺産たりうる由来が分かるような気がする。
「うそやん!」


大坂の伝統上方文化 庶民文化発祥の地・道頓堀

2007年02月05日 | 文化
大阪中央区の道頓堀は、市内を流れる木津川と、東横堀川を結ぶ全長2.5kmほどの運河名及び町名であり、且つ大阪のブランドでもある。

1612年、安井道頓・安井道卜らが私財を投じて運河開削に着工、1615年に完成した。後に大坂町奉行・松平忠明が“道頓”の功績を評価して、道頓堀と名づけたと云う。



写真は、安井道頓の道頓堀興し記念碑。
1660年代から劇場ができ始め、中座・角座・竹本座・浪速座・弁天座・朝日座などの劇場で、上方歌舞伎・人形浄瑠璃など上方演芸が演じられた。

時代と共に、興行内容・劇場名・経営者も転々として、映画館や、演芸場や、新喜劇場などに変えたりと、生き残りをかけたが、平成のバブル崩壊と共に、劇場としての機能は消滅した。





写真は、いずれも現在の道頓堀街賑わいの光景。
現在の道頓堀は、大阪ミナミの繁華街として、特に道頓堀川に沿う商店街には飲食店が集中し、今も変わらぬ賑わいで、夜遅くまで人波が絶えることがないほどで、多種多様な看板・建物の店舗が溢れ、ネオンが眩しい歓楽街。





写真は、それぞれ中座・角座の名残。
中座・角座の名称が、かろうじて跡地に建った商業ビルの名前として復活している。

現在道頓堀に架かる“戎橋”の架け替え工事や、戎橋から両岸に「とんぼりリバーウォーク」という遊歩道などが整備工事中で、いずれ観光船が通い、川側から出入りができるようになり、繁華街の更なる活性化が期待されている。「さよか!」



写真は、戎橋を中心に進行している「とんぼりリバーウォーク」創りの工事現場。
道頓堀は、大阪の観光名所として外せないが、「とんぼりリバーウォーク」整備により、ますます観光名所として磨きがかけられると見られる。

一介の町人である“道頓”の地域開発から始まり、完成してから400年近く経った今日、道頓堀を中心に新たな開発・活性化・交流が繰返され、道頓堀に秘められたエネルギーは今なお健在と云える。

しかしながら、街の賑わいの中心が、飲食店・各種ゲームセンター・風俗店・コンビニなどで占められ、街づくり当初の伝統演芸・文化の風合いが失われた点は、時代のニーズを反映しているといえばそれまでだが、上方伝統文化の香りが失せてしまったことは否めない。
「しゃあない!」


大坂の歴史散策 大阪の台所を支える旧商店街

2007年02月04日 | 文化
大坂に古くから存在する商店街には、前述の空堀商店街のほかにもあり、中でも代表的商店街をいくつか紹介する。

先ず「黒門市場」は、大阪の中心部、いわゆる大阪ミナミに位置する商店街であり、野田市場と並んで食の宝庫として、大阪の台所を守っている市場。
鮮魚と野菜の店を中心とするが、食肉などを扱う店もある。



写真は、現在の日本橋黒門市場。
古書「摂陽奇観」によれば、「文政5年(1822年)~6年の頃より毎朝魚商人が黒門辺りに集まりて魚の売買をなし、午後には残りの魚を持ち寄りて、日本橋にて売り捌くこと南陽の繁昌なるや」とあり、この記述が黒門市場の起源であると考えられる。
 その後も魚商人による売買が継続され、明治35年に公認市場として認可された。

「千林商店街」は、旭区全体が住宅地帯だったときから、生活必需品の需要を満たす為に、当初は呉服、衣服、身廻品及び生鮮食料品を主に取り扱う商店街だった。



写真は、現在の旭区千林商店街風景。当日は多くの店が閉店していた。
その大きさは全長660mで東西に延び、その両側に220店舗が並ぶ、大阪でも1、2をあらそう大商店街。



写真手前のドラッグストアーが、ここ千林商店街でダイエー元1号店が出店していた所。
特に戦後、大手スーパーのダイエーが現在の千林駅前・商店街の入口に第1号店をオープンし、又その後すぐにニチイが開店してからは、スーパーと商店街の小売店との競争により「日本一安い商店街」として有名になった。

次に「天神橋筋商店街」は、大阪北区の東部に位置する、北は長柄橋、南は中之島まで、天神橋1丁目から8丁目までの約2.6kmに渡る、日本一の長さを誇る商店街。




写真は、現在の天神橋筋商店街の光景、6丁目辺りと2丁目辺り。
この天神橋地域は、大阪天満宮をはじめ、歴史的・文化的遺産が多く存在する大阪の顔とも言える地域。

天神橋筋は、近くにある学問の神様「菅原道真」を祀る「大阪天満宮」の門前町として栄え、明治時代に入ってから現在のような商店街としての顔を見せ出した。
商店街は、自然発生的に形成され、300年の伝統と近代化へと革新をとげながら大阪を代表する商店街として発展してきた。
将に”食い倒れ大阪”を象徴する商店街。



写真は、現在の大阪天満宮。
毎年夏に行われる日本三大祭の一つとして有名な“天神祭”の舞台となるのが、ここ大阪天満宮。

元々は南の大川、北の淀川から「大阪天満宮」の参道だった通りに店が集まり、人が集まって、このような長い天神橋筋商店街が誕生・発展してきたが、大阪商人の心意気が感じられる賑わいの街。
「わや すきやねん!」


大坂の古い街並散策 大阪市平野本町

2007年02月03日 | 文化
大阪市の南東部の端に位置する平野区は、江戸時代から明治・大正期などの建物を残す、歴史ある町。



写真は、当地に残る古い家並。

秀吉は大坂城下町を築く際に、当時大坂の堺と並んで最も商業が発達していた、平野の富商業を天王寺に移転を命じているほど。
戦国時代、平野は堺と並ぶ自由都市で、集落の周りを堀で囲んだ環濠集落であった。



写真は、環濠の痕跡と見られる、平野公園内の土塁。
平野の環濠は、戦国時代動乱の自衛、灌漑・排水・洪水の調整池などの目的を持った堤と濠で、二重の濠も見られると云う。

中世以来南蛮貿易で富を成した豪商たちが居住する当地は、大坂の陣のとき、秀吉・徳川両軍の軍事拠点として争奪戦が繰広げられ、兵火で焼失したと云う。





写真は、杭全神社の大門及び重要文化財指定の朱塗りの本殿。
杭全神社は平野郷一円の守護神として信仰を集め、大門は鎌倉時代のもので、市内最古の木造建築と云われ、又周囲の環濠は平野川へ通じ、平野川を経て、大坂天満に荷物を運ぶ船着場が、神社の東側にあったと云う。



写真は、現在の平野川光景。
酒・綿・こんにゃくなど平野の産物を大坂に送り、米・肥料などを平野に運び返す、海上交通ルートが平野の発展を支えたと見られる。





写真は、庄屋を勤めた奥田家の屋敷塀及び、がんこ平野郷店の屋敷前景。
いずれも江戸時代の建築で、重要文化財に指定されている。
平野家住宅は、母屋・納屋・米蔵などを持つ900坪ほどの敷地を有した屋敷で、一方がんこ平野郷店は、季節を感じさせる庭園を伴う、1100坪もの広さをもつ歴史ある平野郷屋敷。「ほんま!」



写真は、大念仏寺の本堂。
大念仏寺は昭和初期の再建ではあるが、総檜造りで府下最大の木造建築物であり、ほかにも社寺など歴史的建造物を残す、由緒ある街並は伝統を感じさせる。
「ええやん!」


大坂の古い街並散策 大阪中央区谷町4~9丁目

2007年02月02日 | 文化
豊臣秀吉の命令で始まった大坂城下町づくりは、先ずは船場・島の内の砂洲を開拓し、そして東西横堀川・天満川・阿波堀川などを開削し、外海と大坂市中・淀川筋の水路網を構築し、いよいよ商業都市・大坂の町づくりが進んだ。

東西横堀川の間は“船場”と呼ばれたが、更に道頓堀川と長堀川が掘られて、この間が“島の内”と呼ばれるようになった。

大坂冬の陣・夏の陣によって、大坂の全市街が焼失した後、大坂藩10万石の大名・松平忠明のもとで、戦後復興が進められ、1619年に幕府領下の大坂町奉行所が置かれた後は、伏見城下の町が移転するなど、本格的復興が図られた。

江戸期の大坂の主要道は堺筋、堺筋と紀州街道を結ぶ接点が日本橋で、上町台地から西の海港への東西ルート・「通り」が主軸交通網となり、「筋」と呼ばれる南北ルートは従の道路であったと云う。「うそやん!」

大坂は天下の台所と云われ、米市場・青物市場・魚市場と三大市場が整備され、全国第一位の金融市場と共に工業生産地としても、銅吹業・鉄加工業など繁栄を極めた。

谷町筋に焦点を絞ると、谷町筋の北部は、城下町建設当時は伏見から移住した町人町に当たり、北部東側は武家屋敷地区であったが、明治維新後は軍事的施設へ転換され、軍需に応じた制服製造業者街として発展した。

大正期の谷町4~6丁目には小売店が軒を並べ、7丁目付近には金属製品・機械部品・工具などを扱う問屋街となり、8丁目から四天王寺西門までは寺院が多く置かれた。







写真は上から、谷町6~7丁目辺りの古い伝統的家並み、及び現在の空堀商店街。

第二次世界大戦で災害に巻き込まれなかったお陰で、古い街並が残っている所で、又空堀商店街辺りの空堀は、大坂城の外郭に当たり、空堀が城下と城外の境界線の役目を果たしたと云う。

空堀商店街から脇に入ると、古い民家が多く残っており、大正期から昭和期戦前の家屋と見られる。





空堀商店街の入口の古い家並み、及び空堀商店街辺りの上町台地から西方向に坂道になって、写真の通り、場所によっては道路が急坂になっている。

長屋形式の民家も散見され、恐らく現在の建築基準法では、建て替えが難しいのではないかと思われるが、路地が狭く曲がりくねっていることからも、いずれ区画整理・再開発が必要と考えられるが・・・・・・・。
「なんぎやな!」


大坂の古い街並散策 大阪福島区野田町

2007年02月01日 | 文化
これからは、江戸時代から明治・大正・昭和初期にかけて、今に残る大阪の古い街並を紹介したい。
先ずは、現在の福島区野田2丁目・3丁目辺りの旧野田村は、今の淀川水系とは異なる、近郊の水郷名勝地として親しまれていた。

この辺りは近世において多くの池沼が残る低地で、僅かの雨でも被害を受ける低湿地帯であった。
これまでに治水・排水にまつわる河川工事が幾度と無く実施され、直近では明治29年から淀川大改修で中津川流域に新淀川が開削され、このために北部90町村余りが新淀川の川床となったと云う。

江戸時代は幕府領のまま明治を迎え、海に近かったため、漁業従事者が多く、村内には鰯漁を手広く営む網元が活躍していた時代。

明治に入ると、大阪に近く堂島川の水路を利用する運輸の利便性にあやかり、紡績・工業などの工場が誘致され発展を見せたと云う。
福島区は第二次大戦による被災は少なく、7割ほどが戦災を免れたので、古い家並みが残り、当時の庶民的人情も残されている。





写真は、今に残る福島区野田2・3丁目の古い家並。
大きなマンションが建ってはいるが、幹線道路から一歩脇道に入ると、大正から昭和初期の光景が散見される。

安治川と木津川の分岐点となる川口地域は、水上交通の要衝として、江戸時代には船蔵や船奉行などの屋敷も並ぶ地帯であったと云う。
川口居留地跡として、郷土史に残る。







写真は上から、江戸時代の建立と伝えられる、川口キリスト教会、今も現役の古い税関建物や、外国人と日本人の共同住居地・雑居留跡地。

幕末に政府はここ川口地区に大坂港を開港し、外国人居留地を創り、街路樹にガス灯がともる街には、レンガ造りの商館が建ち並ぶ異国情緒豊かな街並が思い起こされる。



写真は、現在の本田小学校前に残された、外国人居留地のメモリアル石碑。

明治中頃には居留地制度が廃止されたが、そこここに当時を偲ばせる痕跡が残されている。「ほんまでっか?」

大きな商業船が入港できないこともあり、商人たちは神戸に移転したため、大坂港も新しく天保山に移された。


大阪の歴史散歩 明治から昭和時代

2007年01月31日 | 文化
大阪の歴史散歩の最後は、明治時代以降、今日までの経緯を辿ります。
明治から昭和初期にかけては、政府が造幣局・砲兵工廠を置き、金属工業・繊維産業を中心に、商社・卸売・新聞など様々な商工業が発展し、大阪は東洋一の商工地として多くの企業が勃興した。



写真は、明治時代の大阪市中央区の洋館。

商工業以外でも、文化・芸術・教育などの分野で日本の中心となり、人口も、面積は東京の半分程度ながら、大阪市は日本最大の都市として発展した。
「ほんまでっか!」

しかし昭和10年代より政府が戦時統制をしき、文化・芸術・教育・産業などあらゆる分野の中枢機能を東京に集めたことで、以後大阪は地盤沈下したと云える。

もう少し詳しく遡って見ると、明治に入り、東京が首都に指名され、政治権力・文化的主導権が東京に集中し始めて以来、東京・大阪の競合関係にライバル意識が芽生えたと云う。

しかし当時大阪は、地形的劣勢のほか、インフラ基盤・ハイテクパワーなどが弱く首都機能を十分備えていなかった。
明治初期に沸き始めた文化的ライバル関係は、大阪が経済面における優位性を取り戻すと共に、政治・文化両面においても挑戦に立ち上がった。

1923年(大正12年)の関東大震災で東京が灰燼に帰すや、両者の関係は逆転し、東京一極集中に疑問が投げかけられるキッカケとなった。



写真は、大正時代の大阪市中之島公会堂の光景。

しかし1930年代の後半になると、東京が再び政治的優位性を更新、又文化の主導的地位を取り戻すことになり、更に第二次世界大戦後になると、東京中心主義は留まるところを知らない。

商業的原動力を持つ大阪は、商工業都市のメジャーとして、又大衆文化・緊密な近隣関係・大量消費・効率主義哲学に裏付けられた、経済性・快適性・効率性のモデルであり、経済的首都としての潜在力を秘めている。

しかし世界に通ずる都市として、又日本の政治・文化の中心としては、東京に譲らざるを得ないのが正直な気持ではある。
「しゃあない!」


大阪の歴史散歩 大坂城と城下町大坂

2007年01月30日 | 文化
難攻不落といわれた巨城・大坂城は、天下統一の拠点として、又権威・権力の象徴として秀吉によって築かれた。
再建された現在の天守閣は、1997年から3年間に及ぶ大改修を終え、更に輝きを放っている。



写真は、現在の大坂城天守閣。

天下統一の拠点として築かれた大坂城周辺には、築城に関わった人たちや、彼らを相手にした商人たちが集まり、自然と城下町が形成された。
秀吉は、計画的に城下町建設を進め、大坂城に向かう東西路を中心に、市中を碁盤の目状に整備したと云う。

区画・整備された道路に面した間口を持つ建物の裏側、即ち建物同士の背中合わせの部分に下水溝を敷設した。



写真は、中央区農人橋に近く、松屋町筋の一本東側通りの現役下水溝で、今日唯一残っている。見学用に改修工事中の現場。

幅・高さとも約2mある内部は、石積みされている。
背割下水・太閤下水とも呼ばれ、そのほとんどが東・西横堀川に排水されていたと云う。
大坂は、淀川・大和川のデルタ地帯にできた低湿地帯であったため、町屋から出る下水を排水できる下水溝を必要とした。

東西横堀川は、大阪北の堂島川とミナミ・道頓堀川を結ぶ水運の幹線で、現在は堀の上を阪神高速道路が走っている。



東横堀川に架けられた高麗橋。
大坂城の外堀として整備された、東横堀川に架かる高麗橋は、後には中国街道など大坂と地方を結ぶ街道がこの橋まで延伸されたことから、大坂の玄関口としての役割を担ったと云う。

東西横堀川をはじめ、道頓堀・長堀・江戸堀・京町堀など、水運の要となった堀川が、街づくりの軸として開削され、低湿地帯の排水と共に、地面のかさ上げ用土砂を確保するために掘られたと云う。



写真は、松屋町筋の西側を流れる、現在の東横堀川。

そしてこれら堀川群は、江戸初期には縦横に張り巡らされ、淀川・大和川など大河川の各下流の役目を果たす水運を構成し、各藩の国元産物を運ばせることで、ヒト・モノ・カネが大坂に集中し、商業都市・大坂として発展した。
「ほんまでっか! たいしたもんや!」

大阪の歴史散歩 江戸時代の経済・文化社会

2007年01月29日 | 文化
焼け野原から復興した経済都市大坂が「天下の台所」として全国的に名を馳せたのは江戸時代で、全国から物資が集配される「流通拠点」となり、国際貿易も結びついた国内最大の経済都市となって繁栄した。



写真は、稲穂を持った童子のモニュメントと堂島米穀取引所跡の石碑。

中央区大江橋近くの堂島川沿いにある、写真のような「堂島米穀取引所跡」に象徴されるように、ここが江戸時代から200年以上続いた米市場跡地。

堂島川辺り一帯には諸国大名の蔵屋敷が建ち並び、米などを満載した船が堂島川を往来していたと考えられる。この堂島米市場の米相場は、全国相場の基準とされたと云う。

江戸幕府の鎖国政策の結果、海外進出は途絶えたが、大消費地・江戸へは、海運の中心・大坂が最大の供給基地となり、菱垣回船や北前船が生活物資の海上輸送を担い、大坂・江戸間の大動脈として定期化されていたと云う。

経済だけでなく、文芸・文学・教育・学術などでも当時最先端を行き、経済を支える町人文化も開花して、竹本義太夫率いる人形浄瑠璃が、近松門左衛門とのコンビで大成功を収め、井原西鶴などの文芸文化も開花した。





写真は、大阪市内谷町筋沿いに残る、井原西鶴及び近松門左衛門の墓所。

文楽・浪花節・上方歌舞伎・能楽・茶道など伝統芸能の情報発信地としても大活躍した時代。このように広く町民を中心とした文化が成熟した。

学術・教育文化でも「懐徳堂」・「適塾」の開設で大きく飛躍し、「懐徳堂」は思想界に大きな影響を与え、徹底した合理主義者など多くの町人学者を輩出した。
又緒方洪庵が開設した「適塾」は、幕末維新に活躍した福沢諭吉・大鳥圭介を育てた蘭学・医学の学問所として脚光を浴びた。



(写真は、当時のままの”適塾”の姿で、薬問屋街の中心地であった道修町の近くに開所され、全国から多くの英才たちが自由闊達な町人の町・大坂で蘭学を学んだ。



もう一枚の写真は、適塾の南側直ぐの今橋に所在する懐徳堂址碑。

このように官制の学問にとらわれない私塾による学問も、大坂に根を降ろし、開放的な気風や旺盛な企業家精神が育ち、やがて近代の大都市となる豊かな地盤が創られたと云える。

江戸期に咲いたこれらの文化は、今も大阪の町に息づいている。
「わや、大阪すきやねん!」

大阪の歴史散歩 難波別院・津村別院の歴史とは!

2007年01月28日 | 文化
大阪のメインストリート「御堂筋」の名前の由来である、南御堂・難波別院の歴史は、1561年に教如上人が現在の大阪北区の天満橋と天神橋の間にある大川のほとりに位置する「渡辺の地」に大谷本願寺を開創したことに始まると云う。

1583年秀吉は、石山本願寺の地を入手し大坂城を築城し、城下町大坂を整備・拡大していった。
そのため秀吉は、渡辺の地にあった、大谷本願寺の移転を教如上人に命じ、現在の地に難波別院として移された。



写真は、現在の難波別院。
そして1602年徳川家康が東本願寺を建立するまで、難波別院は東の本山であった。
南御堂がある現在の御堂筋の西側は、豊臣時代の城下町の西端にあたり、寺町が築かれていた所と考えられている。

江戸時代に入ると、ここにあった寺々は天王寺区下の寺町へ移り、御堂筋辺りは、町衆が暮らし、商売を営む町へと変貌をとげている。

難波別院が現在の地に移された時を同じくして、北御堂・西本願寺津村別院が建立され、まさしく南北御堂が現在の御堂筋に並存することになった。



写真は、現在の津村別院。
北御堂は大阪御坊とも呼ばれ、1591年西本願寺が京都に移ったときに、門徒が建立したのに始まり、現在の本堂は、昭和39年建築の鉄筋コンクリート製。

難波別院は難波御堂とも呼ばれ、幕府から旧大坂城外堀の石垣の寄進を受け、又淀川から砂を運び、地盛りをして、壮大な本堂が建立されている。

境内には芭蕉の句碑が建つが、1694年芭蕉はこの御堂前の友人宅で生涯を閉じた。御堂筋の緑地帯には芭蕉終焉地の碑もある。
「うそやん!」


大阪の歴史散歩 平安・鎌倉・室町から安土・桃山時代

2007年01月27日 | 文化
平安・鎌倉時代は、河内湖が次第に埋り、陸地化していった時代で、天満橋から北浜の南岸にあった「渡辺津」が、当時人気があった熊野詣での起点となった。



写真は、現在の松屋筋の一本東側を南北に走る、当時の熊野街道表示碑。

四天王寺は西門から望む海に落ちる夕陽が浄土信仰と結びつき、多くの参拝者を集めていたと云う。
渡辺津から四天王寺・住吉大社を経て熊野へ通じるコースは、参拝と行楽をかねて多くの人々が行き来し、街道の整備も進んだ模様。

渡辺津は、大阪市の中心部、淀川にかかる天満橋から天神橋の間くらいの位置にあり、ここを中心とした北船場一帯が当時入江になっていて、上町台地の北端の西部一帯に街が栄えていたと見られる。



写真は、現在の渡辺津辺りの光景。
渡辺津は、かつて奈良時代まで難波津や難波京があった場所で、そのまま首都・副都でなくなった後も港湾として機能し続けたと思われる。

その後、政治の中心は京都から鎌倉へと、港湾機能は、十分な施設のある兵庫・神崎に移り、大坂は四天王寺などに代表される宗教的要地として信仰が集まった。

室町時代には、首都機能は鎌倉から京都へ戻ったが、大坂では浄土真宗の宗主・蓮如が、現在の大坂城がある場所に、石山本願寺を建立した。

当時上町台地の突端にあった「小坂」という地名が、「おおさか」の語源となり、この頃から大阪の経済・社会・文化的地盤が誕生したと云う。

安土・桃山に代表される織豊時代になると、石山本願寺が信長に明け渡され、信長の意思を継いだ豊臣秀吉が天下を統一して、石山本願寺跡に大阪城を築城し、城下町大坂が誕生した。
この間、戦国時代とも呼ばれる首都機能は、信長の安土から秀吉の大坂に移された。

当時既に現在の東西横堀川、阿波堀川を掘り、海運・水運の拠点大坂を築き、各地から商人を移住させ、木綿・油・薬・金属加工などの産業を当地に集中させた。
又海外交易にも力を入れて、文字通り国際都市・大坂の面目躍如たる姿が現出した。

しかし秀吉統治時代も束の間、城下町大坂は、17世紀初頭、大坂冬の陣・夏の陣で焦土と化した。
「ほんまに、えらいこっちゃ!」

大阪の歴史散歩 飛鳥・奈良時代

2007年01月26日 | 文化
飛鳥・奈良時代になると、仏教が盛んになり、593年に聖徳太子によって「四天王寺」が建立された。




写真は大阪天王寺にある、四天王寺極楽門及びその中心伽藍。

聖徳太子は日本仏教の祖として、宗派や時代を問わず広く信仰され、四天王寺は平安時代以降、太子信仰のメッカとなった。
四天王寺は近世以降もたびたび災害に見舞われ、写真の中心伽藍は1963年に完成したもので、鉄筋コンクリート造り。

遣隋使・遣唐使の出発点であった「難波津」は、国際交流の一大拠点となり、645年には「大化の改新」により、大坂が歴史の表舞台に立ったと云える。

孝徳天皇は、強大な隋・唐帝国の圧力に対抗するため、それまでの伝統的な都の地であった飛鳥を離れ、都を難波の「難波宮」(前期難波宮)に移し、気分を一新して中央集権化を進めた。
難波の地を選んだのは、「難波津」という古代における我が国きっての国際港を擁し、当時既に外交・流通の中心として重要な位置にあったからと云う。



写真は、大阪城から四天王寺にかけての上町台地に置かれた難波宮跡で、大坂城を望む方角からのスポット。

孝徳天皇は、新政権のシンボルに相応しい、内外にその権勢を誇示できるだけの偉容な宮殿造りを、それまでの宮殿とは隔離した場所・規模・形態で達成したと云える。

上町台地は、南端の大和川から北端の大阪城まで約13km延びており、その南北台地の中で、難波宮跡は最も高い地盤に位置している。
又上町台地は大和川と淀川による水運が良く、敵から攻められにくいほど、見晴らしのより台地は、長い間国際交流の中心として、更に政治の檜舞台としても為政者に注目されるほど、格好の地の利を持っていた。

約40年にわたる発掘調査の結果、前期・後期の二つの時期・約150年間、日本の首都・副都としての難波宮跡が中央区法円坂一帯に広がっていたのが見つかった。



写真のように、現在90,000㎡以上が国指定の「難波宮史跡公園」として整備・公開されている。
政務や国家の重要な儀式などを行う朝堂院と呼ばれる区画の面積が、他の宮殿より非常に広く、内部には14棟もの建物が配置されていたと云う。



又写真の通り、前期難波宮の中心部を飾る,八角形の楼閣建築・八角殿が復元され、難波宮の中央門である 朱雀門も発見され、注目を集めた。
八角殿の後方に見え、背景になっているビルは、NHK大阪支局及び国立歴史博物館の建物。

そして後期難波宮と呼ばれるもう一つの宮殿は、聖武天皇が皇位につくと、当時首都は平城京であったが、火災により焼け落ちた、難波復興の中心事業として、726年から造営が行われた。

発掘調査の結果、副都・難波宮であることが分かり、前期・後期いずれも、古代都市大阪の象徴として貴重な文化遺産。

前期難波宮が日本古来の建築様式であったのに対し、後期はその中心部をより立派に見せるため、基壇上に礎石を据えその上に柱を立て、屋根は瓦葺きというように、大陸式の建築様式で飾った。
これ以降藤原京・平城京など、宮殿は大陸式様式が継承された。

前期難波宮時代、諸外国の使節団は、瀬戸内海を船で東上し難波津に上陸した。
そのため諸外国の大使館に相当するような施設や、 わが国の迎賓館のような施設が、難波宮に造られたと見られる。

「ほんまに、どえらいことしよったな!」


大阪の歴史散歩 縄文から弥生・古墳時代

2007年01月25日 | 文化
これからしばらく大阪の歴史を辿ってみたいと思います。
大阪に人類が住み始めたのは、およそ10,000年前の縄文時代草創期と見られ、旧石器時代の氷河期から、気温の上昇に伴い、海水面が上昇し、大阪湾にも海水が浸入してきた。

その結果、上町台地が半島のように突き出し、台地の東側は河内湾、河内湾の西側には大阪湾が広がり、特に河内湾の内海は波が穏やかで、自然条件に恵まれていたと考えられる。
河内湾沿岸には縄文時代中期・弥生・古墳・古代・中世から近世に及ぶ「森の宮複合遺跡」がその発展振りを物語っている。



写真は森の宮遺跡から出土した人骨。
森の宮遺跡は、昭和40~50年代の発掘調査の結果、西日本有数の貝塚が伴い、貝層中からマガキなどの貝殻・獣骨・魚骨や数多くの土器と共に、17体に及ぶ人骨も発見され、5,000年以上にわたり人々が生活し続けていたことが判明。

これらの人骨は最初の大阪人のものかもしれない。
残念ながら、人骨から顔形が復元できないが、一般的に縄文人の顔立ちは、丸顔で目鼻立ちの彫りが深く、精悍な印象を与える。
一方弥生人は、面長で目鼻立ちがのっぺりで、現在の典型的な日本人・大阪人の顔立ちからすると、当時の縄文・大阪人は我々とは違った精悍な顔立ちをしていたかも・・・・。

弥生時代に入ると、河内湾は淡水化し、河内潟から河内湖に姿を変えていくに従って、稲作が伝播し、人々の生活も狩猟・採集から農耕生活へ定住化が進み、大規模集落が出現することになる。

この頃から豊富な水運を利用した海上交通ルートが形成され、上町台地東側の港が拠点となって国内各地・大陸との交流・交易が行われるようになった。

古墳時代になると、中国大陸・朝鮮半島との関係が更に深まり、「難波津」は古代日本の玄関口として、又使節往来の拠点として発展したと見られる。

「難波津」がはたして何処であったが、今日でも議論が分かれるところであるが、おおよそ現在の心斎橋筋2丁目・三津寺町付近か、もしくは東横堀川の高麗橋付近と考えられている。「難波津」探しだけでも、ロマンがありますね

渡来人の手で持ち込まれた窯業・鍛冶・建築・土木・宗教など様々な文化・技術が、難波津を通じて日本各地に広がっていった。
このことは、将に「日本のルネッサンス」とも云える一大文化革新をもたらした。



写真は第16代仁徳天皇の御陵で、堺市が誇る国内最大の前方後円墳であり、墳丘の全長が486mと世界三大墳墓の一つに数えられる文化遺産。

大阪平野の各地には、仁徳天皇陵を始めとする王権の象徴とも云うべき巨大古墳が出現し、渡来人を驚かせ、尊敬させるに及んで、大阪は親善・交易・商業都市としての役割が一層重要になったと見られる。

「ほんまでっか?」って、ほんまかどうか、JR環状線「森ノ宮」駅近くの、
大阪市立労働会館の地下展示室をご覧あれ!