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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大阪人の価値観 金銭感覚

2007年02月23日 | 文化
最近出版され、下記に紹介している書籍によれば、「関西人は基本的に善悪で物事を考えるのではなく、損得で物事を考える。」とのこと。
この考え方に立てば、大阪で駐車違反がやたら多いことが説明できるし、納得してしまう。



写真は、“金銭感覚”を題材にした、中学生・高校生のための書籍。
金銭感覚について、大阪人に対して「東京人は善悪で物事を考える。」見たいにとれるが、そうではなく、東京人の価値観は、「粋か、野暮か」或いは今風に「カッコ良いか、悪いか」でもよい。

東京浅草に代表される下町っ子、いわゆる“江戸っ子”の価値観は、「粋であること」・「カッコ良いこと」が大事であったと考えられる。

「野暮」とは、「規則だから守る」のではなく、「野暮でカッコ悪いから、しけた事はしない。」という意味。しつこく損得に拘るのは野暮なこと。
「野暮」は、大阪では「無粋」と云う言葉が当たるみたい。

又大阪人は遠慮と云う言葉を知らない。街頭で「ティッシュ」を配っていれば、「兄ちゃん、もっとちょうだい」とねだるが、東京人はノリが悪く、必要ないティッシュはもらわない。
大阪人はケチではなく、ノリが良い。

例えば、大阪人のブランドに対する認識は、「品格」よりも「価格」に重点を置き、「ルイヴィトンやシャネル」は「メーカーもん」として括り、「メーカーもん」の次は「安もん」しかない。
ブランドものは高級品ではなく、値段が高い品物で「メーカーもん」と見て、高級品でも安かったら「安もん」になる。

大阪人は、安く買ったら「メーカーもん」でなくても、絶対自慢する。
安ければ安いほど自慢したがるのは、大阪人の特性で、東京人は安く買えば恥ずかしくて、自慢できないカッコやり。



写真は、大阪人のがめつさをテーマにしたイラスト。

例えば大阪女性が衣服を褒められた時に、衣服そのものより「それを如何に安く買ったか」と云うことに焦点が移り、「すごい」・「見えない」と褒められた時に、満足感をくすぐられることになる。
大阪の場合、値段を聞くのは失礼とか、聞きにくいということもないらしい。

全国に店舗がある百貨店のデータによると、売上げ全体に占めるバーゲンの割合は、大阪が3割vs.東京が2割と云うが、分かるような気がする。
要は、大阪人はがめつく、なかなか堅実で、現実主義を生活信条としていると云える。
「ええやん!」


大阪人気質 実利主義・厚かましさ

2007年02月22日 | 文化
大阪人はモノを買うとき、ゲーム感覚で楽しく値切る。
ダメ元精神で、「なんぼになるの!」とか「チョット勉強してや!」とか「端数を負けてくれへん!」と言葉のキャッチボール的軽い気持。
値切る場合、デパートなどでは無理で、相手を選んでのこと。

相手が驚くような値段で買ったことを自慢し、見栄よりも実質を尊ぶ。
大阪人の値切る慣習から、店側もあらかじめ値切られることを前提に、はじめから少々高めに価格を設定していることから、逆に値切らないと損をする。
総務省の統計調査のうち、世帯一ヶ月当たりの衣料費部門では、大阪は47都道府県中37位で、やはりがめつく、始末をしているのであろうか・・・・・。

商都・大阪の商人は、金銭感覚が発達しており、売買差益が商売の決めてであればこそ、収入を上げるか、支出を制するしか、生き残れない。
「厚かましい」点は、商人気質に影響されていると見られ、自分の腕一つで稼がなければならないため、自分の言い分・自己主張はしっかり持たなければやって行けない。

東京人はプライドが許さないのか、値切る行為は、恥ずかしいことと一般的には歓迎されないようだ。
武家社会で育った“お江戸の精神風土”を引き継いでいると思われ、安い買い物をしたことを恥じとする基本心理が働いていると云える。

大阪人はケチだから値切るというより、店員とのコミュニケーションを楽しむ感じで、決してたいそうには考えていない。
他人との会話が楽しく、酔っ払いとでも会話に入っていくのが大阪人で、真面目に相手の話を漏らさず聞こうとする気風がある。
初対面でも遠慮は要らない。「ちょっと、にいちゃん!」と第一声を発する。
なめられないように出会うのが、大阪人のルールで、何せ厚かましく・なれなれしいの一言に尽きる。

ズバズバモノを言う代わりに、余り腹に持たないが、諦めも早く、あっさりしている。
この人懐こさが、浪速の街のコミュニケーションの取り方で、余計な振舞いは要らない。東京人より大阪人の方が、付き合いやすいはず。



写真は、“大阪人のプライド”本渡 章著をご参考に!
又大阪人はプライドを持っても、一切恥じることはないと信ずればこそ、世界中どこへ行っても、大阪弁で通す心意気。
悪口を言われても、へこたれないで、「でもやっぱり、すきやねん!」を通すのが大阪人。

日本では地方から東京に出ると、“地元弁”ではカッコ悪いらしく、嫌でも東京弁に切替えると聞く。「さよか!」

最後に大阪人は「自分好き」で、誰とでも仲良くなれる反面、他人には余り興味がなく、その場限りで「広く浅い付き合い」を好む傾向が強い。
又外者には閉鎖的で、親密な付き合いが出来るようになるまでには、結構期間を要すると云う。
「すんまへん!」


大阪人気質 派手な身嗜み・品性

2007年02月21日 | 文化
今日は、女性を中心に、派手な身嗜み・ファッションについて見ていきたい。
商店街の衣料品店を覗くと、「こんなの誰が着るの?」といった原色の衣服・派手な柄モノが並んでいる。

大阪人は、一般的に色彩が濃く、けばけばしく人目を引くデザイン好みに対して、東京人は渋く、粋がよい服装・着こなしが受ける。

大阪下町のマダムは、トラやヒョウ柄の衣服や小物にもコテコテ・ピカピカのもの、例えばイミテーションの宝石などキラキラなアクセサリーを身につけ、真っ赤なマニキュアを塗るなど、目立ちたがりとしか言いようがない。



写真は、大阪のおばちゃんを揶揄したもので、借り物だが、とても可愛らしい。
又大阪の女性は厚化粧でも有名で、化粧品店の数は、東京を凌いで、全国第一位とか。

大阪では、「みなに分かってもらわな損」とばかりに、ブランドのロゴがハッキリ分かる、でかいものを好んで身につけると云う。
日本の中で、唯一外国と揶揄されるほど、大阪は変わっているように見えるらしい。

東京人は、ロゴはさりげなく分かる程度の方が好まれていると聞くが・・・・・。大阪人装着のブランド品は他人に見せるためにあるから・・・・・・。

又大阪の女性は、特にブランドモノを如何に安く手に入れたかを競い合い、自慢する。
そして言葉づかいも悪く、態度は横柄で、海外でも場所をわきまえず、大騒ぎをしている姿は、日本の恥さらしとも、品性を欠くとも陰口を叩かれる。

大阪ミナミで大阪人の印象について、アンケート調査をした結果では、「あつかましい」が71%、「ど派手」は68%、「よくしゃべる」は96%、「信号を守らない」が83%、「値切る」は78%等々、予想通りの結果だが、そんな人たちはそれが良いと答えていたと云う。

チョット話題は変わるが、言葉の略し方にも東京人とは違う、大阪人の気質が現われて面白い。
例えば、ハンバーガーチェーンのマクドナルドは、大阪では「マクド」に対して東京は「マック」、ケンタッキーフライドチィキンは、大阪は「ドチキン」に対して、東京は「ケンタ」とか、ミスタードーナッツは大阪で「ミスド」など。
大阪人は「ど根性」・「どアホウ」に見られるように、「ど」の音に強い郷愁を感じているようだが、東京人から見ると、大阪人はダサい感じで、とても美味しそうな響きではない。
「しょうもない!」


大阪人気質 イラチ文化のもう一面

2007年02月20日 | 文化
今日は、大阪人の典型的行動様式である“イラチ”を“言葉”で見てみたい。
先ず言葉をなんでも短縮形にしてしまうイラチ振りは、大阪人に顕著。

例えば、地名では「谷町9丁目」→「谷九」、「南森町」→「南森」、「天神橋6丁目」→「天六」、「梅田新道」→「梅新」、「上本町6丁目」→「上六」等々、正式名称より定着しているから不思議。
地元以外の人に道筋を聞かれ、教えても先ず分かるまい。大阪人同士の生活感を表していると云える。

商業施設でも「ソニープラザ」→「ソニプラ」、「フェスティバルホール」→「フェス」、「アメリカ村」→「アメ村」等々と短縮化され、手っ取り早いが、チョットアクが強い感じ。




写真は、大阪弁までちぢめてしまう大阪人。
代表的な大阪言葉は、何と言っても“ほんま”・“めっちゃ”などの短縮形。

又大阪人のイラチ振りを良く表した「はよ」と云う言葉は、「早く」を手短にしたもの。ほんのコンマ数秒の遅れが許されないといったところか?
「はよ、せえ!」、「はよ、せんかい!」「はよ、はよ!」の連呼など。

大阪府内の名字を見ると、吉田・山田・前田・上田・池田・岡田・藤田など、「田」の字のつく名字が多い。
西日本の他県でも同様で、東日本より稲作が盛んであったことを示している。新たな発見として注記したい。



写真は、森岡浩著“日本人の名字ランキング”参照。
ところで人気名字について、東京と大阪の上位3傑の名字を比較してみると、例えば東京ではベストスリーが鈴木・佐藤・高橋と、比較的画数が多いのに対して、大阪は田中・山本・中村のように、画数が少ない名字が多い。

明治時代になって平民が名字を名乗るに際して、形式・身分を重んじる武士の都市であった東京に対して、商人の町・大阪人は合理性を重視して、画数の少ない名字をあえて選んだと思われる。

言葉一つをとっても、歴史・地域性・文化の違いなどを如実に表している点は、注目に値する。
「ほんまでっか!」

大阪人気質 “もったいない”イラチ文化

2007年02月19日 | 文化
今日からは数日かけて、「大阪人気質」について、社会現象・生活慣習を具体的に概観しながら、考えてみたい。チョットした驚きに出会うかも。

先ず主題の如く、大阪人の“もったいない”と云う気持に基づく行動原理について観察してみる。
通勤・通学時の歩くスピードの異常な早さに驚く。エスカレーターであろうと、ムービングウォークであろうと、早歩きか、もしくは我先にと駆ける。

又車の運転に際しても、混んでいる中でも更に詰めてくる運転手が多いのに驚く。空間は、無駄がないように詰めないと気がすまない様子。

歩道の信号機では、大阪人のイラチを鎮める工夫が凝らされている。



写真は、残り時間付きの歩行者信号機。
歩道では、場所にもよるが、信号機の横に残り時間を示すボードが付けられ、信号切替えまでの残り時間を示すことで、一歩でも早くスタートできるようにイラチ気質をサポートしている。

又クルマさえ来なければ、赤信号でも渡る人をかなり見かける。
一説によると、大阪での信号の意味は、青は「絶対に行け」、黄色は「早く行け」、赤は「止まろうや」と云う考えと云う。歩行者信号は目安みたい。

それから大阪人は自分の前の信号を見ずに、左右の信号か、車の止まり具合を見てスタートを切ると云う。

大阪の駅で電車・地下鉄を待ち合せる場合、電車の位置を確認できるように、駅名や駅間の印が点滅する。
例えば、走り出した前駅と次の到着駅間の印が点滅することで、到着が近いことを教える。到着即乗り込みに万全を配する。

東京では「前の駅を出ました」程度の情報提供なのに、大阪人のせっかち気質に合わせている。ここまでやるかと云うほどの親切振り!「ええやん!」

よく言えば、商売人のDNAを持つ大阪人は「時は金なり」とばかり、素早い行動パターンが定着している?
悪く言えば、「早い者勝ち」を行動原理としているだけに、時として我先にと譲らない・並ばない悪習も散見される。

「歩行者は左側通行優先」の理屈は、世界一歩くスピードが早いと評判の大阪人は、追い越し歩きが当たり前のため、自然に左側を空けるのに対して、東京人はもう少しのんびりしているので、追い越し歩きは少数派と考え、右側を空けるとのこと。更に田舎はもっとのんびりしているので、空ける習慣を持たないという理屈。「ほんまでっか!」

大坂の伝統上方文化 「大坂らしさ」は何処へ?

2007年02月18日 | 文化
今まで検証してきた、大坂の伝統上方文化について総括すると、一言で云えば、大坂らしい風土・土壌があればこそ、成立し・浸透したと云える。

「大阪人に歴史上の人物で一番尊敬できる人は誰ですか?」という質問に、ほとんどが、「豊臣秀吉」又は「織田信長」と答えると云う。
「徳川家康」と答える人は、ほとんどいない。大阪人にとって、天下を取ったかどうかは関係なく、むしろ政府や政治の言いなりにならないという意思表示であり、好き嫌いをハッキリ見せ示していると云える。

そこで、視点を変えて、最近の一般市民生活を覗いてみよう。
東京人の大阪人に対するイメージには、お笑い・たこ焼き・食い倒れ・道頓堀・派手なファッション・押しの強さなどが一般的に挙げられているが、中でも押しの強さは、個性の強さであり、押し付けられることに抵抗する、反骨精神でもある。

大阪人はお上嫌いであり、何事も鵜呑みにしないで自分で考え・自分の言葉で表現する、いわば独創性が求められている今日の時代にぴったりと云える。



写真は、大阪らしい、ネオンが眩しい、賑わいの街・道頓堀通り風情。

個性の強さが大阪人気質の一つであり、「大阪らしさ」でもある。
裏返せば、個性が強いだけに、相手の個性も認め、国際的にも開かれ、異質なもの・多様なものへの関心と寛容な精神を持ち合わせているとも云える。
チョット持ち上げ過ぎたかもしれないが、以上がグッドイメージの大阪人である。

他方で、「大阪」が「関西」のイメージの足を引っ張っていると云われたり、東京では飲食店が「関西風」だとイメージが悪いので、「京風」の看板を掲げると云われたり、「大阪風」と云うと人が入らないので、たこ焼きですら「京風」に切替えると云われたり、散々である。

又「大阪」ファッションと云うと、何かけばけばしい、こてこてのおねえさん・おばさんが連想され、「神戸」ファッションと云うと、おしゃれなイメージが抱かれる。

イメージが悪ければ、人も集まらないし、人が集まれなければ、都市として機能しない。現実に観光客は、大阪を素通りして、京都・神戸に行ってしまうほどで、大阪人にとっては屈辱的で・深刻な課題を突きつけられている。

加えて、大阪人らしい、グッドイメージも昨今本来のパワーが感じられないとのクレームが付けられている。
新しいことにチャレンジするより、安心できる旧来の手法に留まる傾向が目立ち、保守的に流される、無理嫌いな点が気になる。

昔ながらの付き合いや人情を重んじるのは、大阪人の魅力ではあるが、思い切って手馴れた過去を捨てて、しがらみに囚われない勇気・チャレンジ精神の復活が大いに望まれる。

最近の大阪では、新規開拓の営業が益々難しくなっていると聞くし、商店街を見ても、出店舗の目まぐるしい変わりようは尋常ではない。
競争原理が働いて、経済原則的にはヘルシーなバロメーターではあるが、一面「なにわど根性」気骨は、「どこへやら」と泣けてくる。

今こそ大阪人のあつかましさ・「かまへん!」ど根性復活が喫緊の課題。
「ほんまにどえらいこっちゃ!」


大坂の伝統上方文化 「えべっさん」祭り

2007年02月17日 | 文化
大坂の祭りと云えば、先ず「えべっさん」であり、毎年1月9日~11日の間行われ、9日の「宵戎」、10日「十日戎」、11日「残り福」と呼ばれ、本命は十日戎。

関西中心に「恵比寿神」を祭る神社で行われるが、特に有名なのは、「えべっさん」の全国総本社、兵庫県西宮市西宮神社の「西宮戎」や、大阪浪速区の「今宮戎」で、今宮戎神社は通天閣の近くにあり、平成19年1月の人出は三日間で101万人だったと云う。







写真は上から、今年の「えべっさん」祭り・宵戎の光景で、今宮戎神社本殿周辺の光景、及び福ザサを売り捌く福娘。

今宮戎神社は、聖徳太子が四天王寺を建立したときに同地西方の鎮護としてお祀りされたのが始まりと伝えられる古社。
漁業の守り神であり、海からの幸をもたらす戎神を祀り、創建当時、今宮戎の鎮座地は海岸沿いであったため、宮中に鮮魚を献進していたと云う。

最寄りの地下鉄駅から一方通行となった狭い横丁を歩き、今宮戎神社に到着するや、「商売繁盛で、笹もって来い!」っと、拡声器から流れ出るメロディー、ふくよかな「えべっさん」の顔、今年の干支・猪の絵馬を手渡している福娘、商売繁盛や家内安全を祈願して福ザサを買い求めるご家族、縁起物の笹や熊手を買い求める参拝者等々。





写真は、1km余に及ぶ道路両サイドにびっしり立ち並ぶ露店の賑わい。
たこ焼き・お好み焼き・イカ焼き・焼き鳥・箸巻き・ベビーカステラ・リンゴ飴などを食べ歩いている子供連れなど、商売に関係なくても、わいわい・わくわく賑やかで楽しい、新年早々のお祭り。

「えべっさん」とは「神様」のことで、全国的には「えびす様」で知られ、七福神の一人で、元々は持ち物の釣竿と鯛から分かるように海の神様であったが、後に商業・農業の神様としても信仰されるようになったと云う。

商人の町・大阪らしく、新年早々縁起を担いで、商売人や家族連れで大賑わい、人混みに呑み込まれてしまいそうで、大いに盛り上がる。
はたして今年の「げん」はどうでるでしょうか?「オモロイやん!」

ちなみに関東では商売繁盛の祭りとしては「酉の市」があり、「日本武尊」を祭っていると云う。


大坂の伝統上方文化 祭り・行事

2007年02月16日 | 文化
ここでは古くから継承されてきた、祭り・行事を取上げてみたい。
大阪で祭りと云えば、「天神祭」で毎年7月24・25日に催され、1000年以上続く日本三大祭りの一つで、夜には数千発の花火が美麗を競うように打ち上げられ、祭りのムードは最高潮に達する。

「天満の天神さん」は村上天皇の勅願で創建されたと伝えられ、菅原道真公を祭る学問の神。受験シーズンの昨今は、合格祈願の学生たちで大賑わい。







写真は上から、天神祭りの賑わい、天満宮を背景にした祭り客、及び堂島川に漕ぎ出した、神鉾神事。

天神祭りでは、夏越祓い神事の後、船を堂島川の中ほどまで漕ぎだし、船上から神童の手によって神鉾が流され、祭りの安全が祈願される、鉾流し神事。
又25日の本祭では、提灯やかがり火で彩られた大船団が堂島川をゆったりと流れる風景は、幻想的な歴史絵巻を思わせる。

平野区の「杭全神社」夏祭りは、300年の伝統を持つ、大阪市内で最大の地車祭りで、別名「けんか祭り」とも呼ばれている、無病息災・安全・豊作を祈る神事。



写真は、杭全神社夏祭りの“だんじり”光景。
旧平野郷9組による夏祭りは、毎年7月11~14日間に催され、9台の“だんじり”が、勇壮に町内を駆け回る姿は圧巻で、前に動く“だんじり”が主流を占める中で、前後に動く“だんじり”は、大阪唯一と言っていいほど珍しい。

後述する、「恵比寿神」を祭る「えべっさん」は、1400年ほどの歴史を持つ神事で、大阪では「今宮戎」が有名。

大阪市内及び周辺では、他にも例えば、市内天王寺の「愛染祭り」、大阪天満宮の「七夕まつり」、住吉区住吉神社の「住吉祭」、池田市の「がんがら火祭」、東大阪市の「大祓式」、岸和田市の「“だんじり”祭」、堺市の「大魚夜市」等々、ローカル色豊かな祭は枚挙に暇がない。

ところで、お祭りにつきものの「“神輿”や“だんじり”」について、大阪では神輿はむしろ珍しく、ほとんどが“だんじり”OR“山車”とも云う。
大阪では祭りの主役が、お年寄りや子供ではなく、若衆だけに“だんじり”に象徴されるように、荒々しい迫力が特徴。



写真は、杭全神社夏祭りで活躍する、“布団太鼓”。
前述の「杭全神社」夏祭りでは、“だんじり”以外に、神輿と共に“布団太鼓”が出るが、大阪では“布団太鼓”も多いと聞く。

一方東京では神輿が多い理由が、山車は戦災で焼けてしまい、再建には神輿の方が手軽であったためと聞くが・・・・・。

それと、東京や関東地方では元々独自の祭り・踊りが少なく、地方の人が持ち込んだ、例えば、「阿波踊り」・「よさこい踊り」など、地方の祭りや踊りを再現するところが多いと聞くが、大阪人にとっては、違和感があるようですね。

やはり大阪には、上方伝統文化が根付いているためでしょう。
「なんでやねん!」


大坂の伝統上方文化 元禄文化

2007年02月15日 | 文化
元禄文化は、5代将軍徳川綱吉の治世の元禄年間(1688~1703年)に大坂・京都を中心とした上方で発達した町人文化。
従来の封建的な武家文化に対して、日本で初めて町人階層が文化の担い手となったため、人間的で華麗な文化が開花した。

町人文化が開花した背景には、鎖国により外国と隔離された日本で、平和な時期が長く続き、独自の文化が発達したことと、寺小屋・藩校の普及により読み書きソロバンが広く浸透し、儒学・朱子学・自然科学などが育ったこと。
又幕藩体制が安定し、町人の台頭が目覚しかったことも大きい。



写真は、元禄文化を謳歌している上方町人。
具体的には、庶民の間で、歌舞伎・人形浄瑠璃のような演劇や浮世絵・浮世草子などの刊行物が愛好されたり、相撲が始まったり、知識人の間では洋学・蘭学が流行した。

美術界では尾形光琳・菱川師宣が脚光を浴び、脚本では近松門左衛門作の「曽根崎心中」・「心中天網島」、小説では井原西鶴の「好色一代男」・「好色五人女」など、俳文・句集では松尾芭蕉の「奥の細道」等々、人間社会を現実的・肯定的にとらえる発想は、町人ならではの生活文化の始まりを告げた。

武士も庶民も享楽に流れ、この時期刀剣は全く不要の時代になった。
 庶民には刀は無縁の存在だったが、元禄時代には貨幣経済が多くの豪商を生み、彼等は愛玩用又は資産の対象として名刀と称される刀を蒐集した。

このように現実に裏打ちされた元禄文化は、関西圏のみならず、北陸・東北の日本海側などにも大きく影響を及ぼした。
“さむらい文化”である江戸文化は、仙台・福島など太平洋沿岸地域に限られていた。
「しゃあない!」

大坂の伝統上方文化 タニマチ文化

2007年02月14日 | 文化
タニマチ文化と云えば、相撲を思い浮かべるが、相撲は単なるスポーツということではなく、文化・社会を統合した伝統文化として、町民文化と共に発達してきた。



写真は、大阪府立体育館で開催される、大相撲大阪場所の光景。
タニマチ文化は、スポーツ・イベント・演芸などの興行には欠かせないものとして、商都・大坂で生まれた。

「タニマチ」の語源は、谷町の豪商がスポンサーをしたことに由来するらしい。
そこには、伝統を守ろうとする力が一つになって、初めて守られるもの。
採算を度外視してでも、もしかして消えてしまうかもしれない文化を守ろうとする企業・スポンサーが必要条件である。

長期間にわたるデフレ不況の中で、メセナ的企業活動がすっかり停滞・消滅してしまった。メセナ活動の源流は、タニマチ文化保全活動にあると考える。

企業と文化との係わり合い、企業の社会的評価の在り方、文化支援活動の社会性等々から、古きよき伝統・タニマチ文化の保存は、採算とは別の次元で捉えられるべきあると考える。

採算が引きあうかどうかの経済的価値判断基準を超えた、社会性評価基準が企業内は勿論のこと、企業の社会性を重んじる、資本・投資社会で問われていると考える。

企業の存在価値は、株主への投資還元実績のみならず、社会的存在価値をも合わせて評価されるべきであり、企業サイドも大いにPRして、世間の認識・投資家の客観的評価をしてもらう必要がある。

大阪には、上方歌舞伎・文楽・浪花節・上方漫才・上方落語・能楽・宝塚歌劇・茶道など伝統芸能が多いだけに、タニマチ文化・庶民文化を守るタニマチ精神の発揚が、今後とも益々必要になること間違いないと信ずる。
「なんぎやな!」


大坂の伝統上方文化 民活パワーの源泉 事例Ⅲ

2007年02月13日 | 文化
今日は民活パワー源泉の事例として、大阪の鉄道網を概観してみよう。
例えばミナミの中心・大阪難波駅では、南海・近鉄両難波駅の通勤・通学の乗降客は毎日数十万人に及ぶが、JR難波駅は閑散として、その存在すら知らない人もいるほど。




写真は、南海電鉄難波駅へ向かう上昇エスカレーター及び近鉄難波駅改札口の光景。

又人口80万人の政令指定都市・堺市でも、大都市の玄関駅は南海デパート付きの南海堺東駅で、JR堺市駅はとても大都市堺の玄関駅とは云えない。



写真は、現在の近鉄奈良駅ビル。
近鉄奈良駅に比べ、JR奈良駅も国際観光都市の玄関とは思えないほど寂しい。

大阪府内にはJR駅が86に対して、私鉄駅は、その3.4倍の296駅もある。
東京駅・上野駅・新宿駅を中心にJRの鉄道網が充実している東京に比べ、大阪は、京都・神戸・奈良・和歌山どの方面へも、JR線より私鉄の方が発着の列車本数も多く、断然便利である。
一昨年のJR福知山線脱線事故の惨劇を思い起して欲しい。何か関連がありそうに想える。

これは、江戸時代以来、お上の力が強い首都東京と、商人の町・商都大阪の土地柄の違いと云える。大阪は民の力が強く、民力の方が、頼りがいがあった。

即ち、例えば阪急グループの場合、創業者小林一三は、その独創的な会社経営により、私鉄事業の先駆者として、どうすれば鉄道利用者を増やせるか、全ての発想の原点は、そこにあった。

ターミナルデパート、各種商業施設、沿線のレジャー施設、住宅地開発、分譲住宅販売、レジャーランド建設等々総合生活産業として、事業開発・運営に取組んできた。



写真は、阪急電鉄梅田駅構内の光景。
例えば、阪急梅田駅は、10のホームを持つ日本最大の私鉄ターミナル駅として知られている。

民力が今日の大阪地区の経済・社会インフラ基盤を造ったと云える。
そのためには、カリスマ的企業家の存在が不可欠であることも事実。
今昔の経済・社会・文化などに関する諸条件・環境が全く違うとはいえ、カリスマ・超ワンマン経営者の再来が待たれる。

ベンチャー企業家を生み・育てた、自由・進取の大阪風土は、大阪復活の可能性を秘めていると信ずる。
「オモロイやん!」


大坂の伝統上方文化 民活パワーの源泉 事例Ⅱ

2007年02月12日 | 文化
ここでは、大坂の街づくりのヒーローである、「岡田心斎」・「河村瑞賢」・「安井道頓」の功績を取上げてみたい。

以前にもふれたが、大坂の橋はほとんど「町橋」と呼ばれ、町人達が費用を出し合って架橋・管理していたもので、江戸時代に幕府が自ら架設した、“公共橋”は大坂城への連絡口など12橋ほどで、全体約200橋のうち6%とわずか、町人の町・大坂の面目躍如たるものがあった。

岡田心斎は、江戸時代初期に長堀川を開削した後、長堀川両岸の往来便宜を図るため、南北に橋を架けたが、これが心斎橋の名前の由来。



写真は、現在の陸橋・心斎橋址石碑。
心斎橋は、仮設時には木橋だったが、明治に入って鉄橋に、その後明治末期には、大坂で初めて石橋に架け替えられたと云う。



写真は、埋め立てられる直前の心斎橋の光景。
しかし昭和39年、長堀川の埋め立てに伴い、現在の記念碑的陸橋に姿を変えた。

一方河村瑞賢は、材木・土建・運送業などの経験者でもあったことから、江戸幕府が水害の絶えない大坂の治水事業に本腰を入れたことに伴い、淀川・大和川を中心とした大治水事業の全工事を指揮した。

河村は、淀川・大和川だけでなく、その支流や大坂市内の河川・運河など、スケールの大きい治水事業や淀川下流の水はけをよくする“安治川”の開削などに力を入れた。

というように、自由な発想・行動力に裏付けられた“なにわど根性”は、大坂商人に我慢・忍耐・質素・倹約を旨とし、合理的・計画的に私財投入を促した。

合理的で緻密な経営管理手法は、商人魂・経営理念と相俟って、各地にその足跡を残し、大坂商人の源流として学ぶべき点が多い。
嘗ての大坂商人魂を継承したような企業家として、松下幸之助などの他にも、安藤百福・稲盛和夫・速水太郎など、関西の傑出した経営者を想い起こさせる。

次に安井道頓は、私財を投げ打って道頓堀川の開削に着手したが、道頓堀川の完成後は、江戸幕府が大坂を直轄地として、市街地の拡張策を展開した。



写真は、現在の宗右衛門町の街並。
南岸・現在の道頓堀通りは芝居小屋で賑わい、道頓堀川を挟んで、北岸の宗右衛門町では、水茶屋が軒を連ねる、町人文化の核となる街並が形成された。
宗右衛門町の歴史は古く、戦国時代に遡ると云われ、日本有数の歓楽街として活況を極めた。

宗右衛門町通りは、当時北側にはお茶屋・料亭が並び、南側の川沿いは柳が植えられていた土提であったと云う。

江戸から明治時代にかけて、宗右衛門町界隈は、岐阜提灯が飾られたり、涼み台・涼み床几・涼み船が出されたり、行灯の灯かりが道頓堀川の水面に照らされ、芸妓の三味線が聞こえるという、上方風情をエンジョイできたと云う。

大坂ならではの「粋な街」であったことが窺える。
「ええやん!」


大坂の伝統上方文化 民活パワーの源泉 事例Ⅰ

2007年02月11日 | 文化
次に大阪人パワーの源泉は、どこに・何に由来しているのか、幾つかの事例を検証して、その足跡を辿ってみたい。

「大坂の陣」で一面焼け野原になった町を、飛躍的に復興させたのが徳川家康の外孫・松平忠明であった。
新たに道頓堀や長堀川などが開削され、その後八百八橋と呼ばれるほど、数多くの橋が架けられたが、大阪人の真骨頂である自主自立の精神に裏打ちされ、町人の資金・人脈が最大限活かされたと云える。

中でも、淀屋橋・心斎橋・宗右衛門町など、その事業を請け負った、大坂町民の名前が、親しみを込められながら、数多く現在も残っている。
当時幕府によるインフラ投資が極めて少なかったため、商人の力に頼らざるを得なかったが、幸い当時の豪商が私財を投げ打って、運河や水路の開削・治水事業・橋の架設など、商人にとって欠かせないインフラ整備を買って出たわけ。

先ず大坂商人・町人の代表格として、当時大坂一の大富豪・淀屋の功績を取上げてみたい。



写真は、“淀屋橋”の南西岸に位置する、淀屋の屋敷跡。
近年のアンケート調査によると、大阪市民が最も魅力を感じている橋として淀屋橋が選ばれたが、地下鉄・京阪電車の「淀屋橋駅」の乗降客は、約20万人/日を数えほどで、今日まで市民に愛着を持たれている。

淀屋橋は、その名前の元となった、初代「淀屋常安」によって架けられたとされる。







写真は上から、現在の淀屋橋全景、土佐堀川から望む中之島公園の外観及び公園内の代表的建物・中之島公会堂。

その後5代にわたって、次々と未知の事業に挑戦し、成功した起業家・事業家として大阪の誇りであり、「天下の台所・大坂」を繁栄させた最大の功労者。
例えば、淀川を大改修したり、中之島を造ったり、日本中の米を集めて「米市」を始めたり、又堀川を掘削して、商店街などを創ったりと、大阪の街づくりの中心的存在であったと云える。



写真は、淀屋敷から土佐堀川を挟んで、対岸に所在する、当時の堂島米市場跡。
特に淀屋は、蔵元として各藩の米を扱ったため、菱垣廻船・北前船などが諸国の米ほか物資を満載して大坂に集まり、店頭では米市場を開催、問屋や市場が繁盛し、又川向かいの中之島には各藩の蔵屋敷が並んでいたため、淀屋敷と蔵屋敷を行き来するために架設したのが淀屋橋であった。

しかし5代目「淀屋辰五郎」の時に、「闕所・大坂処払い」の極刑を受けて、幕府により財産没収・追放の身となった。
大富豪の存在に幕府も恐れをなしていたと見られる。

しかし淀屋の番頭であった「牧田仁右衛門」の陰働きによって、「淀屋」は再興したが、この「牧田仁右衛門」が、倉吉の出身で、倉吉と大坂の橋渡しをし、その後倉吉の産業発展の礎となったと云う。

いずれにしても、淀屋は大坂商人の持つ自由・進取の気風に乗って、その豪商振りを遺憾なく発揮したと云える。
「ほんまでっか!」


大坂の伝統上方文化 民の力・民活の背景

2007年02月10日 | 文化
大坂は伝統的に実学を重んじる傾向にあり、日本に未だ組織的・体系的な学校が極めて少なかった頃、大坂では漢学塾や平野郷の含翠堂など、実学・自治の風土を伝える学校が存在していた。



写真は、平野郷の私学“含翠堂”址碑。
この流れは、1700年代~1800年代初頭には、公認された学問所“懐徳堂”や蘭学“適塾”を生み出し、自由で合理的な精神や進取の気性が息づいていた。
学問所としては、いずれも全国にその存在を知らしめた。
江戸時代に育まれた、これら精神的バックボーンは、今日でも大阪人には根強く現実的で合理的な精神が宿っていると云える。

大坂は、町民・商人の町として、官より民を尊重する民活の町で、“ど根性”で新しいことにチャレンジするベンチャー精神に富み、自主独立の精神・自己責任意識が強いはず。
且つ義理人情に厚く、相互扶助・協調・連帯の精神が根付いているはず。

従って、大坂風土は庶民的・開放的で、ハッキリものを云う反面、相手の話をよく聞き、気遣う気持が強く、又ユーモア・笑いは大阪文化を支えている。
以上が一般的に認識されている大阪人のイメージであると思う。

しかし昨今、大阪は元気が無いと云われている。
日本経済が回復基調にある中で、各種経済指標を見ても、大阪の回復力は弱く、先行きがおぼつかない。
ここ十数年、本社を東京に移転させた企業が目立つ。
それもそのはず、例えば、出版事業などは東京が全体の8~9割を占め、新聞記事の情報発信の4分の3は東京発と云われる。

又昨今は、「大阪は名古屋に負けている」とも噂されている。
東京では、「もはや大阪から学ぶものはない」とか「大阪は“お上頼り”に成り下がってしまった」などと陰口を叩かれている。
いずれにしても、大阪の地盤沈下は否めない。

大阪は中途半端に均質的になってしまっているし、大阪らしさが薄れている。
大阪の生活文化的土壌が本来アジアっぽいが、大阪の個性が活かされていない。
等々、大阪の将来性に警鐘が鳴されていることは確かであり、政界・財界・行政・教育界・一般市民団体など挙げて、正しい現状認識に立ち、活性化ビジョン構想のもと、具体的再生計画を打ち立てる必要がある。

大阪は、食文化から芸術文化まで特異な魅力に加えて、伝統的な祭り・花火大会・イベントなども各地多様・多彩で、加えて山・海・川の自然環境の魅力もある。逆に「何でもあるが、特徴がない。」とも云えるが・・・・・。



写真は、”USJ”のエンターテイメント現場。
”ユニバーサル・スタジオ・ジャパン”を含めて観光資源を十分活かしきれていない。
点在する魅力を線として繋ぎ、面へと広げることで、総合力が発揮できるような取組み・情報発信・人材育成など、国際観光の環境整備も含め、課題は多い。

再生計画を立てても、資金と人材がついてこない限り、絵に書いた餅同然。
大阪府・大阪市の財政状況は、今や火の車の中、多くは期待できない。
そこで、大阪の財界・企業経営者に奮起を願いたい。

長い間のデフレ不況が続く中で、メセナ的投資がすっかり陰を潜めてしまった。
好不況の波があるだけに、やっと景気が上向き始めた昨今がチャンス。
環境資源の活性化のみならず、地元産業・企業の活性化も必至の課題。

仮称「企業家育成ファンド・ベンチャー育成ファンド、或いは中小企業再生ファンド」などファンドを創設し、資金拠出を願い、長期的展望に立った、企業・産業活性化のための環境整備が今こそ必要であると確信する。
政治団体などへの企業献金よりも、「企業再生献金」の方が余程緊急性が高いように思う。

一方人材であるが、嘗ての松下幸之助・小林一三・早川徳次のようなカリスマ的大物企業家の再来が、今日ほど切望されている時期はない。
企業家掘り起こし・発掘のためにも、中長期間にわたる育成資金が要る。

大変難しい問題ではあるが、今が正念場との認識の下、大阪復活・再生を目指して、一役・二役担って欲しい。
「ほんま たのみまっせ!」


大阪の伝統上方文化 近松門左衛門の功績

2007年02月09日 | 文化
もう一度遡って、世界に誇る劇作家近松門左衛門を取上げたい。
近松は、人形浄瑠璃と歌舞伎の世界で劇作家として活躍し、多くの文楽・歌舞伎・オペラ・演劇・映画などで上演され、人々に親しまれている。

近松の生涯は流転し、父の不幸などで住居を転々、福井県鯖江市に生まれた後、京都・大坂・兵庫県尼崎市などに住まい、特に尼崎市では、“広済寺”本堂の裏にある「近松部屋」と称する、自らの仕事部屋で晩年執筆活動を続けたと云う。
近松本人の遺言に従い、尼崎市の広済寺に葬られ、祀られている。




写真は、兵庫県尼崎市の広済寺山門、広済寺本堂。
大坂在住時に、廃寺同然の広済寺を再興した住職の“日昌上人”と親交を深め、広済寺の再建では、近松自ら建立本願人となって尽力すると共に、母親も同寺で法要された。




写真は、広済寺境内に埋葬された、近松の墓所及び墓碑。
国指定史跡の「近松の墓所」では、写真のように、緑泥片岩の自然石に、近松の戒名脇に妻の戒名も並んで刻まれている等、広済寺とのゆかりが深い。
近松の墓には、近松作品の成功祈願のため、今日でも多くの演劇関係者が訪れると云う。




写真は、近松記念館及び館内の光景。
近松記念館は、地元の人々により設立された「財団法人近松記念館」により維持・サポートされ、近松の過去帳・愛用の家具類・手紙など、近松ゆかりの品々・遺品を展示して、後世に伝えると共に、近松の偉業を讃える施設。
この記念館には、近松作品が上演できる舞台ホールも完備されている。



写真は、記念館脇に配置された、近松の銅像。
近松作品は、流麗で音楽的な文章の中に、現実の醜さ・悲しさ・葛藤・不条理などが表現され、義理と人情の狭間で翻弄される人々や、現世に絶望し、来世にかけた男女の純愛などを力強く描き出している。
当時「現代演劇」といわれる新しい演劇分野を創り出し、大衆の心をとらえたことで大ヒットした功績は大きい。

近松の偉業を讃えた伝統ある「近松祭」は、昭和11年以来毎年継続され、法要の後、文楽人形による墓前祭、近松音頭保存会による舞踊、地元小学校浄瑠璃クラブによる出し物等々、近松ゆかりの芸能が終日披露されると云う。



写真は、近松公園内にある、現在工事中の回遊式日本庭園。
広済寺・近松の墓・記念館・公園などを中心に「近松の里」と名付けられた、この地は歴史と文化にふれあうゾーンとして整備され、公園内には、約2haの池やせせらぎを配した回遊式日本庭園で四季折々の風情を楽しめる。

尼崎市と地元保存会メンバー・住民が一体となって、近松芸術と伝統を守っている偉業にも、大喝采を送りたい。
「すきやねん!」