素晴らしい女性…ヘンリー王子、カミラさんに思いやり
【ロンドン=飯塚恵子】チャールズ英皇太子の二男、ヘンリー王子は、15日に21歳となったのを機に、BBCテレビなどと会見し、皇太子が4月に再婚したカミラ夫人について、「彼女は『意地悪な継母』なんかじゃない。僕も兄も大好きだ」と、親愛の情を表した。皇太子再婚後、王子が義母となった夫人について、公の場で語るのは初めて。
王子は、「彼女は素晴らしい女性。父を本当に幸せにした。これが最も重要なことだ」と真剣な表情。さらに、「彼女がとても難しい立場にあることをみんなが理解してやらないと。彼女のことも気の毒に思って」と思いやりを見せた。
兄のウィリアム王子(23)については、1997年の実母のダイアナ元妃の死去後、特に仲良くなったとし、「地球上でただ1人、本当に何でも話し合える」と語った。(読売新聞)
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ウイリアム・ヘンリー王子の父上、チャールズ皇太子。このニュースでもちょっと影が薄い。
前から気になっていたのだけれど、皇太子殿下。本当に王様になれるのか。イギリスの歴史(王室の歴史)を振りかえると、(King) Charlesは波瀾万丈である。
1世は革命の末処刑
2世は王政復古の時の国王。
現プリンス・オブ・ウェールズが戴冠すれば、3世を名乗ることになるのかな。※
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チャールズ1世は1625年3月、父ジェームズ1世の死去に伴い王位を継承。6月にはフランス王アンリ4世の娘、アンリエッタ・マリアと結婚。カトリック信者を王妃に迎えたことは反カトリック派の反感を買うことになった。
1642年1月、チャールズは反国王派の5人の議員を逮捕しようとして失敗。ついに議会派と王党派の内戦が勃発した。内戦は当初、互角あるいは王党派が優位であったが、オリヴァー・クロムウェル率いる鉄騎兵の活躍で王党派が各地で打ち破られた。1646年5月、チャールズはスコットランド軍に降伏。一旦は脱出したものの、1648年11月、チャールズは再び議会軍に投降した。
1649年1月27日、裁判によってチャールズの処刑が宣告された。1月30日、ホワイトホール前の処刑場においてチャールズは斬首された。
チャールズ2世は1630年チャールズ1世とヘンリエッタ・マリア王妃の王子として生まれた。兄は夭逝。実質的な嫡男だった。ピューリタン革命の危険が高まったため、王妃らとフランスに亡命し、後オランダのハーグに住んだ。
1649年1月30日、イングランドを離れなかったチャールズ1世は処刑され、イングランドはオリバー・クロムウェルらが指導する共和国となった。
王政復古:イングランド護国卿オリバー・クロムウェルが死去すると息子のリチャード・クロムウェルが後を継いだが、混乱を収拾できずに辞任。王政復古が必要と考えたジョージ・モンク将軍等がオランダに滞在していたチャールズに帰国を要請した。
1660年5月29日ロンドンに入城してイングランド王チャールズ2世となり、1661年4月23日ウェストミンスター寺院で正式に戴冠式を挙行している。
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現皇太子(The Prince of Wales, Charles Philip Arthur George of Mountbatten-Windsor/1948年11月14日-)は、母は連合王国女王エリザベス2世。父はエジンバラ公フィリップ・マウントバッテン。
1981年7月29日、スペンサー伯爵家の令嬢ダイアナ・スペンサーと結婚。 翌年、長男ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイス、1984年に次男ヘンリー・チャールズ・アルバート・デーヴィッドが生まれる。
後にダイアナとは離婚。ここまででも波瀾万丈である。
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*現皇太子はCharles Philip Arthur George of Mountbatten-Windsorがお名前だから、どれかをとることも考えられる。ただ、Philipは父上の、Arthurは伝説上のアーサー王の、Georgeはお爺さま(GeorgeVI)の名前なので、やっぱりCharlesになるのだろう。