全英連参加者のブログ

全英連参加者の、言葉やその他諸々についての雑感... 不定期更新です。

本日は体育祭予行です。その3

2022-06-01 16:21:46 | 教師の仕事 2021+a

 午後の団体演技リハ、1時半から3時までかかりました。機器撤収作業が終わり、部員の下校が先ほどすみました。


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本日は体育祭予行です。その2

2022-06-01 12:57:27 | 教師の仕事 2021+a

 午前の全体予行、一部種目の予選終了。許可を得て、視聴覚室のエアコンを入れて、放送部ミーティング。午後の団体演技リハ準備打合せを行いました。


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本日は体育祭予行です。

2022-06-01 06:00:00 | 教師の仕事 2021+a
体育祭看板  3年ぶりの、ほぼ従来型開催。本日は予行日。放送部は部長指示で7時半登校になりました。
 学校文化の復興に向けて、動いています。


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地域の歴史-続

2022-06-01 04:00:00 | 全英連参加者 2022

 国土地理院のウェブ地図サービスを用いて、航空写真をDL、比較してみた。ごらんの際は画像をDL、Viewer等で拡大してください。(前回のエントリ、「地域の歴史」,’22-05-23)

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1945年から1950年 大宮駅から北大宮駅

 1枚目は撮影時期が1945年から1950年のもの。
 写真を見て、ここが踏切かなと思うところに▲をプロットした。南北に走る道が旧中山道である。
 旧中山道と交差する部分は現在アンダーパスになっている。その北にある(地図北側一つ目)踏切が、「野第4踏切道」で間違いない。
 旧中山道を南に進む。東側から氷川神社裏参道が直行する。西側がやや道幅が狭いが十字路である。そのまま線路側(西)に進むと、北から三つ目の▲、踏切が見える。線路を南進すると、同規模の踏切(らしき)ものが二つ写っている。一番南側の▲が現在大栄橋があるところ。この写真撮影時期、大栄橋はない。写真に影付きで撮影されているのは、1938年(昭和13年)にできた人道橋「錦町跨線橋」だと思われる。

 ...弱ったぞ。
 4番目かと思っていたが、ひょっとすると6番目だ。
 
1961年から1969年 大宮駅から北大宮駅 2枚目は撮影時期が1961年から1969年のもの。
 こちらには番号をつけてみた。都市化の進んだ旧大宮市・大宮駅周辺。大栄橋がある。大宮駅から二つ目にあった▲は消えているが、?、2(氷川神社裏参道からの道)はまだハッキリ写っている。3の位置にアンダーパスはまだできていない。

 国土地理院のウェブ地図サービスで閲覧可能な写真を見る限りだが、野第4踏切道は4番目ではない可能性がある。そんなことを考えた。

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 野田線に現存する踏切で、野第4踏切道の次は第5第6第7である。第7は大宮公園駅の北大宮側直近にあり、次の大和田駅の大宮公園側直近には第18が存在する。第8から第17のうち現存は1(第9)である。欠番の第8は、現在野田線を跨線橋でまたぐ県道35号線、通称産業道路のところに存在した踏切だろう。番号がきちんとついていたことになる。
 次の七里駅の間にも複数踏切がある。七里駅の大和田側直近に第28、岩槻方には第29がある。以前七里駅には構内踏切が存在したが、これを見ても構内踏切は「第〇」に含まれないことがわかる。
 いくつかの踏切は自動車が通行できない幅のものもあり、元々は農道として用いられたものの名残のような例である。廃止された踏切には、アンダーパス、跨線橋化した例もあるが、宅地化され線路をまたぐ農道の必要性が失われ、廃止されたものもあったのだろう。
 大宮-北大宮、農地は大宮公園以遠、春日部方と比べると少ない。
 写真で旧中山道とほぼ平行に走るJR高崎線、元々は民鉄である。1883年(明治16年)7月28日に上野熊谷間が開通した。この時点では大宮駅はない。野田線が北大宮駅先まで併走するのは宇都宮線。1885年に現在の宇都宮線の分岐駅として、大宮駅が開設された。なお、野田線の全線開通は1930年(昭和5年)10月1日である。
 1枚目の写真は開業から50年以上経過している。大宮駅周辺に農地はない。農道用の踏切は別ナンバリングでもなさそうだし、地方の小規模私鉄等でみられる沿線住民が自主的に作り、黙認(?)されている「勝手踏切」でもなさそうだ。ひょっとして氷川神社の裏参道からのびる道のものだけ「裏参道踏切」とでも称したのだろうか。もしくは何らかの業務用のもので、一般利用ができないものは番号がなかったのか。調べてみたが、わからなかった。

 いろいろ調べておもしろかったが、よくわからなかったこともある。もう少し資料探しをしようと思う。


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