たとえばメディアに出ている誰かを好きになるとする。
この場合の「好き」は『ファン』の範疇としよう。
ファンで居続けるにはその人が活動していないといけないし。
自分も好きで居続けなければならない。
勿論状況によって気持ちの浮き沈みもあるし、同ジャンルのニューフェイスに心動かされる時も出てくるだろう。
でも「好き」の気持ちが消えないのならやっぱりそれは「ファン」であるのだと思う。
ただしかし、どんなに応援していても当人には都合というものがあるからメディアから消えてしまう可能性は誰にでも充分にある。
そういう世界で生き残るには大変な努力と運が必要なはず。
飽きられて仕事が無ければ終わり。(時々『あの人は今?』に呼ばれるぐらい)
諦めず立場に縋るのもいいけれど、結局プライドだけでは食べていけない。
見なくなってしばらく経つと『何で好きになっていたんだろう?』とこちらが醒める瞬間もやって来るだろう。
当時はあんなに熱を入れていたのに、今となっては『思い出』にさえならない時がある。熱のせいでとんでもないことをしていたと後から恥じることがあるせいもあるかもしれないけれど。
そんな厳しい世界の中で、たまたま自分の好きになった人や作品がずっと続いていてファンとして繋がりが持てるのってすごいことなんだと、コルブリの件を書いていてふと思った。
この場合の「好き」は『ファン』の範疇としよう。
ファンで居続けるにはその人が活動していないといけないし。
自分も好きで居続けなければならない。
勿論状況によって気持ちの浮き沈みもあるし、同ジャンルのニューフェイスに心動かされる時も出てくるだろう。
でも「好き」の気持ちが消えないのならやっぱりそれは「ファン」であるのだと思う。
ただしかし、どんなに応援していても当人には都合というものがあるからメディアから消えてしまう可能性は誰にでも充分にある。
そういう世界で生き残るには大変な努力と運が必要なはず。
飽きられて仕事が無ければ終わり。(時々『あの人は今?』に呼ばれるぐらい)
諦めず立場に縋るのもいいけれど、結局プライドだけでは食べていけない。
見なくなってしばらく経つと『何で好きになっていたんだろう?』とこちらが醒める瞬間もやって来るだろう。
当時はあんなに熱を入れていたのに、今となっては『思い出』にさえならない時がある。熱のせいでとんでもないことをしていたと後から恥じることがあるせいもあるかもしれないけれど。
そんな厳しい世界の中で、たまたま自分の好きになった人や作品がずっと続いていてファンとして繋がりが持てるのってすごいことなんだと、コルブリの件を書いていてふと思った。