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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ (続き8)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年03月22日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き8)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き8)


(c)内的生活は、使徒に、超自然的照射能力をあたえる。この超自然的照射能力はどれほど効果に富むか  (6/6)

  内的生活によって、使徒は“苦業”の精神を、周囲に照射する

 使徒的事業を、みのりゆたかにする、いま一つの要因――それは、苦業の精神である。
 なぜ、使徒が、人びとの霊魂を、まだ征服しきれずにいるのか。なぜ、救われるべくして救われない霊魂が、まだこんなにたくさんいるのか。――十字架の奥義を、かれらの心に浸透させることに成功しない、そのためではないのか。そんなら、人間性にかくも本質的な苦痛、かくも本能的な嫌気にうちかたせる十字架の奥義を、かれらによろこんで受けいれさせることのできる者は誰だろうか。――使徒聖パウロとともに、「わたしは、キリストとともに、十字架のつけられた」(ガラツィヤ2・19)と、真実にいいきれる人、ただこの人だけである。こういう人だけが、十字架にくぎづけられたイエズス・キリストを、おのれの身におびることができる。「わたしはいつも、イエズスの死を、この身におびている。それはまた、イエズスの生命が、この身に現われるためである」(コリント後4・10)
 苦業をするとは、「キリストは、ご自身を喜ばせることはなさらなかった」(ローマ15・3)と聖パウロがいった、このキリストを、おのが一身に、具現することである。
 それは、あらゆる機会に、おのれを捨てることである。おのれの気にくわないことを、おのれの自然の感情にいやなことを、キリストへの愛のために、愛好することである。
 最後に、苦業をするとは、自分はたえまなく、ほふられるべきいけにえになるのだ、というこの理想に向かって、たえず精進努力することである。
 これは確かに、われわれの本性に最も執拗な、最も頑強な本能の衝動の、全面的破砕である。内的生活なしに、この境地に達しうるものではない。
 アシジの貧者聖フランシスコは、黙々と町の通りをあるきながら、群衆にかれの姿をひと目みせただけで、りっぱに十字架の奥義を人びとに教えた。
 苦業をしない使徒は、どんなに美辞麗句をならべたてて、かの有名なボスエのカルワリオについての名説教をしてみたところで、群衆には何の感激もあたえることができない。十字架の奥義について、どんなに雄弁をふるってみたところで、それがなんになろう。
 世間は、肉の快楽に、おぼれている。楽しみたい欲望で、頭はいっぱいになっている。それは金城鉄壁にも比すべき、肉欲の牙城なのだ。これを陥落させるためには、月なみの議論では駄目だ。その議論がどんなにりっぱで、どんなに偉大な雄弁で説かれようと。どうしても、カルワリオの悲劇を、まざまざと聴衆の眼前に、再現しなければならぬ。聖主のご受難を、聴衆の心に、実感させなければならぬ。それができるのは、ただ説教師じしんの苦業と、被造物からの離脱だけである。
 「キリストの十字架の敵として歩いている者が多い」(フィリッピ3・18)
 聖パウロは、こういって嘆いている。
 十字架の敵 Inimicos crucis Christi!じじつ、どれほど多くのキリスト信者が、それであることだろう。
 かれらにとって、宗教はただ一種のうわッつらなお祭り騒ぎ une forme de «snobisme» にすぎない。ただ習慣的な、祖先から伝承した信仰の、外面的行事にすぎない。なるほど、一時的な信心は、心にもってはいるだろう。尊敬をもって、宗教の儀式に参列するでもあろう。だがしかし、それはただ、感情の遊戯にすぎないのであって、自分の生活をまじめに改善するとか、欲情に向かって激しく戦うとか、福音の精神を自分の行為にまで導入するとか、すべてこういう方面とは何のつながりもないのである。
 このような信者たちに向かって、聖主は仰せられるであろう。「この民は、口さきでは、わたしをうやまうが、その心は、わたしから遠く離れている」(マテオ15・8)と。
 十字架の敵 Inimicos crucis Christi! そうだ、かれらこそは、“十字架の敵”なのだ。
 女々しい、退歩的な、すこしも活気のない信者――世俗のあらゆる娯楽にとりかこまれていなければ、暮らしていけない、と考えている信者。
 世間が、こうせねばならぬ、といえば、すぐにそれに従う。禁じられた楽しみには、平気で手をだす。そこに足をふみ入れる。世間の流行を追うことでは、日もなお足りない。「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」(ルカ13・3)との、聖主のご警告の言葉を耳にしても、いっこうにさとらない。聖パウロがいっているように、かれらにとって、十字架はただ、「つまずき」(コリント前1・23)でしかない。
 だが、内的生活なしに、そうではない信徒たちを使徒は生み出すことができるだろうか?

 教会の典礼の儀式に、信者がひんぱんにあずかるのは、まことに結構なことだ。これを見て、ほんとうの司祭であれば、心から満足をおぼえるだろう。
 だが、信者にしてみれば、こういう信心も、ただかれらの家庭のしきたりを尊重して、これを忠実に守っているにすぎない。もしくは、いっそうくわしく、その動機を探ってみると、教会の儀式には、よい音楽や聖歌があって面白いからだとか、祭服の美がすばらしいからだとか、説教がりっぱで、雄弁で、魅力があるからだとか、とにかくそういった調子で、あずかっているにすぎないのだ。かれらは徒らに、聖なる儀式の形骸をいだいて、かんじんな精神を逸し去っている。

 少なくとも信者たちのひんぱんな聖体拝領の熱心さには自然に頭がさがるようにも思える。

 筆者は、はからずも、北米合衆国巡遊の途次、見聞したことを記憶によびおこす。
 いくつかの小教区を見てまわったおり、月の第一金曜日の聖体拝領を忠実に、実行する信者がひじょうに多いことをきいて、筆者はずいぶん感激したものである。ところが、ニューヨークのある神父が、筆者に、次のような打ち明け話をした。
 「Homo videt in facie, Deus autem in corde 人は表面を見るけれど、天主は心を見る。あなたは、自分がアメリカにいる、ということを、お忘れになってはいけませんよ。ここでは、人目をはばかる、ということがない。なんでも大っぴらにやる。これ見よがしにやる。そういう処ですよ、アメリカという国は! あなたは、たいへん、感激していらっしゃるようだが、まあまあ感激するのは、ちょっとお待ちなさい。――ここに、良識に富んだ観察者がいて、こういうことを、いったとします。
 『この小教区では、信者たちがひんぱんに、聖体拝領をする。その結果であるのだろう、かれらは自分たちの生活を、むろん全面的には改善しおおせないながら、しかしすくなくとも、りっぱなキリスト信者としての生活をしたいと、まじめに努力している。放縦な、無軌道な生活とはキッパリ手を切りたい、あくことを知らぬ金銭欲なんかには、絶対に引きずり込まれたくない――このようにまじめな念願を、心にもっている……』こんなことを、もしこの良識に富んだ観察者がいいましたら、そのときはじめて、この小教区の信者たちにたいして、感激の涙をながしてください。……」

 こんなことを書いたからとて、誤解しないでいただきたい。筆者はけっして、信者たちの外面的信心の行事――たとえそれがどんなものであったにせよ――を、頭からけなしてかかるような量見なぞ、露ほどもないのだ。むしろ、筆者がいいたいのは、われわれ使徒職にたずさわる者が、もし内的生活に欠けるようなことでもあれば、その結果、信者たちにたいして、全然つまらぬとまではいわないが、ごくごく平凡な仕事しかできない、そういう無能な人間になってしまう、それがいかにも残念だ、ということである。

 聖主がお望みになるのは、ただわれわれの“心”だけなのだ。かれが“人の子”となって、地上に現われ、人びとに信仰の真理を啓示されたそもそもの理由は、ほかでもない。われわれの心を征服し、われわれの心をご自分のものにして、ご自分の後にしたがって、自己放棄――苦業――の血ぞめの道を、われわれにも、たどらせるためであった。
 この自己放棄こそは、いっさいの完徳の土台である、といっても過言ではない。
 さて、もし使徒が、内的生活にあこがれているなら、もし「だれでも、わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架をせおって、わたしにしがってきなさい」(マテオ16・24)との、イエズスのお言葉に基づいている内的生活を、常時にいとなんでいるなら、信者たちにも、この自己放棄の精神を修得させることは、けっして難事ではない。だが、たとえ内的生活はいとなんでいても、たとえ自分の十字架はかついでいても、もし“遠くから”だけ、イエズスにしたがっているなら、かれはいつまでたっても、信者たちに、自己放棄の精神を体得させることはできないだろう。人は、自分の持たないものを、他人にあたえることはできないからである。
 十字架にくぎづけられたイエズスを模倣するのに、どうも自分自身が、だらしのない、いいかげんな者である。それでいて、どうして信者たちに、イエズスがそこにわれわれを召集しておいでになる、わるい欲情にむかっての聖なる戦いを、説教する資格があるだろうか。
 ただ、自分を捨て、自分を全く忘れ去った使徒だけが――謙遜で、貞潔で、清貧な使徒だけが、いつも人の心に増長してやまない、物欲と傲慢と肉欲の暴威にたいして戦いをいどむため、自分のあとから、信者たちもぐんぐん、引っ張っていくことができるのではないか。ただ、十字架の学問を知っている使徒だけが、信者をして、その絶えまない安楽生活の追求にたいして、いっさいの良きものを溺らせ、死滅させる肉的快楽にたいして、肉欲の崇拝にたいして、堤防を築いて抵抗させることができるのではないか。
 十字架にくぎづけられた、イエズス・キリストを述べ伝えること――聖パウロの使徒職はこの一事につきる。
 かれはイエズス――しかも十字架にくぎづけられたイエズス――のご生命に溶け入って、生きていたからこそ、あれほど力づよく、十字架の奥義を、人びとにも説教することができたのだ。あれほどみごとに、十字架の奥義を、人びとにも味わわせることができた。十字架の奥義に生きるようにと、人びとにも教えることができたのだ。
 当世の使徒たちは、数こそ掃いてすてるほど多いのだが、人霊を活気づけるこの十字架の奥義を、自らも深め、これに浸透し、そのかがやきを人びとの上にも照射するほど、じゅうぶん深みのある、内的生活をいとなんでいる者は、ごくごくすくない。失礼ないいぶんだが、当世の使徒たちは、宗教のなかに、ただ哲学的な、ただ社会的な側面だけを見ている。自分たちの知性を楽しませ、官能や想像を興奮させる、美的要素だけを見ている。宗教のなかに、ただ崇高な詩歌だけを、たぐいない芸術だけを追求する傾向を、ますます助長している。
 なるほど、キリスト教は、こういう要素も持ってはいるだろう。だが、それは、どこまでいっても、ただ第二次的の要素でしかない。宗教のなかに、ただそれだけを見るのは、物の本末をとりちがえることであって、ひっきょう、福音書の全内容を、変質させることになる。
 ゲッセマニの園で、血涙をしぼるキリスト――ピラトのやかたで、ムチうたれ、赤い衣をきせられるキリスト――カルワリオの丘で、血ぞめの十字架にはりつけにされるキリスト――この凄惨なキリストを、かわいいキリスト Christ « au muguet » にするのは、それこそ罪ふかい冒瀆ではなかろうか。
 人祖が罪をおかして以来、苦業や償いや心戦は、人生のさくべからず運命になってしまった。このことをいつも、イエズス・キリストの十字架は、われわれに思いおこさせる。
 天にいます御父の栄光を、発揚しようとの熱心の火にもえて、カルワリオの血ぞめの道をたどるイエズス・キリストを、賛美する者は多い。
 だが、イエズスに必要なのは、十字架の賛美者ではない。十字架の模倣者なのだ。
 一九一四年十一月一日付の回勅(Ad Beatissimi Apostolorum)のなかで、ベネディクト十五世教皇は、なにを叫んでおられるのか。――まことの使徒であるなら、人びとを、快楽への愛着から奪いとるために、利己主義から、軽薄な趣味から、永遠善の忘却から、こういうものの魔手からもぎとるために、努力を倍加しなければならぬ、ということではないのか。これこそは、十字架にくぎつけられた御者に仕えるその教役者たちに向かって、内的生活の実行をうながし、かつ呼びかけるお言葉ではないのか。
 天にいます御父は、われわれキリスト信者に、数えつくせぬほどのお恵みを、お与えになったが、それでもわれわれが物ごころのつくや否や、直ちにおのれ自身の幾分かをさいて、御子イエズス・キリストの血ぞめのご受難に参加することを、つよくお求めになる。すなわち、われわれが“霊魂の血”le sang de son âme と呼んでいるものを、別のことばで申せば、天主のおきてを守るために、どうしても支払わねばならぬ犠牲を、お求めになるのである。
 それなのに、霊魂の指導にあたる人たちが、まず自分で犠牲の精神に富み、身をもって手本を示さないなら、どうして信者が、おのれの財産、快楽、名誉までも、よろこんで犠牲にするという、雄々しい気持ちになれるだろうか。
Comment le fidèle sera-t-il entraîné à faire générensement ces sacrifices de biens, de plaisirs, d'honneurs, sinon par l'exemple du conducteur d'âmes familiarisé lui-même avec l'esprit de sacrifice ?

 さて、いまや地獄の勢力は、世界いたる処に暴威をふるい、勝利をしめている。悪は、いくたびも、善に勝っている。これでは、いったい、現代社会はどうなるのだろうか。――心ある人のひたいをくもらせる、深刻な疑問である。
 だが、解答は、いたって簡単だ。聖主とともに、われわれは答えていおう。
 「この種類の悪魔は、祈りと断食によらなければ、追いだすことはできない」(マテオ17・21)
 もし司祭団や、修道団の中から、一群の“苦業の人たち”une pléiade d'hommes mortifiés がでて、この人たちが、十字架の奥義を周囲に照りかがやかすなら、そのとき世の人びとは、なまなましい苦業のあとを身におびているこの司祭、この修道者をみて、かれらの身の上に、世の罪のためにささげられている償いを読みとることができる。苦業でやせほそったかれらの身において、イエズス・キリストの御血によって成就される、人類救済の奥義を理解することができる。

 そのときはじめて、地獄の勢力は粉砕されるのだ。悪魔の軍隊は敗北する。そしてこのとき、世の人びとの罪によって、ののしりはずかしめられておいでになる救世主の、はらわたを断つお嘆きの声は、共に世の罪をつぐなう一群の伴侶をお見いだしになることによって、もはや恐るべき反響を呼ぶことはないだろう。
 「共に世の罪をつぐなう一群の伴侶」――しかし、キリストはこれをたやすく、お見いだしになることができるだろうか。天主は、遠い旧約の昔から、預言者の口をおかりになって、ご自分でこれにお答えになっておられる。
 「わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、かれらのうちにたずねたが、ひとりも得られなかった」(エゼキエル22・30)

 ド・ラヴィニヤン神父(Père de Ravignan)が、たった一度、身に十字架のしるしをしただけで、どうしてそれは、ただの好奇心から、かれの説教をききにきた宗教無頓着者はいうに及ばず、悪人どもの上にさえ、ほとんど信じられないほど、りっぱな影響を及ぼすことができたのか、その原因をつきとめたい、と願いでた人があった。かれはそのことを、多くの聴聞者に、いちいちたずねてみた。結論は、こうである。――説教者ド・ラビニヤン神父の難業苦業の生活が、カルワリオの奥義にかれを結びつける、この十字架のしるしによって、まざまざと、かれの態度に反映しているからであると。

「天にまします」の祈りの深い意味

2018年03月21日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

私たちは、四旬節を通して、この世のいけにえに上ろうとされるイエズス様の至聖なる聖心を心としてきました。

御受難節となり、より深く潜心して、イエズス様のご受難にあずかるために、謙遜に自分をさげすみ、そして天主への信頼を込めて、祈るために、

トリエント公会議による公教要理の「主祷文」についての説明をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第12章
主祷文  天に在す我らの父よ

1.主イエズス・キリストが私たちにお残しになったこのキリスト教的祈祷文は、その構成上、私たちの祈りと願いとを言い表す前に、ある種の序文とも言うべき文句を述べるようになっています。しかるに、この「序文」に含まれる一つ一つの言葉は、敬虔な心をもって天主に近づく者に、よりいっそうの信頼をもってそのみ前に出るよう促すものです。司牧者の義務は、信徒がすすんで祈りに励み、また、当の祈りにおいて彼らが父なる天主に語りかけるものであることを悟るよう、これらの言葉を別々に、わかりやすく説明することです。
 さて、当の序文は、言葉上はたいへん短いですが、しかしその言い表す内容を考えると、きわめて重要かつ神秘に満ちたものです。

§ I. 父よ

2.さて、天主の命じ定められたところに従い、この祈祷文で私たちが最初に唱える言葉は「父」です。
なぜなら私たちの救い主は、この神的な祈りを「創造主」あるいは「主」といった、より荘厳な言葉で始めることがおできになりましたが、私たちの心に畏怖(いふ)の念を生じ得るこれらの語を用いるのをよしとされませんでした。しかるに、祈る者、天主に何かを願う者に、愛と信頼の念を芽生えさせる、この「父」という言葉をお選びになりました。事実、仁慈と寛容の意味合いに富んだ、この「父」という言葉よりも快く甘美なものがあるでしょうか。

3.この名称が、天主にきわめてよく当てはまるものであることを信徒に示すための理由は、天主による万物の創造、統治、贖いから容易にくみ取ることができます。
 天主が人間をご自分の似像(にすがた)に似せてお造りになり、また地上に生きる他のいかなる被造物にも、この特権をお与えにならなかったという、人類に与えられたこの特別の恵みのゆえに、聖書は天主を信徒、異教徒を問わず、全ての人の父と呼んでいます。
 天主による天地万物の統治からも、天主がいかに父と呼ばれるにふさわしい方であるかを推し量ることができます。実際天主は、人々の利便を始終はからい、特別な配慮と御摂理をとおして、真に父らしい慈愛を私たちにお示しになります。

4.しかるに、人々に対する父なる天主のご配慮をよりよく示すために、人々の守護にあたる天使らについて、ここで一言述べることが適当であると思われます。

5.人類全体を保護し、またその一人々々を助け、種々の危害から守るというこの責務が天使たちに与えられたのは、他ならぬ天主の御摂理によるものです。敵が潜む危険な道を子に旅させる親は、危難における助け手となるべき守護者をつけるものです。同様に、天の祖国に至るべく私たちの歩むこの道程において、天の御父は私たち一人々々に天使をおつけになりました。それは、これら天使の助力と不断なる保護の下で、私たちが敵の隠した罠を避け、私たちに降りかかる恐るべき攻撃を打ち払うため、またその導きの下に正道を歩み、敵が道中に備えた惑わしに惹かれて天に至る道からそれることのないためにです。

6.さて、天主の人間に対する配慮かつ特別な御摂理は、本性上、両者の中間に在る天使らに、その具体的適用が使命として課されているのですが、これがいかに人々にとって有益なものであるかは、聖書中に見出されるおびただしい数の例が如実に示しています。かかる章句において、天使らが人々の目前で驚くべき業を成し遂げたことが記されていますが、これをとおして、守護の天使が目に見えない仕方で、数知れぬ同様の所業を、私たちの利善と救いのために為すものであることが分かります。

7.かくして、天主がトビアに旅の道連れかつ導き手としてお与えになった大天使ラファエルは、彼を首尾よく目的地へと至らせ、しかる後、無事に郷里へと帰還させたのでした。道中トビアが大魚に食べられそうになった際、この窮地から救い、魚の肝と胆汁、心臓とが含む薬効を教えたのは、他ならぬこのラファエルです。また同じラファエルは、悪魔を追い払い、その力を封じ込めてトビアに害を為すのを妨げました。さらには、婚姻の、天主の法に適った真の則(のり)を青年トビアに教え、盲目になっていた父を癒したのもラファエルでした。1

8.使徒らの長、聖ペトロを監獄から救い出したかの天使も、天使の守護ならびに配慮がもたらす驚嘆すべき実りを信徒に示すための豊かな題材となります。司牧者は、当の天使が牢獄を照らし2、ペトロのわき腹にふれて起こし、鎖を解き、足かせを砕き、立ち上がってサンダルを履き、衣をまとって自らの後に従うよう命じたこと、またこの天使が警護の兵士らの間を何の妨げもなく通り過ぎ、牢獄の扉を開き、安全な場所に至らせたことを信徒に思い起こさせるべきです。

9.先に述べたとおり、この種の例は聖書中に散在しており、天主が天使らの仲介と執り次ぎによって人々にもたらされる善益が、いかに大きな効力を有するものであるかを浮き彫りにしています。事実、天主が私たちに天使らをお遣わしになるのは、個別の限られた物事に関してのみならず、私たちの生まれたその時から、たえず私たちを守るためにおつけになるのであり、また全ての人は、その救霊のために尽力する守護の天使の保護を各々受けるのです。

10.当の教えを入念に説くことによって、聴衆の心は奮い立ち、父なる天主が自分たちの上に注がれるご配慮とみ摂理とを認め、敬うよう促されるでしょう3。

11.ここで司牧者は、人類に対する天主の仁慈の、あふれるほど豊かな宝蔵について、ことさら強調して教え諭すべきです。なぜなら、人類ならびに罪の元親であるアダムに始まって今日に至るまで、無数の罪悪と醜行とに耐えてこられた天主は、これにも関わらず、私たち人間に対する愛の御心をお失われにならず、特別の配慮をお注ぎになり続けられるからです。

12.天主が人々のことをお忘れになると考えるのは、愚昧(ぐまい)の極みであり、天主に対するこの上ない侮辱を為すこととなります。
 事実、天主は、天の助力から見放されたと思いなしたイスラエルの民に対し、ご自分を冒瀆するものであるとして、御憤りをお示しになりました。これは出エジプト記中、「彼らは、『はたして天主は私たちのうちにおられるのか?』と言って主を試みた4」、またエゼキエルの書において、「当の民が『主は私たちを見ておられない。主は私たちを見放され、国を捨ておかれた』、と言ったので、天主はお憤りになった5」とあるとおりです。したがって、聖書中のこれらの章句の権威によって、天主が人々のことをお忘れになり得るという、甚だ厭(いと)うべき見解を信徒がよもや抱くことのないよう図らねばなりません。イザヤ書でも、イスラエルの民が天主に対する不平をもらしたこと、また天主が彼らの愚かな不平を、譬(たと)えをもってお退けになったことが述べられています。すなわち、「シオンは言った、『主は私を見捨て、私を忘れられた』と。女が、その乳飲み子を、母がその懐の子を忘れようか。よし忘れるものがあっても、私はおまえを忘れない。見よ、私はおまえを手の平に刻みつけた。6」とあるとおりです。

13.上記の引用箇所は、この点を明示してあまりありますが、天主が片時も人間のことをお忘れにならず、たゆまず慈父の愛をお示しになることを信徒に深く了解させるために、主任司祭は、皆に周知の人祖の例を引くべきです。人祖が天主の掟を軽んじて、これを破ったとき、たしかに天主は彼をきわめて厳しくとがめ、次の言葉をもって断罪されました。「地はおまえのゆえに呪われよ!おまえは苦労して地から糧を得るだろう、命のつづく限り。地はおまえのために茨とあざみを生やし、おまえは地の草を食べねばならない。7」
しかる後、天主は両人を楽園から追放し、そこに戻る望みを絶やすべく、火のケルビムを楽園の扉の前に置かれ、天使は「炎を放つ剣をたゆまずかざして」これを守りました。それのみならず、天主は、彼らがご自分に対して為した侮辱の報いとして、人祖に諸々の内的および外的罰をお課しになりました。これら全てのことを見ると、人間の命運はもはや尽きたと思われないでしょうか。また、人類は天に見放されたのみならず、ありとあらゆる災厄(さいやく)にさらされたものと、私たちの目に映らないでしょうか。しかるに、かくも多くの天主の憤りと報復の印の中に、最初の人間に対する天主の慈愛の光明が現れました。「主なる天主は、アダムとその妻とのために、皮衣をつくり、彼らにお着せになった8」のです。このエピソードは、天主が人々をお見捨てになることは、決してないことを如実に示しています。

14.天主の人間に対する愛が、これの犯す罪業のために尽きてしまうことは、およそあり得ないという事実を、ダビドは次の言葉で表しています。「天主は、よもや怒ってみ心を閉ざされ、あわれみをお忘れになるだろうか。9」また、預言者ハバククは、天主にこう語りかけて同じ考えを示しています。「お怒りになるときも、御あわれみを思い起こしてください。10」同じくミカヤは、「あなたのように咎(とが)を除き、あなたの世継ぎである民の、残りの者の罪をお見過ごしになる、そんな天主がふたりとあるでしょうか。天主は怒りをもちつづけず、あわれむことを喜びとされる。11」

15.実際、私たちが天主のご保護を失い、万事休したと思うまさにそのときこそ、天主はかぎりない仁慈の御心をもって、私たちを探し求め、ご配慮をお尽くしになるのです。なぜなら、天主はそのお怒りの中にも、正義の剣を差し控え、御あわれみの尽きせぬ宝を注ぐのをお止めにならないからです。

16.このように、万物の創造と統治とは、天主が人類を特筆すべき仕方で愛され、お守りになることを如実に示すものです。しかるに、人間の贖いの御業は、両者12の間にあって、かくも際立った輝きを放つのであり、きわみなく慈愛深き父なる天主が私たちに施されるご厚意の、まさに最たるものです。

17.それゆえ主任司祭は、自らの霊的な子らである信徒に、天主の私たちに対するこの比類なき愛を倦(う)むことなく説き、自分たちが贖われ、驚嘆すべき仕方で天主の子となったことを教え諭すべきです。実に聖ヨハネが述べるとおり、天主は彼らにご自分の子となる権能を授け、かくして彼らは天主から生まれたからです。13
贖いの第一の保証かつ記念である洗礼が、「再生の秘蹟」と呼ばれるのも、まさにこのために他なりません。洗礼によってこそ、私たちは天主の子として生まれるからです。主ご自身、「霊から生まれたものは霊であり」、また「新たに生まれなければならない14」と述べておられるとおりです。同様に、使徒聖ペトロも「あなたたち[信徒]が新たに生まれたのは、朽ちる種によるのではなく、永遠に生きる天主のみことばの朽ちない種による15」ものであることを教えています。

18.当の贖いのおかげで私たちは聖霊を受け、また天主の恩寵を受けるに値する者となったのです。この賜によって私たちは天主の養子となるのですが、これは使徒パウロがローマ人への手紙で述べていることに他なりません。すなわち、「あなたたちは、再び恐れにおちいるために奴隷の霊を受けたのではなく、養子としての霊を受けた」のであり、「これによって私たちは『アッバ、父よ』と叫ぶ16」のです。天主の養子とされる、というこの驚くべき奥義の含む力と効果とを使徒ヨハネは、「御父がどれほどの私たちにお注ぎになったかを考えよ。私たちは天主のこと呼ばれ、また実にそのとおりだからである17」と述べて、示しています。

19.以上のことを説明した後、司牧者は、かくも慈愛に満ちた父なる天主に対して当然示すべき態度を信徒に教え諭さなければなりません。すなわち、彼らが自らの創造者、統治者、かつ贖い主である方に、どれほど強い愛、敬虔、従順ならびに崇敬の念を示し、またどれほど大きな希望と信頼とをもってその御名を呼び、これに祈るべきかを了解するよう尽力しなければなりません。

20.しかるに、順境ないしは思うように生活上のことがらが首尾よく進むことのみをもって、天主が私たちに対する愛をお保ちになることの証とし、反対に逆境や苦難が降りかかる際には、それを天主が私たちに対して敵対心を抱き、さらにはその御心を私たちからことごとく遠ざけられた印と見なす者がいるならば、かかる無知および誤謬を氷解するために、天主の御手が私たちを打つとき、主は敵意をもってこれをなさるのではおよそなく、かえって癒すためにこそ私たちの身を打たれること、また天主からもたらされた傷は薬に他ならないことを教示すべきです。

21.実際、天主が罪人を懲らしめられるのは、かかる懲罰によってこれをより善い者とし、現世における訓戒をもって永遠の滅びから救うために他なりません。たしかに「主は私たちの罪に、鞭をもって、また私たちの悪に、杖をもって訪れになる」としても、「私たちからその御あわれみを取り去られることはない 18」からです。

22.したがって、信徒がこの種の懲罰の中に父なる天主の仁愛を認め、かつ忍耐心の比類なき模範であるヨブの言葉を心にとどめ、口で唱えるよう励まさねばなりません。すなわち「主は懲らしめた後に助け起こされ、むち打ったその同じ手で癒される19」のですが、これは預言者エレミアが、イスラエルの民の名において次のように述べていることと相通ずるものです。 「あなたは私を、あたかも馴らされていない子牛のように懲らしめられ、しつけられました。私を立ち戻らせてください。そうすれば私は立ち戻ります。あなたは私の天主かつ主なのですから。20」

23.信徒の側においては、たとえどのような難儀をこうむったとしても、また、いかなる災厄に見舞われようとも、よもや天主がこれをご承知にならないと思いなすことのないよう、くれぐれも注意しなければなりません。主ご自身が、「あなたたちの髪の毛一本さえ失われることはない21」、と確証しておられるからです。かえって、黙示録中の、「私は愛する者を責めて罰する22」という天主のみ言葉をもって自らを慰め、また使徒パウロがヘブライ人への手紙で、当地の信徒を激励すべく記した次の章句を乙のが身に当てはめて、心を落ち着けるべきです。「我が子よ,主の矯正を軽んじることなく、また主に咎(とが)められてくじけてはならない。主は愛する者を懲(こ)らしめ、受け入れる子をすべてむち打たれるからである。あなたたちが試練を受けるのは、懲らしめのためであって、天主はあなたたちをこのように扱われる。もし懲らしめを受けなければ、あなたたちは私生児であって、真の子ではない。また、あなたたちを懲らしめる肉体の父親を敬っていたのなら、霊の父には、命を受けるために、なおさら服従しなければならない。23」

§ II. 我らの父よ

24.私たちが天主に各々祈るとき、私たちは天主を「我らの父」と呼ぶのですが、これをとおして私たちは、天主の養子たる特典および権利のゆえに、全ての信徒は兄弟であり、また兄弟として愛し合うべきことを了解します。主は、「あなたたちは皆兄弟であり、またあなたたちの父はただ一人、天におられる御父だけである24」と仰せられました。又、使徒たちも書簡中で、信徒皆を兄弟の名で呼んでいます。

25.天主の養子たる身分から帰結するもう一つの結果は、信徒が兄弟的愛のきずなで互いに結ばれるだけでなく、天主の独り子が人となられたために、信徒は又、この同じキリストの兄弟と呼ばれ、事実兄弟であるということです。なぜなら、ヘブライ人への手紙において、使徒パウロは天主の御子について、「[イエズスは]彼らを兄弟と呼んで恥じられず、『私は御名を兄弟たちに告げよう』と仰せられた25」、と述べていますが、この引用文の後半は、主イエズス・キリストのはるか以前に、このことを予見したダビドが、詩編において述べている言葉です26。又、主ご自身も、聖なる婦人たちに、「行って私の兄弟たちに、ガリラヤに行くよう告げなさい。そこで私に会えるであろう27」と述べておられます。

26.皆に周知のとおり、主がこの言葉を述べられたのは、そのご復活後、すなわち不死性をかち得られた後のことでしたが、これは当の兄弟としての絆が、ご復活とご昇天によって解消してしまったと、誰も考ることのないためにです。ご復活が、キリストの私たちとの一致と兄弟的愛[の絆]とを消失させてしまうということが、いかに事実からほど遠いかは、その御陵(みいつ)と御栄えの玉座の高みから、全ての時代の全ての人々を裁かれるとき、信徒の中で最も小さい者をも、「兄弟」の名でお呼びになるということから、容易に推し量ることができます28。

27.実際、「[キリストと]共に世嗣(よつぎ)である29」と言われる私たちが、どうしてキリストの兄弟たり得ないでしょうか。キリストこそ、天主の「長子かつ万物の世嗣とされた者30」ですが、一方私たちはキリストに次いで生み出された者であり、天の賜の度合い、および聖霊の使役者かつ協働者として働くことをとおして示した愛徳の度合いに応じて、キリストと共通の遺産に与るのです。主キリストは、私たちを美徳と善業の実践に駆り立て、私たちの心を愛熱の火で燃やされます。その恩寵に支えられて、私たちは救いをかち得るための闘技場に降り、そこで巧みに、かつ辛抱強く戦い抜いた後、この世の人生の道程の末に、天の父から、当の道行きを果たした者すべてに備えられた報いの冠を受けるのです。なぜなら、使徒パウロの述べているように、「天主は不正な者ではないため、あなたたちの業と愛とをお忘れになることはない31」からです。

28.私たちがいかに心からこの「我らの」という言葉を唱えるべきかを、金口聖ヨハネ32は、次のように述べて示しています。「天主は、自分のためだけでなく、他人のためにも祈るキリスト者の祈りをよろこんでお聞きになります。なぜなら、自らのために祈るのは自然のことであるとすれば、他人のために祈るのは、恩寵の業に他ならないからです。自分のためには必要にかられて祈るのが常である一方、他人のためには、兄弟的愛徳に促されて祈るものです33」。
 同聖人はつづけて、「隣人愛に鼓吹(こすい)された祈りは、必要にかられてなされる祈りよりも、天主に嘉(よ)みせられます」、と記しています。

29.祈りの中の祈りとも言うべき主祷文に関する、このきわめて重要な主題を取り扱うにあたって、司牧者は、年齢、性別、身分、境遇を問わず、全ての信徒に、かかる普遍的兄弟愛のきずなを常に念頭に置き、互いに兄弟、同胞として親切にふるまい、高慢にも自らを他の者よりも優れた者と見なすことの決してないよう、教え諭さねばなりません。実際、天主の教会において職務に基づく異なった階級があるとはいえ、これら諸々の階級および職務の差異は、兄弟的結束の 絆(きずな)をいささかも減じることはありません。しかるにこれは、人体を構成する各部分(肢体)が、それぞれ異なった多様な用途と目的とを有しつつも、各々が自らに固有のはたらきと、「肢体」の名を保つのと同様です。

30.ここに王の権威を有した人がいるとします。さて、この人が信徒であるならば、キリスト教信仰に基づく交わりに含まれる全ての人の兄弟ではないでしょうか。事実そのとおりです。なぜでしょうか。それは、金持ち、王侯君主がその力によって存在するところの天主は、貧者および王侯の支配下にある者たちが依って立つところの天主と異ならないからです。人皆全てに唯一の天主、唯一の父、唯一の主がおられるのです。

31.それゆえ、霊的な出生に基づく皆に同一の高貴さ、同一の尊厳、同一の生まれ、同一の誉れ高き「家元」が属します。なぜなら、皆が同じ一つの霊、同じ一つの信仰の秘蹟によって天主の子として生まれ、同じ一つの世嗣に共に与る者だからです。実際、金持ち、権力者の主たるキリストは、貧乏人、小市民のキリストと異なったキリストであるわけではありません。また、前者が後者と異なる秘蹟に与り、天の御国における別の世嗣に召されているわけでもありません。私たちは皆兄弟であり、また、使徒パウロがエフェゾの信徒に書き送っているように、「キリストの体の肢体であり、その肉と骨とで成り立っている34」のですが、これは同使徒が、ガラツィア人への手紙において述べていることと軌を一にします。すなわち、 「あなたたちは皆、キリスト・イエズスへの信仰によって、天主の子である。キリストにおいて洗礼を受けたあなたたちは皆、キリストを着たからである。もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由民もなく、男も女もない。あなたたちは皆、キリスト・イエズスにおいて一つだからである。35」
32.これこそ霊魂の司牧者が入念に取り扱うべき主題であり、またこの点について、あえて時間を惜しまず説明すべきです。なぜかと言えば、貧しい者、身分の低い者を励まし、勇気づけ、なおかつ富める者、権力を有した者の傲慢を押しとどめ、抑制するのに最適な事柄だからです。実に、この悪弊を正すために、使徒パウロは兄弟的愛徳の必要を力説し、その実践を信徒に勧めてやみませんでした。

33.それゆえ、キリスト者よ、あなたがこの祈りを天主に唱えようとするとき、あなたは子が父に対してするように、主に近づくのであることを思い起こしなさい。したがって、始めに、この「天に在す」という言葉を唱えるとき、天主の比類なき仁慈が、あなたをいかなる地位に高めたかを留意しなさい。実に天主は、僕が主人の前に、いやいや恐れおののきつつ進み出るようにではなく、かえって、息子が父のみ前に喜んで、信頼しきった心で歩み出るといった態度で祈りに臨(のぞ)むことをお命じになったのです。

34.以上のことを念頭に置き、留意した上で、どれほどの熱意と敬虔の念とをもって祈るべきであるかを考慮しなさい。なぜなら、あなたは天主の子たるにふさわしくふるまわなくてはならないからです。すなわち、あなたの祈りと行いとが、この上なく恵み豊かな天主が、あなたにかたじけなくもお与えになった神的出生に、似つかわしくないなどということが、断じてないようにしなければなりません。「愛される子らとして、天主に倣う者であれ36」と述べて使徒パウロは、当の義務をよく果たすよう激励していますが、この勧めに従うならば、私たちも同使徒がテサロニケの信徒に宛てた「あなたたちは皆光の子、昼の子である37」という賛辞に値する者となります。


§ III. 「天に在す」

35.天主についての正しい概念を有する者皆にとって、天主が全ての場所、全ての国に在すことは、疑いの余地のない事実です。無論、これは、天主が部分に分かれており、そのあるものは某々の場所を占め、かつこれを守り、また他のものは別の場所を占め、守るものであるという意味に解してはなりません。実際、天主は霊であり、したがって分割され得ないものだからです。天主ご自身が、「私は天と地とを満たす者ではないか38」と述べておられるのを承知の上で、誰があえて、彼に特定の場所を定め、限られた境界の内に封じ込めることができるでしょうか。

36.この言葉は、天主が、その力と権能とによって天と地、およびこれらが含む一切のものを包含し、なおかついかなる場所にも内包されない、という意味に解するべきです。天主は全てのものの中に、これを創造するため、あるいはこれを存続させるために在(お)られますが、ご自身は、いかなる地域、境界によっても限定ないし束縛されることがなく、また、ご自分の実体と権勢39とによって、あらゆる所に現存するのを妨げられることがありません。しかるに、これこそダビドが「天に駆け上ってもあなたはそこにおられ、冥土を床にしても、あなたはそこにおられる40」という言葉で表しているところです。

37.先述のとおり、天主はいかなる境界によっても制限されることなく、あらゆる場所、あらゆる事物の中に現存しておられますが、しかるに聖書は頻繁に、天主が天に住まわれることを述べています。そのわけは、私たちが頭上にみる天は、世界の最も貴い部分であり、腐敗を被ることなく、他のあらゆる物体を、その力、大きさ、美しさにおいて凌駕し、又、規則的で一定した動きをするものだからです。したがって、天主が聖書中で、天がご自分の居場所であると述べられるのは、ことさら天の御業において輝き出る、限りない権勢と御稜威(みいつ)とを観照すべく、人々の心を促すために他なりません。とは言え、同じ聖書中で、しばしば天主は、世界のいかなる部分にも、ご自分がその本性と権勢とによって現存されることのない所は、およそないことを明言しておられます。 この「天に在す(我らの父よ)」という言葉をとおして、信徒は天主を、単に私たち皆に共通の父としてだけでなく、天に君臨される君主とのイメージ(姿)をとおして思い浮かべることになります。こうして、彼らが祈る際、心と精神とを天に上げるべきこと、又、「父」の名が彼らの心に希望と信頼を抱(いだ)かせる如く、同様に「天に在す我らの父」という言葉の示す、はかり知れない至高の本性ならびに天主としての御稜威(みいつ)は、謙遜と敬虔の念で満たすべきことを思い起こすでしょう。当の言葉はまた、私たちが祈りをとおして天主に願うべきことを定めるものでもあります。すなわち、この地上での生活における利便および必要に関する願いの祈りは、もしこれが天的な善につながらず、またこれを目的としてなされるのでなければ、虚しく、キリスト教信者にふさわしくないものとなります。したがって司牧者は、信徒に、このようにまず第一に霊的な善を願い求めるべきことを教え諭さねばなりませんが、この際、使徒パウロの次の言葉を引き合いに出すべきです。「あなたたちがキリストとともに甦ったのなら、上のことを求めよ。キリストはそこで、天主の右に座しておられる。あなたたちは、地上のことではなく、上のことを慕え。41」

38.第1の願い「願わくは御名の尊まれんことを」

§1 この願いが第1の願いである理由

天主に何を、またどのような順序で願うべきかを、万人の師かつ主であるキリストご自身がお教えかつお命じになりました。何となれば、祈りは私たちの欲求と願望とを表明かつ代弁するものであるため、理に適ったふさわしい仕方で、よく祈るためには、私たちの祈求、すなわち私たちの願いと望みとを、祈りの対象となる諸々の事物が望ましいものである程度の順序に従って言い表すことが必要となります。
39.しかるに、真の愛徳は、自らの心と愛情とをあますところなく主に向けるべきことを私たちの精神に悟らせます。実に天主は、ご自身の本性上、唯一・至高の善です。それゆえ、天主を何にも優る特別な愛でお愛しすることが適当ではないでしょうか。
40.他方、もし私たちがその誉れと御栄えとを一切のものに優先しない限り、天主を心を尽くし、何ものにもまして愛することは不可能です。なぜなら、全ての善きものは、それが私たち自身に属するものであれ、又は隣人に属するものであれ、あるいはおしなべて「善(きもの)」と呼ばれるもの一切は、ことごとく天主に由来するのであり、同時に、至高の善である天主にはるかに劣るからです。
41.したがって、私たちが秩序立った仕方で祈りを為すために、私たちの救い主は、至高の善を求める当の祈願を、他の祈願に先んじて、第一に願うべきものとしてお定めになりました。主は私たちに必要なもの―すなわち私たち自身、あるいは私たちの隣人に必要なもの―を願い求める前に、まず天主の御栄えにつながることを願い、かつ天主に、御栄えを熱く望む私たちの心情をお示しするべきことを、私たちにお教えになりました。このようにして私たちは、天主を私たち自身よりもお愛し、また天主のためにお望み申し上げることを、自らのために願うことに先立って求めることを命じる愛徳の則(のり)にしたがうこととなります。

§2 天主の御栄えという言葉が意味するもの

42.人が望み、あるいは求めるのは、自分が持っていないものに他なりません。しかるに、天主には何も欠けるものがありません。天主は無限、かつ全てにおいて完全であるため、成長することも増大することもあり得ません。したがって、私たちが天主ご自身のためにお願い申し上げることは、天主の諸々の完全性ないしはそのご本性に関してではなく、あくまでもその外的な御栄えだけに限られます。すなわち、私たちは天主の御名が世においてよりよく知られ、その御国が広がり、日々新たな僕がその聖き御旨に従うことを望み、願うのです。さて、御名、御国、従属というこの3つのことは、天主に内在する内的な善の中に数えられるものではなく、天主にとって外的な事柄です。しかるに、この願いの意味と価値とをよりよく了解させるために、司牧者は信徒に、「天における如く、地に(おいて)も」という言葉は、主祷文の第1部における3つの願いすべてに適用かつ当てはめることができ、したがって、「御国の天における如く地にも来たらんことを」、「御名の天における如く地にも尊まれんことを」、「御旨の天における如く地にも行われんことを」ということを意味するものである旨、示すべきです。
43.したがって、私たちが「御名の尊まれんことを」と祈るとき、私たちは天主の御名の聖性と栄光とが、いや増すのを願うわけです。ここで司牧者は、敬虔な聴衆に、私たちの主イエズス・キリストは、当の表現を用いられた際、この御名が地上において、天におけるのと等しく聖とされることを意味されたのではない旨、すなわち地上での聖化が天上での聖化と同じ程度で成されることを意味されたのではなく―そのようなことは、全くあり得ませんから―、ただ地上での御名の聖化が、愛徳および心からの心情にその源を発するべきものであることを意味されたに過ぎない旨、教え諭さねばなりません。

44.無論、天主の御名は、この上なく聖(きよ)く畏(おそ)るべきものであり、それ自体において聖化される必要がないということは全く真実で、事実に基づいたことですが、―なぜなら、天主ご自身は,その本性によって聖であり、永劫から帯びておられる聖性以外に、いかなる他の聖性も付け足し得ないことは明らかですから― しかるに、地上においてこの御名は、ふさわしく崇敬されるどころか、往々にして侮辱、冒瀆の言葉でいわば汚されるものなので、そのため、私たちは当の御名が、天において受ける賛美と誉れ、栄光にならって賛美と誉れ、栄光をこの地上で受けることを望み、かつ求めるのです。すなわち、私たちが天主を口、精神、心をもって内的および外的に讃え尊び、天の住人の為す如く、天主の偉大さ、聖性、ならびに栄光を能う限り称揚する恵みを願うのです。したがって私たちは、天の諸天使、諸聖人がこぞって天主の御栄えを讃えて歌う如く、地上でもこれと同様であるよう祈ります。すなわち、全ての民が天主を知り、崇め、かつこれに仕えること、一人残らずキリスト教を奉じ、皆が己が身をことごとく天主に捧げ、天主こそが一切の聖性の源であり、その御名の聖性によらずには、何一つ清く聖なるものたり得ないことを了解するよう祈らねばなりません。
使徒パウロは、「教会が水の洗礼において、命の言葉によって清められた42」ことを著していますが、ここで言う「命の言葉」は、聖父と聖子と聖霊の御名を指すものであり、この御名において私たちは洗礼を受け、聖なる者とされる43のです。

45.したがって、天主の御名がそのために呼び求められないものにおいては、いかなる(罪の)償い、(霊魂の)清さ、聖性もあり得ないため、人類全体が不信仰の汚れた暗冥を打ち捨て、天主の光の光明に照らされてこの御名の力を認め、当の御名の中に真の聖性を探し求めること、又、聖にして分かちがたい三位一体の御名において洗礼を受けた後、他ならぬ天主の御手から、聖性の充満を授かるよう望み、かつ天主に祈り求めねばなりません。

46.しかるに私たちの願望および祈願は、悪徳と罪の汚れに染まって、洗礼のもたらした清さと徳性、ならびに潔白の衣とを失い、不浄な霊が再びその霊魂の中に住まいを設けるにいたった真にあわれな者たちにも及びます。私たちは、彼らの中においても天主の御名が聖とされ、また彼らが我に返って健全な精神を取り戻し、痛悔の秘蹟によって初めの聖性へと立ち帰り、己が身を清く、聖なる神殿ないしは住居(すまい)として天主に捧げるよう望み、祈るのです。

47.さらに私たちは、天主が全ての者の心に御光を照らして、あらゆる善き恵みと全ての完全な賜とは光の父から降り44、天主の仁慈によって与えられるものであることを悟るよう、また、節制、正義、生命、健康45ならびに身体の生命を支える外的善、ならびに霊魂の救いに関する諸々の善を教会が教えるように一切の善がそこから生じ出るところの天主から受けたものとして、これに帰するよう祈ります。事実、太陽の光およびその他の星々の運動と回転とが人類に益し、また私たちを取りかこむ空気が私たちの生存の基盤となり、地が種々の穀物と果実の豊かな実りによって御名の生命を支え、さらには行政に携わる者のはたらきによって平和で安寧な生活を送ることができるならば、これら全ての善およびこれに類した一切の利善は天主のはかり知れぬ仁慈によるものに他なりません。さらには、哲学者が2次的原因と呼ぶところの諸々の事象46は、驚嘆すべき仕方で配置され、かつ私たちの益となるよう整えられた、天主の御手と見なさねばなりません。これらをとおして天主は、数多の利善を配分し、いたる所にお注ぎになるからです。

48.しかるにこの祈願をとおして殊更願うのは、主イエズス・キリストの浄配かつ私たちの母である教会を皆が認め、敬うことです。ただ教会のみが全ての罪の汚れを洗い清め、償うことのできるこの上なく豊かな、尽きることのない泉を有しているからです。実に聖化と救いをもたらす秘蹟の一切は、この泉に源を発し、あたかも聖なる運河のごとく天から聖性の雨露を私たちの上に注ぎます。実際ただ教会のみが、その懐ないしは腕に抱かれた者たちと共に、天主の御名、この他に、それによって私たちが救われることのできる名は、世に与えられなかったこの御名47を呼び求める権利を有するのです。しかるに司牧者は、善き子らは、父なる天主に口で祈るだけでなく、行いと生きざまををとおして、天主の御名が自らの中に聖とされ、輝き出るよう務めるべきである旨、ことさら強調して教え諭さねばなりません。

49.願わくは天主の御名が聖とされることをたゆまず祈り求めながら、行いによって自らの中にこれを卑しめかつ汚し、挙げ句の果ては天主ご自身が冒瀆を浴びる原因となるようなものが一人としていないように。このような者について使徒パウロは「あなたたちのために天主の御名が諸国の民の間で冒瀆されている48」と述べ、また預言者エゼキエルも「あなたたちは行った国々で、人々に『これは主の民だ。 [悪い行いのために]自分の国を出なければならなくなった者たちだ。』と言わせて、私の聖なる名を汚した。49」と著しています。事実、細緻な分別に欠く大衆は、特定の宗教を奉じる者の生きざまと所業とを見て、当の宗教とその創始者とについて判断することが世のならいです。

50.それゆえ、自らのものとして受け入れたキリスト教にしたがって生き、かつ自らの祈りと行いとを当の教えに合わせる善き信徒は、他の人々に天の父の御名を敬い、誉め讃えるよう強く促すこととなります。主ご自身、これを義務として私たちに課されたのであり、したがって、私たちは善徳の目ざましい行いによって、人々が天主の御名を讃え、礼賛するよう務めねばなりません。このためにこそ、主は福音書において、「あなたたちは人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人は、あなたたちの善い行いを見て、天においでになる御父を崇めるであろう50」と仰せられたのです。同様に使徒ペトロも、「異邦人の中にあって、優れた行いをせよ。それは、人々があなたたちの為す善業に即してあなたたちを評価し、またこれがために天主に誉れを帰するためである51」と述べています。

【脚注】
1 トビアの書 5章6節以下
2 使徒行録 12章
3 天使らの創造およびその卓越した本性とに関しては、使徒信経第1箇条の注解を参照。
4 出エジプト記 17章7節
5 エゼキエルの書 8章12節
6 イザヤの書 49章14節
7 創世記 3章17-19節
8 創世記 3章22節
9 詩編 76 10節
10 ハバククの書 3章2節
11 ミカヤの書 7章18節
12 すなわち創造と統治の御業。
13 ヨハネ 1章12節
14 ヨハネ 3章5-6節
15 ペトロ前 1章23節
16 ローマ 8章15節
17 ヨハネの第1の手紙 3章1節
18 詩編88 32-33節
19 ヨブの書 5章18節
20 エレミアの書 31章18節
21 ルカ 21章18節
22 黙示録 3章18節
23 ヘブライ人への手紙 12章5-9節
24 マタイ 23章8節
25 ヘブライ人への手紙 2章11節
26 詩編21 23節
27 マタイ 28章10節
28 マタイ 25章40節
29 ローマ 8章17節
30 ヘブライ人への手紙 1章2節
31 ヘブライ人への手紙 6章10節
32 訳者注 聖ヨハネ・クリゾストモのこと。東方四大教会博士の一人。407年帰天。
33 Chrys. hom. 14 operis imperfecti in Matth.
34 エフェゾ 5章30節
35 ガラツィア 3章26節
36 エフェゾ 5章1節
37 テサロニケ前 5章5節
38 イェレミア 23章24節
39 訳注 ラテン語原文では<potestas>
40 詩編 138章8節
41 コロサイ 3章1-2節
42 エフェゾ 5章26節
43 いかなる意味で、カトリック信徒が「聖なる者」と呼ばれるに値するかについては、ローマ公教要理 使徒信経の部第10章第9条「聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます」第15節を参照。
44 ヤコボ 1章17節
45 ラテン語原文で用いられている言葉<Salus>は、健康のみならず救いないしは救霊をも意味する語である。
46 各被造物は、その諸々のはたらきによって他の被造物の生成ならびに変化の原因たり得るが、これはあくまで万象の存在および活動の究極かつ第一の原因および可能根拠たる天主に依存してのことであり、その意味で「第2次的原因」と呼ばれる。すなわち、天主はおん自ら直接被造物に働きかけることがおできになるとはいえ、(例えば各人の霊魂の創造において)ふつう被造物のはたらき(たとえば両親による子供の出生ならびに養育)をとおして万象を律されるのが常である。
47 使徒行録 4章12節
48 ローマ2章24節
49 エゼキエル36章20節
50 マタイ 5章16節
51 ペトロ前 2章12節

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第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ (続き7)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年03月20日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き7)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き7)


(c)内的生活は、使徒に、超自然的照射能力をあたえる。この超自然的照射能力はどれほど効果に富むか  (5/6)

 内的生活によって、使徒は”剛毅“と”柔和“の美徳を、周囲に照射する

 道徳的過誤、悪の感染、偽善などの悪徳にたいして、聖人たちはしばしば、歯に衣をきせぬまでに、激烈な態度を示した。
 聖ベルナルドは、当世一流の説教家であったが、その熱誠が最も大きな剛毅を、周囲に放射した聖人たちの一人にかぞえられよう。
 だが、かれの伝記を注意して読むと、その内的生活が、この“天主の人”を、どれほど徹底的に、没我的な人物にしたかを、読者はさとることができよう。かれは手を代え品を代えて、可能ないっさいの手段をつくしても、とうてい駄目だとわかったときに初めて、激烈な態度に出るのだった。かれはしばしば、剛と柔をあわせ用いた。
かれは、人間にたいして、熱烈な愛をもっていたので、ふみにじられた正義の報復をする場合でも、まずあいての人に聖なるいきどおりを発し、謝罪や、弁償や、将来の保証や、約束などを要求するきびしい審判者の威をあらわすけれども、それがすめば、あとはガラリと人間が変わったように、やさしい母ごころをもって、これまでは良心の命令にしたがって敵対し、攻撃してきた人たちを、回心へとみちびく。
 [エロイーズの恋人]アベラルド(Abailard)の誤説にたいしては、なさけ容赦もなく論破してこれに勝ち、あいてを沈黙させたが、しかしすぐにこれを、自分の親友にする手ぎわは、また格別である。
 手段の行使にかんして、聖ベルナルドの態度は "愛" そのものである。
 主義が問題になっていない場合、かれは政府の役人どもが、粗暴な仕打ちにでないようにと、みずから破防者の役を買って出る。
 ドイツ在中のユダヤ人を虐殺しよう、絶滅しようと計画しているのを聞知したかれは、一刻も猶余せず、修道院のかこいを飛びこえて、かれらの救援にでかける。平和の十字軍をつくれ、と遊説してまわる。それは、ユダヤ教の大ラビをすら、感嘆おく能わざらしめた美挙だった。「聖ベルナルドがいなかったら、われわれのうち一人も、ドイツ国内に生き残った者はいなかったろう!」le moine de Clairvaux sans lequel aucun de nous ne serait resté vivant en Allemagne. とは、かの大ラビの述懐談であって、ラチスボンヌ師(P. Ratisbonne)は、その有名な『聖ベルナルド伝』のなかに、このエピソードを収録している。大教師はまた、イスラエル民族は、子々孫々にいたるまで、聖ベルナルドの恩を忘れてはならぬ、と後代の人びとをいましめている。
 この事件があったとき、聖ベルナルドはよくこういっていたものだ。
 「われわれは、平和の戦士である。われわれは“平和をつくりだす者”の軍隊である。説得、良い模範、奮発が、福音の子らにふさわしい唯一の武器だ!」
« Nous sommes les soldats de la paix, nous sommes l'armée des Pacifiques. Deo et paci militantibus. La persuasion, l'exemple, le dévouement sont les seules armes dignes des fils de l'Evangile. »

 あらゆる聖人たちの奮発を特徴づける、この没我的精神を身につけるためには、内的生活のほかに、いかなる手段もないのである。

 聖フランシスコ・サレジオの到着以前のシャブレ町は、まことに物情騒然たるものだった。あらゆる努力も水泡に帰した。プロテスタントの首領たちは、聖人にたいして、激しい戦いを準備している。聖フランシスコ・サレジオを殺さなければ、腹の虫がおさまらぬ。
 聖司教が、到着した。
 柔和と謙遜の美徳が、真昼の太陽のように、かれの身からかがやきそめる。
 人びとはかれの身に、なにを見たか。――“自我”の全く死滅した人間、天主と隣人への愛にもえさかり、その愛のかがやきを周囲に照射する、ひとりの天主のような人間を見たのである。かれの使徒職が、いかにすばやく、りっぱな実を生じたか、ほとんど信じられないくらいである。
 だが、かれとても――柔和な聖人サレジオの聖フランシスコとても、時には一歩もゆずらぬ強固な態度を、示さねばならぬ場合があるものだ、ということは、ちゃんと心得ていた。かれは、おのれの柔和な言葉と、おのれの善徳の模範によって、かちえたりっぱな成果を、いつまでも確保しておくために、国法の力をかりることすら、ちゅうちょしなかった。
 そんなわけで、聖司教は、サボア侯に、異端者らの背信行為にたいしては、きびしい態度で臨むように、と勧告したものである。
 聖人たちのこのやり方は、聖主のそれを模倣したものにほかならない。福音書の中で、われわれの眼底に映ずる聖主のお姿は、どんなものだろうか。――かれは、慈悲のかいなをひろげて、罪びとたちを受ける。収税吏ザケオの友となり、罪びとらの友となる。病める人びと、悩める人びと、小さき人びとにたいしては、とりわけ涙ぐましいまでに同情深くなる。
 だがしかし、受肉せる慈悲と柔和そのものなるイエズス・キリストではあっても、神殿から不正な商人たちを追いだすためには、ムチをとることすら辞されない。ヘロデ王の不義を糾弾するとき、偽善なるファリザイ人、律法学士らの罪悪を弾劾(だんがい)するとき、かれの態度はどれほど厳烈、かれの言葉はどれほど瞬辣(しゅんらつ)であることか!
 だが、こういうことは、ごくごくまれな場合にのみかぎられている。使徒は、いっさいの手段をつくしても、なんの効果もないとき、またどんなに努力を傾けても、それが無駄であるとハッキリわかったときに初めて、不本意ながら、悪が他に伝染しないために、つまり愛徳の要求にしたがって、このように一見苛酷と思われるような挙動に走るのである。
 こういう例外にぞくする場合を除けば、宗教の原則が問題になっていないとき、柔和こそは、福音の働き手の行動に君臨せねばならぬ美徳なのである。
 「一樽(たる)の酢(す)よりも、わずかばかりの蜂蜜で、もっとたくさん、ハエを捕えることができます」On prend plus de mouches avec un peu de miel qu'avec un tonneau de vinaigre.と、聖フランシスコ・サレジオはいっているが、まさにそのとおりである。
 聖主が、使徒たちをおとがめになった、福音書の記事をごぞんじであろう。
 サマリアの町びとが、使徒たちを受けない。かれらに門前払いをくわせる。使徒たちは、これでは自分たちの顔がつぶれた、自分たちの人格がすごく傷つけられた、面目がない、と大へんに怒る。そしてイエズスに向かって、「主よ、いかがでしょう。かれらを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」と、お願いする。
 それは、不純な、利己的な奮発心からであった。イエズスのお答えは、きびしい。
「あなたがたは、どんな精神の持ち主だか、自分では知っていない」(ルカ9・55)

 フランスのある司教が、第一次世界大戦のまだたけなわであったころ、自分の司教座の所在する都市で、戦没者の家庭を訪問したことがあった。この司教は、宗教道徳の原則にかけては、きわめてきびしく、頑固一徹である、というので有名であり、この点がまた、模範とするに足りる人物であった。
 司教は、一軒残らず訪問したのち、むすこの戦死をいたんで悲しんでいるカルビン教徒の一家族を慰問するために、その家のしきいをまたいだ。そして、心からの、感動にみちた、なぐさめの言葉をかけるのだった。そのことのあったのち、司教の謙虚な博愛心にいたく感激したこのプロテスタントは、しんみりとした調子でこういうのだった。
「こんなことが、いったい、ありうるのでしょうか。カトリック教会の、名門出の司教さまが、あんなに教養の高い司教さまが、わざわざ、ちがった宗派にぞくする、みすぼらしいわたしの家のしきいを、またいでくださったんです。司教さまのお態度といい、お言葉といい、それはいちいちわたしの心に、ぐさりぐさりとはいっていったんです……」
 この人をやとっていた工場の主人は、筆者に右の話をしてきかせたのち、次のように付言したものである。
「わたしにいわせれば、このプロテスタントは、もう半分はカトリックに改宗していますね。とにかく、司教さまは、その柔和の美徳で、どんなに長いりっぱな議論にもまして、かれの改宗を早めてくださいました」
 霊魂の牧者なるこの司教は、イエズス・キリストに柔和を、まずおのれの身に実現して、そののち初めてそれを、ほかの人の目のまえにもあらわしたのだった。このプロテスタントは、いわば、自分の面前に、救世主イエズス・キリストを見たのだった。そして思わず叫ばないではいられなかった。
 「こんなりっぱな司教を、――わたしが福音書のなかで、感嘆している天主の人イエズス・キリストを、こんなにみごとに反映している司教を、たくさん持っているカトリック教会こそ、キリストのほんとうの教会にちがいあるまい」Une Eglise qui a des Pontifes qui reflètent si exceptionnellement Celui que j'admire dans l'Evangile doit être la véritable Eglise.

 内的生活は、福音への奉仕に、精神と意志を同時に確保してくれる。そのおかげで、イエズスの聖心にしたがって物を見、事をおこなう人は、自分の怠慢によっても、他人からの不義の暴力によっても、霊魂の進路をあやまることはない。イエズスの聖心から霊感されて初めて、かれは思慮深い人になり、奮発心にもえる人となるのではないか。そして、ここにこそ、かれの成功の秘訣があるのだ。
 これに反して、内的生活を持たない、したがって野生の情熱から左右される日になると、多くの失敗をしでかすのである。

  (続く)

無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第10号】ーFather Director's Letter No 10 to all Knights of the Immaculata

2018年03月19日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

童貞聖マリアの浄配、聖ヨゼフの祝日、おめでとうございます。
無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第10号】をご紹介いたします。

聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。
聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。
聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙 第10号


親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん、

聖マキシミリアノ・コルベを正しく理解するためには、彼の内的生活を形づくり促進させた最も重要な根源にまで立ち戻らなければなりません。それは、マリア様の現存によって完全に特徴づけられ、特にマリア様がキリスト信者の軍隊の「司令官」として敬われているポーランドという彼の国の歴史、不思議のメダイ、ルルドのマリア様のご出現、そして聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールです。

おそらくは、聖コルベがローマで勉強している間に、この「マリアへの完全なる明け渡し」の偉大なる師に出会ったのでしょう。聖コルベが、ちょうど100年前の聖ルイ・マリー(当時はまだ福者ルイ・マリー)の祝日である4月28日に叙階されたのは、確かに偶然ではありません。

彼は聖ルイ・マリーをポーランドに知らせ、「マリアの秘密」の最初のポーランド語版を印刷、出版しました。その序文では、彼自身が聖グリニョンの短い伝記とその霊性の要約を書きました。とりわけ彼は、二人が生きた時代は違うものの、似たような状況に生きていたことを強調しました。聖ルイ・マリーの当時の敵はジャンセニストでしたが、こんにちの敵はフリーメーソンとその他のセクトです。どの敵も皆、特徴的なしるしがありました。それはイエズスとマリアへのまことの信心に対する嫌悪でした。こんにちの無原罪の聖母の騎士のように、当時、グリニョンはすべての恵みの仲介者の偉大なる使徒でした。聖母の汚れなき御手の完璧な道具として、グリニョンは、そのよく知られた宣教活動の間に、サタンの鎖から数え切れない霊魂を救いました。ちょうどこんにちの無原罪の聖母の騎士会(MI)が、すべてを支配しつつある悪の軍団に直面しているように、グリニョンも敵の強大な力にさらされていました。しばしば一人ぼっちで、友人にさえ見捨てられて、彼は異端者の悪意と妬みの標的になりました。しかしながら、何にもましてグリニョンとマキシミリアノは、すべての力と勇気を共に同じ根源から引き出しました。彼らは聖母に全き信頼を置き、すべてにおいて聖母に絶対服従しました。いつであってもどこであっても完全に、聖母だけを頼りにしました!

しかしながら、さらに重要とさえ言える偶然の一致があります。グリニョン・ド・モンフォールは、終末の時代のマリア様の役割を指摘したとき、「上から」霊感を与えられました。もし竜とその手下たちの支配権が非常に強力なため、教会を破壊することにほとんど成功してしまい、ほとんどすべての人を破滅への道へとそそのかすならば、そのとき黙示録の婦人が現れるでしょう(黙示録12章1節)。忠実なしもべたちを通して、その婦人はサタンのかしらを踏み砕き、サタンのすべての攻撃に打ち勝つでしょうが、とりわけ、この少数の忠実な「終末の時代のイエズスとマリアの使徒」を通して、婦人は数え切れない霊魂を患難から奪い取るのです。

聖マキシミリアノは無原罪の聖母の騎士の注意を、このマリアの忠実な奴隷というグリニョンの描写に引き付けています。この奴隷たちは権力を恐れず、元后が送り出そうと命ずるところならどこへでも行き、右手に十字架像、左手にはロザリオを持ち、心にはイエズスとマリアの聖名を刻んでいました。

聖マキシミリアノは無原罪の聖母の騎士に対して、自分たちを終末の時代のイエズスとマリアの使徒だと見なすよう求めています。「この理想(イエズスとマリアの使徒)を実現するための私たちの目標とその手段は、聖ルイ・マリーの考えと完全に一致しています。彼の最も熱心な望み、彼の全生涯の望みは、無原罪の聖母を全人類の元后としてたたえ、人間の鼓動する心臓をすべて、聖母の愛に引き渡すことでした」。

この理由から、聖マキシミリアノの望みによって、無原罪の聖母の園に住む人々はすべて、ポーランドであれ日本であれ、聖モンフォールによる奉献をしてきました。言葉の完全な意味において、まことに無原罪の御宿りの騎士になるためには、聖母の従順な子ども、聖母に服従する奴隷にならねばならないのです。人が所有物として完全に芸術家のものになるならば、その限りにおいてのみ、完全にその芸術家の道具となることができるのです。

聖マキシミリアノが、誰でも簡単に騎士になれるようにし、毎日一つの短い祈りをすることと、不思議のメダイを身に着けるという奉献以外には、実践として何も要求していないというのは、確かに本当です。それにもかかわらず、彼は、すべての騎士が壮大で言い表せないほど重要な宣教の使命を受けたという偉大な理想に満たされるべきだという、自分の心からの望みを表しました。私たちは、完全に無原罪の聖母のものになるよう、聖母に完全に従って聖母が望みのままにお使いになる道具となるよう、可能な限り多くの霊魂を救うよう、もっともっと努力すべきです。

しかしながら、このことは言い表せないほど困難です、特に私たちの時代においては。終末が近づけば近づくほど、戦いは厳しくかつ危険になります! そんなとき、私たちが無原罪の聖母のために行う最も小さなことでも、聖母によって寛大に報いられるということを、私たちは忘れるべきではありません。進んで無原罪の聖母による御恵みで満たされる人は、聖母の忠実な道具そのものになるでしょう。あわれな罪びとの回心のための私の努力が、まず第一に、あわれな罪びとの中でも最もあわれな罪びとである私に利益を与えるのです。

しかし、この二つの奉献の違いは何でしょうか? 二つは互いにどのように関係しているのでしょうか?

聖母は聖ルイ・マリーに対して、聖母へのまことにして完全な信心という御恵みをお与えになりました。この奉献によって、聖母は、言葉の本当の意味で、私たちの母にして元后になられ、私たちは聖母の子どもにして奴隷になります。母として、聖母は私たちの手をお取りになって、私たちを助けて天主へ立ち返るよう、霊魂を救うよう、悪魔のわなから自由になるよう、イエズス・キリストから離れないようにさせてくださいます。このようにして、私たちは洗礼の誓いを守り天主の最も偉大なる掟、すなわちすべてに超えて天主を愛するということを守るのです! 明らかに、私たち自身の回心と聖化のため、私たちの天主ご自身との関係のため、「完全な信心」が私たちに与えられます。「私の母にして元后がいなければ、私は主の真理、主のいのち、主の道を見つけられないだろう。もし私がこの真理といのちをいったん見つけたとしても、マリア様がいなければ確実に再びそれを失っていただろう。しかし今、聖母が私のいのちという船を指揮されるからには、聖母は私を港まで安全に連れて行ってくださるだろう」。

天主への愛の第一にして最大の掟をお与えになったのち、私たちの主イエズス・キリストは私たちに、「私があなたたちを愛したように、あなたたちも愛し合いなさい」とも要求され、また主はこれを主の新しい掟と呼ばれました。キリストはどのようにして私たちを愛されたのでしょうか? 主は、私たちを永遠の滅びから救うため、また私たちを永遠の至福へと導くため、ご自分をお捧げになったのです。

ですから、ここでもまた、私たちは自問しなければなりません。私たちは、一体どれほど私たちの仲間である人類の救いのことを考えているでしょうか? 私たちは、人類の大部分について全く気にかけておらず、他人は私を悩ませていると思い、もしたまたま誰かに善きことがあるよう願うとしても、それはほとんど全てが「健康、福祉、成功」のことです。

ですから、ここでもまた、主は、愛徳という素晴らしい掟をもっとよく実践できるよう、私たちに助けを送られます。それは、愛情あふれる御母、元后であり、この方は、キリストに次いで、すべての人々一人一人を、この世の最高の母親たちが最愛の子どもを愛することのできる以上に愛してくださるのです。その上、キリストは、これらの人々が回心して救われるよう、御母にすべての御恵みを与えられました。しかし今、天主は私たちに、この務めに参加するよう望んでおられます。そういうわけで、私たちはもう一つの秘蹟、聖なる堅振の秘蹟を受けたのです。この秘蹟は、私たちの聖化のためだけでなく、私たちをキリストの兵士にし、キリストの神秘体の啓発に参加するよう、私たちに聖霊を与えるのですから。

堅振の秘蹟によるこの偉大なる御恵みを無駄にしないために、また王の軍隊に入って王の召集に従うために、主は、私たちに無原罪の聖母を送られて、私たちが聖母の騎士になり、聖母の小さな軍隊に加わって、できる限り多くの聖母の子どもたちの霊魂を聖母が救うのを助けるようになさったのです。見てください、天と地の元后は物乞いとなられ、私のところに来て謙遜に嘆願なさいます。「わが子よ、あなたが必要です。あなたは、不死の霊魂であるわが子どもたちを救うため、私を助けたいと望みますか? 非常に多くの霊魂が永遠に失われています。彼らのために祈り犠牲をする人が誰もいないからです」(1917年8月19日、ファチマ)。

ここでもまた無原罪の聖母は私たちに、聖母の道具として、これまで以上に霊魂を救うよう、堅振の秘蹟の御恵みを維持するよう、私たちに教えることになるしもべを送られました。聖マキシミリアノ・コルベは、全世界を聖母の足元に置いて、「聖母が悪魔のかしらを踏み砕き、世界中の異端に打ち勝つことができる」ように、無原罪の聖母の騎士会を創立しました。

ちょうど隣人への愛が天主への愛を基礎とし、それを前提とするように、堅振の秘蹟が洗礼の秘蹟を基礎とし、それを前提とし補うように、マキシミリアノの事業はグリニョンの全面的な奉献の拡張かつ補足として、その奉献に基づいています。言い換えれば、聖グリニョンのマリアへの全面的な奉献を完成させるために、聖マキシミリアノの奉献の祈りが必要とされるのです。そのときだけ、私たちの全存在は、聖母の現存と聖母の御恵みの充満が浸透することで、マリア様に依存するようになるのです。私たちの天主との関係だけでなく、私たちと隣人との関係においても、また私たちの自己聖化だけでなく、私たちがこの世で天主から受けた宣教の使命、すなわちキリストの御国を求めるキリストの戦士になるという宣教の使命においてもです。私たちの天国への道、地上で霊魂の救いを求める私たちの闘い―すべてが、例外なくすべてが、聖母に属しているのです。ちょうど、聖母が天主に属しているように。

しかしながら他方では、このことは、無原罪の聖母の騎士は、繰り返し自分の霊的な基礎を知らねばならないことをも意味しています。「天主のすべての戦いにおいて勝利を収め給う私の元后、私は御身の軍隊の道具にして騎士になることができます。それは、ただ私が全面的に御身の子どもであって御身は私の母であり、私は御身の奴隷であって御身は私の主人であるという段階になったときだけです」。

厳密に言えば、マリア様を私たちの母にして元后であると荘厳に認める全面的な奉献がなければ、そしてそれゆえに、聖母の子どもかつ奴隷として聖母への絶対的な依存がなければ、誰も本当の意味で聖母の騎士にはなれません。

もし皆さんが、まだ聖グリニョンによる奉献をしていないなら、司令官は、すべての戦いにおける確実な勝利の秘密を発見するよう、皆さんを招きたいと望んでおられます。皆さんがこの招待を拒否するならば、皆さんは無原罪の聖母の熱心な戦士には決してなれないでしょう。それどころか、非常に弱くなってしまい、恐るべき敵の攻撃に抵抗できないでしょう。そのうえ、戦いにおいて特別なことは何もできないでしょう。なぜなら、将軍は皆さんを少ししか頼りにすることができず、皆さんの武器は錆びついているか、弾丸を使い切っていたりするかであるからです。

元后が皆さんを奴隷かつ子どもとして受け入れ、理論的には今や完徳の高みにまで安全に皆さんを導くことのできるという言葉で表せない御恵みを、皆さんがすでに受けているのなら、少なくとも年に一回は、繰り返しマリアへの完全なる明け渡しを更新することが非常に重要です。

その理由は単純です。私たちは生きている限り、常にこの信心を完全かつ真剣に理解する自信がないからです。私たちの奉献が更新されるたびに、私たちは少しだけそれにふさわしくなり、少しだけより忠実になるのですから!

もう一つ理由があります。戦いは恐ろしいものであり、私たちは常に戦場にいるのです。騎士は簡単に疲れてしまい、霊魂を救うために無原罪の聖母を助けることに従事し続けているときは特にそうです。終わりなき混乱が私たちを消耗させます。そのようなわけで、私たちが母親の胸元にいる子どものようにしばらく休むことができるよう、御母は私たちをご自分の方へ引き寄せたいと望まれます。聖母は、ご自分がどれほど私たちを愛しておられるのか、どれほどまで私たちの母でいらっしゃるのか、私たちから何を望んでおられるのかを、もう一度私たちに思い出させようと望んでおられます(準備の第2週)。聖母は、天主に全面的に依存している被造物として、しかしまたあわれな堕落した人間として、私たちが何者なのかを何度も繰り返してじっくり考えるよう私たちに望んでおられます(準備の第1週)。とりわけ、聖母は御子へと私たちを導きたいとお望みです。それは、聖母を通して、私たちが主を十分に知って愛し、私たちが、私たちを「限りなく」愛し「私たちのために十字架上の死に至るまでご自分を捧げられた」主のものになるためです(準備の第3週)。[注1]

聖グリニョンの奉献のための望ましい日は3月25日のお告げの祝日です。この日には、すべての人が奉献の祈りの更新するよう(あるいは初めての場合はそれを行うよう)招かれています。MIの大きな祝日は、12月8日の無原罪の御宿りの祝日です。この日には、私たちは、聖母の道具としての奉献の祈りを更新することになっています。ですから、奴隷としての準備と奉献は、通常は四旬節に当たり、騎士としての奉献は待降節に当たります。これは、御摂理による忘れないためのしるしであって、このようにして、御摂理は、これらの悔悛と回心の時期に私たちが素晴らしい決心を立てるよう助けてくだっているのではないでしょうか?

これとは別に、すべてのマリア様の祝日もまた、無原罪の聖母への奉献、私たちが何者であるかを決して忘れないための重要な信心である奉献を更新するのにふさわしい日です。今も永遠においても、私たちは、無原罪の聖母の子どもであり、奴隷であり、騎士であるという特権を持っているのですから。

そのような私たちには過ぎたる御恵みに対して、無原罪の聖母がたたえられ、讃美されますように!

2018年2月26日、ジャカルタにて
カール・シュテーリン神父


[注1]奉献の祈りの年に一度の更新のため、聖ルイ・マリーは私たちが3週間にわたってその準備をするよう望んでいます。「毎年同じ日に、同じ修業のあとで3週間、奉献を更新すべきである。また、毎月あるいは毎日、次の短い祈り『わが愛し奉る主イエズスよ、聖なる御母マリアによりて、われすべて御身のもの、わが持ち物はすべて御身のもの』を唱えることで奉献を更新することもできる」(聖母マリアへのまことの信心233番)



【英語原文】

Father Director's Letter No 10 to all Knights of the Immaculata


Dear Knights of the Immaculata!

In order to understand St. Maximilian Kolbe correctly, one must go back to the most important sources that have shaped and inspired his inner life: the history of his country, completely marked by the presence of Mary, in Poland specially venerated as the “commander in chief” of the Christian armies; the Miraculous Medal; the apparitions of Mary in Lourdes, and especially St. Louis Marie Grignion of Montfort.

Most likely, he met the great master of "perfect surrender to Mary" during his studies in Rome. It is certainly no coincidence that he was ordained a priest on the 28th of April, the feast of St. Louis Marie (at that time yet Blessed Louis Marie), exactly 100 years ago.

He made St. Louis Marie known in Poland, and printed and published the first Polish translation of the "Secret of Mary". In the foreword he himself wrote a short biography and summary of Grignion’s spirituality. Above all, he emphasizes the similarity of the situation in the different times in which both lived. At that time the enemies were the Jansenists; today it is the Freemasons and other sects. The distinctive mark of all of them — a hatred for true devotion to Jesus and Mary. Like the Knights of the Immaculata today, Grignion was then the great apostle of the Mediatrix of all graces: as a perfect instrument in her immaculate hands, he has saved countless souls from the chains of Satan during his popular missions. Just as today's M.I. faces the all-dominating armies of evil, so too Grignion was exposed to the mighty power of the enemies. Often alone, abandoned even by his friends, he became the target of the malice and envy of the heretics. Above all, however, Grignion and Maximilian draw together from the source of all strength and courage: they put all their trust in Our Lady and were absolutely obedient to her in everything; always and everywhere and completely only HER will counts!

There is, however, an even more important coincidence: Grignion of Montfort was certainly inspired "from above" when he pointed out the role of Mary in the latter times: if the supremacy of the dragon and its servants is so great that they almost succeed in destroying the Church and entice almost all men on the path of damnation, then the apocalyptic Woman appears (Apoc. 12, 1). Through her faithful servants, she crushes the head of Satan and overcomes all his attacks, but above all, through these few faithful "apostles of Jesus and Mary of the last times", she snatches countless souls from the adversary.

St. Maximilian draws the attention of the Knights of the Immaculata to the description by Grignion of these faithful slaves of Mary, who fear no power, who go wherever the Queen sends them, who hold the crucifix in their right hand, the rosary in their left hand and have written the names of Jesus and Mary in their hearts.

He wants the Knights of the Immaculata to identify themselves with the Apostles of Jesus and Mary of the last times: “Our goal and the means to achieve this ideal (apostles of Jesus and Mary) are in complete agreement with St. Louis Maria's views. His most earnest desire — the desire of his whole life — was to honour the Immaculata as the Queen of all humankind, to hand over to her love all beating hearts of men".

For this reason, according to St. Maximilian's wish, all inhabitants of the City of the Immaculata, both in Poland and Japan, have made the consecration according to St. Montfort. In order to truly become a Knight of the Immaculate Conception in the full sense of the word, one must be her obedient child and her submissive slave. One can be totally an instrument only if one belongs totally to the artist as his property.

It is certainly true that St. Maximilian makes it easy for everyone to become a knight, and basically demands practically nothing other than the consecration, a daily little prayer and wearing the Miraculous Medal. Nevertheless, he expresses his deepest wish that every knight should be filled with the great ideal of having received a magnificent, unspeakably significant mission: We should strive more and more to belong fully to the Immaculata, to be completely obedient to her and thus be her instrument that she can use as she wants, to save as many souls as possible.

However, this is unspeakably difficult, especially in our times. And the closer the end, the harder and more dangerous the fight! In such moments we should never forget that the least we do for the Immaculata is generously rewarded by her. The first to be filled with graces by the Immaculata, will be her faithful instrument itself. My efforts for the conversion of the poor sinners will first of all benefit me, the poorest of the poor sinners.

But what is the difference between the two consecrations? How do they relate to each other?

Our Lady gave St. Louis Marie the grace of true and perfect devotion to her. Through this devotion she becomes our mother and queen in the truest sense of the word, and we her children and slaves. As a mother, she takes our hands and helps us to return to God, to save our souls, to free ourselves from the devil's traps and cling to Jesus Christ. In this way we fulfill our Baptismal vows and begin to fulfill God's greatest commandment: the love of God above all else! Visibly, the "perfect devotion" is given to us for our own conversion and sanctification, for our relationship with God himself: “Without my mother and queen I will never find HIS truth, HIS life and HIS way. Even if I found this truth and life once, I would surely lose it again without Mary. But now that she commands the ship of my life, she will take me safely to the harbour”.

After the first and major commandment of love for God, Our Lord Jesus Christ requires us also to "love one another as I have loved you", and He calls this His new commandment. How did Christ love us? He gave himself to save us from eternal damnation and to lead us into eternal bliss.

And here too, we have to ask ourselves: How often do we think of the salvation of our fellow human beings? We don't care at all about most of them, others bother us, and if we happen to wish someone good, then it is mostly all about "health, well-being and success".

And here too, the Lord sends us a help so that we can practice the great commandment of charity better and better: It is the loving mother, the queen, who after Christ loves all people so much, each one more than all the best mothers of the world can love their beloved children together. Furthermore, Christ gave her all his graces so that these people could be converted and saved. But now God also wants us to participate in this work. That is why we have received another sacrament, the Holy Confirmation, which bestows on us the Holy Ghost not only for our own sanctification, but to become Christ's soldiers and to participate in the edification of the Mystical Body of Christ.

In order not to waste these great graces of Holy Confirmation, and to finally enter into the King's army and to follow his call, the Lord sends us the Immaculata so that we may become her knights, join her small army and help her to save the souls of her children — as many as possible. And behold, the queen of heaven and earth becomes a beggar, comes to me and humbly pleads: “My child, I need you! Do you want to help me save my children, the immortal souls? So many are lost forever because there is no one who prays and sacrifices for them” (Fatima, 19th of August 1917).

Here, too, the Immaculata has sent us her servant, who is to teach us to save souls as her instruments and to unfold the graces of Holy Confirmation more and more: St. Maximilian Kolbe founded the Militia Immaculatae to lay the whole world at her feet, so that “She can crush the devil's head everywhere and overcome heresies all over the world”.

Just as the love of the neighbour builds on the love of God and presupposes it, as Confirmation builds on Baptism, presupposes and supplements it, so all of Maximilian's work is based on the total consecration of Grignion, as its extension and complement. In other words, in order to complete the total Consecration to Mary according to St. Grignion, one needs the act of consecration of St. Maximilian. Only then will our entire existence be made dependent on Mary, permeated by her presence and her fullness of grace: not only our relationship with God, but also our relationship with our neighbour; not only our self-sanctification, but also the mission that we have received from God in this world, namely to be the champion of Christ for the expansion of His kingdom. Our way to Heaven, our struggles on earth for the salvation of souls — everything, without exception everything belongs to her, just as she belongs to God.

On the other hand, however, this also means that the Knight of the Immaculata must again and again be aware of his spiritual foundation: “O my Queen, victorious in all the battles of God, I can be your instrument and knight in your army only to the extent, in which I am wholly your child, and you my mother, I your slave, and you my mistress”.

Strictly speaking, one cannot really be her knight without the total consecration through which we solemnly recognize Mary as our Mother and Queen, and thus our absolute dependence on her as her children and slaves.

If you have not yet made your Consecration according to St. Grignion, the Commander-in-chief would like to invite you to discover the secret of the sure victory in all battles and fights. If you reject this invitation you will never be an eager fighter of the Immaculata; on the contrary, you will often be too weak to resist the attacks of the terrible enemies. Besides, you won't be able to do anything special in battle, because the general can only count on you a little, your weapons are rusty or your ammunition is used up.

If you have already received the unspeakable grace that the Queen has accepted you as a slave and child and is now theoretically able to lead you safely to the heights of perfection, it is very important to renew again and again the total surrender to Mary, at least once a year.

The reason is simple: as long as we live, we will always lack the confidence to understand fully and seriously this devotion. With each renewal of our consecration we become a little less unworthy and a little bit more faithful!

There is another reason: the fight is terrible, we're always on the battlefield. The knight can easily get tired, especially when he is constantly occupied in helping the Immaculata to save souls. The never-ending turmoil wears us out. That is why the Mother wants to draw us to herself, so that we can rest for a while, like a child on the heart of the Mother. She wants to remind us again how much she loves us, how much she is our mother and what she wants from us (2nd week of preparation). She wants us to reflect over and over again on who we ourselves are, as creatures totally dependent on God, but also as poor, fallen men (1st week of preparation). Above all, she desires to lead us to her Son, so that through her we may know and love Him fully and belong to Him who has loved us "boundlessly and who has given himself up for us unto death on the cross "(3rd week of preparation)[1].

The preferred solemnity for St. Grignion is the 25th of March, the Feast of the Annunciation, on which all are invited to renew the act of consecration (or to do it for the first time). The great solemnity of the M.I. is the 8th of December, the Feast of the Immaculate Conception, on which we are to renew the act of consecration as her instruments. Thus, the preparation and the consecration as slaves usually falls into Lent, whereas the consecration as knights into the Advent season. Is this not a reminder of Providence, which in this way helps us to make a wonderful resolution in these times of penance and conversion?

Apart from this, all Feasts of Mary are also suitable for renewing our consecrations to the Immaculata — an important devotion so that we never forget our identity: Now and for all eternity we have the privilege of being children, slaves and knights of the Immaculata.

MAY SHE BE PRAISED AND GLORIFIED for such an undeserved grace!

Jakarta, on the 26th of February 2018
Fr. Karl Stehlin


[1]For the annual renewal of the act of consecration, St. Louis Marie wishes that we prepare it during three weeks: "Every year, on the same day, you should renew the consecration for three weeks after the same exercises. You can also renew it every month or even every day by saying this short prayer: "I am all Thine and all that I have is Thine, my beloved Jesus through Mary, Thy holy Mother" (Treatise No. 233).

2018年1月19日(金)  御公現後の平日 「皆さんは今日、カナの婚宴に与っている」

2018年03月18日 | お説教・霊的講話
2018年1月19日(金)御公現後の平日のミサ:皆さんは今日、カナの婚宴に与っている
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心教会にようこそ。

今日は2018年1月19日、平日の金曜日で、御公現後第2主日のミサを捧げています。今日のこのミサの後にいつものように終課を一緒に歌いましょう。終課の前にはフェレー司教様の意向によって、聖ピオ十世会の12年に1度ある総会の成功を祈って、始業の祈りを唱えます。ぜひ参加して下されば嬉しく思います。

明日は、明日も10時30分からミサがあります。明日は踏絵の償いの式と、また2月2日の、御潔めの大祝日でここでミサがあるので、その準備の為の聖歌を練習する事を予定しています。どうぞいらして下さい。



“Tu autem servasti bonum vinum usque adhuc.”
「あなたという方は、今までこんなにおいしい良いワインを取っておいたのですね。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は御公現後第2主日のミサをしています。このミサは特に、イエズス様が最初にした奇跡の事を聖福音で読むので有名です。

このミサについては深い、教会には深い思い入れがあります。なぜかというと、御公現に続いて、主の御洗礼に続いて、このミサがいつも捧げられるからです。御公現も、イエズス様が最初に御自分が天主であるという事を示した時でした。御洗礼も、天主聖父が、「これこそ我が愛する子である」としたその事でした。第3の今日の福音で読んだ最初のイエズス様の最初の奇跡も、これがイエズス様が最初に目に見える公の奇跡をした日でした。この3つの最初のイエズス様の栄光を現した、「イエズスが天主である」という事を示した事の1つであるからです。深い思い入れがあります。

そこで今日、この2000年前イエズス様はどうやって最初の奇跡起こしたのか?という事をさっと垣間見て、

第2に、では2000年後の21世紀に生きる私たちにとって、これはどういう意味があるのか?という事を黙想して、

最後に遷善の決心を立てる事にしましょう。

イエズス様が公生活を最初に始める時に、弟子たちをまず数名選びました。その選ばれた内の1人が聖ヨハネでした、使徒聖ヨハネ。そのヨハネは、イエズス様が最初の奇跡をした時におそらく一緒に臨席していて、そのイエズス様が何をなさったのかをじっと見ていて、それを決して忘れる事ができなかったに違いありません。聖ヨハネはその他の福音史家が書いていない事を記録して、私たちに残しています。

その時イエズス様が公生活を始めたその最初、カナで結婚式がありました。その結婚式にいたのは、イエズス様のお母様でした、マリア様でした。ところでその結婚式に、イエズス様とその弟子たちも更に招かれていました。これを見ると、イエズス様が何を大切にしているか、という事が分かります。イエズス様は決して、私たちの喜びに反対するような方ではありませんでした。私たちの家族や婚姻というものを軽く見る方ではありませんでした。むしろ私たちの家庭や婚姻や、この喜びの家族のパーティーのようなものを、お祝い事を祝福して下さろうとお望みでした。ですから弟子たちも連れて行きました。

イエズス様はその直前までは、40日間の厳しい断食をして、お祈りをして、悪魔と戦った方でしたが、しかし隣人に対しては非常に思いやりがあって、人間的であって、そしてその為に時間を時を過ごす事を良しとされる、憐れみの方でした。

マリア様もそこにいらして、マリア様を見ると、私たちにとってとても多くの事を教えてくれます。マリア様はまずこの婚姻のその披露宴で、「一体この結婚されている方が何が必要なのか」とか、あるいは「これで困ったりしないだろうか」と、いつも「助けたい」、いつも心を配る優しい方でした。非常に母親らしい、非常に女性らしい方でした。そういう事が分かります。

おそらくマリア様はお酒なども飲まなかったに違いありませんが、お酒が無いという事に気が付きました。そしてイエズス様にそっと仰るのです、「あの人たちにお酒がもうありません。」

イエズス様にどれほど優しく、慎ましくお願いした事でしょうか。イエズス様に、「あなた何かしなさい」とかズケズケと仰らずに、ただ「イエズス様、こうですよ」と仰いました。

イエズス様はそれに対して非常に冷たく、見かけ上非常に冷たく答えます、「女よ、あなたと私に一体何の関係があるだろうか。私の時はまだ来ていない。」

マリア様はそれにもかかわらず非常に、たとえ断られたかのように見えたとしても、それに対して怒ったり気分を害したりせずに、非常に肯定的に受け取ります。悲しんだりしません。そして拒否されたかのように思っても、マリア様は召し使いたちに、「イエズス様の仰る通りになさりなさい」とアドバイスします。

マリア様は自分の方に引き寄せるというよりは、自分から皆、自分の力を使って皆イエズス様に従うように、イエズス様へと向かうようにと導いている事がよく分かります。

マリア様のこの最初のジェスチャー、このお言葉、その態度を見ると、私たちはどれほどマリア様のようにならなければならないのか、という事をひしひしと多くの事を学びます。
私たちはともすると、「あなたここが悪いんじゃないの?」「何で準備しなかったの?」とか、「あぁ、何このまずいお酒は」とかもしかしたら、もちろんマリア様は頭の良い方ですし、色んな経験を持っている方ですし、ただ何か色々、欠点や間違ったところや、批判点や足りないところを見い出す事もできたかもしれませんが、一切仰いませんでした。
ただ仰ったのは、「この方たちはこうですよ」とイエズス様に仰る事と、そして人々には、「イエズス様が仰る通りになさりなさい。」それだけでした。

イエズス様は、イエズス様の時は来ていませんでした。一体、霊魂の救いと婚姻のドンチャン騒ぎと、一体何の関係があったでしょうか。しかしイエズス様は、マリア様を喜ばせようとしました。最初の奇跡をマリア様の為になさいました。水を最高のブドウ酒に変えました。

その為にはイエズス様がなさった事は、一見ブドウ酒とか全く関係ないような、一見すると、「一体、何の為に?」と思われるような事を、召し使いに命令します、「これをしなさい」と。これはイエズス様がいつも私たちに要求する事です。しかし私たちのちょっとした協力を使って、私たちのちょっとした事を使って奇跡を起こして、更に大きなものを私たちに与えようと思われています。

では第2に、これは2000年後の私たちに一体どんな意味があるのでしょうか?

典礼学者によると、「実は深い意味がある」と言います。なぜかというと、皆さんは今日、カナの婚宴に与っているからです。今、2000年前に起こったカナで起こった事が、今起こっているからです。今、カナではなく大阪の婚宴式に、皆さん与っているからです。

「結婚する人というのは誰ですか?」皆さんがその花嫁なんです。今、皆さんは結婚式を立てているのです。

では一体、皆さんは誰と結婚するのでしょうか?イエズス様です。天主三位一体と霊的な婚姻をして、1つになろうとされます。そこでこの結婚式が今行われているのです。

「ではそれでは、この婚宴、何でそれが結婚式なんでしょうか?私は既に他の人と結婚しているし」「まだ、私はまだ、」

はい。霊的に私たちは、洗礼を受けた時に、洗礼の水で洗われた時に、私たちの霊魂は教会の一部となります。キリストの神秘体の一部となります。そして実は教会というのは、キリストの教会つまりカトリック教会というのは、イエズス・キリストの花嫁なのです。神秘的な花嫁であって、イエズス・キリストがその頭、花嫁である教会はその体なのです。ですから今日この霊的な婚姻式というのは、私たちの霊魂が、教会の一部としてイエズス・キリストと霊的な一致をする、という事をもう一度再現しているわけです。

でも私たちはあまりにも貧しいので、この婚姻式に良いブドウ酒を準備する事ができないでいます、十分なブドウ酒を準備する事ができないでいます。私たちが準備する事ができるというのは、ただ平凡な、水のような味もそっけもないこの地上的で、時には罪深い考えや、行動や、言葉や、行いでしかないのが悲しい現実です。

しかしイエズス様は、私たちのこの日常の生活を、時には惨めな生活を、天主の命へと変えて、天主の恵みと憐れみの満ちた、天主的な生活へと変えようとして下さるのです、この婚姻式を通して、ミサを通して。

福音の時には、2000年前に起こった事が、あたかも今あるかのように記念しました。ですから司祭は福音書には接吻して、あたかもイエズス様に接吻するかのように。また3つの十字架を切って、福音に十字架をしたり、額とか、口とか、胸にも十字架をしたりして、イエズス様が今まさにここで、そのカナの事をなさっているかのように記念します。荘厳ミサでは香を焚いたり、ろうそくを灯したりして、イエズス様の御言葉とその現実を記念します。

しかしこのミサでは更にもっと大きな奇跡が起こります。カナの奇跡を超える、はるかに超える奇跡が起こります、大阪の婚姻の秘跡では行われます。それは、ブドウ酒がイエズス・キリストの聖血となる事です。この婚宴の式で、もうこれ以上あり得ない最高のブドウ酒が、私たちに与えられるわけです。そしてこの御聖体と聖血の、この私たちに与えられるイエズス・キリストの御体は、飲んでも飲んでも飲み尽くす事ができないほどの、無限の恵みと祝福に満ちておられます。そして今日この事が今、実現しようとしているのです。

そこで教会はその事をよく知っているので、聖体拝領誦にはそのもう一度福音の事を引用して、「あなたという方は、今の今まで最高のワインを残しておいたのですね、私たちの為に」と、何度も繰り返して歌わせようとします。

これが今、この大阪で、2018年1月19日に今、現実に行われようとしている奇跡です。

では私たちはどのような決心を立てたら良いでしょうか?

私たちも、まずカナの婚宴をしたこの夫婦に新郎新婦に倣って、まずマリア様をぜひこの婚宴の席に呼ばなければなりません。このマリア様にぜひ、マリア様と共にこのミサに与らなければなりません。なぜならば、マリア様がいればこそ私たちの惨めな毎日の生活が、イエズス様の御取次ぎによってより良くブドウ酒へと変わるように助けてくれるからです。

そしてマリア様の言葉をよく聞かなければなりません。マリア様は、「イエズス様が仰る通りに、何でもしなさい。」イエズス様は私たちに、時には一見関係ないような事を命じます。私は司祭になって、司祭の仕事といえば告解場に入って、そしてミサを立てて、聖務日課を唱えて、それなのに私の長上は、飛行機に乗って、車に乗って、何とか村に行って、何か司祭とは関係ないような事を命じられますけれども、しかし長上の命令はすなわちイエズス様の命令ですから、それに従う事によって、その関係ないと思われるような事を聖化してくれます。私たちと関係ないと思われるようなお掃除や、あるいは単純な手作業や、あるいは病気、あるいはその他の事も、イエズス様の仰る通りであればあるほど、私たちは水をたくさん汲む事ができます、いっぱいまで満たす事ができます。マリア様をここに呼んで、マリア様の仰る通りに、イエズス様の仰るように致しましょう。

第2にそして最後に、イエズス様は私たちに、「特にマリア様の汚れなき御心の信心をするように」と望んでいます。この地上に聖母の汚れなき御心の信心を確立する事を望んでいます。「そうしたら平和が来る。そうしたら多くの霊魂が救われる。そうしたら私たちは特別の聖人になる」と。ですからその為にも、イエズス様の聖心の御旨を仰る通りに果たす為にも、私たちの空っぽの石のかめをマリア様への信心で満たす事に致しましょう。きっとそうすれば私たちの行う信心がどのように冷たい水のようなものでも、最高のものに変えてくれるに違いありません。

“Tu autem servasti bonum vinum usque adhuc.”
「あなたという方は、今の今までこんなに良いワインを取っておいたのですね。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ (続き6)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年03月17日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き6)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き6)


(c)内的生活は、使徒に、超自然的照射能力をあたえる。この超自然的照射能力はどれほど効果に富むか  (4/6)

  内的生活によって、使徒は“謙遜”の美徳を、周囲に照射する

 イエズスの柔和と親切は、多くの群衆を、かれのもとにひきよせた。
 このことは、だれでもよく知っている。
 イエズスの謙遜にも、同様のちからが――民衆をひきよせる魅力が、あるのだろうか。
 むろん、あるにきまっている。
 「わたしから離れては、あなたがたは何ひとつできない Sine me nihil potestis facere」(ヨハネ15・5)と、イエズスは仰せられた。
 天地の創造主から、その協力者という崇高な地位にあげられた者――これが、使徒である。だから、使徒は、超自然的事業の代行者である。イエズス・キリストの代理者である。
 だが、それには、条件が要る。――すなわち、使徒の身に、ただイエズスだけが、目にみえるようにあざやかに、お姿をあらわしておれば――という条件だ。
 使徒が、自分自身の姿を完全に消して、没我的になればなるほど、それだけいっそうイエズスは、この使徒の身において、ご自身をお現わしになる義務を、おせおいになるのだ。
 内的生活の成果であるこの没我、この自我の消滅がないなら、使徒はどんなに労苦して使徒職のタネをまいても、どんなにまめに水をそそいでも、しょせん無駄なこと。タネは、発芽しない。
 まことの謙遜のもつ魅力は、また格別である。
 その魅力のみなもとは、イエズスご自身である。
 使徒的事業にたずさわっている人が、ただイエズスだけを、おのれのうちにお働かせするために、自我を全く滅ぼしつくそうと努力するとき――「かれは必ず栄え、わたしは衰えねばならぬ Illum oportet crescere, me autem minui」(ヨハネ3・30)――この奮発にたいして、イエズスは義理でも、その使徒に、人びとの心をますますおのれにひきつける賜ものを、おあたえになるのだ。そんなわけで、謙遜は、人びとの霊魂にある働きをするときに使われる、最も大きな手段の一つとなる。
 聖ビンセンシオ・ア・パウロは、その会員の司祭たちに、こういっていた。
 「わたしのいうことを信じていただきたい。われわれは、自分自身の力だけでは、天主の事業を成功させるどころか、かえって失敗に終わらせるのがオチだ、という深い確信をもっていないなら、われわれは絶対に、天主の事業にたずさわる資格がないのである」
Croyez-moi, nous ne serons jamais aptes à faire l'oeuvre de Dieu, si nous n'avons pas la persuasion que de nous-mêmes nous sommes plus propres à tout gâter qu'à réussir.

 筆者がしばしば、上と同じ思想にかえり、またこれを反復力説するので、このことをヘンに思われる方もあるだろうと思うが、それは親愛なる読者の頭に、上の思想を深くきざみつけ、かつそれをいくたびもくり返して説明している間に、この謙遜という徳の重要さを示すための老婆心からであることを、了解していただきたい。
 横柄なふるまい、尊大な、もったいぶった態度――こういうものは、しばしば、そのたずさわっている事業の、不成功のはずみになることがある。

 「現代」のキリスト信者は、好んで自主独立の精神を謳歌する。
 かれらは、よろこんで、“天主”には従う。天主にだけは従う。
 だが、天主の代理者からは、命令されたくない。天主の代理者の命令にも、指揮にも、すすめにも従いたくない。そこに、ハッキリと天主の署名(サイン)がしていないかぎり!

 だからこそ、すべて使徒たる者は、内的生活の成果たる謙遜の修業によって、自分の影を薄くしていなければならぬ、自我を全く滅ぼしつくしていなければならぬ。かくて、世人の目に、おのれはあたかも“天主のお姿をうつしだした鏡”のように映ずるまでに、天主に変容していなければならぬ。さらにまた、イエズスの仰せられた、「あなたがたのうちで、いちばん偉い者は、仕える人でなければならない。……あなたがたはラビ(先生)と呼ばれてはならない。あなたがたは、教師と呼ばれてもならない」(マテオ23・8~11)とのお言葉を、おのれの身において、実現していなければならぬ、というのだ。

 内的な人を、ただひと目みただけで、われわれは“生命の学問”すなわち、“祈りの学問”(聖アウグスチノの言葉)を、おそわるわけだ。なぜか? 内的な人は、謙遜とともに、天主への絶対依存の精神を、呼吸しているからである。そして、霊魂がそのなかにたえまなく呼吸している、この天主への絶対依存の精神は、あらゆる機会に、天の助けを求めるために、すぐに天主のみもとに馳せていく、という習慣によって、外面にもあらわれる。

 あらゆる機会に――と、筆者はいった。じじつ、謙遜な人は、あることを決行しようとするとき、困難に見舞われてなぐさめがほしいとき、わけても困難を突破するために十分な力がほしいとき、いつも助けを求めて天主のみもとに馳せていく。
 司教証聖者共通の典礼文に、“小さき群れ Pusillus grex”という文句があるが、聖ベダは、これをみごとに解説して、次のようにいっている。

 「救世主は、選ばれた人びとの群れを "小さき群れ" と呼んでおられる。なぜ、そんな呼び方をされたのか。――永遠に棄てられる人びとの群れにくらべれば、その数は至って少なく、その勢力も至って小さいからである。もう一つの理由がある。それは、選ばれた人びとは、謙遜の美徳に向かって、もえるような烈しい熱情をもっているからである。なぜなら、カトリック教会が、どんなに多人数で、どんなに広大な地域にひろがっていたにしても、救世主はこの同じ教会が、世の終わりまで、謙遜においていつも成長していくように、このようにして、謙遜な人びとに約束されている天国にはいることができるようにと、お望みになるからである」(『聖ルカ福音書注解』四一)

 この一文は、聖主が使徒たちにお与えになった、謙遜についてのりっぱな教訓を、われわれに思いおこさせる。たとえば、あるとき、使徒たちは、使徒職に召されたかれらの神聖な召し出しを、純然たる個人的利益追求への道具に転用したいと思った。そのさい、野心と嫉妬にみちた、世にもあわれなかれら自身の醜悪な姿が、白日のもとにさらけだされたのである。この機会をとらえて、聖主はかれらにこう仰せられた。

 「あなたがたが知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民のうえに権力をふるっている。あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で、偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間で、かしらになりたいと思う者は、しもべとならねばならない」(マテオ20・25~28)

 ブールダルー師 (Bourdaloue) がいっているように、人の長たるものが謙遜したからとて、そのために当人の権威が下がるようなことは、絶対にない。人の長たる者が、いつも十分に謙遜であるなら、下の人にたいして、権威はいつも十分に保てる。上の人に謙遜がないなら、権威は、下の人にとっては重荷となり、我慢できないものとなる。

 ほんとうの謙遜をもたないなら、使徒は、あるいは誇張された柔弱にか、あるいは最もしばしば、暴君(ワンマン)despotisme への傾向にか、そのいずれかに片よってしまう。
 理屈はぬきにして、実際問題にうつろう。むろん、仮定の上での話だが、ここに一人の使徒がいる。かれはひじょうに頭がいいので、使徒のよくおち入りやすい、二つの極端な行き方から救われている。すなわち、かれはなんでもかんでも、また誰にでも、じきに許可をあたえるというような、柔弱な人物ではない。それかといって、頭のかたい、奮発一点ばりで、天主のおしかりを招くような行き過ぎをよくやりだす、頑固一徹な人間でもない。かれは健全な、シッカリした主義・主張というものを、ちゃんと持っている。学問もあり、判断力も正しい。
 こういうりっぱな素質をもった使徒であるかれだが、さて謙遜がなければ、どういうことになるのか。――前にもいった、二つの極端のいずれかに落ち込む。けっして中道をたどりえないのが常である。柔腰か、さもなければ、最もしばしば傲慢か――そのいずれかが、かれの態度にあらわれてくる。

 弱腰になる。ウソの謙遜におちこむ。愛徳は退化する。精神は薄弱になる。自分の意見をとおしえない。すべての点において、他人に譲歩する。たやすく許可をあたえる。勇気がないので、義をみても、知らん顔をしている。正義をぎせいにしてまでも、他人と妥協する。いろいろ言いわけをされる。――ものごとは慎重にやらなければならぬ、見識が狭くてはいかん、などの理由から、自分の主義・主張をあくまでも、貫徹しようとの奮発心はどこへやら、かれは完全に、他人のロボットいなってしまう。
 弱腰にならなければ、その反対の傲慢になる。
 あまりに自然的な考えが、意志の誤導が、かれの傲慢に、神経過敏に、つまり“自我”に、活動の機会をあたえる。こうなると、いろんな悪徳が、くびすを接してあらわれてくる。――ある人を憎む。やたらに自分の権利をふりまわす。ある人に怨恨をいだく。敵対心をいだく。反感をいだく。そのやり方は不公平である。カネにきたない。他人に復しゅう心をいだく。野心をおこす。人をねたむ。どこでも、上席に着こう、人の上に立とうと、あまりにさもしい望みをおこす。人を非難する。悪口をいう。失礼な言葉づかいをする。あまりに世間的な党派心をおこす。自分の主義・主張を弁護するにあたって、あまりに粗暴な、荒々しい態度を示す、などなど。

 天主の光栄――これこそは、使徒たる者の追求すべき究極の“目的”であるべきなのに、そしてこの神聖な目的の追求によってのみ、われわれの情熱は聖化されるはずなのに、かれにとっては、それはただおのれのまちがった情熱を助長し、高揚し、弁護するための“手段”もしくは“いいわけ”にさえ堕落している。
 天主の光栄が、教会の光栄が、ちょっとでも傷つけられる。
 すぐに、カッとなる。はげしく怒る。
 だが、その怒りを、心理的に分析してみるがいい。
 かれが怒るのは、けっして天主のための奮発心からではない。使徒的事業にたずさわっている、この自分自身の名誉がそこなわれたからだ。自分たちの団体の権利が、――純然たる人間的結社として享受している、世俗的権益が侵害されたからだ。
 くり返していうが、かれが怒るのは、けっして天主のための奮発心からではない。
 天主のために奮発する――これだけが、イエズス・キリストによって建設された教会の、存在理由であることを忘れているのである。
 天主のために尽くしている、といいながら、そのじつ、人間はこのようにひどい脱線をしている。どんなに教理にあかるくても、またその教理がどんなに正確であっても、その判断がどんなに健全であっても、使徒はこのような脱線をしでかすものだ。なぜなら、内的生活をもたない、したがって、ほんとうの謙遜をもたないなら、いつもおのれの欲情に左右されるのだからである。

 ただ謙遜だけが、かれに正しい判断をさせる。欲情の刺激のままに行動することを、差し控えさせる。したがって、かれの生活に、調和と安定をあたえるのである。
 謙遜は、人間を、天主に一致させる。謙遜は、人間を、天主の永遠なる不動性にあずからせる、ということができよう。それはあたかも、カシの木に生えているツタカヅラのようなものだ。自分では弱い植物だが、すべての根を働かせて、一生懸命にカシの木にしがみついてさえいれば、もろもろの木の王者なるカシの木の偉力を、自分のものにすることができ、それによって、自分でも強く、かつ不動のものとなる。

 そんなわけで、次の結論は、なんのためらいもなしに承認できよう。――謙遜をもたなければ、使徒は優柔不断に、柔弱におち入る。さいわいこの不幸を逃れえたにしても、われわれの人間性は弱いのだから、きっと第二の行き過ぎ――すなわち、傲慢におちこむにきまっている。そればかりか、事態のいかんにより、欲情のいかんによっては、あるいは一方にぶらつき、あるいは他方にぶらつく、というふうに、しょっちゅう、ふらふらしている。
 「人間とは、変わりやすい存在である。変わりやすいこと――これだけは、人間は常に変わらない。」
L'homme est un être changeant; il n'est constant que dans son inconstance.

 聖トマスは、こういっているが、この間の消息を、みごとに伝えた言葉である。
 使徒職にたずさわる人たちが、このような欠点に虫ばまれると、そこから出てくる論理的結果は、次のとおりである。――人びとは、あるいは柔弱の上長を軽んじるか、あるいは天主を反映していない不徳な上長を信用しないか、あるいはまたしばしばあることだが、これにたいして憎悪の心をいだくか、そのいずれかである。

 (続く)

「ワレラノムネ アナタトオナジ」「サンタマリアの御像はどこ?」

2018年03月17日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、キリシタン発見(1865年3月17日)で、その8年後に高札がその姿を消した日(1873年3月17日)です。

浦上のキリシタンであるイザベリナ杉本ゆり(1813 - 1893)が、今日、大浦天主堂でプチジャン神父に「ワレラノムネ アナタトオナジ」と話しかけて、キリスト信仰を告白しました。

キリシタン発見のわずか5年前の1856年には「浦上三番崩れ」があり、多くの信者が一斉に検挙され、多数が拷問死を見ていました。信仰の告白には賢明さと勇気と剛毅が必要でした。

産婆であったイザベリナゆり(当時52歳)は、「フランス寺にサンタ・マリアさまがおいでなさる」といううわさを聞き、家族に「フランス寺に行ってパーデレさまに会いたい」と強く願いました。エルサレムの神殿でメシアを待望していた老シメオンの気持ちだったのでしょう。

1865年3月17日金曜日の昼下がり、一大決心をしたイザベリナゆりは、妹のクララてるやその他家族をつれて12人~15人ほどで「フランス寺」に行きました。プチジャン神父が門を開けると、彼らは参観人をよそおって堂内に入ってきました。

プチジャン神父が祭壇にひざまづいて祈っていると、ゆりが近づいて「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」と言ったのです。

自分たちが浦上から来たことを告げ、すぐに「サンタマリアの御像はどこ?」と尋ねました。

プティジャン神父はマリア像の前に連れていくと彼らは「サンタ・マリアさまだ!サンタ・マリアだ!」と喜びを表しました。



聖母よ、われらの信仰を守り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ (続き5)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年03月16日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き5)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き5)


(c)内的生活は、使徒に、超自然的照射能力をあたえる。この超自然的照射能力はどれほど効果に富むか  (3/6)

内的生活によって、使徒は“慈愛”の美徳を、周囲の人びとに照射する

 「慈悲をともなわない奮発心は、実は本物でない愛徳から生まれている」
Un zèle qui n'est pas charitable vient d'une charité qui n'est pas véritable. 聖フランシスコ・サレジオならこう言うだろう。

 霊魂が、念禱によって、“慈愛の大海”Bonitatis oceanus と教会がよんでいる天主の、甘味な慈悲を味わうとき、その刹那、かれは一新して、全く生まれかわった人間となる。霊魂が、たとえ生まれながらの性質で、利己主義にかたむいてはいても、または心の頑固さにおち入ってはいても、こんな欠点はみんな、すこしずつ消滅していく。
 「天主の慈悲と博愛は、われわれの救い主なるイエズス・キリストのご一身において、この世にあらわれた」Benignitas et humanitas apparuit Salvatoris nostri Dei.(ティト3・4)
 イエズス・キリストはまた、「天主の慈悲をうつす鏡」Imago Bonitatis illius(知恵の書7・26)であり、天主の慈愛の目にみえる姿である。
 このイエズスに、霊魂が養われるとき、かれもイエズスのように、天主の慈愛にあずかる。そして自分もまた、天主のように、世の人びとに、おのれの慈愛を“わかち与えたい”との要求を、ひしひしと心に感じる。

 心が、イエズス・キリストに一致すればするほど、天主であって人なるイエズスの聖心の第一の、そして最大の性格であるその慈愛にもあずかるようになる。そうなれば、寛容とか、親切とか、同情とか、すべてこういう善徳が、かれの霊魂に激増してくる。そして、寛大と奮発心は、かれをうながして、天主と人類への奉仕に、おのれ自身の生命を、よろこんでなげうたせるまでに、高揚する。
Plus un cœur est uni à Jésus-Christ, plus il participe à la qualité maîtresse du Cœur Divin et Humain du Rédempteur, à sa Bonté. Indulgence, bienveillance, compassion, tout est décuplé en lui, et sa générosité et son dévouement iront jusqu'à l'immolation joyeuse et magnanime.

 使徒は、天主の愛に浸透されると、全く生まれ変わった人物になる。そうなれば、なんの苦もなく、人びとの好意を、おのれにひきよせることができる。かれの言葉にも、行動にも、慈愛が――おのれの利害を全く忘れ果てた慈愛が、ふかくしるされている。しかも、この種の慈愛は、かくれた利己心や、または人びとの人気を、自分の身に集めたい、という野心から生まれた不純なものではない。

「天主がお望みになったことは、人を愛するのでなければ、いかなる善も、人にほどこすことはできず、また、無感覚では、人に何かの光明をあたえることも、何かの善徳を霊感することも、決してできない、ということである。」
« Dieu a voulu qu'aucun bien ne se fit à l'homme qu'en l'aimant, et que l'insensibilité fût à jamais incapable, soit de lui donner de la lumière, soit de lui inspirer la vertu. »
 ラコルデール神父は、こう書いた。

 他人から、暴力を加えられる。これに抵抗することに、一種の優越感をおぼえるのは、人情の常である。
 ある人が、得意になって、自分の学説を宣伝している。
 誰でも承服させてみせると、力んでいる。
 こういう人に、議論をふっかける。異説をとなえて、ひと泡ふかせてやる。
 そのとき、人はなんだか、自分が偉くなったような気がする。
 なんだか、得意な気持になるものだ。

 だが、ここに、人の親切にスッカリ感心して、頭を下げる。そのひとの人格に、完全にまいってしまう。
 しかし、頭は下げても、完全にまいりはしても、自分は負けたなぞと、屈辱感はみじんも起こるものではない。屈辱感が起こらないから、かれの親切なふるまいに魅せられて、けっきょく、かれのいうとおりになるのだ。
 議論をたたかわせないで、ただ疲れをしらない親切――しかもしばしば、英雄的な親切だけでもって、どれほどの人びとを、回心させることができるだろうか。

 貧者の小さき姉妹会や、被昇天の姉妹会や、愛徳の姉妹会の修道女たちにきいてみれば、いちばんよくわかることである。彼女らの献身的な奉仕を前にして、悪人どもや、罪びとたちまでが、こう叫ぶのだ。

 「天主が、彼女らのうちにいらっしゃる。自分にはそれがよく見える。なるほど、天主のことを“良い天主さま”といっているが、よくいったものだ。わたしにはそれがよくわかる!」

 ただ、天主と交わっているだけで、つまらぬ人間どもが、こんなにまで親切になる。自愛心は、全く根絶されている。無理もない自然のいや気までも、これをかみころして口にも顔にも出さぬ。――人間が、こうまでりっぱになるためには、天主はどれほど良いおかたでいらっしゃらねばならないことだろう!
 黒衣の婦人――だが、彼女らは、地上の天使である。

 彼女たちこそは、フェーバー神父の次の言葉を、おのが身に、みごと実現している、といえよう。
 「親切とは、おのれ自身のあふれを、他人にそそぎ入れることである。
 親切であるとは、他人の身になって考えることである。
 親切な心は、奮発にもまして、雄弁や教育にもまして、多くの罪人を回心させてきた。
 奮発も雄弁も教育も、親切心がなければ、タッタ一人の罪びとも、回心させることができない。
 一言でいえば、親切心は、われわれを“天主”にする。
 使徒職にたずさわっている人びとの心に、この親切心が波うっているなら、それが自然と外部にも流露しているなら、罪びとはかれらのもとに、ひきよせられてくる。そして、回心にまでみちびかれるのだ」
La bonté, c'est le débordement de soi-même dans les autres. Etre bon, c'est mettre les autres à la place de soi. La bonté a converti plus de pécheurs que le zèle, l'éloquence ou l'instruction, et ces trois choses n'ont jamais converti personne sans que la bonté y ait été pour quelque chose. En un mot, la bonté nous rend comme des dieux les uns pour les autres. C'est la manifestation de ce sentiment dans les hommes apostoliques qui attire les pécheurs vers eux et qui les conduit ainsi à leur conversion.

 フェーバー神父は、さらに続けていう。
 「親切心は、いつでも、どこでも、キリストの御血の功徳である、救世事業の開拓者としてとおっている。……なるほど、天主のおどかしは、しばしば“回心”と呼ばれる知恵のはじめだが、とりわけ愛をもって、人をおどかすことを忘れてはならない。さもなれば、恐怖はいたずらに、未信者をつくるだけである」Et il ajoute : Partout la bonté se montre le meilleur pionnier du Précieux Sang... Sans doute les terreurs du Seigneur sont fréquemment le principe de cette sagesse que l'on nomme conversion; mais il faut effrayer les hommes avec bonté; car autrement la crainte ne fera que des infidèles..?(『霊的講話』)

 これに呼応して、聖ビンセンシオ・フェリエもいっている。
 「母親の心を、お持ちなさい。人をはげますときにも、おどかすときにも、すべての人にたいして、やさしい愛を、慈悲のはらわたを、お示しなさい。愛に霊感された言葉だけが、罪びとの耳にこころよく、またかれらの心の琴線に触れるのです。霊魂たちに、なにか役に立つことをしてやりたい、とお思いでしたら、まず心のそこから、天主さまのみもとに馳せていって、そしてお願いしなさい。――天主さまが、諸徳の女王なるこの愛、諸徳がその中にみんな含まれているこの愛を、あなたの心にそそぎ入れてくださいますように。そしてこの愛によって、あなたがもくろんでいらっしゃる理想を、めでたく達成することができますように……」Ayez le coeur d'une mère, dit saint Vincent Ferrier. Que vous deviez encourager ou épouvanter, montrez à tous les entrailles d'une tendre charité, et que le pécheur sente quelle inspire votre langage. Si vous voulez être utile aux âmes, commencez par recourir à Dieu de tout votre coeur pour qu'il répande en vous cette charité en laquelle est l'abrégé de toutes les vertus, afin que, par elle, vous atteigniez efficacement le but que vous vous proposez.
(『霊生要理』第二部十章)

 人間の愛と天主の愛とのあいだ、自然の親切と超自然の親切とのあいだには、無限の距離がある。自然の親切は、単にその時どきの気分の良さ、いわゆる上機嫌から生まれるのであるが、超自然の親切は、使徒的魂からでなければ出てこない。
 自然の親切があれば、福音の働き手は、人に尊敬はされよう。
 人びとの同情をひき、好感をよせてもらうことはできよう。
 だが、よく注意しないと、自然の親切は、使徒を脱線させることがある。――というのは、自然の親切は、まちがった愛情を、被造物のうえにそそがせる。そしてこの愛情は、天主のみもとまで昇っていけないからである。
 被造物は、造物主のみもとに帰っていくためには、どうしても苦しいぎせいを、しかも天主のために払わねばならぬのだが、自然の親切だけでは、霊魂をここまでみちびていくことは、絶対にできない。イエズスとの親しい一致だけが、この美しい成果を期待し、実現することができるのだ。
 イエズスにたいする熱烈な愛があれば、また、霊魂をほんとうによく指導したいとの熱意があれば、そのとき使徒は勇敢になる。勇敢になったからとて、機知に富まなくてもいい、慎重を欠いでもいい、というのではない。この二つの徳は、いつも並行して進んでいかなければならぬ“生活の知恵”なのである。

 ある著名な信者が、直接筆者にしてくれた話に、こんなのがある。
 かれが聖ピオ十世教皇に、謁見を賜わったある日、いろんな話をしているあいだに、たまたま教会の敵なる一人物を、口をきわめて非難し、おだやかでない言葉が、しばしばかれの舌端にのぼるのである。聖なる教皇は、これをおききとがめになって、こう仰せられるのであった。

 「わが子よ、あなたのお言葉には、私はどうも賛成しかねます。こんなお話がありますから、罰とおもって、おききなさい。
 わたしが、たいそうよく知っている一人の神父が、その最初の任地の小教区にやってまいりました。新らしい主任神父は、小教区の各家庭を、戸別訪問することが、自分の尊い義務である、と思ったのです。ユダヤ教徒も、新教徒も、秘密結社員も、だれ一人としてこの訪問から除外されませんでした。自分は毎年、この訪問をくり返すつもりである、と神父は公けに、説教壇から、みんなに宣言しました。
 ところが、それは同僚の神父たちのあいだに、大きなセンセーションをひきおこしたのです。
 早速、司教さまに訴えられました。
 司教は、すぐに被告をよんで、きつく譴責(けんせき)したのです。


« Mon Fils, je n'approuve pas votre langage. En punition, écoutez cette histoire. Un prêtre que j'ai beaucoup connu arrivait dans sa première paroisse. Il crut de son devoir de visiter chaque famille. Juifs, protestants, francs-maçons même ne furent pas exclus, et il annonça en chaire que chaque année il renouvellerait sa visite. Grand émoi chez ses confrères qui se plaignent à l'évêque. Celui-ci mande aussitôt l'accusé et lui adresse une verte semonce.

 主任神父は、おそれかしこまって、司教に申し上げるのでした。
『司教さま、福音書のなかで、イエズスさまは牧者たちに、ご自分の羊の群れをみな、オリにつれてくるように、とお命じになっておられます。Oportet illas adducer.
羊の群れを、オリにつれてくるためには、まずこちらから出かけて行って探さなければ、どうしてそれができるのでございましょうか。わたしはこの主義を、絶対にまげることはできないのでございます。ちょっとでも譲歩することはできないのでございます。
 しかし、せっかくのご命令でございますから、わたしは天主さまから委託されましたすべての霊魂たちに、迷っている霊魂たちにさえ、ただ牧者としての好意と愛情を示すだけに、とどめることに致しましょう。
 わたしはすでに、この訪問のことを、説教壇から、公けに宣言いたしました。わたしにこの訪問をやめさせることが、司教さまのご本心からのお望みでございましたら、どうぞそれを文書にして、わたしに禁じてくださいますよう、おねがい致します。そういたしましたら、小教区の人びとはみな、わたしが司教さまのご命令に従いたいばかりに、すでに予告した訪問を取りやめにしたことをしたことを、さとることができるでございましょう』
« Monseigneur, lui répond modestement le curé, Jésus, dans l'Evangile, ordonne au pasteur d'amener au bercail toutes ses brebis, oportet illas adducere. Comment y réussir sans aller à leur recherche? D'ailleurs je ne transige jamais sur les principes et me borne à témoigner mon intérêt et ma charité à toutes les âmes, même égarées, que Dieu m'a confiées. J'ai annoncé ces visites en chaire, si votre désir formel est que je m'en abstienne, daignez me donner cette défense par écrit, afin que l'on sache que je ne fais qu'obéir à vos ordres. »

 主任神父のいいぶんには、りっぱにすじがとおっておりますので、つい司教もそれに心を動かされ、もうこれ以上、ご自分の意見を主張されませんでした。
 主任神父の説が正しかったことは、“時”がみごとに証明してくれたのです。主任神父の大よろこびのうちに、迷っている羊の群れのいくらかは、もとのオリに帰ってまいりました。残りの羊たちは、もとのオリには帰らなくても、一人のこらず、聖なるカトリック教会にたいして、大きな尊敬と賛嘆のさけびを禁じえなかったのです。
 貧しい主任神父は、その後、天主さまのおぼし召しによって、教皇になりました。わが子よ、あなたに兄弟愛の教訓をたれているこのわたしです。ですから原理についてはあくまでも堅持し、これを固守しなさい。しかし、あなたの愛徳は、すべての人に及ばなければなりません。教会のいちばん憎むべき敵どもにさえも……」
« Ebranlé par la justesse de ce langage l'évêque n'insista pas. L'avenir, du reste, donna raison à ce prêtre qui eut la joie de convertir quelques-uns de ces égarés et força tous les autres à un grand respect pour notre sainte Religion. L'humble curé est devenu par la volonté de Dieu, le Pape qui vous donne, mon fils, cette leçon de charité. Soyez donc inébranlable sur les principes, mais que votre charité s'étende à tous les hommes, fussent-ils les pires ennemis de l'Eglise.»

(続く)

2018年1月7日(主)  聖家族の祝日「公生活の前の30年間のご生涯を黙想して、願い求める3つのこと」

2018年03月15日 | お説教・霊的講話
2018年1月7日(主日)イエズス、マリア、ヨゼフ、聖家族の祝日のミサ 
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2018年1月7日、イエズス、マリア、ヨゼフ、聖家族の祝日を祝っています。今日は今年最初のミサで、皆さんに新年の祝福とお慶びを申し上げます。

今日はとても嬉しいニュースがあります。1つは、今日、聖家族の祝日に、幼児洗礼が2名あります。どうぞこの2人の、今日聖人となる赤ちゃんたちの為にお祈り下さい。ますます多くの子供たちに恵まれて、ますますここの教会で小さなお祈りの声が聞えますように願っています。

また今年は4月1日が復活祭です。聖ピオ十世会では、12年に1度の総会というのが今年開かれます。それは7月にあります。どうぞこの総会の為に、皆さんの特別の祈りをお願い致します。このミサはその総会の成功の為に捧げられております。1ヶ月に1度、司祭がこのミサを捧げて、皆さんにそのミサに与るようにと招くようにと、私たちの会の方針で招待されています。どうぞ特別にお祈り下さい。聖ピオ十世会がいつも守られて、マリア様とヨゼフ様に奉献されイエズス様の聖心に奉献されたこの会が、聖家族によって守られますようにお願いします。

今日のこの御ミサの後にはいつもの通り、ミサの後の祈りをしますけれども、そのミサの後の祈りの終わりには、イエズス様の接吻の式を、御公現節ですのでイエズス様に接吻式を行いたいと思います。ローマでは毎日のように、クリスマスから御公現節の時にはしているのを見ました。私たちもそれに倣おうと思っています。

今日は公教要理がクリスマス休暇でありません。そこで14時30分から晩課があります。その後で私はまた別の洗礼式の方へ参ります。


“Et erat subditus illis.”
「そしてイエズスは、彼らに服従された。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖家族の祝日で、福音ではイエズス様の私生活をまとめる、その本質をまとめる4つのラテン語の単語が出てきました。「イエズス様は、ヨゼフ様とマリア様に服従しておられた」という事です。そこで今日はぜひ皆さんに3つのポイントを黙想する事を提案します。

1つは、ではイエズス様の30年の私生活の内において一体どんな事があったのか?そのどんな出来事があったのか?という事を少し垣間見る事に致しましょう。たとえばエジプトに避難した、あるいはナザレトに戻ってナザレトで生活しておられた。

イエズス様はでは、一体どのように服従しておられたのか?どのような生活をされているのか?

最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

昨日は公教会では御公現の大祝日でした。聖ヨゼフ様はおそらく、救い主に関する預言を知っていたので「救い主はダヴィドの町から来なければならない」という事で、もしかしたらベトレヘムに居を構えるという事を計画していたのかもしれません。イエズス様がお生まれになった時には、マリア様もヨゼフ様も、誰も受け入れる人がいなく、寒い道端で、あてどもなく、マリア様がイエズス様をお生みになったのは馬小屋でした。暖房もなく、あったのは馬の息だけでした、牛の息だけでした。

イエズス様は本当ならば、天の王、全ての全宇宙の所有者ですから支配者ですから、誰よりも大きな、最も豪華な絢爛キラキラの黄金の御殿の温かいお部屋に、柔らかいベッドに、多くの召し使いたちを引き入れて、きれいな所にお生まれになっても、それでも足りない、不足しているはずだったのですけれども、お生まれになったのは馬小屋でした。

しかし3人の博士が来た時には、「彼らは家に入った」とありますので、もしかしたらヨゼフ様は何らかの所に住む事ができたのかもしれません。あるいは羊飼いたちが、「どうぞヨゼフ様、使って下さい」と提供したのかもしれません。

私たちも聖家族に私たちの心を提供する事ができたら、聖家族に来て下さる事ができたら、どれほど嬉しい事でしょうか。

3人の博士が帰って行くと、おそらく「また来ます」と言って帰ったのかもしれません。ところが、おそらく詳しい事情は分かりませんけれども、召し使いか何かが遣わされて、「夢で、ヘロデの元には戻るなと言われたので、もう会う事ができない」と伝えたのかもしれません。とにかくその聖家族は、この3人の王様たちが博士たちがやって来て、子供を見るなり礼拝して、贈り物を捧げたのを驚いて見ました。

きっと3人の博士たちは、マリア様に出来事を話されたに違いありません、「私どもは東の国の博士でございます。星を見て参りました。私どもの言い伝えによるとこの星は、『ユダヤで偉大なる王、世界を支配する王がお生まれになる時に特別の星が現れる』という言い伝えがございます。その星に導かれて参りました。ところが首都を目指して参りますと、星が消えてしまったので、王様の生まれた所を探して、ヘロデ王様をお尋ねしました。すると驚いた様子で、何も知っておられないようでしたが、律法学士たちに聞くと、『ベトレヘムで生まれる』との事だったのです。そこでその事を聞いてベトレヘムまでやって来ようと思いました。ヘロデ王様も、『ぜひ私も行って拝みたいから、詳しく星が出た時の時間や場所や、その他詳しい情報を教えてくれ』と頼まれました。また『会ったら、子供を見つけたらぜひ報告しなさい』と言ったので、これから報告しようと思っています。でもまた戻ってきます」などとマリア様にお知らせしたに違いありません。なぜかというと聖ルカは、おそらくマリア様から聞いたと思われる聖ルカの福音には、その事が詳しく書かれているからです。

しかし、「へえ〜。」マリア様は「あぁ、」非常に単純で素直な方で優しいお方だったので、「あぁ、ヘロデは自分の妻も、自分の義理のお父さんも、自分の義理のお母さんも、義理の兄弟も、自分の王の座を狙っていると思ったら虐殺したし、自分の子供たちさえも殺しているし、最も忠実な部下や友達も殺したし、多くの家来たちも殺している。へえ〜、このようなヘロデ王がこの幼子を礼拝に来るなんて、回心でもしたのかしら」等と思われたのかもしれません。

しかし博士たちが帰って夜中に、ヨゼフ様は夢を見ます、「ヨゼフ、起きよ。幼子と母を連れてエジプトへ逃げよ。ヘロデは幼子の命を狙っている。さぁ。」もちろんエジプトまでには10日の道のりがかかります。食べ物も必要です。冬は寒いし、12月の冬は寒いし、しかし砂漠ですから日中はものすごく暑いし、食べ物も飲み物も、地図も必要です。どうやって行ったらよいだろうか、聞かなければなりません。準備は一体、ありません。しかし聖ヨゼフはすぐにマリア様を起こします、「マリア、さぁ起きなさい。エジプトに逃げよう。ヘロデが幼子の命を狙っている。」2人は夜中に、その時にその瞬間に出て行きました。何という御摂理に対する信頼と従順でしょうか。

ヨゼフ様はどれほど御心痛を受けた事でしょうか、「一体将来どうなるだろうか?一体どうやって食べていったら良いのだろうか?一体言葉は通じるのだろうか?一体どんな仕事をしたら良いだろうか?一体どこに住めば良いんだろうか?」「御摂理のままに」でした。10日間どこに宿をとられて、どのように身を守ったのか、私たちは想像するしかありません。

マリア様がヨゼフ様と一緒に逃げておられる間、ベトレヘムでは赤ちゃんたちがヘロデの手によって虐殺されていきました。2歳以下の子供たちは母親から握り取られて殺害されました。

ヨゼフ様と聖家族はエジプトで何年か過ごされたはずですけれども、イエズス様が12歳になる前までには、エジプトを去ったはずです。エジプトでの生活はどれほど大変だった事でしょうか。博士から貰った贈り物も全て使い果たしてしまったのかもしれません。

第2の点は、聖ヨゼフはそれでもベトレヘムに戻ろうと思いました。なぜかというと預言によれば、「ベトレヘムは小さな町ではない。なぜならそこからイスラエルを導く者が生まれるからだ。」そこで、「きっとベトレヘムでこそ、救い主は生活するべきではないだろうか」とヨゼフ様は思ったに違いありません。しかし夢で、「ベトレヘムには帰っては行けない。ナザレトに行くように。」それに従って、ナザレトで生活します。ナザレトではもう何年も経った後で、マリア様の家もボロボロだったに違いありません。もしかしたら他の人が使っていたかもしません。当時、誰も使っていなかった家は何年も経つと他の人のものになってしまいます、放棄されたと思われるからです。

聖ヨゼフはまたゼロから始めなければならなかったに違いありません。どれほど大変だった事でしょうか。中には、ヨゼフ様は貧しかったのでちゃんとした賃金を払われなかったかもしれません。あるいはとても優しかったので、多くの貧しい人を助ける為に働いたかもしれません。

マリア様も同様です。マリア様はおそらくイエズス様にいろはにほへとを教えて、お祈りの仕方を教えたり、聖書の話をしたり、モーゼの話をしたりされたかもしれません。もちろんイエズス様は真の天主ですから、天主としては永遠の知識を持って、人間としてでも、特別の注入された知識を持っていました。しかしそれと同時に、人間の子供が普通に生活するように、体験上の知識も持っていました。マリア様から教えられた通りに、すくすくと体もますます大きくなって育っていきました。「人と天主の前に、聖寵も背丈もいや増していた」と書かれています。

イエズス様の顔はマリア様とそっくりだったに違いありません。「あぁ、この子はあなたそっくりね」とマリア様は言われたかもしれません。でも本当は、マリア様の方がイエズス様にそっくりだったに違いありません。イエズス様はマリア様のやる事を真似されたに違いありません。マリア様の仰る通りの言い方を、マリア様の感じるような事を、マリア様がなさるような事を、イエズス様もなさったに違いありません。

大きくなってイエズス様が貧しい人を見るとすぐに、「かわいそうだ。助けたい」と思ったり、あるいはエルサレムについて涙を流したり、ラザロについて涙を流したり、とても憐れみの深い優しい青年として育っていきました。またマリア様もヨゼフ様もダヴィドの王家の出身ですから、王としてきっと身長も高く、聖骸布でも見た通り分かりますが、身長も高く、体もがっちりしていて、とても威圧感のある権威をお持ちの王位にふさわしい方だったに違いがありません。イエズス様が太い声でお話する時に、皆が「あぁ、その通りだ」と納得するような、そんな話し方をしたに違いありません。

そのイエズス様は33年間、この地上で生活します。天主の御子、人となった天主、33年間のうち30年間、人生の90パーセントを、ほぼマリア様の元で、ヨゼフ様の元で、家庭の生活を送られました。

イエズス様は御死去の前に、洗足式の時に弟子たちに言います、「私はお前たちに模範を示した。」足を洗っただけの模範ではありません。イエズス様の全生涯が私たちの模範でした。その模範によると、イエズス様は全くマリア様に瓜二つで、マリア様に全て従順で、良き息子としておられた、という模範を示しています。

天主が人となったのみならず、貧しく幼子として馬小屋で生まれたのみならず、永遠の知恵、全能の天主、終わりもなく始めもない、永遠の御言葉、天主の聖父の輝きであるイエズス・キリストは30年間、この地上での生活のほとんどを、マリア様の元で、マリア様に服従して生活された、という事を教えています。何という御謙遜でしょうか。何という事でしょうか。

ある日、ナイムという所で未亡人のお母さんが一人息子を亡くして、その葬式の行列を見ました。するとイエズス様はとても感動して、その姿にもうあたかもどうする事もできないかのように、その母親の元に行って、「泣くではない」と言います。この母親を慰めようとします。青年に向かって、「起きよ」と言います。この子供を一人息子を復活させて、母親に返します。イエズス様は大体奇跡を起こす時には、「あなたは信じるか」信仰を求めますが、この寡婦の場合には何も求めませんでした。おそらくマリア様の事を思い出していたに違いありません、考えていたに違いありません。ナザレトに置いてきたマリア様、その30年間の生活をしたけれども、それを置いてきたマリア様、将来自分が死ぬのをご覧になるマリア様の事と、姿が一致されたに違いありません。

では今日私たちはこの聖家族の祝日に、どんな遷善の決心を取ったら良いでしょうか?もしよろしければ3つ提案するのを許して下さい。

1つは、イエズス様に倣って、天主がもしも被造物であるヨゼフ様やマリア様に従ったのであれば、私たちは更に従わなければならない、私たちにその置かれた権威に従わなければならない、その謙遜の徳を乞い願いましょう。この1年を2018年を、私たちの家族、私たち自身全て、イエズス様とマリア様とヨゼフ様、聖家族に奉献致しましょう。私たちがこの聖家族を真似る事ができますように。

第2には、イエズス様に更に真似る為に、私たちもますますマリア様に瓜二つとなる事ができますように、マリア様のお望みの通りに生活する事ができますように、その徳をこの今年1年乞い求めましょう。マリア様がお望みになる事は、イエズス様がお望みになる事です。イエズス様がお望みなる事は、マリア様がお望みになる事だからです。

最後には、この聖家族の中心は、イエズス・キリストでした。祈りと犠牲の生活でした。この地上での生活は非常に苦しいものでした。しかしこの聖家族は天主の御旨を果たす為に、祈りと犠牲の生活を送っておられました。願わくは、私たちもこのこれに倣う事ができますように、従順と、マリア様に倣う事と、祈りと犠牲の生活を送る事ができる徳を乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年1月6日(初土) 主の御公現 「マリア様の汚れなき御心をもって、御公現の神秘を黙想する」

2018年03月14日 | お説教・霊的講話
2018年1月6日(初土)主の御公現のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年1月6日、主の御公現の大祝日です。今日の御ミサの後にいつものように、御聖体拝領の感謝の祈りとミサの後の祈りをします。

その後に3人の博士に倣って、イエズス様の礼拝式をしたいと思います。ローマではクリスマスの時にはいつも、毎日のようにイエズス様の礼拝式がありますので、それに倣ってなさって下さい。1月の次のミサの時には、踏絵に対して犯された罪を償う為に償いの儀式を致しましょう。

このミサと儀式が終わりましたら、普通ならば公教要理がありますけれども、今回は特に、戦争の危険がある日本やこの周辺の為に、ぜひマリア様に平和を求める為に聖母行列をしたいと思います。ファチマのマリア様にぜひ御取り次ぎを求めたいと思います。

私たちの住んでいる町がいつも平和でありますように、交通機関がいつも安全に保たれますように、運航が、食べ物も石油も、必要なものが無事に運ばれますように、マリア様の特別の御憐れみと御取り次ぎを求めて、今年の初土において、マリア様の聖母行列を特別に行いたいと思います。どうぞ皆さんいらして下さい。聖母行列の間には、ロザリオとファチマの聖母マリア様の聖歌を交互に唱えて、そして目的地の公園ではマリア様に聖ピオ十世会を捧げる、特に日本の聖ピオ十世会を奉献する祈りを唱えたいと思います。初土にシュテーリン神父様がこれを唱えるようにと仰って下さった、それに従ってこれを唱えたいと思っています。従順には特別の御恵みがあるからです。

次のミサは、1月は残念ながら主日のミサがありませんが、次のミサは19日・20日、金・土とあります。2月は主日のミサが2回ここである予定です。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は初土曜日で、そして御公現の大祝日です。そこで今日はぜひ初土の15分の黙想に、イエズス様の御降誕の玄義を15分間黙想する事を提案します。どうぞ今日のこの御ミサを初土の信心の為にお捧げ下さい。そして御聖体拝領をマリア様の汚れなき御心に犯される罪を償う為にお捧げ下さい。そして皆さんの受けた告解もその為にお捧げ下さい。今日のマリア様の聖母行列もその為に、マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為にお捧げ下さい。

15分の黙想には御降誕の神秘を、まだ御降誕祭の余韻が残るこの神秘を黙想する事を提案します。もしかしたらお生まれになったばかりのイエズス様をマリア様にお願いして、「私たちにも抱かせて下さい」とお願いして、マリア様のようにイエズス様を私たちの体内に抱いて、そしてイエズス様をただ愛と、礼拝と、感謝をもって見つめて、心からの礼拝を、そして私たちの全てとこの1年の奉献をお捧げ致しましょう。

もしかしたら今日は御公現なので、皆さんはこの15分間御公現の神秘をも黙想する事もお望みかもしれません。そこでもしもその助けに、黙想の助けになればと思って、御公現のポイントを2つ提案します。そしてどうぞ最後に遷善の決心を立てて、この黙想を終えて下さい。

最初の点は、レネー神父様のご指導に従って、マリア様の汚れなき御心をもって、御公現の神秘を黙想するという事です。

聖家族はそのまま馬小屋に留まったのでしょうか?留まっていたのかもしれません。ところが聖マテオの福音によると、3人の博士は「家」に入って来た、とあります。聖書の専門家によると、「家というのは、どのようなものでも家と呼んだ。ヘブライ語では、どのようなものでも家と呼んだ」と言うので、もしかしたら馬小屋でも「家」と言われたのかもしれません。しかしもしかしたらマリア様もヨゼフ様も旧約の預言をよく知っていたので、「ダヴィドの町ベトレヘムは小さなものでは決してない。なぜかというと、その指導者がここから出てくるからだ」という預言を知っておられたので、もしかしたらそこに居を構えようというお考えをお持ちだったのかもしれません。あるいはベトレヘムの羊飼いたちが、そのマリア様とイエズス様のあまりも、その姿を見てあまりにも同情の念に打たれて、小さな家を提供したのかもしれません。

私たちもできれば、聖家族に私たちの小さな貧しい胸を提供したいと思います、「どうぞマリア様、ヨゼフ様、私の胸に来て下さい。イエズス様と一緒に来て下さい。」

聖家族はそこで、イエズス様がお生まれになってから何日経っていたのだろうか?御潔めの式が終わったおそらく後だっただろうと思われます。平和なひっそりとして隠れた、そして祈りと、感謝と、讃美に満ちた生活を送っていました。これからの事をもしかしたら考えておられたのかもしれません。家の中にいて、イエズス様とマリア様と聖ヨゼフ様は一緒にお祈りをしていたかもしれません。くつろいでおられたかもしれません。あるいは聖ヨゼフ様はもしかしたらマリア様とイエズス様の為に何か働いておられたかもしれません。

そうすると、家の外では何かざわめきと、人々の声が聞こえるではないでしょうか。普通ではない事で、もしかしたら聖ヨゼフは「一体何の事だろう?」と思って、家の外に見に行ったのかもしれません。すると見かけない、豪華な服を着た、あるいは外国の、あたかも外国のように思われる肌の色も違うような、普通では見かけないような大きなキャラバンが、大きな団体が人々がやって来るではないでしょうか。そしてその人々はヨゼフ様の方に近寄って、そしてこの家の中に入って来たようです。

「その時に、マリア様と共におられる幼子を見た。」そしてそれを見ると、この外国人のような高貴な人々は額突いて、跪いて礼拝して、そしてユダヤの王であるこの子供に、特別の敬意を払いました。そしてこの東の国の習慣に従って、王に会う時には、そして特に高貴な王に会う時には為すべき贈り物を捧げました。金と香と没薬でした。

その子供を見つけたこの外国の方々が顔に現わした表情は、何と喜びと幸せに満ちていた事でしょうか。マリア様はその顔の輝きを見ていました。するとこの人たちは幼子と共にいた母であるマリア様に、きっと自己紹介したかもしれません。「はじめまして。私どもはこのユダヤから遠く離れた、東の方に何百キロと離れた所から何日間も歩いて、何日間旅をしてきた者でございます。私どもはマグスと言いまして、博士であり、司祭であり、そしてその東の国でとても重要な仕事をしている者たちでございます。王でございます。」「そして私たちはユダヤの、おそらくユダヤの方から伝えられた言い伝えによると、『ユダヤでは世界を統治する王が生まれる。その王が生まれる時には、特別なすばらしい星が現れる。そしてその星が辺りを照らし出す』と言われております。そしてその星を私たちは見ました。そしてその星の導きに従って旅をして参りました。」詳しい話をした事でしょう。マリア様はその話を、感嘆しながら聞いていました。

「ユダヤで生まれるべき王を、では私たちは礼拝しに行こう、その朝貢に行こう、贈り物を捧げようと思いました。ぜひそのような救い主にお目にかかりたいと思いました。それでその偉大な王を探して来て、ユダヤの首都であるエルサレムに到着しましたが、驚いた事には今まで私どもを導いてくれた星が見えなくなりました。あぁ、きっとここなんだろうと思って首都に入るのですけれども、そしてしもべたちを使ってユダヤの、生まれたばかりのユダヤの王を礼拝したいのだけれども、どこにいらっしゃるのかという事を伺わせたのですけれども、驚いた事には、そこの人々は何もその事を知らないようです。人が、この都が、街中でこの生まれた王の事を祝っているかと思ったら、そうではないようです。少しびっくりしました。」「そこで直接に王様、ユダヤの今の王様にお会いして、その話を聞きたいと思って直接お会いしました。すると王様もびっくりしたようで、何もご存知ないようでした。すると王様は、ヘロデという王様は、司祭長や律法学士たちや詳しい人、預言に詳しい人たちを聖書学者たちを呼んで、何か相談して聞いていました。すると口を揃えて、『それはユダヤのベトレヘムだ。なぜならばそのような預言がある』という答えを王は得た、と言っています。そこでヘロデ王様が私どもに、『では行きなさい。ベトレヘムに行きなさい。』そして詳しく星が出た時について、一体どんな星だったのか、いつ出たのか、どこからどうやって出たのか、詳しい事を根掘り葉掘り聞いて、そして『この子供を見つけたら、ぜひ私に知らせてほしい。私も礼拝に行く』と言っていたのです。」「そして首都を出ると星がまた現われました。星が出たのでとても喜びました。そしてこの星は何と私たちの道を導いてくれて、この家の所まで、この赤ちゃんがいらっしゃるこの所を指し示してくれたのです。何という事でしょうか。そして家に入ってみると、この赤ちゃんを見つけたのです。」

マリア様はそのような博士たちの、東の王の3人の博士たちの声を言葉を聞いて、「何と素晴らしい事だろうか」と感嘆して、その事を記憶に深く留めていたに違いありません。何という慰めでしょうか。ベトレヘムの人々は少数の人々を除けばほとんど知られていない、この救い主が生まれた誕生について、天主様は星を使って多くの、遠くの所から博士たちを、こんなに高貴な人たちを呼び寄せたという事です。

教会博士によると、「ユダヤ人はすでに啓示を受けていたので、啓示に従って理性を使っていたので、言葉を話す天使の言葉をもって牧童たちを幼子まで導いたけれども、しかし異邦人にとっては啓示を受けていない人々にとっては、あたかも理性を使う事ができない人々であるかのように、天体とこの物質のしるしを使って導いた」と言います。
博士たちがその自分の土地で一番高価で貴重な宝物を、この子供に捧げました。「黄金」と「香」と「没薬」でした。マリア様はそこの中に特別のしるしを読み取ったに違いありません。

王の王を示す黄金。旧約の預言によれば、「この子供こそ、ダヴィドの玉座に座るべき、ヤコブの家を永遠に支配すべき、全世界を統治すべき王。」

また香。「この子供こそ、永遠の御言葉が人となられた、天主なる救い主。」

そして没薬。大天使ガブリエルもザカリアも言わなかったけれども、しかしシメオンによって言われたように、「この子供こそ、逆らいのしるしとなって、多くの人の滅びと復活の元となるもの。苦しみを通して救いをもたらす救世主。死すべき、恐るべき死すべき死を耐え忍ばなければならない」という事を、マリア様はそれを読み取ったに違いありません。

マリア様はおそらくこの幼子イエズスに代わって、3人の博士たちにこの子供についてお話したかもしれません。「遠くからの旅路を大変でしたね。お疲れだった事でしょう。」「その星を見てここまで来られたという事は、さぞかし多くの犠牲と困難を伴った事でしょう。もしかしたら他の人々から笑われたかもしれませんね。本当に立派な事です。」この若い母マリア様は、非常に威厳を持って、そしてとても高貴な言い方で、そして親切に優しく、そして単純に、この3人の博士の旅をその労苦をねぎらった事に違いありません。

あるいは博士たちは、「なぜ王様がこのような所に住んでおられるのですか?」とか、あるいは「一体この子供は大きくなったらどうなるのでしょうか?」とか何かもしかしたら尋ねたかもしれません。マリア様はご自分の知っている限りの事で、この王に説明をされた事でしょう。イエズス様の王国というのは一体どのようなものであるか、イエズス様が何の為にお生まれになったのか、罪の赦しの為にお生まれになった事、あるいはその御国が超自然の、地上の政治的な国ではないという事を、マリア様は知っている限り、預言者の言葉を使って説明された事でしょう。

3人の博士たちはそれによって、「そういう事だったのか」という事を知り、この子供を、この救い主の事を知りました。洗礼は受けなかったかもしれませんけれども、「この方こそ約束されたメシアであり、人類の救い主である」という事を信じました。その証拠に、この3人の博士たちは後で天使からの御告げを夢で見ます、「ヘロデの元に帰ってはならない」と。

マテオの福音には、聖ヨゼフの事については書かれてありません。これはおそらく聖マテオは、ヨゼフ様から伝えられた言い伝えをおそらく書き残した事でしょう。聖ヨゼフに起源を持つその伝えを書き残した事でしょう。聖ヨゼフは自分の事を話しませんでした。ただ母親と一緒にいる、マリア様と共にいる子供について語ります。そしてそうする事によってヨゼフ様はすでに、マリア様がイエズス様といつも共にいて、そしてマリア様がイエズス様の協力者であるという事、そしてイエズス様と人類の間に立つ仲介者であるという事を暗示しようとしていたのかもしれません。

「あぁ、」このマリア様とイエズス様を見つけた3人の博士は、どれほど喜びに満ちていた事でしょうか、互いに喜び合った事でしょうか。天主なる王についてマリア様からお話しを聞いて、どれほど慰めに満ちた事でしょうか。「長旅をした甲斐があった」と報われた事でしょう。マリア様から多くのメシアに関する話を聞いて、心はますます喜びに満ちていたはずです。

しかしもう日が暮れました。そろそろここを発たなければなりません。私たちは詳しくその状態について、何日間居たのか、とか詳しくは分かからないのですけれども、もしかしたら「明日また戻って来ます、明日もまたここに来るの許して下さい」と言ったかもしれません。もしかしたらそのまま帰って、あるいは何日かの後に、あるいはヘロデの元に行って報告してからまた来る、と言ったのかもしれません。とにかく私たちの知っている事は、おそらくこの3人の博士たちが幼子を見て、イエズス様を見て礼拝して、贈り物をした時に、その夜に夢を見て、「ヘロデの元に帰ってはいけない。別の道を通って帰れ」という何らかの天使のそういうメッセージを受けたという事をマリア様とヨゼフ様に伝えた、誰かに使者を送って伝えて、そしてもうこれから会える事ができない、という事を何らかの形で知らせたという事だけは分かります。なぜかというと、その事が福音書に書かれているからです。

第2の点はもう長くなったので詳しくは申し上げません。第2の点は、ベトレヘムとエルサレムはそんなに距離が離れていません。ですからその噂とか色々な話がヘロデに伝わったに違いありません。そして博士たちが来て報告するのを今か今かと待っていたヘロデは、何日経っても、5日経っても、1週間経っても来ない、「何をしてるのだ。裏をかかれたかもしれない。」そしてヘロデはこの幼子を殺す為に、「ベトレヘムにいる2歳以下の子供たちを全て皆殺しにするように」と兵士を送ります。

一方聖家族は、その博士たちの言葉を聞いて、「へえ~。あぁ、そうだったんですか、ヘロデ王と話を、お会いなさったんですか。」実はマリア様は知っていました、 「ヘロデ王は自分の地位を守る為に、自分の妻でさえも、自分の義理の父親であっても、義理の母親であっても、自分の義理の兄弟であっても、自分の息子であっても、自分の最も親しい友であっても、部下であっても、もしも自分の地位を危うくするとしたら皆殺しにした人だ。そのヘロデ王がその幼子に個人的に会いに来る、礼拝しに来る。不思議な話もあったものだ」とマリア様は思ったかもしれません、ヨゼフ様も思ったかもしれません。マリア様もヨゼフ様も、人を疑う事を知らない純粋な方だったに違いありません、「あぁ、ヘロデ王がこの幼子を礼拝するなんて、何と素晴らしい事でしょう」と単純にお思いになったかもしれません。

しかし博士たちが帰ると、その夜ヨゼフ様は夢を見ました、「ヘロデが幼子を狙っている。起きて、この幼子と母を連れてエジプトに逃げよ」と。「そして私が言うまでそこに留まっていよ。」ヨゼフ様はすぐに立ち上がって、マリア様を起こします。ヨゼフ様もマリア様も、「明日の朝にしよう」とか、「準備をしよう」とか、「ちょっと経ってから」等とは仰いませんでした。夜中の内に立ち上がって、夜中の内に必要だと思われるものを手に取って、そのままベトレヘムを後にしました。もしかしたらヨゼフ様には、ベトレヘムでこれから居を構えようという計画や、色々な考えがあったかもしれませんが、従順に従いました。

イエズス様の命を狙っている、人類の為に生まれた天主の命が狙われている、という事を聞いて、どれほどマリア様のご心痛は大きかった事でしょうか。

では今日この黙想をして、そして良い決心を立てる事に致しましょう。ぜひこの黙想を、御聖体拝領を、マリア様の汚れなき御心にお捧げ下さい。イエズス様の至聖なる聖心に、幼きイエズスの至聖なる聖心にお捧げ下さい。私たちのこの黙想が、愛と、礼拝と、罪の償いに満ちた贈り物となりますように、その贈り物が良くする事ができますように、聖ヨゼフ様にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ (続き4)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年03月13日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き4)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き4)


(c)内的生活は、使徒に、超自然的照射能力をあたえる。この超自然的照射能力はどれほど効果に富むか  (2/6)

  内的生活によって、使徒は“信仰”のかがやきを、周囲に照射する

 内的生活をいとなんでいる使徒が、なにか話をする。きく人は、すぐに、この使徒のうちに、天主が臨在しておいでになることを、直覚する。
 聖ベルナルドについて、誰かがこんなことをいっている。「かれは、心の孤独にとりかこまれていたので、どこにいても、ひとりぼっちだった」
 この聖人のように、まことの使徒は、他人から遠ざかる。孤独の境地に身をおく。
 だからこそ、内心の孤独境を、おのれのうちにつくりだすことができるのだ。
 しかし、見る人は、かれがけっして、ひとりぼっちだとは思わない。――かれの心の中には、誰やらひじょうにむつましい、ふしぎなお客さんがいるようだ。そのお客さんと、かれはしょっちゅう親しいお話をしている。お客さんのさしずがない限り、かれはだれともお話をしない。しても、それはお客さんの指導のもとにおかれている。内心のお客さんの意見や命令によらないでは、絶対に人に話しかけない……。
 事実、かれは、内心のお客さんに支えられ、手ずから指導されている。だから、かれの口からもれでる一語一語は、かれの心の中に現存しておいでになる天主の聖言の、忠実な反響でしかない。「語る者は、天主の聖言を語る者にふさわしく語る」(ペトロ前4・11)
 その話に、すじがとおっているとか、熱がこもっているとか、ということよりむしろ、かれの話には、内心にいます天主の聖言の気配が感じられる、被造物を通じてお語りになる“教える聖言”の呼吸がかよっている、という点が、特に歴然としている。「わたしが、あなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。御父が、わたしのうちにおられて、ご自分で、みわざをなさっていられるのである」(ヨハネ14・10)
 かれの話は、聴衆に、深い、いつまでたっても消えない、印象をあたえる。
 なるほど、内的精神をもたない人でも、その雄弁によって、その一時的の信心によって、聴衆から、ごくうわべだけの称賛はかちえよう。したがって、ある程度の深い印象を、あたえることもできよう。だが、こういう説教家の話をきいて、人びとはいうにきまっている。「なるほど、かれはうまいことをしゃべる。はなしぶりも、なかなか堂に入ったものだ!」と。
 しかし、それはあくまで、一時的の感激であって、ただそれだけでは、人びとを超自然の信仰にまでみちびくことは、絶対にできないのだ。まして、人びとをうながして、この信仰に生きるように仕向けることは、とうていできっこないのである。

 フランスのトラピスト修道院にガブリエル助修士(F. Gabriel, convers trappiste)という修道士がいた。かれの務めは、接客係の助手であった。多くの訪問客に、話をするのだが、きく人はみな、生き生きと信仰が呼びさまされる。その技能にかけては、学者の司祭でも、とうていかなわない。そして、かれの語る言葉は、あいての頭よりも、いっそう心に、反響を呼びおこすのである。ミリビエル将軍(Le général de Miribiel)は、この貧しい謙遜な助修士と話をするために、よく修道院にやってきたものだが、人をつかまえては、好んでこんなことをいったものである。「わたしは、信仰にひたるためくるのですよ」(Je viens me retremper dans la foi.)と。
 
 今日ほど、えらい説教のはんらんしている時代はあるまい。今日ほど、宗教について、むずかしい議論がたたかわされ、護教論のすばらしい書物が、続々刊行されている時代もあるまい。だが、同時に、少なくとも信徒大衆を例にとってみてもわかるとおり、おそらく今日ほど、信仰が活気を呈していない時代もなかろう。
 何が、その原因なのか。――信仰を教えみちびく使命をおびている人たちが、あまりにしばしば、信仰の行為のなかに、ただ理性の行為だけをみている、そのためではなかろうか。信仰の行為が、理性の行為とおなじように、理知からばかり出ると思って、意志からも出るものだということを忘れている、そのためではなかろうか。
 信ずるということは、超自然の行為であって、純然たる天主の賜ものである。
 このことを、忘却しているのだ。――これこれのことは、信じていもいいような気がする。そこには、ちゃんと確実な理由がある。自分はそれをハッキリさとることができる。……だが、いよいよ決定的に“信ずる”となると、前者(知性)の心がまえと、後者(信仰)の決意とのあいだには、人力のいかんともしがたい深淵がよこたわっている。この深淵を埋めることのできるものは、ただ天主のちからと教えられる人の善意との合成である。

さて、この深淵を埋めるのに、たいへん役に立つものがある。――教える人の聖徳によって、超自然の光明が、周囲に照射される。この天主的光明に照らしだされて、教えられる人は、深く自己を反省する。つまり、内的生活によって、使徒の信仰のかがやきが、人びとの霊魂に照射されるとき、それが天主と人のあいだによこたわる無限の淵を埋めてくれる、というのである。
 
 内的生活によって、使徒は“望徳”のかがやきを、周囲に照射する

どうして念禱の人が、望徳のかがやきを、周囲に照射しないだろうか。
 まことの幸福は、天主のうちにある、ただ天主のうちにだけある。――この信念が、信仰によって、かれの心に深く根ざしている。だからして、かれが天国について語るとき、その言葉には、どれほど強い説得力がこもっていることだろう。永遠の幸福を模索して、迷いなやむ人びとをなぐさめるために、かれはどれほど豊富な、幸福の資源を提示することだろう。自分のいうことを、他人にきいてもらえるために、最もすぐれた方法は、人間の宿命なる毎日の十字架を、どうすればよろこんでになっていけるか、その秘訣を授けてやることである。

 この秘訣は、天国の希望にある。同時に、聖体の秘跡にもある。
 聖パウロのように、「われわれの国籍は天にある」(フィリッピ3・20)と、真実にいい得る人が、なやめる人びとをなぐさめるとき、その語る言葉はどれほど、生き生きとしていることだろうか。どれほど希望に波うっていることだろうか。
 内的生活をもたない人でも、天国の幸福については語ることができよう。大げさに、美辞麗句をならべたてて!
 だが、その演説は、なんの実も結ばない。
 鳴る鐘、ひびくドラの音である。
 まことの使徒、内的生活に生かされている使徒の語る言葉は、そんなものではない。
 それは、迫力に富んだ言葉である。だれもが承服せざるをえない言葉である。
 語る人の霊魂の、天主の生命に躍動する姿を、明るみにだす言葉である。
 だから、かれの話をきけば、心のあらしは一瞬にして静まる。
 たましいのなやみは、立ちどころに消え去る。
 どんなはげしい苦しみでも、よろこんで耐えしのぶ。
 内的な人の身からは、生命の希望が、天主の霊能が、ながれでて、あいての霊魂に交流される。かくて、人の世の冷酷さに泣く人びとの心をあたためてくれる。また、それがなければ、絶望のふちに飛び込んだにちがいない霊魂を救ってくれるのである。

  内的生活によって、使徒は“愛徳”の炎を、周囲に照射する

 愛徳を修得し、これをいつまでも確保しておくこと――これこそは、おのれを聖化しようと望んでいる霊魂が、万事にこえてあこがれている、聖なる野心である。
 「あなたがたは、わたしにつながっていなさい。わたしもまた、あなたがたにつながっていよう」(ヨハネ15・4) イエズスは、霊魂を浸透し、霊魂もまたイエズスに浸透される――これこそはすべて、内的生活をいとなむ霊魂にとって、最終の目的であり、最高の境地なのだ。
 経験に富んだ説教家だったら、次の真理をよく知っていよう。すなわち、黙想会の説教のとき、初めにはきまって、死、審判、天国、地獄など、いわゆる四終について、話をせねばならぬ。それはどうしても、なくてはならぬものとして通ってきているのだが、しかしイエズス・キリストにたいする愛について、信者によく話してきかせると、前者にもましていっそう有益な、いっそう深い印象を彼らにあたえるのが通例である。ましてイエズス・キリストにたいする愛を説く者が、おのれもまた回心をした者であるとき、そのかたる一語一語によって、自分の心にもえさかっている愛熱の炎を、聴衆の心にもそそぎ入れることができるのだから、その話は必ず、成功を期待することができる。そして聴く人も、ほんとうに回心させることができるのである。
 霊魂を、罪悪の生活から、立ちかえらせたい。さらに、熱心な霊魂を、完徳の生活へみちびいてやりたい。――こんなとき、イエズス・キリストにたいする愛こそは、恩寵の奇跡をおこなう上において、最も有力な手段となる。
 罪悪のドロ沼に、身をもだえている、一人の信者がここにいる。イエズス・キリストの愛を説教できいた。ひどい罪をたくさんおかしてはいても、かれの心の中にはまだ、良心がかすかに余喘(よぜん)を保っている。――自分とおなじ人間であるこの説教師は、このように天主の愛にもえている。心も、顔も、天主の愛に光かがやいている。その愛の対象は、目にこそみえないが、しかし現実のものである。……こんなふうに、心の中で考える。
 他方において、この罪びとは、地上愛のはかなく、頼みがたいのを痛切に感じる。愛人に裏切られたことを思っては後悔する。あれやこれやを考えるにつけ。罪というものにたいして、憎悪を感じはじめる。天主について、いくらかさとり始めた。人びとにたいするイエズス・キリストの永遠の愛が、すこしわかり始めたのだ。心はいいようのない感傷にとざされて、おさなごのむかしにかえる。なつかしい洗礼の日を、たのしかった初聖体の日を思いだす。心の奥のどこかに潜んでいた恩寵が、急に躍動するのをおぼえる。
 そのとき、かれの心の目に、イエズスがそのお姿を、あざやかにお現わしになる。イエズスの聖心のやさしい愛の息吹が、説教師の容姿をとおして、その音声をとおして、生き生きと感受される。今まであざむかれどうしであった地上愛のほかに、いまひとつの愛が――けだかい、聖純な、熱烈な愛があるのだ。いっさいの被造物の愛に君臨する最高の愛が、天主の愛があるのだ。そして自分は、この世ながらに、この愛を愛することができるのだ。……心の中で、かれはこうつぶやく。
 このとき天主の愛が、このとき愛の天主が、その代理者なる説教師の話によって、いますこしいっそうあざやかに姿をあらわすなら、そのときこそ霊魂は、罪悪のドロ沼からぬけでるのだ。そして、これまでは何も知らなかった、天主愛の珠玉を手に入れるために、もし必要とあれば、どんなぎせいでも払おうと決心する。
 愛に感激した霊魂は、天主を愛し、また愛しつらぬくために、苦しみを恐れないようになる。罪びとにしてすでにこの通りなら、ましてすでに罪悪の生活からぬけでている霊魂、すでに熱心な霊魂に、イエズス・キリストの愛を説く真の牧者は、かれらをしてどれほど天主愛に、成長させることができるだろうか。どれほど善徳に、進歩させることができるだろうか。
 使徒的事業にたずさわっている人が、たとえ司祭の位階はもっていなくても、もしイエズスの聖心にたいして熱烈な愛をもっていさえしたら、この一事によって、かれらはこの同じ愛を、対神徳の中でいちばんすぐれたこの愛徳を、周囲の人びとの魂にも、そそぎ入れることができるのである。

(続く)

第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ (続き3)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年03月12日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き3)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ


(c)内的生活は、使徒に、超自然的照射能力(le rayonnement surnaturel)をあたえる。この超自然的照射能力はどれほど効果に富むか(1/6)

 霊魂の回心への障害となるものは、たくさんあろう。だが、その最もおおきな障害の一つは、天主が、「かくれた天主 Deus absconditus」(イザヤ45・15)であるということだ。しかし、天主は、善良そのものでいらっしゃるから、ご自分のかくれた本性を、その人目にかくれた完徳を、ある仕方で、おあらわしになる。
 このかくれた天主を、人目にあらわす者として登場するのが、聖人たちであり、熱心な霊魂たちである。このようにして、目にみえない超自然は、信者たちの眼前に、神秘の姿をあらわす。これによって信者たちは、天主の秘めたる本性、その完徳、その奥義にかんして、いくらかの理念をつかむことができる。

 それなら、超自然のこの顕示は、聖人たちの持っているどんなものによって、おこなわれるのであろうか。――かれらの聖徳のかがやきによってである。神学者たちが普通に、成聖の恩寵と呼んでいる、天主性の流露(l'influx divin)によってである。さらにもっと適切にいえば、かれらの霊魂の深奥に臨在して、かれらを聖化する。至聖なる三位一体の現存によって、その現存の霊妙な成果によってである。

 聖バジリオの説明も、これと全く同じ。かれはいっている。
 「聖霊が、その恩寵によって浄化した霊魂に、ご自分をあたえて、これと親密に一致するとき、その目的とするところは、この霊魂をますます純化し、ますます霊化するにある。太陽の光線が、水晶にふれてこれをつらぬくと、水晶はひとしお、かがやきを増す。これと同じように、霊魂の聖化をその主な使命としてもつ聖霊も、その内にお住まいになる霊魂を、ご自分の臨在をもって、ひとしお光輝あるものとなす。かくて、聖霊の臨在の結果、この霊魂はおのれの周囲に、恩寵と神愛のかがやきを照射するカマドのようなものとなる」(『聖霊論』9・23)
Lorsque l'Esprit-Saint s'unit aux âmes que sa grâce a purifiées, c'est pour les spiritualiser davantage. Pareil au soleil qui rend plus étincelant le cristal qu'il touche et pénètre de son rayon, l'Esprit sanctificateur rend plus lumineuses les âmes qu'il habite, et, par l'effet de sa présence, elles deviennent comme autant de foyers qui répandent autour d'elles la grâce et la charité.

 さて、この“天主性の流露”、この“天主的なるものの顕示”(Manifestation du Divin)は、天主の人イエズス・キリストのあらゆるお仕ぐさのなかに、はてはそのご睡眠のなかにさえも、ただよっていた。それはまた、深い内的生活をいとなんでいる霊魂たちにおいても、同様にみとめることができる。ある聖人たちは、その聖徳のほまれによって、おどろくべき回心をおこなった。完全な生活にあこがれる人びとは、群れをなして、かれらのあとにつき従いたいと乞いねがい、その周囲に馳せ集まった。これらの事実は、いったい、なにを物語るのか。――聖人たちは、無言のうちに、りっぱに使徒職を発揮している、ということだ。そしてその秘訣は、右にいった“天主性の流露”、“天主的なるものの顕示”にある、ということだ。

 そんなわけで、聖アントニオは、おのれのもとに群れつどう隠修士たちをもって、エジプトの砂漠をいっぱいにした。
 聖ベネディクトによって、聖なる修道者たちの大集団が編成され、ヨーロッパの未開の国々は開発され、文明化されていった。
 聖ベルナルドが、当時のカトリック教会内に投じた影響力は、たぐいないものだった。王侯らも、人民らも、みんなかれの恩沢に浴した。
 聖ビンセンシオ・フェリエは、その通過する道々で、無数の群衆を、熱烈な信仰に立ちかえらせ、かれらの回心を、決定的にするのだった。
 聖イグナチオのあとからは、教会の霊戦の第一線で働く精鋭部隊が、ひっきりなしについていく。いずれも一騎当千の勇士ぞろいで、その優秀さは、ただ一人の聖フランシスコ・ザベリオだけでも、ゆうに数百万の異教徒を回心させることができるほどである。
 天主の全能のかがやきは、よわい人間の聖徳を触媒として、人びとの霊魂に働きかけるのだ。
 この聖徳のかがやきだけが、右にいった霊界の奇跡を解明する、最終的カギなのである。
 
 たいせつな使徒的事業をいとなんでいる上長たちの中に、ほんとうに内的生活を全然持っていない者がたくさんいる。なんと大きな不幸だろう。そのために、超自然の太陽は、日蝕にあって光りを発しない。したがって、天主の全能は、あたかもしばられたようで、なんの働きもできない。なんの効果も発揮できない。こういう時にこそ、―― 聖人たちの教えの通り ――ある一つの国は精神的に堕落し、天主の摂理は悪人どもに思うぞんぶん暴威をふるうことをお許しになる。[こういう悪に直面しても、天主の全能は、教役者の不徳のために、なんの働きもできない。だから悪が、暴虐をほしいままにするのだ!]

 次の事実を忘れないでほしい。すなわち、民衆は、使徒の人物から発せられるこの“超自然の照射”を、ほとんど本能的に、実感するものだ。この実感の正体がどんなものだか、それについてハッキリした定義はくだせないが、とにかく聖なる使徒が発散する霊的磁気に、敏感だということは確実だ。

 早い話、ここに大きな罪人がいる。告解場にきた。聴罪師は、聖徳の人である。罪びとは、聴罪師のなかに、かれがその代理をつとめる天主ご自身をみとめる。そうなれば、もうしめたもの。罪びとは、一も二もなく、司祭の足もとにひれふして、罪を告白し、ゆるしを願う。これと正反対な、いま一つの事実がある。
 ある信者たちの組織する信心会が、ここにある。ところが、会の指導司祭が、おのれの教役を果たすために必要な理想としての、聖徳について、適確な考えをもちあわせていない。つまり聖徳に達したいとの理想を、もっていない。さて、指導司祭が、聖徳の理想達成を放棄したその日から、どんな変化が目にみえて、会のなかに起こるだろうか。――会員はみな嫌がって、告解をしないようになろう。

 「ヨハネは、なんの奇跡もおこなわなかった Joannes quidem signum fecit nullum」(ヨハネ10・41)。けれど、そのたぐいない聖徳のゆえに、無数の群衆を、おのれのもとにひきよせたのではなかったか。
 アルスの聖司祭ビアンネー神父の声は、あまりに低かったので、説教のとき、彼の周囲におしよせる群衆には、よくききとれなかった。しかし、人びとには、ビヤンネー神父のいうことは全然きこえなくても、かれの姿は見えた。天主の霊に乗りうつられたような、かれの姿はみえた。かれの姿をひと目みただけで、群衆はみな感動し、心服し、そして回心した。
 アルスの巡礼から帰ってきた一人の弁護士に、ある人が、
 「アルスでどんな印象を受けましたか」と、たずねてみた。
 「わたしは、人間のなかに“天主さま”をみましたよ!」« J'ai vu Dieu dans un homme. »
 これが弁護士の答えだった。

 前まで述べてきたことを、そのよりよき理解のため、一つの平凡な事例に集約することを、おゆるし願いたい。
 電気について、こんな実験がある。絶縁台の上に、一人乗せておく。かれに電気を通じる。電流の流れているかれの身体に、他の一人が触わる。火花がでる。触わった人のからだは、ピリピリッと電撃を感じる。
 内的生活をいとなんでいる人についても、おなじことがいえる。ひとたび、あらゆる被造物と絶縁すれば、直ちにかれとイエズスとのあいだに、たえまない生命の交流がおこなわれる。かくて、使徒は、超自然生命の蓄電池となる。かれの内部には、天主的生命の電流が蓄積されている。そしてそれは、その時どきの情勢により、また、かれが仕事をする場所のあらゆる事態に応じて、とりどりに強度を増減し、かつこれにピッタリ合うように調整される。

 地上遍歴ちゅうのイエズスにかんして、福音記者は、「ちからが、イエズスの身から出て、みんなの者を次々にいやしていた Virtus de illo exibat et sanabat omnes.」(ルカ6・19)と書きしるしているが、このことは、どの使徒にもあてはまろう。使徒にとって、言葉とか行いとかいうものはみな、内に蓄積されている超自然的電流の放電にほかならない。この電流は、人目にこそみえないが、きわめて強烈な力であって、霊生の途上によこたわる障害物を打破し、人びとを回心にみちびき、または人びとの熱心を助長してくれる。

 対神徳が、超自然的蓄電池なる使徒の心に、充満すればするほど、かれは霊的放電によって、他の人の心にも、同じ徳を増進させることができるのだ。

(続く)

2018年1月5日(初金)  「生まれたばかりの幼きイエズス様の体内に鼓動する、至聖なる聖心を黙想する」

2018年03月11日 | お説教・霊的講話
2018年1月5日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年1月5日、初金曜日のミサをしています。

今日のこのミサの後には、1年の最初の初金曜日の聖時間を行いたいと思います。世界中で、御聖体礼拝が行われるところではどこでも、平和と秩序が戻って来るという記事を読みました。私たちも是非この日本の国で、御聖体におけるイエズス様をますますお愛しして、礼拝したいと思います。そうすれば、イエズス様が愛されて崇められるところでは、礼拝されるところでは、ますますその国の人々も、その国も、ますます世界中から尊重されますし、ますますその国には平和が訪れるからです。

明日は初土曜で、御公現です。

教会には10の守るべき祝日があって、御公現もその1つになっています。日本ではそれが必ずしも守るべき祝日ではないのですけれども、是非できればミサに与って下さい。ミサの後に、イエズス様に接吻をする儀式を行いたいと思います。東の博士に倣って礼拝致しましょう。

その後に、いつものミサの後の感謝の祈りの後には、聖母行列が準備されています。是非いらして下さい。ファチマのマリア様に平和を求めて、聖母行列をお捧げしたいと思います。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、去年のクリスマスは何と私たちはお恵みに満ちていた事でしょうか。毎日のミサと、聖骸布、実物大の聖骸布が私たちの教会に飾られて、それを礼拝しつつ、聖なる時を過ごす事ができました。そのクリスマスの余韻がまだ私たちは終わっていません。そこで明日の初土曜の準備の為にも、15分の初土の信心の為にも、15分の黙想を良くする為にも、イエズス様の聖心を、特に生まれたばかりの幼きイエズス様の体内に鼓動するイエズス様の聖心を、一緒に黙想する事に致しましょう。

3点黙想のポイントを提案したいと思います。この黙想はぜひレネー神父様の仰る通りに、マリア様を通して、聖骸布をバックグラウンドに、イエズス様の御誕生を黙想なさって下さい、私もそうします。私たちはマリア様を通してのみ、イエズス様を受ける事ができるという事を黙想しました。明日もその事を黙想しましょう。マリア様の汚れなき御心を通して、私たちはイエズス様の聖心、幼きイエズス様の聖心を、聖骸布をバックグランドに黙想する事に致しましょう。ある方が、幼きイエズス様の御足に接吻する式をしながら、イエズス様の御受難の事を、そのイエズス様を抱えたマリア様の事を思い出しながら、イエズス様の事を接吻したと、ちらっと仰った方を聞きましたが、その精神で黙想致しましょう。3つの点を提案します。

1つは、マリア様がイエズス様をお生みになるその事です、その時の事です。

マリア様は預言者の元后でありましたし、幼い時から聖書に親しんでいました。神殿で多くの時間を奉仕に過ごし、聖書について、また聖書の預言について詳しい話を、その当時の司祭やあるいは律法学士たちから、色々な教えを学んだ事に違いありません。マリア様は特別の照らしによって、あるいは天主からの啓示によって、聖書の話を、あるいは預言について深く、誰よりも深い理解をしていたに違いありません。マリア様は、「救い主となる方がベトレヘムで生まれるべきである、ダヴィドの町で生まれるべきである」という事をよく知っていたに違いありません、それを知らないはずがありません。かといってマリア様は、だからと言って自分の考えに従って行動を起こすような方ではありませんでした。ヨゼフ様とて同じ事です。「一体どうやって救い主は、ダヴィドの町が出身地となるという事があるのだろうか?一体、天主様の御旨は一体何なのだろうか?」

マリア様には天使が送られて、あるいは聖ヨゼフには夢の中で、あるいは超自然な出来事で、マリア様もヨゼフ様もその為すべき行動について教えられてきたので、2人は天主の御摂理のままに、御摂理に従う事だけを望んでいました。天主が望むままに、望まれる時に、望まれるだけ、望まれるように行動するように、それだけを考えていました。

天主様は聖ヨゼフとマリア様に、今度は異教のローマ皇帝を使って、御自分の御旨を果たそうとされました。天主様はどのようなものでも、どのような自然の出来事でも、災害でも、天体でも、あるいは人間のどのような出来事でも、御自分の御旨を果たす為に使用する事ができます。人の野心であったとしても、誰かが自分の傲慢の為にこうしようと思った事であれ、それがたとえ悪意であったとしても、天主様はそれを使う事ができるという事です。その悪は望まないのですけれども、しかしそのような事さえも善を行う為に、より多い善を行う為に使う事ができるという事でした。

マリア様とヨゼフ様はある日、おそらくナザレトでローマの使いがラッパを鳴らしたり、あるいは知らせ、ローマ皇帝の知らせを告げる騒ぎをちらりと聞いたかもしれません、「ローマ皇帝は、私たちが皆自分の出身地に行って名前を登録する事を、人口調査の勅令が出た。」このこれに、マリア様もヨゼフ様も天主の御旨を見ました。マリア様もヨゼフ様も、特にマリア様にとって、身重であったので、ナザレトからベトレヘムまでは四日かかると言われています、専門家によると。その長い道のりを、冬に、真冬に、すぐにローマの勅令に従う事を望みました。それに従わない、あるいは生まれてからそこに登録する方法もあったかもしれません。しかしマリア様もヨゼフ様も、すぐに従順に従いました。

マリア様はあるいはヨゼフ様は、ナザレトを長く留守にするという事を思ったのでしょうか、あるいはそのような計画があったのでしょうか、そのような事を予感していたのでしょうか、私たちはあまりよく分かりません。しかしマリア様は、イエズス様が子供が救い主が生まれるというその準備の為に、イエズス様に着せるべき布や、その他の準備をしていたに違いありません。色々一生懸命な準備をしていたに違いありません。それをお持ちになって旅に出たに違いありません。

福音書には、「そこには旅館が満席だった。泊まる所がなかった」と書かれています。おそらく聖ヨゼフは、そのご両親は代々ベトレヘムに自分の先祖の家があったに違いありません。しかしもしかしたら、もはやそれは売られて、あるいはかなりの時からもうベトレヘムを離れなければならない境遇にあったのかもしれません。親戚たちの所にはどうも行く事ができなかったかのようです。もしかしたらマリア様もヨゼフ様も親戚の、まだ生きている親戚たちに非難めいた事は言わない為に、その事は福音史家には言わなかったのかもしれません。福音書によると、ただ「旅館には場所がなかった」とあります。

旅館はおそらくロバや、馬や、その他の動物や、あるいは人々でいっぱいだったに違いありません。騒がしかったに違いありません。旅館を経営している人たちは、たくさんのお客さんが来て繁盛していた事でしょう。その時に貧しいヨゼフ様や妻がやって来ても、あまり相手にされませんでした。少なくともこの身重の母親のマリア様の為に何か場所はないか、と一生懸命探したに違いありません。旅館でなくても何とか他の所を探したに違いありません。しかし聖家族を受け入れる家は1つもありませんでした。あったのは福音書によると、「馬小屋の馬草桶」だけでした。

ここでマリア様は、待ちに待った救世主、私たちの主イエズス・キリストを、この貧しい、動物のいる所で、寒い所で、真冬に、お生みになります。暖房もなければ、ベッドもなければ、ふさわしい所もない所に、待ちに待った、人類が待望していた約束の救世主を、私たちの為にお生みになります。

マリア様がお生みになった時には、痛みも苦しみも何もありませんでした。なぜならばエヴァは罪を犯して、「これからお前は子供を苦しみのうちに産む」という呪いを受けたのですけれども、しかしマリア様は原罪の汚れを持っていなかったからです。イエズス様はマリア様を1つも傷付けずに、復活の時に部屋に入って来たように、マリア様の胎内からするりと出てお生まれになったのでした。これはカトリックの信仰で、「マリア様は、イエズス様がお生まれになる前も、お生まれる時も、生まれた後も、終生童貞であった。傷の無い御方であった」と。私たちはそれを「終生童貞」という事を信じております。

「ダヴィドの王、ヤコブの家を永遠に支配する方だ。ダヴィドの王座に座る方である」と約束された、天主がそう言ったその救い主が、馬草桶で寝ておられる。マリア様がその生まれた赤子を布にくるんでおられる。何という事でしょうか。人類は本当ならば、両手を広げて受け入れなければならないのに、動物の所で、寒い冬に、捨てられたかのようにお生まれになりました。マリア様は御子が生まれた、救い主がお生まれになった、というその大きな喜びと同時に、どれほどの悲しみをも感じた事でしょうか。私たちに大きな喜びを与え、特別の救いをもたらす為に、私たちに赤子が生まれたにもかかわらず、人類はそれを受け入れようとしなかった。

マリア様をご覧下さい。どうぞマリア様の汚れなき御心の中に深く入って下さい。マリア様は、このイエズス様をお抱きになって、イエズス様の事をよく眺めてご覧になって、深い信仰と、礼拝と、希望と、愛を捧げておられます。イエズス様の聖心の鼓動をマリア様は手で感じて、そのイエズス様の聖心にもしかしたら接吻をされたかもしれません。その手に接吻をされたかもしれません。御足に接吻をされたかもしれません。イエズス様を愛を込めて抱きしめて、救い主、私たちの為に生まれて下さった天主を、感謝と愛で礼拝して、眺めて、それを見つめておられたに違いありません。沈黙の内に、深い愛の内に、礼拝しておられました。

天主の御言葉は一言もなく雄弁に、「天主が何であるか」という事を語っております、「天主は愛である」と。ここに聖パウロは何度も言います、「かつて天主は多くの預言者を送ったけれども、この世の終わりには御一人子を送った。御一人子が私たちに語った、天主は何であるか、『天主は愛である』と。『私たちをここまで愛している』と。」聖パウロはまた別のところで言います、「天主の恵みは私たちに現れた。天主のその慈愛と、優しさと、親切は、その良さは、私たちに現れた」と。「目に見えない天主の愛が、目に見えるようになった」と。イエズス様の聖心。これがイエズス様の聖心でなくて何でしょうか。

イエズス様がこれほど、目に見える幼子となった、目に見えるようになった天主の愛が拒絶されているのを見て、マリア様はどれほどご心痛を受けた事でしょうか、感じた事でしょうか。マリア様は、イエズス様を信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、愛さない人々の代わりに、深い礼拝を、償いを捧げていたに違いありません。私たちもマリア様に倣いましょう。

第2の点は、短く言います。それは羊飼いたちです。

夜中に、その地方で夜宿をしていた、羊の番をしていた羊飼いたちが、天使を見ます。天使が現れて、「全人類の為の万民の為の福音を、良い訪れを教える。今日お前たちの為に、ダヴィドの町で救い主が生まれた。イエズス・キリストである。布に包まれて、馬草桶に寝かされている、これがしるしである。行って礼拝せよ。」すると天の大群が空に現れて、ちょうどこの教会のステンドグラスのこのイルミネーションのもっともっとその何百倍ものきれいな光を開いて、天使の大群たちが大きな声で歌を歌いながら、「天のいと高き所には天主に栄光あれ!善意の人々には地には平和あれ!」

100年前には、聖ジャシンタ、聖フランシスコ、ルチアの3人に天使が現れて、とてもきれいな姿で、神々しく光り輝いて、3人に天主様の秘密を教えました。が、2000年前にはやはり牧童たちに、2000年前のルチアとフランシスコとジャシンタたちに現れて、「さぁ、行って救い主を探せ」と言いました。その時にこの牧童たちは何と驚いて、どれほど恐れた事でしょうか。どれほどその威光に圧倒された事でしょうか。

すぐに出かけます。もしかしたら救い主が生まれたと言うのですから、大きな旅館の、大きな馬とか置いてある、そういうお金持ちの人が行くような所に最初は探しに行ったかもしれません。しかしそういう所には、イエズス様は救い主はいらっしゃいませんでした。おそらくこの子供たちが何か泥棒なのか、あるいはいたずらをしに来たかと、「お前たちはどこかに行ってしまえ!」と追い出されたかもしれません。

色々おそらく探しあげた挙句、何か火が灯っているような、みすぼらしい、ベトレヘムの端にあるような、その貧しい所の人影を見て、「もしかしたら」牧童たちは羊飼いたちはそこに行って、「もしかしたらここかもしれない」と思って、「最後のチャンスだ」と思って探しに行ったのかもしれません。

マリア様はそのような貧しい子供たち、あるいは羊飼いたちが来た時に、一体どのような態度を取ったでしょうか?おそらくマリア様はニコリと微笑んで、さぁいらっしゃい、というような態度をされたと思います。するとマリア様の微笑みと、ヨゼフ様のニコリとした姿を見て、その牧童たちも、貧しい牧童たちも、恐る恐る行って見ると、「あぁ、天使が言った通りに、馬草桶に赤ちゃんが布で包まれている!」「あれ!?」と思ったに違いありません。それで「おい、言われた通りだ!」と、お互いにヒソヒソ言い合ったかもしれません。きっとキリシタン発見の時に、「サンタ・マリア様だ!」「サンタ・マリア様だ!」と言った隠れキリシタンたちの様かもしれません。

近付いて行くと、マリア様にもしかしたら尋ねたかもしれません、「何でここに赤ちゃんがいるんですか?」とか、あるいは「あなた様は一体どこからいらしたのですか?」ルチアのように聞いたかもしれません。「寒くないですか?」とか聞いたかもしれません。

するとマリア様はニコリと微笑んで、この牧童たちに優しく説明されたかもしれません、「あぁ、私たちは皇帝の勅令に従って、べトレヘムにやって来たのですよ」とか、あるいは「ナザレトから来たのですよ」とか仰ったかもしれません。「あぁ、この宿屋には場所が無かったからここにいるのですよ」と説明したかもしれません。

すると、「あぁ、そうですか。でもですね、不思議な事が起こったのです。お話してもいいですか?」「うん、何?」「あの、夜宿していたら、天使がやって来て、天使が『今日お前たちに、万民の為に良い知らせがある』と言ったんです。」「へえ〜。」「それでその天使が、『今日ダヴィドの家に救い主が生まれた』と。それで『その救い主のしるしは、馬草桶に寝ている、布で包まれた赤ちゃんだ。』それでずっとベトレヘムの中をずっと探したのです。色んな所を探したんですけれども、やっと見つけたのがここなのです。この赤ちゃんは救い主ですか?」マリア様はニコリと笑って、「そうよ」と仰ったかもしれません。「救い主ですよ。」「お名前は何ですか?」「まだ名前は正式には付いていないのですけれども、“イエズス”というのですよ」と仰ったかもしれません。

マリア様はそのような不思議な話を聞いて、「あぁ、天主様は天使を通してこうやって子供たちに教えたのだ」と思われたかもしれません。福音書には、「マリア様はそのような事を、全てご自分の御心に汚れなき御心に止めて、ずっと考えて黙想していた」とあります。私たちもそのマリア様の御心の中にあって、その羊飼いたちが訪問してきた、という話を一緒に黙想致しましょう。

もしかしたら羊飼いたちは、「この赤ちゃん抱いてもいいですか?」とか聞いたかもしれません。マリア様は「いいですよ」と仰って、私たちにこう羊飼いたちに抱かせて下さったかもしれません。「あぁ、救い主だ!イエズス様だ!」そのおそらくルチアやジャシンタがやったように、頭を付けてこう礼拝したかもしれません。あるいは接吻をしたかもしれません。愛を込めて赤ちゃん見つめたかもしれません、「あぁ、救い主だ!」

このようなそれが終わった後に、きっと羊飼いたちは誰にも秘密を隠しておく事ができずに、色んな人に言ったかもしれません、「あぁ、救い主を見たぞ!」「え!?」「あのね、馬子屋にいた!救い主を見た!」でもあまりにも子供、あるいは羊飼いたちは影響力がなかったし、あるいはビジネスで頭がいっぱいだった人がたくさんいたし、お客さんで忙しかったし、羊飼いの話はおそらくまじめに取ってもらえなかったかもしれません、「また下らない話しをしているよ。だいたい救い主が馬小屋で生まれるかい!」「天使を見るか!」などと言ったかもしれません。

でも中には、その羊飼いたちの話を聞いて、「へえ〜。じゃあ私も行ってみたいな」と言った人もいるかもしれません。それで羊飼いの仲間たちが行って、マリア様にお会いして、「あぁ、」イエズス様を礼拝した少数の人たちがいたに違いありません。私たちもその少数になりたいと思います。レネー神父様は私たちに、「ベトレヘムの旅館の人たちのようではなくて、イエズス様を私たちの心の中に受け入れよう」と提案して下さいました。私たちもぜひこの羊飼いたちの言葉を聞いて、私たちも行って、馬草桶に行ってイエズス様を礼拝致しましょう。御聖体の内に在す、御聖櫃の内に在すイエズス様を礼拝致しましょう。貧しいパンの内に在すイエズス様を礼拝致しましょう。

3人の博士たちが来た時には、福音書によると「家」が、「家の中に入った。家の中で子供をマリア様と共に見た」とあります。その時には「家」という言葉が出ているので、おそらく羊飼いの内の1人が、あるいは羊飼いから話を聞いた内の善意の1人が、「私の家を泊まりに使って下さい」と提供したのかもしれません。またヨゼフ様はエジプトから帰って来る時に、最初に「べトレヘムに戻ろう」と考えていたようです、天使から「べトレヘムに戻るな」という風に言われているので。ですからもしかしたらヨゼフ様は、その預言の事を考えて、「救い主の出身はベトレヘムだから、救い主はベトレヘムの人とならなければならない」という事を思っていたのかもしれません。ですからもしかしたらヨゼフ様がご自分で何か家とか、そういうこれから住まいを建てようと、あるいは何かここで居を構えようと計画をしていたのかもしれません。

しかし、これから居を構えようとしていた計画は、あっという間に崩れ去るのです。それが第3の点で、これはもう申しませんが、時間が来てしまいまして、それはヘロデが子供の命を狙っているので、ヨゼフ様は真夜中に夢を見て、「子供と母を連れてエジプトに逃げよ」と言われたからです。7年、8年長い間エジプトに、一体どうして行ったら良いかも分からずに、準備もまったく無しに、夜中に、砂漠は夜は寒いし、昼は暑い。友達も言葉も知らなければ、全く前途どうなるか分からないところを、全く天主の御摂理に委ねて、エジプトに出かけました、ヘロデの手を逃れて。

イエズス様の命は助かったものの、しかしマリア様はどれほど御苦しみを受けた事でしょうか。せっかくヘロデ王を、あるいはユダヤの王を助ける為に、ユダヤの為に生まれたこの救い主が、約束された、何千年も待ったこの救い主が、今亡き者にされようとされている。

ではこの黙想を明日する事にして、このイエズス様の聖心、この鼓動をマリア様と一緒に、幼きイエズス様の中に脈打つイエズス様の聖心を、マリア様と一緒に見つめて、礼拝して、感謝と、讃美と、愛で、イエズス様を礼拝する事に致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2017年11月12日(主) 聖霊降臨後第23主日説教  「主の到来をよく準備するために、十字架の敵ではなく、十字架の友となる」

2018年03月10日 | お説教・霊的講話
2017年11月12日(主日)聖霊降臨後第23主日のミサ
小野田神父 説教


日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2017年11月12日、聖霊降臨後第23主日のミサを捧げています。

今日この御ミサの後で、14時からいつものように公教要理を提案したいと思います。今日はマリア様の御告げについて黙想しましょう。

公教要理の後には、また来週の主日にも歌う固有の聖歌を練習、特にアレルヤと奉献文offertoriumの練習を、有名な歌ですので提案したいと思っています。
16時からは晚課があります。

12月の最初のミサの事で、12月3日のミサですが、午後の13時からロザリオ、13時30分からミサの予定です。非常に不便な時間帯となってしまうかもしれませんが、どうぞご理解をお願い致します。


「もしもこの方の御服にでも触ったならば、私は治るだろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖霊降臨後第23週、今日から典礼の固有文が、特にグレゴリオ聖歌が、書簡と福音書を除いて、これから最終の主日まで同じものが歌われます。

このこうする事によって、教会は一体何を私たちに訴えようとしているのでしょうか?一体カトリックの典礼の、今から私たちに与えたいと思っているメッセージの一番の重大な内容は何なのでしょうか?それを今日は、その教会の精神に従って黙想する事を提案します。

その黙想の結果、私たちは一体この精神にピタリと当てはまるモデルはどこにあるだろうかという事に、どうしても考えが及んでしまいます。その第2点には、そのこの典礼の全ての点にピタリピタリと当たるある方を思い、

最後に遷善の決心を立てる事に致しましょう。

今日の典礼の核心は、「イエズス様が最後に、時の終わりに、私たちを生ける者と死せる者とを裁く為に戻られる、その時には私たちの元に戻られる時には、私たちに特に選ばれた者たちに平和を、永遠の平和を、永遠の至福を与える為にやって来る」という事を私たちに教えようと思っています。「主の到来はすぐ近くだ。その時には私たちにとって、もはや恐るべき日ではなくて、喜びのハッピーな主の御到来のお戻りの時期とならなければならない。」その為に教会は私たちを準備させようとしています。

特にこの教会が注意を向けようとしているのは、死者の復活です。ですから今日福音の中で、病気を持った女性が治り、イエズス様の服に触っただけで治り、第2に、イエズス様がヤイロの会堂の司の招きで、娘が亡くなったというのを呼ばれて、「来て下さい」と言われて素直にそのまま行って、娘の為に葬儀をしている人たちに、笛を吹いたり色々儀式をやっている人たちに、「下がりなさい。この子は寝ているだけだ。死んではいない。」皆はイエズス様の事を笑うのですけれども、彼女の手を取って甦えらせました。これはもちろん教会が、イエズス様が私たちのもとにやって来る時に、「今は死んだお墓の中に入っている人たちが、もう一度イエズス様の手から取られるように甦える。彼らたちはただ寝ているだけだ。もう一度起きる時が来る」という事を教えようと思っています。

それのみならず、長い間病を受けていたこの夫人が、12年間の病を受けていた夫人が、イエズス様の服に触っただけで良くなったという事は、罪の結果である苦しみ、悲しみ、病なども、イエズス様によって癒される。罪自体によって死んでいる霊魂も、イエズス様が霊的に復活して下さる事ができる、という事も表しています。

ではこの霊的に復活する為に、病が癒される為にはどうしたら良いのでしょうか?教会は私たちに2回も同じ言葉を繰り返させます、「深い淵の中から主に呼びかけ」と。イエズス様の復活をよく準備する為に、イエズス様の到来をよく準備する為に、それによる復活を準備する為に、聖パウロの言葉を私たちに聞かせます、「キリストの真似をしている私の真似をしなさい。十字架の敵ではなく、十字架の友となれ」と。

なぜかというと、「霊魂において病に苦しむ人、霊魂において死んでいる人は、肉の奴隷となっている。彼らの礼拝する神々は自分の腹だ、自分の肉体であり、快楽だ。彼らはキリストの十字架を避けている、憎んでいる。自分よりも高いものは権威はないと考えている。自分こそが神であると考えている、誤解している。」

ちょうどつい最近、恐ろしい自殺幇助の罪の人が捕まったそうですけれども、それを見るとまさに、自分よりも上の天主、この生命の与え主というものを何も考えていない世界がここにあるのではないか、と思われてなりませんでした。聖ピオ十世教皇様も約100年前に言います、「現代にはぺストがある、人類は病にかかっている。その病というのは、自分自身を人間を、天主の玉座に据えるという病である。不信の、天主を拒否するという病であり、その為に人類は奈落の底に駆け寄ろうとしている」と警告していました。

そこで聖パウロは私たちに、「そうではなくてキリストの十字架の敵ではなくて、その友となるように。十字架の足元にふもとに行くように。自分の十字架を日々取って歩くように」と勧めます。「私たちはこの地上において旅人として、あたかも外国人であるかのように、よそ者であるかのように、いつも天国を眺めて、十字架を取って歩くように。なぜならば、そうすると私たちの惨めな体も、その病や罪の結果において苦しむこの体も、イエズス・キリストの栄光の体と同じように変えられる時が来るから、いつも主を待ち望むように」と勧めます。「ある日イエズス・キリストが来られる時に、すべての死者は墓からよみがえり、裁きを受ける為によみがえるだろう」と。ただしパウロと共に一緒に働いた戦った、この彼らの為には特別にパウロは名前を挙げて、彼らに感謝を示しています。なぜかというと、「彼らの名前は、命の本の中に書かれているからだ」と。

第2の点は、このような考察をすると最後に、教会は御聖体拝領の時にすでに、「お祈りをした時にすでに受けたように、受けたように信じろ、そうすれば叶えられる」と言っていて、イエズス様を私たちが御聖体拝領で受けた時にこの祈りを祈らせます。イエズス様は私たちにすでに、私たちの心を癒すものとして、私たちの霊魂と心をキリスト化するものとして、ミサですでに来られるのですから。

ところでこのような考察をした後に、どうしても色々な全てのところでピタリピタリと合う方がどうしても浮かんできます。キリストの、キリストに一番良く倣った方はどなたでしょうか?

それは古の時から蛇のかしらを踵で踏んで、罪の汚れのないある御方です。その方こそが罪の汚れなさにおいて、キリストに全く学んだ似通ったものとなりました。十字架の敵ではなく十字架の友となった方は、十字架の下にいつも留まった方は一体どなたでしょうか?それは汚れなき御心を、貫かれた心を持ったマリア様でした。イエズス様と共に救霊の為に戦って、イエズス様の聖心の中に最も一番に命の本に書かれていなければならない方とはどなたでしょうか?マリア様に他なりません。

大体「命の本に書かれる」というのは、もちろんこれはそのような本があるというわけではなくて、これは天主の知識の中にあるという事であって、なぜそのような比喩を使っているのかパウロは使うのか、あるいは聖書は使うのかというと、これは特別な使命に召された人であるからです。例えば軍人に召集されたという時には、例えば共に書かれたという意味で“conscription”されたと言いますが、それと同じように、「キリスト様の為に戦った。戦いに呼ばれて、それと共に栄誉を受ける人」という意味で、「命の書に書かれた人」です。まさにマリア様です。

この福音書に出てくる女性は、「もしもイエズス様の服に触っただけでも私は治る」と思って近寄って治りましたが、イエズス様の服のみならずイエズス様がそこから全てを頂いた、その胎内におられた方はどなたでしょうか?服よりももっと緊密な存在というのはマリア様です。あるいはイエズス様が手を取った、その手を取って生かしたのですけれども、イエズス様はマリア様の胎内にいる時からすでにマリア様によって運ばれて、洗者聖ヨハネを聖化しています。罪を赦し、最初の霊的な奇跡を行っています。

この今日のミサをよく見ると、平和の考えというのはマリア様の事であり、もしも私たちがマリア様を通してイエズス様に求めるならば、もうこれはすでに叶えられなければならない、と思わなければならない事だと分かります。

では今日の黙想の後に、何を遷善の決心として取ったら良いでしょうか?

特に聖母の汚れなき御心に対する信心をもう一度よくやる遷善の決心を立てましょう。私たちの究極の目的は天国であり、その為に私たちがここに存在しています。その為に一番、私たちがたとえ罪の病やあるいは罪によって死んでしまったとしても、私たちを生かして天国へと導く方はマリア様です。

その為にマリア様は100年前にファチマに来られました。今ちょうど今年、ボルシェビキ革命の100周年、ルターの宗教革命の500周年など、あるいはフリーメーソンのロッジ300周年などを祝っていますが、十字架の敵ではなく私たちは、マリア様を通して十字架の友となりましょう。聖母の汚れなき御心の信心を特によく捧げる事に致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ (続き2)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年03月09日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き2)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ


(b)内的生活は、使徒をして、その良い模範によって、人びとを聖化するものとなす

 山の上のお説教の中で、イエズスはその使徒たちを“地の塩”とか“世の光り”とお呼びになった。(マテオ5・3)
 われわれは、聖人となる度合いに応じて、“地の塩”となる。
 もし塩が、その味をうしなったら、もはやなんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人びとにふみつけられるだけである。
 「汚れた泉から、どんな清い水が出るというのか」(集会の書34・4)
 これに反して、内的な使徒は、ほんとうに“地の塩”なのだから、人類社会の腐敗に対して、防腐的の役目を果たすだろう。かれはまた“世の光り”、暗夜の大海原に光かがやく灯台なのだから、その良い模範の光芒(こうぼう)は、言葉の威力にもまして、世俗の精神にひたされてますます濃くなった人びとの霊魂の闇を、くまなく照破するだろう。そして、イエズスが、「八つの真の幸福」のなかでお示しになっている、まことの幸福のありかを、世の人びとに知らせることができよう。
 キリスト信者を、ほんとうのキリスト教的生活にみちびき入れるための、最も有力な手段は何だろうか。――それは、信者を教えみちびく使命をもつ人たちの、有徳の生活である。これは、あまりに明白な真理だ。これに反して、教えを説く人びとの不徳は、せっかく天主に結ばれている熱心な信者たちをさえ、ほとんど不可抗力的に、天主から遠ざけてしまう。「あなたがたの〔不徳〕ゆえに、天主の名は、異邦人のあいだで汚されている」(ローマ2・24)

 だから、いやしくも使徒たる者は、なるほど美しい教えの言葉を、いつもくちびるにのせておくのも結構だが、それにもまして、いっそうしばしば、おのれのよい模範のともしびを、高々とかかげていなければならぬ。そして、他人にその実行を教える善徳は、まず自分自身がこれを実行し、しかも完全に実行したのちはじめて、他人にもそれを実行するようにと説教するのでなければならぬ。大聖グレゴリオ教皇がいっているように、「偉大なことを、人まえにいう使命を授かっている者は、この使命自体によって、おのれ自身がまず、それを実行しなければならぬ義務を、わが身に負うているのである」(『牧者について』第二部第三章)
からだの医者だったら、自分のからだの具合いがあまりよくなくても、他人の病気はりっぱになおせるだろう。これは、日常の経験でも、あきらかだ。しかし、他人の霊魂の病気だと、そうはいかぬ。霊魂の医者は、まず自分自身の霊魂が、健全でなければ、他人の霊魂の病気はなおせない。なぜなら、この場合、人は自分の持っているものの中から、他人にわけ与えなければならない。しかも、人は自分の持たないものを、他人にわけ与えることはできないからである。
「あなたがたは、自分自身を改革しなければならぬ。わたしはそれを、あなたがたに教える権利がある」と、偉そうにいっている説教師にたいして、聴衆もかれに、あることを要求する権利があろう。すなわち、かれの説く所と行なう所が、はたしてピッタリ一致しているかどうか、かれが外部に装っている道徳なるものが、はたして本物かどうか、いつわりの仮面にすぎないのではないかどうか、ということを調査し識別する権利だ。調査の結果いかんによって、教役者を信用したり、しなかったりするのは、理の当然だ。
そんなわけで、もし司祭が、あまりに人びとからなおざりにされている聖ヒツのそばで、ご聖体のイエズスと差し向かいになって、お話ししているのを、信者が目撃するなら、この司祭が、たとえば祈りについて説教するとき、その説教はどれほど、力づよいものだろうか。司祭が、自分でよく働く。よく苦業をする。この一事だけでも、いざこの司祭が、制欲や犠牲について説教する段になると、いかに多くの信者が、かれの言葉に耳を傾けることだろう。兄弟愛の熱心な主張者であり、実行者である司祭が、ここにいる。かれは、信者のあいだに、できるだけイエズス・キリストの良い香りをまくようにと、常々心がけている。ただそれだけでも、聖主がおん自ら模範をたれて、お示しになった柔和・謙遜の美徳は、すでにかれの一挙一動にも反映している。この司祭が、兄弟愛について説教するなら、信者はみな、注意をかたむけて、かれの説教にききほれるだろう。
「心から、群れの模範となるべきである」(ペトロ前5・3)
キリストの最高牧者たる聖ペトロは、こういっている。

内的生活をもたない学校教師は、生徒をただ試験に及第させることができさえしたら、それで自分の義務はりっぱに果たした、わがこと成れり、と信じこんでいる。
これに反して、かれがもし内的生活をもっているなら、かれの一挙手一投足は、生徒にとって、良い模範である。 ――かれのくちびるから、ひとこと洩れでる。かれの顔に、ある神々しい感動が波うつ。ある仕ぐさをする。たとえば、十字架のしるしをするとか、授業の前後に祈りをするとか、ただそれだけでもいい、たとえそれが数学の授業のような、およそ霊生とは何の関係もないものであったにしても、生徒の心にあたえるりっぱな影響や感化は、いかめしい訓話にもまさって、はるかに大きな迫力をもっている。
病院や孤児院に働く修道女たちは、ただ自らの修道生活を忠実に実践するだけですでに、あいての人の心の中に、イエズス・キリストにたいする深い愛とか、自分らの教えにたいする深い尊敬心を、芽ばえさせるための超自然的能力と効果的手段を持っている。
だが、もし内的生活をもちあわせていないなら、実はたからのもちぐされで、せっかくの能力も手段も、なんの役にも立たない。それどころか、こんなにすばらしいたからを持っている事実にさえ気がつかない。ただ、外面的の信心さえやっていけば、それでよいではないか、と考えている。そして、それ以上のことは、何もしない。

キリスト教を、異教徒の間にひろめていくためには、長い議論をしばしばたたかわす戦法ではダメだ。そのためには、なによりもまず、キリスト信者の善良な行状を――すなわち、異教徒の利己主義とか、不正義とか、不道徳に、歯に衣をきせぬまでに、真っ向から反対するキリスト教的美風を、かれらに示すに限る。

読者は、ワイズマン枢機卿の筆による『ファビオラ Fabiola 』を、ごぞんじだろう。
キリスト教が、はじめてローマ帝国に進出したころ、異教徒はみな、この新らしい宗教にたいして、まちがった先入観から、はげしい憎悪をいだいたものである。
こういう異教徒の心に、初代キリスト教徒の良い模範が、どれほど有力な感化を及ぼしたか――それを、ワイズマン枢機卿は『ファビオラ』のなかで、うきぼりにしている。
一つの魂が、漸進的に、しかも不可抗力的に、光明にむかって開花していく過程が、そこに描かれている。ファビウスの娘は、あらゆる身分、あらゆる階級のキリスト信者の中にみられる。高尚な感情とか、謙遜でしかも英雄的な善徳とか、そういったものに深く感激している。だが、この人たち――博愛心の深い、正直で、謙遜で、柔和で、節制の美徳に富み、正義感が強く、貞操観念の強いこの人たちはみんな、いつもどこでも、毒蛇のように忌み嫌われている、キリスト教という邪宗門の信者である。これは不思議だ。これらの美徳をうみだす宗教が、邪宗門であるはずがない。こう考えた刹那、彼女は目がさめた。心機一転した。天のあかしを頂いたのだ。
 彼女はキリスト教徒になった。
 『フォビオラ』の読後感として、だれしも次のように、叫びたくなろう。――ああ、もしカトリック教徒が、せめて使徒的事業にたずさわっている人たちが、ワイズマン枢機卿が描いているような、キリスト教的生活のかがやきを、すこしでも持ち合わせていたなら! しかも、それは、なにも難しいことではない。ただ福音書の簡単な実践にほかならないのに! もしそうだったら、かれらの使徒職が、こんにちの異教徒のうえに及ぼす影響力は、どんなにすばらしいだろうか!
 なにも、こんにちの異教徒ばかりが、わるいのではない。もしかれらが今なお、カトリック教会にたいして、まちがった先入観にとらわれているとするなら、それは反カトリック主義の諸教会が、カトリック教会にたいして放つ悪口雑言をきいたからである。われわれカトリック者の内輪ゲンカに、わざわいされたからである。あるいはまた、われわれカトリック者が、たがいに、自分の権利を主張するとき、その方法に何かまずい点がなかったろうか。それは、イエズス・キリストの利益を擁護しようとの、まじめな熱情からよりはむしろ、おのれの傲慢から、傷ついたけもののような傲慢心から、吹き込まれたものではなかったろうか。とにかく、こんな不祥事にわざわいされて、今なお異教の闇に沈んでいるかれらではないだろうか。
 ああ、天主と一致している霊魂の、外部に照射する神秘のかがやきよ!
 あなたは、どれほど強烈な、影響力を持っていることか!
 若きデシュルモンが、いよいよ世俗を捨てて、至聖贖罪修道会に入会しようと決意したのは、同会のパッセラ神父が信心ぶかく、ミサ聖祭をささげている光景を目撃した、その刹那ではなかったか。あとで、デシュルモン神父は、同会にとって偉大な光栄となった。
 良い模範は、人をひきつける!
 民衆はみな、良い模範に心をひきつけられる、自然の本能をもっている。
 良い模範を識別する、みごとな直観力をもっているのだ。
 天主の人が、説教する。
 民衆は群れをなして、その周囲に馳せあつまる。
 だが、不幸にして、使徒的事業にたずさわっている人が、その不徳のために、民衆のこの本能的要求に応じえないなら、たとえかれが、どんなにすばらしい手腕家だろうと、どんなにかれの事業が発展しようと、それが何であろう。つまるところ、事業はいつも崩壊の危険を内包している。いや、早かれおそかれ、とり返しのつかぬ壊滅さえまねく。
 「あなたがたの光りを、人びとのまえにかがやかし、そして、人びとが、あなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの御父を、あがめるようにしなさい」(マテオ5・16)と、イエズスは仰せられた。
 聖パウロが、その二人の愛弟子、ティトとティモテオに、極力すすめているのは、この良い模範である。
 「万事につけ、あなた自身を、良いわざの模範として示しなさい」(ティト2・7)
 「あなたは、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい」(ティモテオ前4・12)
 聖パウロ自身、「あなたがたが、わたしから見たことは、これを実行しなさい」(フィリッピ4・9)と、信者に命じている。さらに、「わたしが、キリストにならう者であるように、あなたがたも、わたしにならう者になりなさい」(コリント前11・1)ともいっている。
 これは、真理の言葉であって、けっして聖パウロの思い上がりではない。それはまた、けっして謙遜の徳を疎外しない。イエズスも、ユダヤ人に向かって、「あなたがたのうち、だれが、わたしに罪があると責めうるのか」(ヨハネ8・46)と仰せられたではないか。聖パウロは、聖主のこのご信念、このご奮発心に鼓吹されたからこそ、右のような言葉を口走ったのだ。
 聖ルカ福音記者は、イエズスにかんして、「かれは、教えるまえに、まず実行された」(使徒行録1・1)と、書きしるしている。このイエズスのみあとをたどるのが使徒である以上、使徒もまた師のように、言葉をもって教えるにさきだって、まずおのれ自身の模範をもって、民衆を強化しなければならぬのは当然ではないか。この条件を満たしてこそはじめて、聖パウロがいったように、かれは「恥じるところのない働き手」(ティモテオ後2・15)になることができるのではないか。
 「愛子らよ、なによりもまず、心に銘記していなければならぬことは、これである。すなわち、ほんとうの奮発心の必要欠くべからざる条件となるもの、また、成功への最も確実な保証となるもの――それは、生活の純潔さと神聖さである」
 これは、一八九九年九月八日、教皇レオ十三世が、全世界の聖職者にあたえた回勅の一節である。
 「聖なる人、完全な人、有徳な人――こういう人が、ひとりでもおりましたら、ただ学問があって、そのうえいっそう恵まれた才能しか持たない多数の人たちよりも、はるかに多くの善を、人びとの霊魂にほどこすことができます。これは、事実です」
 大聖テレジアは、こういっている。さらに、聖ピオ十世教皇は、一九〇五年六月一日、イタリアの司教団にあてた教書のなかで、次のように仰せられている。
 「もし福音伝道者の精神が、ほんとうにキリスト教的な、ほんとうに神聖な行状によって律せられていないなら、他の人びとを善徳に進歩させることは、むずかしいであろう……すべて、カトリック教会の事業にたずさわっている人たちの生活には、一点の非のうちどころもあってはならぬ。それは、万人にちから強い模範を提供しうるほどに、純潔でなければならぬ」


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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