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2018年2月4日(主)  六旬節の主日「イエズス様の御言葉の種を受ける良い土地となる準備は良いか。」

2018年03月25日 | お説教・霊的講話
2018年2月4日(主日)六旬節の主日のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2018年2月4日、六旬節の主日のミサをしています。今日の主日のお知らせがいくつかあります。

1つは、この御ミサの終わりにいつものように感謝のお祈りをしますけれども、その後で、昨日は聖ブラジオの、殉教者聖ブラジオの記念日でしたので、その聖ブラジオのローソクによる喉の祝別を皆さんに提案します。どうぞ皆さんいらして下さい。

今日の午後の14時から公教要理、今日は、一昨日の祝日であった御潔めの式とイエズス様の御奉献は、一体なぜマリア様は潔いはずなのに、なぜ潔められなければならなかったのか、あるいはイエズス様はすでに天主の御子で神殿は自分のものなのに、なぜ奉献されなければならないのか、というもっともな疑問に聖トマス・アクィナスは何と答えているか、という事を皆さんに紹介したいと思っています。16時から晩課があります。
明日もミサがあります。明日は日本26聖人のミサを捧げようと思っています。

このミサは特に毎月の最初のミサで、今年は聖ピオ十世会の総会がありますので、その総会の成功の為に特に捧げたいと思ってます、皆さんぜひ初土の信心の為に、また総会の成功の為に御聖体拝領をこのミサでお祈りなさって下さい。

最後のお知らせは、次のミサです。2月18日にミサがあります。ところで2月14日は灰の水曜日です。そしてカトリック教会の掟によると、満20歳以上59歳までの健康な成人の男女は、大小斎を灰の水曜日に守らなければなりません。昔々は以前は40日間、灰の水曜日から大小斎を守っていましたけれども、今ではそれが非常に緩和されて、灰の水曜日と聖金曜日だけになりました。ですからぜひこのチャンスを逃さずに、ぜひこの大小斎の掟を守るようになさって下さい。

日本の選手が冬季オリンピックで活躍する、金メダルを何個取るか、応援するのも非常に大切ですけれども、私たちが救いの金メダルを取る為にこの四旬節のオリンピックに参加する事は、四旬節の競技場で走る事は、もっと大切です。どうぞ良い四旬節を過ごす事ができるように、この灰の水曜日をぜひお忘れなく、2月14日です。灰の水曜日。復活祭は4月1日です。


“Libenter igitur gloriabor in infirmitatibus meis.”
「喜んで私は、私の弱さを誇ろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日教会は皆さんを霊的に門外の聖パウロ大聖堂に、聖パウロのお墓の元に連れて行きます。指定巡礼教会は聖パウロです。そればかりか集祷文においても、そして書簡においても、聖パウロの言葉を私たちに響かせます。そこで教会と一緒に、聖パウロの元に馳せ寄せる事に致しましょう。

四旬節が近付いてきました。四旬節の良い決心を立てる為に、教会は1つのプログラムがあります。そのプログラムに沿って私たちは、その四旬節への準備をする事に致しましょう。どんなプログラムでしょうか?

1つは、私たちを聖パウロの元に連れて行って、聖パウロが過ごした一生を私たちに見せます。まさにアスリートの人生であって、四旬節の人生でした。

第2に、イエズス様の御言葉の種を受ける準備は良いか、という事を私たちに聞かせます。

そして最後に、私たちはイエズス様の御言葉を、本当に御聖体拝領で受けます。その時に私たちはどういう決心を立てなければならないか、というプログラムです。

この3つの点を見てみます。

第1に、実は教会は聖パウロを使って私たちに、天主の御言葉の種を蒔かせようとしています。大体パウロは言っています。
「私がキリストに倣っているように、お前たちも私に倣え」と。
それでイエズス様の御言葉を一生懸命、異邦人たちに種を蒔くのです。

教会はそのパウロの言葉を非常に頻繁に書簡の中で引用して、パウロの言葉を聞かせようとします。では特に今日はどんな所が選ばれたかというと、パウロの人生が選ばれました。なぜかというと聖パウロの人生は、その広さその幅広さにおいても、その高さにおいても、深さにおいても、3次元において、まさに四旬節だからです。

[その幅広さにおいて]
なぜかというと、聖パウロは宣教旅行で色々な所に旅して、色々な困難を受けたからです。

その宣教の仕事、あるいはその受けた苦しみ、あるいはその犠牲など、他の宣教師たちと比べるべきもありません。小野田神父がこの前の雪で、成田空港のベンチで一晩を過ごしたなどというのは何でもありません。パウロは何度遭難しようとした事か、何度命を奪われようとした事か、何度断食をしただろうか、どれほど凍えて寒かっただろうか、どうぞこの書簡を読んで下さい。聖パウロのこの受けた苦難がしみじみと伝わってきます。

聖パウロは言います、もしも聖パウロに私たちが、「では聖パウロ、あなたにとって一番好きなのはイエズス様なのですね」と言ったら、聖パウロは「違う」と答えるに決まっています。

「一番ではない。イエズス様は私の全部だ。全てだ。我にとって生きるはキリストである。」まさに聖パウロがイエズス様の為に一生涯を尽くして努力した、その幅広い仕事を見ると、私たちはもう何も言う事ができません。

[その高さにおいて]
そればかりではありません。聖パウロは、「この事を誇らないけれども、しかし天の最も高い、人間の言葉で言う事ができない天主の神秘を見た。」聖パウロほど、生きている間にそれほど高い神秘的な体験をした者はない、おそらくモーゼがそれに匹敵するかどうか、それほどの高い霊的な生活を送っていながらも、聖パウロは私たちにその「そんな事は私は誇らない」と言います。私たちの祈りの生活は一体どうでしょうか。

[その深さにおいて]
しかも聖パウロは、人間として多くの苦しみがありました。聖パウロははっきりとは言わないのですけれども、棘が与えられて、何か誘惑があったのでしょうか、あるいは何か体に傷を負っていたのでしょうか、あるいは何か不自由な事があって非常に困っていた事だったでしょう。「三度ひたすらお願いした。ぜひこのこれを取って下さい。」しかしそれさえも聞いてもらえず、「お前にとって私の恵みで十分だ。」そして聖パウロは、「まさにこの私の弱さ、この苦しみ、私が受けるこの苦悩、これを誇ろう。これこそが俺のものだ」と言っています。その苦しさの深みを見ると、私たちの苦しみは一体何でしょうか。

まさに聖パウロの人生は、四旬節の人生でした。戦う者の、イエズス・キリストの人生でした。ではそのような聖パウロのような実り豊かなものを私たちに見せて、聖パウロの取り次ぎをも祈らせて、次にイエズス様の言葉を聞かせます。

第2のポイントです。それは私たちは年がら年中聖パウロの言葉を通して、あるいはイエズス様の御言葉という天主の御言葉を、イエズス・キリスト様を私たちは受けているのに、御聖体拝領をしているのに、耳で聞いているのに、しかしあまり実っていない。一体何だろうか。すると、「種は同じなのだけれども、実は受ける土地が違うんじゃないか」という事を私たちに教えてくれます。色んな種類の土地がある。

1つは、皆があっちに行ったりこっちに行ったり通って、踏み固められて硬くなって、種が入る余地のない、踏み固められた、厚い面の顔をした霊魂だ。染み透る余地がない。この世の事で、人々で、流行で、あるいは色んなこの世の行ったり来たりで、それでいっぱい、という霊魂。

もう1つは、石だらけで水が無いので、とても根が無くて、太陽が出ればすぐ乾いてしまう。あるいは土はあるのだけれども、他に雑草がたくさんいるので、結局長続きしない、窒息してしまう。イエズス様がよくきれいに分かりやすく説明されている通りです。

私たちはこの四旬節にこの例えを聞かされて、「あぁ、今まで私たちの霊魂はもしかしたら、この道路のようだったのではないか。私たちの霊魂は確かにイエズス様の御言葉を聞いた、物理的に聞いた、受けたようだけれども、しかし心はこの世の事で踏み固められていて、あるいは何を食べよう、何をどんなファッションを追おうとか、あるいはどんなYouTubeを見よう、どんなFacebookを、等と言ってそちらの方で、あるいは更に邪悪な考えによって、世俗の考えによって、イエズス様の入る余地が全くなかったのではないか。」

それで私たちは今日この福音を読むと、「どうぞイエズス様、私の心を砕いて下さい。罪に凝り固まった私の心を粉々にして、そしてイエズス様の恵みが染み透る事ができるようにして下さい。罪の痛悔を与えて下さい」と祈らざるを得ません。「どうぞこのカチコチだった心を、どうぞ柔らげて下さい。恵みで溶かして下さい。」

あるいはもしかしたら私たちの心には、お恵みの根が育つのを阻害する石がいっぱいかもしれません。「どうぞイエズス様、この石を取るのを手伝って下さい。お祈りの力でどうぞこの石を柔らかくして下さい。この固まった泥を柔らかくして下さい、石を取り除いて下さい、罪の機会を取り除いて下さい。私の取り除くべき石はどこにあるでしょうか、教えて下さい。」

あるいは「この私の周りにたくさん育っている雑草、霊魂を窒息させるという雑草、これを取るのを手伝って下さい。一人で取る事はできません。聖パウロ、助けて下さい。私たちの一人の力では何もできません、どうぞ助けて下さい、聖パウロ。」

そして私たちの雑草を取る、イエズス・キリストにお祈りをする、四旬節の犠牲を捧げるという準備をしようと、良い土地になろう、このままではだめだ、という事を私たちに気が付かせてくれます。

では最後に、私たちはどのように決心させるでしょうか?

教会のプログラムによれば、それは私たちを「皆、聖体拝領するように、イエズス様の御言葉、天主の御言葉を本当に私たちの霊魂に受けるように」と招いています。

「そして教会と一緒にこの歌を歌え、“Introibo ad altare Dei”『私は、天主の祭壇の上に行こう。』今から四旬節の犠牲を、いけにえを捧げる決心を立てよう。今から祈りをしよう。今から祭壇に昇ろう。今から四旬節に入る覚悟をしよう」と。

その時にこの教会のプログラムに従って私たちがミサに与るのならば、私たちの四旬節は実り豊かな、何百倍もの実りをもたらすものとなる事でしょう。そしてその事ができますように聖パウロに、そしてマリア様の汚れなき御心にお祈り致しましょう。

“Libenter igitur gloriabor in infirmitatibus meis.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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