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2018年2月18日(主)  四旬節第1主日 「待ちに待った四旬節」

2018年03月27日 | お説教・霊的講話
2018年2月18日(主日)四旬節第1主日のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は四旬節第1主日のミサを行っております。今日この御ミサの後に、いつもの通り感謝のお祈りを致しましょう。その後には、灰の水曜日の灰の式を受ける事ができなかった方の為に、灰の式を行いたいと思います。この式の間にはグレゴリオ聖歌が歌われて、最後に式で祈られる祈りもあります。

その後に、四旬節をよく過ごす為にも、また今日本と世界での平和が非常に脅かされているので、特に韓国の事が非常に心配ですので、また中国にいるカトリック信者の方々為にも、御聖体降福式をしたいと思っております。どうぞ皆さんできるだけ与って、イエズス様に特に平和の為にお祈り下さい。

その後には14時30分頃から、公教要理の続きをしたいと思っています。
今回は3月の初土曜日の黙想のテーマとして、イエズス様のゲッセマニの園にての玄義を、ロザリオの苦しみの玄義の第1玄義を、黙想する事を提案します。そして16時からは晩課があります。

次のミサは3月4日です、ここであります。どうぞたくさんのお友達を連れていらして下さい。


“Ecce nunc tempus acceptabile, ecce nunc dies salutis.”
「見よ、救いの日がやって来た。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、遂に四旬節がやって来ました。私たちが待ちに待った四旬節です。遂にイエズス様に、私たちの日常の犠牲をイエズス様と共に捧げる事ができます。そしてそれが特別の価値を持つようにお恵みが与えられる時です。受け入れられる時がやって来ました。私たちの惨めな貧しいものでも快く受け入れて下さる時が来ました。

そこで今日は教会の典礼の精神に従って、四旬節は何で今日こういうミサになっているのか?たとえば今日、指定巡礼教会は聖ヨハネ ラテラノ大聖堂、至聖救世主大聖堂であって、そしてなぜ詩篇90をそんなに何回も何回も、入祭誦でも昇階誦でも、また詠誦でも、そして聖体拝領でもこんなに歌うのか?等を黙想して、第1に四旬節の精神をもう一度確認します。

その次に、では四旬節の精神に従って、その結果私たちは何をしなければならないのか?「断食をしなければならない」と言います。

最後に、私たちは四旬節の遷善の決心を立てる事に致しましょう。

教会は私たちを霊的に、指定巡礼教会という、特別に指定された教会に行列で霊的に行く事を望んでいます。今日の指定された教会は、ローマの最も重要な至聖救世主大聖堂、別名はラテラノ大聖堂、洗者聖ヨハネの大聖堂です。なぜかというと、四旬節というのは私たちにとって、霊的に、内的な生まれ変わりの、新たになる時であるからです。

ちょうど洗者聖ヨハネが砂漠に行って、荒れ野に行って、ライオンのように獅子のように叫んだのを思い出します、「悔悛せよ、悔悛せよ!」「もしも悔悛しなければ、私たちは救われない!」と。私たちも洗者聖ヨハネの呼びかけに従って、荒れ野に行こうとします。ちょうどイエズス様も荒れ野に、40日間の断食をする為に行かれました。洗者聖ヨハネの大聖堂が救世主の大聖堂とも呼ばれているのは、この意味があります。

私たちはこの四旬節の時に、今までおろそかにしがちだった霊魂の世話をしなければなりません。私たちはいつも体の健康については気を使ってきましたが、ともすると霊魂の事は忘れがちでした。ですから霊的な生活にもう一度目を向けようとさせます。ですから私たちは、この世の喧騒から離れて、霊的に砂漠に荒れ野に参りましょう。霊的にイエズス様と共に荒れ野に参りましょう。何を求めて行くのでしょうか?「内的な天主様の命」を求めて行きます。

ところで、私たちはこの荒れ野に行ったイエズス様を、「あぁ、イエズス様は荒れ野に行って、40日間の断食をされた」というのをただ傍観者として見ているのではありません。ちょっとテレビのスイッチを入れると、「あぁ、イエズス様が砂漠で何かやっておられるなぁ。お祈りをしておられるなぁ。次のスイッチ」ではありません。私たちはイエズス様と一緒に行かなければなりません。イエズス様と一緒に40日間霊的な生活を送らなければなりません。今の流行りの言葉で言うと、「行こうぜ、四旬節。」

そしてもしも私たちがイエズス様と一緒に荒れ野に行って、40日間の霊的な生活をして初めて、私たちは表彰台に立つ事ができます。初めてイエズス様と共にアレルヤの、復活祭の時にアレルヤの歌を歌う事ができます。私たちはその時に初めて、イエズス様と共に王冠の、復活の深い喜びを味わう事ができます。ですから私たちにとって一番中核なのは、「イエズス様と共に荒れ野に行く」という事です。「天主様の命を求めて行く」という事です。それは復活の準備の為です。

もしも私たちが復活祭の喜びの深い喜びに入る事を望んだならば、その勝利を得たいと思うのであれば、条件があるのです、「イエズス様と共に行く」という事、そして「イエズス様と共に、私たちの自然の、肉体的な、古い、欲望だらけの邪欲の古い人間に死ななければならない。私たちの罪とその機会を皆、十字架に付けなければならない」という事です。この2つがあって初めて私たちは、イエズス様と共に復活祭の時に、新しい生活を聖徳の生活を始める事ができるのです。イエズス様のように新しい人を生きる事ができます。イエズス・キリストの命を生きる事ができるようになります。

ところで教会は、その為に3つの事を、3つの種類の人々に気を配っています。1つは、これから洗礼を受けようという人々の為です。もう1つはこれから、罪を犯した、大きな罪を犯したが為に、教会からいわば破門されたかのようになってしまって、御聖体を受ける事ができないような人々、罪を償わなければならない人々の事です。もう1つは私たち一般信徒で、そしてその3種類の人々が、「復活祭の時に、大きな復活の勝利の喜びを得る事ができるように」と気を使っています。

洗礼を受けたいという求道者の人の為には、「この間、洗礼の水に浸る事を黙想するように」教えています。痛悔をしなければならない人にとっては、「涙の水に、涙に浸かる事を、痛悔の涙に浸る事」を勧めています。そして一般の信徒たちには、「御聖体とイエズス様の御血に浸かって、イエズス様の御受難を黙想する事」を招いています。

この3つの種類の人々を全て教会が思っている、という事を見ると、やはり集祷文の意味がよく分かります。40日間のこの修行をもって、天主様は教会を全て潔めようとされている、という事だからです。ここでも四旬節の中核が分かります、核心が分かります、「私たちは四旬節を一人でするのではなくて、イエズス様と共に、教会の神秘的なキリストの神秘体の一員としてする」という事です。そして「私たち全部が、教会が全て潔められる」という事です。

ですから第2の点は、イエズス様と共に荒れ野に行って、そして断食をしなければなりません。イエズス様は仰いました。「ヨハネは断食をしていたけれども、あなたは断食をしていないではないか。なぜだ。」「なぜならば、花婿がいる時に、花婿の友達は断食をするだろうか。花婿と一緒に食べる。しかし花婿が取り去られる時が来るだろう。その時は花婿の為に断食する。」まさに今からイエズス様が御受難によって取り去られようとする事を黙想する私たちにとって、断食の良い機会です。イエズス様は普通はお食事をされていますけれども、公生活の始めに40日間断食をされました。それは私たちの断食を聖化する為です。私たちに模範を見せる為です、どのようにされるか。

聖伝によれば、40日間の断食をしていましたが、しかし現代では非常に規律が緩和されて、私たちのしなければならない義務は、灰の水曜日の大斎と聖金曜日の2回になってしまいました。しかし私たちは、確かに食べる断食はそんなにできないかもしれないですけれども、しかし罪の断食をする事ができます。

例えば、私たちが「本当は甘いおやつを食べたい。でも今は食べる時間じゃない。だからそれはお捧げしよう」とか、あるいは「本当は宿題をしなければならない、あるいはこの仕事をしなければならないんだけれども、何かインターネットでオリンピックのニュースがある。」あるいは「誰がメダルを取ったのだろうか。」あるいはもしかしたらそれよりも、もしかしたら私たちが本当なら見てはいけない、あるいは聞いてはいけない、あるいは手にしてはいけないようなものが、私たちの前に来るかもしれない。その時に私たちは、「それは食べない、それはしない」という罪の断食をしなければなりません。そこに私たちの最もしなければならない核心があります。

イエズス様は40日の間、ただ断食しただけではありませんでした。お祈りをしました。ですからこの40日間の間、復活祭まではたくさんのお祈りをなさって下さい。イエズス様はゲッセマニの園にで弟子たちに言いました、「あなたたちは私の為に、たった1時間も祈る事ができなかったのか。私の霊魂は死するばかりに悲しい」と。イエズス様は私たちに仰る事でしょう、「どうぞ私の為に祈ってほしい。私と共に祈って欲しい」と。40日間。イエズス様は私たちの為に苦しまれようとしているのですから、私たちもイエズス様に、少しのちょっとした犠牲を捧げなければなりません。

では一体どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?

先ほど、教会の規律が非常に緩和されて、私たちはたった2回しか大小斎を捧げる義務がなくなってしまったと申しましたけれども、しかし残念な事に、この「四旬節」というものも、もしかしたら多くのカトリック信者にとっても、或いは私たちにとっても、名前だけになってしまっているかもしれません。四旬節というと、「あぁ、何か嫌だな」とお思うようになってしまうかもしれません。四旬節というと、「何かやろう」と思いながらも、結局何もやらなかった、と毎年過ごしていたかもません。あるいはもしかしたら、「灰を頭に付けるだけで良いのだ。」あるいは「ちょっとだけお祈りすれば良いのだ」というだけで、四旬節の事は全く忘れて過ごしている人も、他の日々と同じ生活を、あるいは他の人々とカトリック信仰を持っていない人と全く同じ生活をしている人もいるかもしれません。私たちは少なくともそういう方々に代わって、そういう方々の為にも、その分も、特に熱心にお捧げする事に致しましょう。

「あぁ神父様、どうもそれほどの事はできるようにもありません。」そこでイエズス様は教会は、詩篇の90を私たちに何度も何度も歌わせようとしています。この詩編の90は、悪魔がイエズス様を誘う為に引用した、その一部を引用しました。しかしそれは教会は、祓魔式をするかのように、「本当の使い方はこうだ」と私たちに教えるかのように、私たちに歌わせます。この詩編は信頼の歌です。特に詠誦の最後をご覧下さい、「私は彼の言う事を、祈りを聞き入れるだろう。彼を救うだろう。そして彼に栄光を与えるだろう。そして1日中、つまり永遠の間、彼を満たすだろう。そして彼に救いを示すだろう。なぜかというとたった1つ、“Invocabit”私の名を呼んだから。その為におまえを救う事を私はしよう、と天主様は約束しています。

そして今日、皆さん御聖体拝領する時に、その事が本当に起こります。なぜかというと、イエズス様こそ私たちを守る翼であって、私たちを守る糧であるからです。悪魔から守って下さる方であるからです。私たちは一人で四旬節をするのではないからです。ですから今日聖体拝領の時に、聖歌隊はこの詩編の90のそこの部分を、「天主は翼となって私たちを守ってくれる。天主の真理は糧となって守って下さる」という事を歌っています。

ですからどうぞイエズス様と共に荒れ野に参りましょう。霊的に荒れ野に参りましょう。そして最後にマリア様にもお願い致しましょう。マリア様は、マリア様こそイエズス様との40日間の断食を、ご自分でイエズス様と共に霊的になさったモデルであるからです。

“Ecce nunc tempus acceptabile, ecce nunc dies salutis.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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