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第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ (続き5)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年03月16日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き5)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き5)


(c)内的生活は、使徒に、超自然的照射能力をあたえる。この超自然的照射能力はどれほど効果に富むか  (3/6)

内的生活によって、使徒は“慈愛”の美徳を、周囲の人びとに照射する

 「慈悲をともなわない奮発心は、実は本物でない愛徳から生まれている」
Un zèle qui n'est pas charitable vient d'une charité qui n'est pas véritable. 聖フランシスコ・サレジオならこう言うだろう。

 霊魂が、念禱によって、“慈愛の大海”Bonitatis oceanus と教会がよんでいる天主の、甘味な慈悲を味わうとき、その刹那、かれは一新して、全く生まれかわった人間となる。霊魂が、たとえ生まれながらの性質で、利己主義にかたむいてはいても、または心の頑固さにおち入ってはいても、こんな欠点はみんな、すこしずつ消滅していく。
 「天主の慈悲と博愛は、われわれの救い主なるイエズス・キリストのご一身において、この世にあらわれた」Benignitas et humanitas apparuit Salvatoris nostri Dei.(ティト3・4)
 イエズス・キリストはまた、「天主の慈悲をうつす鏡」Imago Bonitatis illius(知恵の書7・26)であり、天主の慈愛の目にみえる姿である。
 このイエズスに、霊魂が養われるとき、かれもイエズスのように、天主の慈愛にあずかる。そして自分もまた、天主のように、世の人びとに、おのれの慈愛を“わかち与えたい”との要求を、ひしひしと心に感じる。

 心が、イエズス・キリストに一致すればするほど、天主であって人なるイエズスの聖心の第一の、そして最大の性格であるその慈愛にもあずかるようになる。そうなれば、寛容とか、親切とか、同情とか、すべてこういう善徳が、かれの霊魂に激増してくる。そして、寛大と奮発心は、かれをうながして、天主と人類への奉仕に、おのれ自身の生命を、よろこんでなげうたせるまでに、高揚する。
Plus un cœur est uni à Jésus-Christ, plus il participe à la qualité maîtresse du Cœur Divin et Humain du Rédempteur, à sa Bonté. Indulgence, bienveillance, compassion, tout est décuplé en lui, et sa générosité et son dévouement iront jusqu'à l'immolation joyeuse et magnanime.

 使徒は、天主の愛に浸透されると、全く生まれ変わった人物になる。そうなれば、なんの苦もなく、人びとの好意を、おのれにひきよせることができる。かれの言葉にも、行動にも、慈愛が――おのれの利害を全く忘れ果てた慈愛が、ふかくしるされている。しかも、この種の慈愛は、かくれた利己心や、または人びとの人気を、自分の身に集めたい、という野心から生まれた不純なものではない。

「天主がお望みになったことは、人を愛するのでなければ、いかなる善も、人にほどこすことはできず、また、無感覚では、人に何かの光明をあたえることも、何かの善徳を霊感することも、決してできない、ということである。」
« Dieu a voulu qu'aucun bien ne se fit à l'homme qu'en l'aimant, et que l'insensibilité fût à jamais incapable, soit de lui donner de la lumière, soit de lui inspirer la vertu. »
 ラコルデール神父は、こう書いた。

 他人から、暴力を加えられる。これに抵抗することに、一種の優越感をおぼえるのは、人情の常である。
 ある人が、得意になって、自分の学説を宣伝している。
 誰でも承服させてみせると、力んでいる。
 こういう人に、議論をふっかける。異説をとなえて、ひと泡ふかせてやる。
 そのとき、人はなんだか、自分が偉くなったような気がする。
 なんだか、得意な気持になるものだ。

 だが、ここに、人の親切にスッカリ感心して、頭を下げる。そのひとの人格に、完全にまいってしまう。
 しかし、頭は下げても、完全にまいりはしても、自分は負けたなぞと、屈辱感はみじんも起こるものではない。屈辱感が起こらないから、かれの親切なふるまいに魅せられて、けっきょく、かれのいうとおりになるのだ。
 議論をたたかわせないで、ただ疲れをしらない親切――しかもしばしば、英雄的な親切だけでもって、どれほどの人びとを、回心させることができるだろうか。

 貧者の小さき姉妹会や、被昇天の姉妹会や、愛徳の姉妹会の修道女たちにきいてみれば、いちばんよくわかることである。彼女らの献身的な奉仕を前にして、悪人どもや、罪びとたちまでが、こう叫ぶのだ。

 「天主が、彼女らのうちにいらっしゃる。自分にはそれがよく見える。なるほど、天主のことを“良い天主さま”といっているが、よくいったものだ。わたしにはそれがよくわかる!」

 ただ、天主と交わっているだけで、つまらぬ人間どもが、こんなにまで親切になる。自愛心は、全く根絶されている。無理もない自然のいや気までも、これをかみころして口にも顔にも出さぬ。――人間が、こうまでりっぱになるためには、天主はどれほど良いおかたでいらっしゃらねばならないことだろう!
 黒衣の婦人――だが、彼女らは、地上の天使である。

 彼女たちこそは、フェーバー神父の次の言葉を、おのが身に、みごと実現している、といえよう。
 「親切とは、おのれ自身のあふれを、他人にそそぎ入れることである。
 親切であるとは、他人の身になって考えることである。
 親切な心は、奮発にもまして、雄弁や教育にもまして、多くの罪人を回心させてきた。
 奮発も雄弁も教育も、親切心がなければ、タッタ一人の罪びとも、回心させることができない。
 一言でいえば、親切心は、われわれを“天主”にする。
 使徒職にたずさわっている人びとの心に、この親切心が波うっているなら、それが自然と外部にも流露しているなら、罪びとはかれらのもとに、ひきよせられてくる。そして、回心にまでみちびかれるのだ」
La bonté, c'est le débordement de soi-même dans les autres. Etre bon, c'est mettre les autres à la place de soi. La bonté a converti plus de pécheurs que le zèle, l'éloquence ou l'instruction, et ces trois choses n'ont jamais converti personne sans que la bonté y ait été pour quelque chose. En un mot, la bonté nous rend comme des dieux les uns pour les autres. C'est la manifestation de ce sentiment dans les hommes apostoliques qui attire les pécheurs vers eux et qui les conduit ainsi à leur conversion.

 フェーバー神父は、さらに続けていう。
 「親切心は、いつでも、どこでも、キリストの御血の功徳である、救世事業の開拓者としてとおっている。……なるほど、天主のおどかしは、しばしば“回心”と呼ばれる知恵のはじめだが、とりわけ愛をもって、人をおどかすことを忘れてはならない。さもなれば、恐怖はいたずらに、未信者をつくるだけである」Et il ajoute : Partout la bonté se montre le meilleur pionnier du Précieux Sang... Sans doute les terreurs du Seigneur sont fréquemment le principe de cette sagesse que l'on nomme conversion; mais il faut effrayer les hommes avec bonté; car autrement la crainte ne fera que des infidèles..?(『霊的講話』)

 これに呼応して、聖ビンセンシオ・フェリエもいっている。
 「母親の心を、お持ちなさい。人をはげますときにも、おどかすときにも、すべての人にたいして、やさしい愛を、慈悲のはらわたを、お示しなさい。愛に霊感された言葉だけが、罪びとの耳にこころよく、またかれらの心の琴線に触れるのです。霊魂たちに、なにか役に立つことをしてやりたい、とお思いでしたら、まず心のそこから、天主さまのみもとに馳せていって、そしてお願いしなさい。――天主さまが、諸徳の女王なるこの愛、諸徳がその中にみんな含まれているこの愛を、あなたの心にそそぎ入れてくださいますように。そしてこの愛によって、あなたがもくろんでいらっしゃる理想を、めでたく達成することができますように……」Ayez le coeur d'une mère, dit saint Vincent Ferrier. Que vous deviez encourager ou épouvanter, montrez à tous les entrailles d'une tendre charité, et que le pécheur sente quelle inspire votre langage. Si vous voulez être utile aux âmes, commencez par recourir à Dieu de tout votre coeur pour qu'il répande en vous cette charité en laquelle est l'abrégé de toutes les vertus, afin que, par elle, vous atteigniez efficacement le but que vous vous proposez.
(『霊生要理』第二部十章)

 人間の愛と天主の愛とのあいだ、自然の親切と超自然の親切とのあいだには、無限の距離がある。自然の親切は、単にその時どきの気分の良さ、いわゆる上機嫌から生まれるのであるが、超自然の親切は、使徒的魂からでなければ出てこない。
 自然の親切があれば、福音の働き手は、人に尊敬はされよう。
 人びとの同情をひき、好感をよせてもらうことはできよう。
 だが、よく注意しないと、自然の親切は、使徒を脱線させることがある。――というのは、自然の親切は、まちがった愛情を、被造物のうえにそそがせる。そしてこの愛情は、天主のみもとまで昇っていけないからである。
 被造物は、造物主のみもとに帰っていくためには、どうしても苦しいぎせいを、しかも天主のために払わねばならぬのだが、自然の親切だけでは、霊魂をここまでみちびていくことは、絶対にできない。イエズスとの親しい一致だけが、この美しい成果を期待し、実現することができるのだ。
 イエズスにたいする熱烈な愛があれば、また、霊魂をほんとうによく指導したいとの熱意があれば、そのとき使徒は勇敢になる。勇敢になったからとて、機知に富まなくてもいい、慎重を欠いでもいい、というのではない。この二つの徳は、いつも並行して進んでいかなければならぬ“生活の知恵”なのである。

 ある著名な信者が、直接筆者にしてくれた話に、こんなのがある。
 かれが聖ピオ十世教皇に、謁見を賜わったある日、いろんな話をしているあいだに、たまたま教会の敵なる一人物を、口をきわめて非難し、おだやかでない言葉が、しばしばかれの舌端にのぼるのである。聖なる教皇は、これをおききとがめになって、こう仰せられるのであった。

 「わが子よ、あなたのお言葉には、私はどうも賛成しかねます。こんなお話がありますから、罰とおもって、おききなさい。
 わたしが、たいそうよく知っている一人の神父が、その最初の任地の小教区にやってまいりました。新らしい主任神父は、小教区の各家庭を、戸別訪問することが、自分の尊い義務である、と思ったのです。ユダヤ教徒も、新教徒も、秘密結社員も、だれ一人としてこの訪問から除外されませんでした。自分は毎年、この訪問をくり返すつもりである、と神父は公けに、説教壇から、みんなに宣言しました。
 ところが、それは同僚の神父たちのあいだに、大きなセンセーションをひきおこしたのです。
 早速、司教さまに訴えられました。
 司教は、すぐに被告をよんで、きつく譴責(けんせき)したのです。


« Mon Fils, je n'approuve pas votre langage. En punition, écoutez cette histoire. Un prêtre que j'ai beaucoup connu arrivait dans sa première paroisse. Il crut de son devoir de visiter chaque famille. Juifs, protestants, francs-maçons même ne furent pas exclus, et il annonça en chaire que chaque année il renouvellerait sa visite. Grand émoi chez ses confrères qui se plaignent à l'évêque. Celui-ci mande aussitôt l'accusé et lui adresse une verte semonce.

 主任神父は、おそれかしこまって、司教に申し上げるのでした。
『司教さま、福音書のなかで、イエズスさまは牧者たちに、ご自分の羊の群れをみな、オリにつれてくるように、とお命じになっておられます。Oportet illas adducer.
羊の群れを、オリにつれてくるためには、まずこちらから出かけて行って探さなければ、どうしてそれができるのでございましょうか。わたしはこの主義を、絶対にまげることはできないのでございます。ちょっとでも譲歩することはできないのでございます。
 しかし、せっかくのご命令でございますから、わたしは天主さまから委託されましたすべての霊魂たちに、迷っている霊魂たちにさえ、ただ牧者としての好意と愛情を示すだけに、とどめることに致しましょう。
 わたしはすでに、この訪問のことを、説教壇から、公けに宣言いたしました。わたしにこの訪問をやめさせることが、司教さまのご本心からのお望みでございましたら、どうぞそれを文書にして、わたしに禁じてくださいますよう、おねがい致します。そういたしましたら、小教区の人びとはみな、わたしが司教さまのご命令に従いたいばかりに、すでに予告した訪問を取りやめにしたことをしたことを、さとることができるでございましょう』
« Monseigneur, lui répond modestement le curé, Jésus, dans l'Evangile, ordonne au pasteur d'amener au bercail toutes ses brebis, oportet illas adducere. Comment y réussir sans aller à leur recherche? D'ailleurs je ne transige jamais sur les principes et me borne à témoigner mon intérêt et ma charité à toutes les âmes, même égarées, que Dieu m'a confiées. J'ai annoncé ces visites en chaire, si votre désir formel est que je m'en abstienne, daignez me donner cette défense par écrit, afin que l'on sache que je ne fais qu'obéir à vos ordres. »

 主任神父のいいぶんには、りっぱにすじがとおっておりますので、つい司教もそれに心を動かされ、もうこれ以上、ご自分の意見を主張されませんでした。
 主任神父の説が正しかったことは、“時”がみごとに証明してくれたのです。主任神父の大よろこびのうちに、迷っている羊の群れのいくらかは、もとのオリに帰ってまいりました。残りの羊たちは、もとのオリには帰らなくても、一人のこらず、聖なるカトリック教会にたいして、大きな尊敬と賛嘆のさけびを禁じえなかったのです。
 貧しい主任神父は、その後、天主さまのおぼし召しによって、教皇になりました。わが子よ、あなたに兄弟愛の教訓をたれているこのわたしです。ですから原理についてはあくまでも堅持し、これを固守しなさい。しかし、あなたの愛徳は、すべての人に及ばなければなりません。教会のいちばん憎むべき敵どもにさえも……」
« Ebranlé par la justesse de ce langage l'évêque n'insista pas. L'avenir, du reste, donna raison à ce prêtre qui eut la joie de convertir quelques-uns de ces égarés et força tous les autres à un grand respect pour notre sainte Religion. L'humble curé est devenu par la volonté de Dieu, le Pape qui vous donne, mon fils, cette leçon de charité. Soyez donc inébranlable sur les principes, mais que votre charité s'étende à tous les hommes, fussent-ils les pires ennemis de l'Eglise.»

(続く)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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