Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

苦しみの玄義―第1玄義「主がゲッセマニの園にて死するばかり憂いたもう」の黙想

2018年03月25日 | お説教・霊的講話
苦しみの玄義 第1玄義の黙想
(2018年2月17日(土)御聖体降福式にて 小野田神父)



苦しみの第一玄義は私たちの主イエズスのゲッセマネの園での苦悩でした。

この苦悩・苦難には三つの種類がありました。

第1の苦難は、これから受けようとされる肉体的な苦しみをすでにご存じだったことです。

イエズス様の第2の苦難は、肉体の苦しみよりも、更に霊的な苦しみを受けていた、という事でした。
つまり、イエズス様は罪の、人類の罪の醜さと、恐ろしさと、その邪悪さを、まざまざと御覧になります。マリア様は罪の汚れのない御方であり、清い方であればあるほど、その罪の醜さがますますとよく分かりました。天主の目にとって罪がどれほど醜いものであるか、という事をよく理解されました。イエズス様が理解されたようにほぼマリア様も、その罪の恐ろしさを、醜さを理解されました。そしてそれに打ちのめされようとされていました。

1つの罪でさえもそうであるにもかかわらず、数えきれないほどの、世の始めから終りまでの無数の罪が、イエズス様とマリア様を襲います。天主に対する反逆、冒瀆、瀆聖、不潔、暴力、憎しみ、殺人、天に復讐を求めるような様々の罪、盗み、悪口、嘘。それらはイエズス様とマリア様を打ちのめそうとしています。

罪の汚さ、その邪悪さを、誰が正確に知る事ができるでしょうか。イエズス様とマリア様はそれをよく御存知でした。その汚い中に、イエズス様もマリア様も、あたかも溺れてしまうほど、その中に入らなければなりませんでした。何という辛い、嫌な、おぞましい事だったでしょうか。

「聖父よ、願わくは、もしも御旨ならば、このカリスを私から遠ざけて下さい。そしてマリア様からも遠ざけて下さい。」

かつて聖父は、イエズス様の御洗礼の時に、「これは我が愛する子」と宣言されました。タボル山の時に御変容の時にも、「これは我が愛する子。彼に聞け。」しかし今回は、ゲッセマネの園では、あたかも聖父はイエズス様の事を憎んでいるかのように、呪われたかのように、全く打ち捨てて、あたかも、聖父は捨て物のようにイエズス様を取り扱いました。あたかもイエズス様は聖父の敵であるかのように、イエズス様は私たちの罪を全て身に負われました。

イエズス様は聖父の御旨を果たす為に、愛する母親を残して12歳の時に神殿に残られました。「私が聖父の家に、仕事をしなければならない事を知らなかったのですか。」聖父の御旨を果たす事だけを考えてきたイエズス様。33年間、その事だけに時間を使った、生涯を尽くしたイエズス様は、その聖父からあたかも捨てられたかのように、憎まれているかのように取り扱われます。

「聖父よ、もしもできるならこのカリスを遠ざけて下さい。しかし私の思いではなく、あなたの御旨のようになりますように。」

第3の苦難は、肉体の苦難と、そして霊的な苦悩の更に大きな苦悩は、それを超える大きな苦悩は、イエズス様がこうして苦しみを受けて贖おうとした霊魂たちが、この苦しみを全く無益とする事でした

イエズス様はこれほどの苦しみの値を払って助けようとした人々が、無関心と、冒瀆と、忘恩で、それに応えようとしないのを見て、ますます御苦しみを深めます。せっかくの苦しみ、せっかくの苦悩、御血の無限の値が、無益になる。彼らを救う為に、これほど死ぬばかりの苦しみを耐え忍んでも、全くの無理解、全くの忘恩。却ってあるのは、屈辱と、馬鹿にする言葉だけ。

イエズス様はマリア様は、多くの人々がイエズス様の御受難を無益にする事をご覧になります。イエズス様からの恵みを受けたにもかかわらず、この御受難を無益にする人は、更に深い大きな罰が待っている事を、永遠の苦しみが待っている事を知っているが為に、更に苦しみます。何百万という霊魂がイエズス様の御血の功徳を無駄にしているのを、そして地獄の底に落ちるのをご覧になります。霊魂を救おうと望んでいるイエズス様とマリア様の聖心は、失われる霊魂たちを見てどれほど苦しまなければならなかった事でしょうか。自分の子供が、子供たちが地獄に落ちなければならないのを見て、どれほど苦悩で苦しまれた事でしょう。

「女よ、これ汝の子なり。」マリア様はこれらの霊魂の救いの為に、命を与えます。しかしこの霊魂たちは、このマリア様の心を理解しません。永遠にイエズス様とマリア様を冒瀆して、呪って、地獄にいなければなりません。

聖アウグスティヌスを救う為に聖モニカは、18年間祈りと償いをしました。マリア様の心はどれほどでしょうか。イエズス様の御血が救おうとしたこの霊魂たち、あるいは一度は御血によって洗われて、洗礼の恵みを受けた霊魂たちが永遠に失われる。マリア様の御悲しみはどれほど深かった事でしょうか。

「聖父よ、願わくは、このカリスを私から遠ざけて下さい。そしてマリア様からも遠ざけて下さい。しかし私の意図ではなく、聖父の御旨がなされますように。“Ecce ancilla Domini.” 我、主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」

第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ (続き9)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年03月25日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き9)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き9)


 (d)内的生活は、使徒に、まことの“雄弁”をあたえる

ここにいう“雄弁”l'éloquence とは、人びとを回心させ、善徳にみちびくために、じゅうぶん力をもっている、天主の“恩寵を運ぶ者”porte-grâce ともいうべき、弁舌のことである。
 これについてはすでに、それとなく語ってきたから、ここでは、ただそれに数語を加えるのみにとどめよう。
 福音記者聖ヨハネの聖務日課の答唱に、こんな文句がある。

  主の御胸によりかかりて
  福音のきよき流れを、主の
  御胸の聖なる泉より飲みぬ、かくて
  天主のみ言葉の恩寵を、全世界にそそぎいだせり

 この短い一句のなかに、どれほど深い教訓が、 ――説教をする人、著述をする人、カトリック要理を教える人など、すべて天主のお言葉を人びとにわけあたえるべき使命をおびている人たちにとって、どれほど深い教訓が秘められていることだろう。これらの特に目立つ表現をもって、教会はその福音の働き手に、まことの雄弁の泉がどこにあるか、それを克明に教示しているのではなかろうか。
 福音記者はみな、同じように、聖霊のインスピレーションをこうむって、自分らの福音を書いた。
 各自は、それぞれ異なった、摂理的使命をもっている。だが、各自は、それぞれ独特の雄弁をもっている。わけても、聖ヨハネの雄弁は、他にぬきんでている。聖ヨハネの雄弁は、読む人の心に、“天主のみ言葉の恩寵”verbi Dei gratiam をそそぎ入れる。そして、その恩寵は、人の精神から意志の深奥に、流れこんでいく。聖パウロの書簡とともに、聖ヨハネ福音書は、イエズス・キリストとの一致なくしては、この世の人生には意味がないとする霊魂たちの愛読書である。

 人の心を魅了せずにはおかないこの雄弁はどこから聖ヨハネに来るのだろうか?その恵みゆたかな水をもって全世界をうるおすこの大河 Fluenta in toto terrarum orbe diffudit は、どんな山に、その源を発しているのだろうか?

それは、地上の楽園の河の一つである、と典礼はいう。Quasi unus ex Paradisi fluminibus Evangelista Joannes.
 多くの高い山々や氷河が、なんの役に立つのか。無知な人はこう言うかもしれない。はてしもなく連なるこれらの山々が、もし一面に広々とした平野だったら、もっと人びとの役に立ったのではないか?と。だが、これらの高い山々がなかったら、平野や谷間はサハラ砂漠同様の不毛の地となってしまうとは、彼は疑わないだろう。
 実に高い山々こそは、そこから流れくだる水の流れによって、平野をうるおし、これを肥沃な土地にするのだ。山こそは、河の流れの貯水池である。

 聖ヨハネの福音書をはぐくむ、恩寵の流れの泉が、そこからほとばしる、という地上楽園の高い峰――それは、イエズスの聖心でなくて何であろう。Evangelii fluenta de ipso sacro Dominici pectoris fonte potavit. 聖ヨハネ福音記者は、内的生活によって、人類にたいするその果てしなき愛に鼓動する、天主の人イエズス・キリストの聖心の調べを、心の耳でききとったればこそ、かれの綴る文章の一語一語は、天主のお言葉の“恩寵を運ぶ者”となったのではないか。Verbi Dei gratiam diffudit.

 これと同じく、内的生活をいとなむ人々も、ある程度において、地上楽園の河の流れといえよう。かれらは、その祈りと犠牲によって、恩寵の生ける水を、天国の楽園から、地上の涙の谷へと雨ふらせる。かくて、罪ふかき大地が当然、こうむらねばならぬ天主の罰を、未然に防ぎ、またはごく短く軽いものにする。
 そればかりではない。かれらの祈りと犠牲のこころよき香煙は、天のいと高き処まで――そこに天主の内的生命がお住まいになるイエズスの聖心まで、のぼっていく。そこには、天主的生命の泉が、こんこんと湧きでている。そして、この泉の流れをこそ、かれらは人びとの霊魂に、ゆたかにそそぎ入れるのである。「あなたがたは喜びをもって、救いぬしの泉から、生ける水を汲み取れ」Haurietis aquas de fontibus Salvatoris.(イザヤ12・3)との、イザヤ預言書の言葉そのままに。
 彼らは、天主のお言葉を、人びとにわけあたえる使命をおびている。
 そして、この使命を、かれらは雄弁をもって遂行するのである。
 なにが、かれらの言葉に、雄弁のちからをあたえるのか。
 その秘訣を知る者は、かれらだけである。
 かれらは、地上の人びとに、天主のことを語る。
 かれらが口を開くと、闇に沈んでいる人は、光りをみる。
 冷えた人は、あたためられる。泣く人は、なぐさめられる。
 弱い人、くじけた人は、強められる。

 これらの特長を、具備していないなら、かれらの雄弁も完全ではない。そして、イエズスのご生命に生きていないなら、これらの特長を、具備することはできない。かれらの雄弁に、生き生きとした力をあたえるもの――それは、念禱であり、聖体訪問であり、ミサ聖祭、わけても聖体拝領である。このことをよくさとっているかれらは、これらの信心業にこそ、雄弁のちからを期待しているのである。
 わたしも果たして、こういう人たちの中の一人だろうか。もしそうでなかったら、わたしの弁舌は“ひびくドラの音”cymbalum tinniens のようにやかましい。わたしの弁舌は“鳴る音” velut aes sonans のように、騒々しい音だけは立てることができよう。だが、それはけっして、愛の運河ではない。天主の友たる福音伝道者の雄弁をして、不可抗力的効果を発揮させる、天主の愛の運河ではない。
 学問はあるが、信心は至って平凡な説教師が、キリスト教の真理をうきぼりにして、人びとに提示する。かれの弁舌は、人びとの霊魂を、ゆり動かすことはできよう。人びとを天主に近づけ、人びとの信仰を増すこともできよう。だが、世の人びとに、善徳の芳香を味わわせるためには、どうしてもまず自分自身が、体験的に、福音の精神を味わいつくしていなければならぬ。そして使徒は、念禱の生活によってこそ、福音の精神を、おのれの生命の本質に同化するのだ。

 これにひとこと、つけ加えたい。いっさいの霊的結実性の源なる聖霊だけが、人びとの回心を実現させることが、おできになる。聖霊だけが、人びとの霊魂に恩寵をそそいで、かれらに悪をさけさせ、善をおこなわせることがおできなる。はたしてそうであるなら、人びとの聖化を第一義的使命としてもつ、この聖霊の恵みゆたかな息吹に浸透されるときにはじめて、福音伝道者の言葉は、恩寵の生ける運河となるのではないか。そしてこの運河をとおしてこそ、天主のお働きは、意のままに、成就されていくのではないか。
 論より証拠、聖霊降臨いぜんに、使徒たちはどんなに説教しても、これという効果はあがらなかった。だが、内的生活に充実した十日間の黙想ののち、聖霊はかれらの霊魂をくまなく浸透し、かれらの全人格を一変し、革新したのである。かれらの説教は、最初のテストにおいてすでに、霊魂の奇跡的大漁というすばらしい成績を収めた。
 福音のタネをまく者はみな、このような段階的拡大の過程をふまなければならない。
 内的生活によって、かれらはほんとうに“キリスト保持者”となる。
 かれらはいつも、効果的に植え、かつ水をそそぐ。
 聖霊は、かれらの植え、かつ水をそそいだものに、いつも“発育”をお与えになる。
 かれらの語る言葉こそは、霊魂の畑にまかれるタネであり、同時に、それを実らせる恵みの雨でもある。それを発育させ、実らせる義の太陽は、瞬時も、くもることはない。
 聖ベルナルドが、こういっている。

 “光輝く”だけでは、空しい。
 “熱く燃える”だけでは、小さい。
 “熱く燃えて、光輝く”それが完成だ。

Est tantum lucere vanum
tantum ardere parvum
ardere et lucere perfectum.

『あなたがたの光りを、人びとの前にかがやかせなさい』(マテオ5・16)とは、とりわけ使徒たち、および使徒職にたずさわる人たちにいわれている。かれらは、燃えていなければならない。熱烈に燃えていなければならない」
Singulariter apostolis et apostolicis viris dicitur : Luceat lux vestra coram hominibus, nimirum tanquam accensis et vehementer accensis.
(『先駆者聖ヨハネの祝日の記録』)

 使徒が“燃えて、かがやく”とき、その語るや、必らず福音的雄弁である。
 さて、使徒は、この福音的雄弁を、どこから汲みとるのか。念禱による、イエズスとの一致の生活、心の取り締まり、聖書の熱心な考究と味読――これらのうちにこそ、それを汲みとるのである。
 天主が人間に、お語りになったお言葉、イエズスのおくちびるから洩れでたすべてのお言葉――それはかれにとって、ダイヤモンドのように貴重だ。天主のお言葉のどんなに小さなかけらの中にも、無限に尊いものが凝縮されていることを、英知の賜ものによって、かれはさとっている。さとって感嘆する。
 しかしかれは、まず熱心に祈って、聖霊の光りをねがい求めた後でなければ聖書を開かない。そこにしるされている天主の教訓を、ただ感嘆するだけでなく、しみじみと心に味わう。あたかも聖霊が、自分ひとりのために、これらの教訓を物語っておられるかのように、思われてならない。
 そんなわけで、かれがひとたび説教壇に立つと、天主のお言葉の引用にさいしては、どれほど大きな感動をもって語ることだろう。ほかの説教師だったら、ただ理性の自然の光りと、無味乾燥な、ほとんど死にかかった信仰の助けによって、なんとかその場かぎりの説教はできよう。たくみな、学者らしい適用もできよう。だが、これらの小細工は、前者が聴衆の心に投げかける超自然的光りとは、くらべものにならない。
 前者は、生ける真理を、聴衆に示す。生き生きとした一つの現実をもって、聴衆の心をとらえる。このようにして、聴衆の頭を啓発するばかりでなく、その心までも生かすのである。
 後者も、真理を語りはする。だが、かれの語る真理は、ちょうど数学の方程式のようなもので、味も素っ気もない。なるほど、たしかな真理ではある。だが、なんの滋味もない。現実の生活に直結していない。かれは徒らに、宗教の真理を、抽象的にする。真理を、いわば棒暗記式のものにする。俗にいうキリスト教の審美的要素からのみ、人びとの心を感動させようとする。感傷家のジャン・ジャック・ルソーが告白している、「福音書の荘厳美は、わたしを驚倒させる。福音書の単純美は、わたしの心に語る」と。
« La majesté des Ecritures m'étonne. La simplicité de l'Evangile parle à mon coeur », avouait le sentimentaliste J.-J. Rousseau.

 だが、この漠然としてつかみどころのない、現実の生活になんの影響も及ぼさない、瞬間的な感動がなんになろう。天主の栄光のために、なんの役に立とう。
 まことの使徒は、福音書を、そのあるがままの姿において示す、秘訣を心得ている。
 その姿は、いつも現実の効果を、聴く人の心に生ずるばかりでなく、それは天主的であるから、いつも生きている姿である。たえまなく、新たにされていく姿である。
 まことの使徒が、福音書を語るとき、かれは聴く人のもろい、はかない感情なんかにこだわってはいない。聴衆が、安価な随喜(ずいき)の涙をながしたからとて、それに満足しきれない。天主的生命の言葉を語ることによって、かれは聴衆の“意志”に、じかに触れるのだ。意志にこそ、まことの生命なる“恩寵の生命”への協力が、宿っている。そのことを、かれはよく知っているからである。かくて、聴衆の心に、つよい確信を生じる。つよい確信は、愛と決心を生む。――こういう使徒だけが、ほんとうの福音的雄弁をもっているのだ。
 だがしかし、聖母マリアにたいするまことの、孝子のような信心がなければ、内的生活はけっして、完全ではありえない。聖母は、いっさいの恩寵、とりわけ特選の恩寵の運河であられるからである。聖母のみもとにいつも、馳せていって助けを求めないキリスト信者は、聖母のほんとうの子どもではない、と聖ベルナルドはいっているが、じじつ、こういう孝子的信心になれている使徒は、天主の母であって同時に、人類の母でもある聖母マリアにかんする、教会の信条を説き明かしているあいだに、聴衆の心をいたく喜ばせ、感動させるばかりでなく、なにか困難が起こった場合にはいつも、キリストの御血の功徳の分配者なる、聖母のみもとに馳せていって助けを求める、というりっぱな習慣を、かれらにも、つけさせてやることができる。
 それも、ただ自分の体験したことを語るだけで、それだけでりっぱに、人びとの霊魂を、天の元后のためにかち得ることができる。また、かちえた霊魂を、彼女によって、イエズスの聖心の愛の火中に投ずることができるのである。


2018年2月4日(主)  六旬節の主日「イエズス様の御言葉の種を受ける良い土地となる準備は良いか。」

2018年03月25日 | お説教・霊的講話
2018年2月4日(主日)六旬節の主日のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2018年2月4日、六旬節の主日のミサをしています。今日の主日のお知らせがいくつかあります。

1つは、この御ミサの終わりにいつものように感謝のお祈りをしますけれども、その後で、昨日は聖ブラジオの、殉教者聖ブラジオの記念日でしたので、その聖ブラジオのローソクによる喉の祝別を皆さんに提案します。どうぞ皆さんいらして下さい。

今日の午後の14時から公教要理、今日は、一昨日の祝日であった御潔めの式とイエズス様の御奉献は、一体なぜマリア様は潔いはずなのに、なぜ潔められなければならなかったのか、あるいはイエズス様はすでに天主の御子で神殿は自分のものなのに、なぜ奉献されなければならないのか、というもっともな疑問に聖トマス・アクィナスは何と答えているか、という事を皆さんに紹介したいと思っています。16時から晩課があります。
明日もミサがあります。明日は日本26聖人のミサを捧げようと思っています。

このミサは特に毎月の最初のミサで、今年は聖ピオ十世会の総会がありますので、その総会の成功の為に特に捧げたいと思ってます、皆さんぜひ初土の信心の為に、また総会の成功の為に御聖体拝領をこのミサでお祈りなさって下さい。

最後のお知らせは、次のミサです。2月18日にミサがあります。ところで2月14日は灰の水曜日です。そしてカトリック教会の掟によると、満20歳以上59歳までの健康な成人の男女は、大小斎を灰の水曜日に守らなければなりません。昔々は以前は40日間、灰の水曜日から大小斎を守っていましたけれども、今ではそれが非常に緩和されて、灰の水曜日と聖金曜日だけになりました。ですからぜひこのチャンスを逃さずに、ぜひこの大小斎の掟を守るようになさって下さい。

日本の選手が冬季オリンピックで活躍する、金メダルを何個取るか、応援するのも非常に大切ですけれども、私たちが救いの金メダルを取る為にこの四旬節のオリンピックに参加する事は、四旬節の競技場で走る事は、もっと大切です。どうぞ良い四旬節を過ごす事ができるように、この灰の水曜日をぜひお忘れなく、2月14日です。灰の水曜日。復活祭は4月1日です。


“Libenter igitur gloriabor in infirmitatibus meis.”
「喜んで私は、私の弱さを誇ろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日教会は皆さんを霊的に門外の聖パウロ大聖堂に、聖パウロのお墓の元に連れて行きます。指定巡礼教会は聖パウロです。そればかりか集祷文においても、そして書簡においても、聖パウロの言葉を私たちに響かせます。そこで教会と一緒に、聖パウロの元に馳せ寄せる事に致しましょう。

四旬節が近付いてきました。四旬節の良い決心を立てる為に、教会は1つのプログラムがあります。そのプログラムに沿って私たちは、その四旬節への準備をする事に致しましょう。どんなプログラムでしょうか?

1つは、私たちを聖パウロの元に連れて行って、聖パウロが過ごした一生を私たちに見せます。まさにアスリートの人生であって、四旬節の人生でした。

第2に、イエズス様の御言葉の種を受ける準備は良いか、という事を私たちに聞かせます。

そして最後に、私たちはイエズス様の御言葉を、本当に御聖体拝領で受けます。その時に私たちはどういう決心を立てなければならないか、というプログラムです。

この3つの点を見てみます。

第1に、実は教会は聖パウロを使って私たちに、天主の御言葉の種を蒔かせようとしています。大体パウロは言っています。
「私がキリストに倣っているように、お前たちも私に倣え」と。
それでイエズス様の御言葉を一生懸命、異邦人たちに種を蒔くのです。

教会はそのパウロの言葉を非常に頻繁に書簡の中で引用して、パウロの言葉を聞かせようとします。では特に今日はどんな所が選ばれたかというと、パウロの人生が選ばれました。なぜかというと聖パウロの人生は、その広さその幅広さにおいても、その高さにおいても、深さにおいても、3次元において、まさに四旬節だからです。

[その幅広さにおいて]
なぜかというと、聖パウロは宣教旅行で色々な所に旅して、色々な困難を受けたからです。

その宣教の仕事、あるいはその受けた苦しみ、あるいはその犠牲など、他の宣教師たちと比べるべきもありません。小野田神父がこの前の雪で、成田空港のベンチで一晩を過ごしたなどというのは何でもありません。パウロは何度遭難しようとした事か、何度命を奪われようとした事か、何度断食をしただろうか、どれほど凍えて寒かっただろうか、どうぞこの書簡を読んで下さい。聖パウロのこの受けた苦難がしみじみと伝わってきます。

聖パウロは言います、もしも聖パウロに私たちが、「では聖パウロ、あなたにとって一番好きなのはイエズス様なのですね」と言ったら、聖パウロは「違う」と答えるに決まっています。

「一番ではない。イエズス様は私の全部だ。全てだ。我にとって生きるはキリストである。」まさに聖パウロがイエズス様の為に一生涯を尽くして努力した、その幅広い仕事を見ると、私たちはもう何も言う事ができません。

[その高さにおいて]
そればかりではありません。聖パウロは、「この事を誇らないけれども、しかし天の最も高い、人間の言葉で言う事ができない天主の神秘を見た。」聖パウロほど、生きている間にそれほど高い神秘的な体験をした者はない、おそらくモーゼがそれに匹敵するかどうか、それほどの高い霊的な生活を送っていながらも、聖パウロは私たちにその「そんな事は私は誇らない」と言います。私たちの祈りの生活は一体どうでしょうか。

[その深さにおいて]
しかも聖パウロは、人間として多くの苦しみがありました。聖パウロははっきりとは言わないのですけれども、棘が与えられて、何か誘惑があったのでしょうか、あるいは何か体に傷を負っていたのでしょうか、あるいは何か不自由な事があって非常に困っていた事だったでしょう。「三度ひたすらお願いした。ぜひこのこれを取って下さい。」しかしそれさえも聞いてもらえず、「お前にとって私の恵みで十分だ。」そして聖パウロは、「まさにこの私の弱さ、この苦しみ、私が受けるこの苦悩、これを誇ろう。これこそが俺のものだ」と言っています。その苦しさの深みを見ると、私たちの苦しみは一体何でしょうか。

まさに聖パウロの人生は、四旬節の人生でした。戦う者の、イエズス・キリストの人生でした。ではそのような聖パウロのような実り豊かなものを私たちに見せて、聖パウロの取り次ぎをも祈らせて、次にイエズス様の言葉を聞かせます。

第2のポイントです。それは私たちは年がら年中聖パウロの言葉を通して、あるいはイエズス様の御言葉という天主の御言葉を、イエズス・キリスト様を私たちは受けているのに、御聖体拝領をしているのに、耳で聞いているのに、しかしあまり実っていない。一体何だろうか。すると、「種は同じなのだけれども、実は受ける土地が違うんじゃないか」という事を私たちに教えてくれます。色んな種類の土地がある。

1つは、皆があっちに行ったりこっちに行ったり通って、踏み固められて硬くなって、種が入る余地のない、踏み固められた、厚い面の顔をした霊魂だ。染み透る余地がない。この世の事で、人々で、流行で、あるいは色んなこの世の行ったり来たりで、それでいっぱい、という霊魂。

もう1つは、石だらけで水が無いので、とても根が無くて、太陽が出ればすぐ乾いてしまう。あるいは土はあるのだけれども、他に雑草がたくさんいるので、結局長続きしない、窒息してしまう。イエズス様がよくきれいに分かりやすく説明されている通りです。

私たちはこの四旬節にこの例えを聞かされて、「あぁ、今まで私たちの霊魂はもしかしたら、この道路のようだったのではないか。私たちの霊魂は確かにイエズス様の御言葉を聞いた、物理的に聞いた、受けたようだけれども、しかし心はこの世の事で踏み固められていて、あるいは何を食べよう、何をどんなファッションを追おうとか、あるいはどんなYouTubeを見よう、どんなFacebookを、等と言ってそちらの方で、あるいは更に邪悪な考えによって、世俗の考えによって、イエズス様の入る余地が全くなかったのではないか。」

それで私たちは今日この福音を読むと、「どうぞイエズス様、私の心を砕いて下さい。罪に凝り固まった私の心を粉々にして、そしてイエズス様の恵みが染み透る事ができるようにして下さい。罪の痛悔を与えて下さい」と祈らざるを得ません。「どうぞこのカチコチだった心を、どうぞ柔らげて下さい。恵みで溶かして下さい。」

あるいはもしかしたら私たちの心には、お恵みの根が育つのを阻害する石がいっぱいかもしれません。「どうぞイエズス様、この石を取るのを手伝って下さい。お祈りの力でどうぞこの石を柔らかくして下さい。この固まった泥を柔らかくして下さい、石を取り除いて下さい、罪の機会を取り除いて下さい。私の取り除くべき石はどこにあるでしょうか、教えて下さい。」

あるいは「この私の周りにたくさん育っている雑草、霊魂を窒息させるという雑草、これを取るのを手伝って下さい。一人で取る事はできません。聖パウロ、助けて下さい。私たちの一人の力では何もできません、どうぞ助けて下さい、聖パウロ。」

そして私たちの雑草を取る、イエズス・キリストにお祈りをする、四旬節の犠牲を捧げるという準備をしようと、良い土地になろう、このままではだめだ、という事を私たちに気が付かせてくれます。

では最後に、私たちはどのように決心させるでしょうか?

教会のプログラムによれば、それは私たちを「皆、聖体拝領するように、イエズス様の御言葉、天主の御言葉を本当に私たちの霊魂に受けるように」と招いています。

「そして教会と一緒にこの歌を歌え、“Introibo ad altare Dei”『私は、天主の祭壇の上に行こう。』今から四旬節の犠牲を、いけにえを捧げる決心を立てよう。今から祈りをしよう。今から祭壇に昇ろう。今から四旬節に入る覚悟をしよう」と。

その時にこの教会のプログラムに従って私たちがミサに与るのならば、私たちの四旬節は実り豊かな、何百倍もの実りをもたらすものとなる事でしょう。そしてその事ができますように聖パウロに、そしてマリア様の汚れなき御心にお祈り致しましょう。

“Libenter igitur gloriabor in infirmitatibus meis.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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