Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2018年2月3日(初土)  「マリア様の汚れなき御心の観点から、シメオンとイエズス様との出会いを黙想する」

2018年03月24日 | お説教・霊的講話
2018年2月3日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年2月3日、聖母の土曜日、2月の初土曜日で、聖母の汚れなき御心のミサをしております。今日のこの御ミサの後に、感謝のお祈りをいつものように致します。

その後には、今日は聖ブラジオの記念日でもありますので、聖ブラジオの喉の祝別という行事を行いたいと思います。喉の祝別をご希望の方はぜひいらして下さい。御聖体拝領のように跪いて、そして司祭からローソクの、聖ブラジオのローソクによって祝福を受けて下さい。聖ブラジオは14救難聖人の1人で、昔から特に中世では特別の信心があります。

今日は公教要理で、マリア様は御潔めの式を一体なぜなさったのか、マリア様は潔められる必要があったのか。イエズス様は天主の御子なのに、なぜ神殿に捧げられたのか。何で天主イエズス様は天主の子羊なのに、それを贖う為に子羊ではなくて鳩を1つがいを捧げられたのか、おかしいじゃないか、という疑問に対して、聖トマス・アクィナスが、「いや、それはこうだ」とズバリと答えていますので、それを皆さんにご紹介したいと思っています。

今日は初土曜、その初土のここで信心を皆さんなさって下さい。

今日は、「ファチマの聖母のグレゴリオ聖歌の会」の練習会もありますので、それも練習なさって下さい。

次のミサは2月11日主日と、12日の月曜日です。月曜日は最初は6時30分の予定でしたが、国民の祝日ですので9時30分に変更致します。主日の夕方18時と、月曜日振替休日の朝の9時30分からミサがあります。どうぞいらして下さい。



“Adeamus cum fiducia ad thronum gratiae.”
「信頼をもって、天主の恵みの玉座に近付こう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、待ちに待った初土曜日がやって来ました。今日は初土の信心をする事ができます。私たちは初土の信心の黙想をしてきましたが、これで4回目になります。今日は初土の信心をする為にこの意向を新たに致しましょう。

マリア様は仰いました、「天主はこの地上に、聖母の汚れなき御心の信心を確立する事を望んでおられる。もしもこれが聞き入れられれば、多くの霊魂は救われて、そしてこの世に平和が訪れる。」

つまり、核戦争などない、生物兵器も使われない、化学兵器も使われない、平和が訪れるのです。

しかし「もしもこの信心を、もしもこの私のメッセージが聞き入れられないならば、多くの霊魂は地獄に落ちる。ロシアはその誤謬を世界中に広める、戦争を挑発する、飢饉と教会に対する迫害が来る。多くの国々は滅びてしまう、無くなってしまう、民族は無くなってしまう。」

つまりこの地上は地獄のようになってしまうのです。

ですから、私たちがもしも平和に生活する為には、確かに自衛隊も必要でしょう、確かに軍隊も必要でしょう、しかしもっと必要な事があります。それは、私たちがマリア様のメッセージを聞いて、汚れなき御心への信心を行う事です。

もしもこれを行なったら、私たちはどこのノーベル平和賞を頂くような政治家よりも、平和の為に貢献する事ができます。平和を作り出すものとなる事ができます。これこそが天主様のご計画で、私たちはぜひこの平和を求めています。

「もしも」とマリア様は仰います、「もしもこの汚れなき御心の信心を私たちが実践するなら、私はその人に永遠の救いを約束します。そればかりか、私の手によって天主の玉座に飾られた特別の花のように、天主にとってとても大切なものとなります。」「大聖人になります、つまり」と仰ったのです。ですからぜひこの初土の信心をなさって下さい。

とても簡単です。4つの事をすれば良いのです。1つは、今日「マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償いたい、マリア様を慰めたい」という意向を持って御聖体拝領をすることです。第2にその同じ意向を持って告解をなさって下さい。第3に今日その意向を持ってロザリオを捧げて下さい。

もうロザリオは皆さん捧げました。多くの方はもう告解を済ませました。あとは御聖体拝領をするだけです。

あともう1つがあるのです。それがいつも私たちがこの初土の為に準備をしてきた、練習をしてきた、毎日備えてきた15分の黙想です。

今日この15分の黙想では、マリア様の御潔めの式、イエズス様の奉献を提案致します。昨日ちょうどその祝日を祝ったばかりでありますし、そして今日ちょうど順番によれば、喜びの第4玄義を黙想する順番であるからです。

では今日はどのような黙想を致しましょうか。昨日私たちはこの祝日にシメオンとなりました。ですから皆さん昨日黙想したようにシメオンとなって、神殿に来られた世の光を皆さんの腕に受け取って下さい。

「この世の光を遂に見た。イエズス様を御聖体拝領で受けた。もうこの世に未練はない」というこのシメオンの気持ちと心を合わせて、「主よ、御言葉の通り平和に逝かして下さい」と何度も何度もお祈りしながら黙想を、15分の黙想を終えてもとても良いと思います。

このエルサレムの神殿は、昔はモーゼの石の十戒を入れていた物がありました。しかし冷たい石で、石に刻まれた十戒が人々の心に何の響きを持っていた事でしょうか。しかし真の天主の愛に満ちたその律法を、天主の掟を私たちに実践させる事ができる御恵みを持ったイエズス・キリストが、遂にこの世の光がエルサレムの神殿に入って来た。マリア様によってもたらされた。それを待ちに待ったシメオン。何という感動的な出会いだったでしょうか。それをも黙想なさって下さい。

今日私が提案したいのは、もう少し別の角度でです。今日は初土曜なので、マリア様の汚れなき御心の観点から、このシメオンとイエズス様との出会いを黙想する事が良いと思います。もしもこれが気に入ったと思ったらそれをなさって下さい。

マリア様は救い主の母として、40日後にモーゼの掟に従って自発的に、決してそれをする義務はなかったのですけれども、イエズス様を神殿にお運びして、お連れして、そしてご自分は御潔めの式に与りました。ちょうど、税金を本当は払わなくてよいという免除を与えられているにもかかわらず、そのあえて税金を払ったとか、あるいは本当はビジネスクラスで、本当は長い行列を並ばなくてもよいのだけれども、あえて並んだとか、マリア様は特に本当ならばその義務はなかったのですけれども、そのご謙遜から、その主の律法を愛するという心から、イエズス様をお連れしました。

すると、他の女性と変わりもしなかったマリア様ですけれども、おそらく司祭たちもマリア様と聖ヨゼフ様を見て、イエズス様を見て、何ら他の女性とお母さんたちと変わらない貧しい夫婦だ、貧しい子供だ、としか見えなかったかもしれませんが、2人だけ、イエズス様を連れたマリア様の事を区別した人、識別した人がやって来ました。

見るからに敬虔で、見るからに義人。額にはシワがいっぱいあって、そして体はおそらく断食や、あるいは苦行で少し弱っていたかもしれません。年を取っていたのでちょっと体が不自由だったかもしれませんが、しかししっかりした足取りでマリア様の方にやって来る老人がいました。聖霊によって導かれて来た男でした。またすぐ近くには有名な、アンナという夫人も寡婦もやって来ました。

シメオンはマリア様の目をしっかりとご覧になり、そしてイエズス様の方を赤ちゃんをご覧になると、微笑みを浮べて、そして目からは何かうるうると涙が満ちてくるではないでしょうか。マリア様はそのシメオンの顔をじっと見つめています。シメオンはおそらく、「奥さん、どうぞこの少し赤ちゃんを抱かせて頂く事はできますか?」とお願いしたに違いありません。マリア様は微笑んで、きっとシメオンに赤ちゃんを与えました。

待ちに待った救い主を見たシメオン。有名な詩を詠います。
「主よ、平和の内に、御言葉の通り私を逝かせて下さい。私の目は、あなたが万民の前に備えたこの救い主を見たからです。」「イエズス・キリスト以外に救いはない。これこそが全人類がそれによって救われなければならない救世主だ。これこそ諸国の全ての民族を照らすべき啓示の光、輝かしい世の光、真の真理の光。そしてイスラエル、そして新しい選ばれた民イスラエルの栄光。天国での報い。そして諸聖人の栄光と喜び」と。

シメオンがこう言い終わると、マリア様は、「この人は本当に聖霊によって満たされた人なのだ」という事を深く理解します。マリア様はその言葉を、1つ1つの言葉を覚えて、心に刻んでおかれました。

するとシメオンはマリア様とヨゼフ様を祝福して、「あぁ、何とこの両親は幸せな方だろうか。祝された方だろうか」と言うのです。

今度はマリア様の方を見て言います。
「奥さん、この子は多くの人の立ち上がりと、そして滅びの為に置かれた逆らいのしるしとなるでしょう。この子によって全ての人の心が明らかにされるでしょう。この子は剣を持ってやって来ました。この子に反対する人逆らう人々と、賛成する人々、この子を信じる人々と、これを信じない人々、この子によって救われる人々と、滅びる人々がいるでしょう。この子は救いの為にやって来たにもかかわらず、罪によって盲目となって、情念によって盲目となって、この子を受け入れない闇の勢力があるでしょう。光が輝く時に、闇がこの光を覆い包んでしまおうとするでしょう。」

イエズス様に対してその預言の言葉が、マリア様になされました。
「そしてあなたの心も剣で貫かれるでしょう。」

愛する兄弟の皆さん、このシメオンの言葉を、後半の言葉も、今日、黙想なさって下さい。

イエズス様は全人類の救いの為にこの世に来られた真の光でした。しかし、光は闇に輝いたけれども、闇はこれを受け入れませんでした。イエズス様はお生まれなったその瞬間から、その最初から、この光を消してしまおうという闇の勢力、例えばヘロデによって除去されようとされました。そしてその光をイエズス様を、いつもこの光を保とうとすればするほど、闇の勢力によって私たちは苦しまなければならない、マリア様はこのイエズス様といつも一致しよう一致しようとしているが為に、光を守ろうとしているが為に「その心は剣で貫かされるだろう、死ぬほどの苦しみを受けるだろう」と預言がありました。

それは私たちにとっても同じです。もしも私たちが世の光であるイエズス様を手にとって、この闇の世を、司祭の後に従って、イエズス・キリストの後に従って、我が十字架を担って歩もうとするならば、闇の勢力は冷たい風は、このローソクの光をイエズス様の光を消してしまおうとするでしょう。私たちはそれを光を守る為に、多くの犠牲と愛を努力を払わなければなりません、苦しみを捧げなければなりません。

ではその時に一体、その光を守る為のカバーとなって下さるものは何でしょうか?マリア様の汚れなき御心です。罪人の拠り所、避難所、私たちの避難所であるマリア様の汚れなき御心です。そこに行けば、私たちはそのイエズス様の灯火を決して消す事なく守る事ができます。剣で貫かされたマリア様の汚れなき御心に今日入る事に致しましょう。

私たちはできれば、この逆らいのしるしとなるイエズス様に従って、私たちの特に態度と行動、できれば私たちの言葉によって、この世を照らし出す事ができますように、闇を照らす事ができますように。

それは私たちが傲慢であるからではなく、イエズス様の御憐れみに参与して、多くの闇が多くの方々がイエズス様の方に近寄る事ができるように、その手伝いをする事ができるように、マリア様の御心を慰める事ができるように、その為です。

どうぞ今日は初土の信心をよくなさって下さい。遂に初土がやって来ました。今日はマリア様の御潔めの式、イエズス様の奉献を黙想して下さい。

“Adeamus cum fiducia ad thronum gratiae.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年2月2日(初金)  童貞聖マリアの御浄め 「私たちはシメオンです。」

2018年03月24日 | お説教・霊的講話
2018年2月2日(初金)童貞聖マリアの御浄めのミサ:私たちはシメオンです。
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年2月2日、2月の初金曜日、童貞聖マリアの御潔めのミサをしております。今日はローソクの行列と聖時間がありますので、御説教は短くしたいと思っています。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は私たちはシメオンです。

この前のミサの時に私たちは、カナの婚宴の奇跡の事を黙想しました。その時に私たちは結婚式を祝っていました。私たちの主イエズス・キリストと私たちの霊魂、つまりイエズス・キリストと教会の神秘的な婚姻の結婚式に与っていた、新郎新婦の、そこにイエズス様とマリア様をお呼びした時の事を黙想しました。

今日の祝日はその続きです。
結婚式が終わって、そして新郎新婦は二人で時を過ごす、花嫁は新郎を自分の腕に抱く、という事を教会は祝っています。ですから、「花嫁であるシオンよ、教会よ、その寝室を飾れ」と。

主を迎えよ、「王たるキリストを迎え受け入れよ」と言っています。私たちはシメオンとして、イエズス・キリスト様の花嫁として、イエズス様を私たちの胸に腕に抱こうとします。今日はシメオンになりきって下さい。

老シメオンはイエズス様をご覧になった時、マリア様にお願いして、「どうぞ腕に抱かせて下さい」と言った時に、一体何歳だったでしょうか。90歳だったでしょうか、100歳だったでしょうか、あるいは120歳だったでしょうか。

シメオンは人類を代表して、救い主と出会いました。シメオンにとってこの世の事はどうでもよかったのです。この世の事に一切未練はありませんでした。シメオンが1つだけこの世で欲しいと望んでいた事は、イエズス様を救い主を、「天主が全人類の前に準備されたその救い主を、この目で一目見たい。それができればもう十分だ。」これだけでした。救い主が来られるという事を確認したい、それだけが唯一の望みでした。その為に、聖霊に満たされて祈りと犠牲との生活を送っていました。

私たちもシメオンです。「救い主を受けさえすれば、それでその他は一切いらない」というシメオンです、花嫁です。

シメオンができなかった事を私たちはする事ができます。なぜかというと、シメオンが知らなかったような、マリア様がどのような、どれほど苦しい剣を受けたのか、イエズス様がどれほど逆らいのしるしとなったのか、という事を私たちは知らされているからです。しかも21世紀に生きる私たちは、聖骸布の秘密や、イエズス様の御復活のしるしや、その他受難の秘密を詳しく知る事ができています。

シメオンができなかった事を私たちはする事ができます。それは、ただイエズス様を目に見るのみならず、イエズス様を腕で抱くのみならず、私たちはイエズス様の教えを聞き、イエズス様の御顔を、成長して苦しみを受けた顔を見る事ができ、そして復活したイエズス様の御体を、私たちが拝領する事ができるからです。

私たちもシメオンと共に、「今こそ、御言葉の通り、安らかに逝かせて下さい。もうこれで十分です。私たちにとってイエズス様を受ける事以外、他に望みはありません。これでもう幸せです」と言う事ができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



2018年1月21日(主日)  御公現後第3主日「イエズス様は私たちを救う方、特に異邦人と罪人たちを招いて癒す方。謙遜と信頼を持って近寄れ。」

2018年03月24日 | お説教・霊的講話
2018年1月21日(主日)御公現後第3主日のミサ
小野田神父 説教


日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2018年1月21日、御公現後第3主日のミサをしております。今日御ミサの後には、いつもの通りにミサの後の祈りを致しましょう。その後に、1月の後半に恒例の踏絵の償いの儀式を行いたいと思っています。

新しく来た方の為にも説明を申し上げますと、毎年1月には特に長崎の方面では、250年間に渡って踏み絵というものが行われていました。キリスト教徒を探し出す為にされたもので、特にマリア様の御像が使われて、そのマリア様を足踏みにされていました。それが公式の行事でした。それで私たちはそのマリア様の受けたその屈辱を、その悲しみをお慰めする為に、1月にはその代わりに踏み絵に接吻をして差し上げたいと思っています。ですから皆さんも、洗礼を受けている方も受けていない方もどうぞいらして、マリア様のその踏まれた御影に、イエズス様と共に苦しんだマリア様にそれをお捧げして下さい。

今日は事情があり、公教要理を今週もお休みしなければならなくなりました。そこで晩課を14時30分頃から始めたいと思っています。どうぞご理解ご了承下さい。

明日も朝の7時からミサがあります。次の主日のミサは、2月4日です。



“Omnipotens sempiterne Deus, infirmitatem nostram propitius respice.”
「全能の永遠の天主よ、私たちの弱さを快く顧みて下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日御公現後第3主日のミサで、教会は今引用したように、集祷文をもって全教会の名前で祈りました。一体なぜなのでしょうか?一体このミサは何を私たちに教えたいと思っているのでしょうか?

そこで今日のこのミサにおいて、御公現の後のミサという事で、登場人物が3グループあります。3種類の人々が出てきて、御公現の時には3人の博士たちが東からやって来ましたが、特に御公現の後のミサでは、この3つの種類の方々が登場してきて私たちに何かを教えようとしています。

特にこの第3主日では、イエズス様は私たちを救う方として、特に異邦人と罪人たちを招いて癒す方として現れます。それをぜひ知って下さい、その黙想を提案します。このミサはどうなっているのか?

最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

今日のこのミサの入祭誦を見ると、あるいは昇階誦とアレルヤ誦を見ると、3つのグループが登場するという事が分かります。

まず入祭誦では、“Adorate Deum omnes angeli ejus. ”「主を、天主を礼拝せよ。全ての主の天使たちよ。」

ここでまず現れてくるのが、天主の御稜威に満ちた、何千何万何億何兆何京という数かぞえきれないほどの、天の星々よりもはるかに多い天使たちからの礼拝を受けて、その上に燦然と支配している永遠の栄光の天主の御稜威。この主を礼拝せよ。「王たるキリスト」が現れます。昇階誦でも同じです。

次に出て来るのが、「シオン」という名前で言われる単語です。このシオンというのは昇階誦でも出てきます。聖書の考古学的な話によれば、エルサレムにそのある山をシオンの山と言って、特にエルサレムの城壁のこの砦をシオンと言ったのです。遂には山全体がシオンとなって、エルサレムの事をシオンと言うようになりました。

でもこれは典礼においては、実は「イエズス・キリストの教会」の事であって、新しいイスラエルであって、新しいシオン、カトリック教会の事です。第2に出てくるのは、つまり「教会」の事なのです。この王である方キリストは、昇階誦によると、シオンを立てる方であって、そのシオンを訪問する方であって、この第2に出てくるのはつまり教会です。

第3に出てくるのは、「ユダの娘たち」。これはもう皆さんすぐお分かりのように、「教会の子供たち」です。新しいユダであるカトリック教会のシンボルたちの事です。この昇階誦やアレルヤで歌われるような、「この地上の王、全ての王たちは、その主を礼拝せよ。」あるいは「多くの島たちは喜べ」と言った時も、やはり将来教会に属するべき異邦人たちの事です。

ではまず第1に中心に現れるのが、全能の力を持った、私たちに全ての善を施して、私たちの弱さを憐れむ力ある天主イエズス・キリスト、王たるイエズス・キリストの御姿ですけれども、第2に出てくるのが、そのイエズス・キリストの立てる教会、シオンです。

ところで教会はこのシオンに、「喜べ。この主の話した言葉を聞いたシオンよ、喜べ」と言います。なぜ「喜べ」かというと、それはすなわち福音書や書簡で読まれる教会での生活、教会でこれから1年私たちが行なわされようとする事について予告があるので、「喜べ」と言います。

では一体何があるかというと、福音では、癩病の人が癒されます。それを司祭に見せに行けと言います、報告せよと言います。あるいは百夫長のしもべが癒されます。これは教会の生活でいえば、「洗礼」や、あるいは「悔悛の秘跡」の事を表しています。イエズス様はまた更に、特に百夫長の信仰を非常に褒め讃えて、「私は言う、東の国からも西の国からも多くの人々が宴席に与って来た。アブラハムとヤコブとイサクの宴席に与るだろう。」その宴席というのは何かというと、つまり「御聖体の秘跡」の事です。また聖パウロは書簡の中で「愛徳」について語っています。

このような事がこれから行われるので、「シオンよ、教会よ、喜べ」と言います。

ではそれだけなのでしょうか?教会が一番私たちに教えたい、説得したい、ぜひそこから学んでもらいたい、というのはこの次のところです。第3の、信徒たちの事です。ユダの娘たちはどうするべきか、という事です。

「ユダの娘たちは喜んだ。喜びに踊った。地は喜びに踊った。多くの島々は喜びに踊った。」そこで教会は私たちに、「喜ぶように」と。なぜかというと、「私たちはこの栄光永遠の天主聖父によって、王たるキリストによって特別の恵みを受けるから。」特に印象的なのが奉献誦です、「天主の右の手は、私に力ある事を行った。私はもう死なない」とさえも言います。

では一体、私たちはどのように、シオンの娘としてどのような態度を取らなければならないのでしょうか?「キリストに近寄る罪人、異邦人として学べ」と教会は教えています。

聖マテオの福音の第8章です。まず癩病の人をご覧になって下さい。非常に慎ましくて、お願いではない提案をします、「もしも、主よ、もしもあなたがそういう事をお望みならば、そうする事ができるのですが。」私は何を望んでいるかとか、私は何をしてほしいとか、私はこう思うとかいう事は一切言いません。「もしもあなたがお望みであるならば、きっとそうする事ができるのです。私は知っています。」何という信頼、何という深い信仰を持って近付いた事でしょうか。どれほど癩病に苦しんで辛い思いをしていた事でしょう。どれほどもうズケズケとお願いしたかった事でしょうか。しかしこの男はそうはしませんでした。

それと同じように教会は、私たちに対して主に近寄ってお祈りをしなさい、と招いています。ですから集祷文も私たちにこうやって祈らせます、「主よ、私たちの弱さを憐れみを持って御覧下さい。もしもお望みならば。」

次に私たちに提案するのは、百夫長です。百夫長は非常に愛深い男で、自分の部下が苦しんでるのを見て助けようとします。しかし非常に謙遜に、兵士として従順を知っている者として、決して従順に背かない男として、かといってこの位階秩序をよく知っているので、その上の目上に対しては徹底的な尊敬を持つ者として、やって来ます。

「私のしもべが苦しんでおります。でも私はあなたが家に来て下さるというほどの者ではありません。どうぞ一言さえ言って下されば大丈夫です。それで私のしもべは癒されるでしょう。」

何というこれも深い信仰と信頼を持っていた事でしょうか。イエズス様は、「このユダヤの、この全イスラエルの中でこれほどの男を見た事がない、これほどの信仰を見た事がない」とさえも宣言します。

同じように、私たちもこのイエズス様に近付くように、特に御聖体拝領の時に近付くように、と教えています。ですから私たちも御聖体拝領の前に、百夫長が言った同じ言葉を繰り返すように言います、「主よ、我不肖にして、我、霊魂の我が家に迎え奉るに足らず。」

では今日このミサの黙想として、一体どのような遷善の決心を立てなければならないでしょうか?

まず教会は、この最初の御公現の直後のミサとして、この1年私たちがどのような態度でイエズス様に近付かなければならないのか、祈ならなければならないか、どれほどの信頼と、信仰と、謙遜を持って近寄らなければならないか、という事をそのマインドをセットして、教えてくれます。

「さぁ、これから1年こうしていけば良いぞ」と。私たちをユダの娘として、癩病を負う者として、異邦人として、「しかし、信頼して近付くように」と招いています。ですから私たちもどれほどの罪深い者であったとしても、どれほど弱い者であったとしても、どれほど値しない者であったとしても、安心して慎ましく主に近寄る事に致しましょう。謙遜と信頼を持って近寄る事に致しましょう。これが第1の遷善の決心の提案です。

第2は最後は、これをこのますます良くする為には、マリア様です。なぜかというと、マリア様はイエズス様に、イエズス様がお望みになるように、イエズス様に提案するからです。最初の奇跡も、カナでの奇跡もそうでした、「彼らにはもうブドウ酒がありません。」イエズス様は一体、一度拒否さえするような態度を取ります。マリア様は決してお願いしませんでした、しかしイエズス様はそれをお望みになります、あまりにもご謙遜で慎ましいので。

またある人は、「マリア様などいらない。私はイエズス様と直接関係すればそれで良いのだ」と言うのですけれども、しかしそれはあまりにも私たちの立場をよくわきまえていない態度です。私たちが一体どのような者であるかを知れば知るほど、どうしても近寄る事ができなくなりますが、イエズス様にあまりにも近寄るのが畏れ多くなってしまいますけれども、それでもマリア様と一緒に行く事によって信頼を、ますます信頼と信仰を持って近寄る事ができるようになります。

ですから今日最後の提案は、「マリア様をもって近寄る」という事です。この1年、ぜひこの態度でミサに、また御聖体拝領に与って下さい。

“Omnipotens sempiterne Deus, infirmitatem nostram propitius respice.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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