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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 7.2.1.「この飾り気のなさに彼が好きになった」

2010年08月18日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅱ.再建と準備


「この飾り気のなさに彼が好きになった」


  哲学修学院の新校長がモルタンに到着したのは1945年11月1日の冷たい晩秋の朝だった。彼は1ヶ月の休暇をトゥルクワンにいる家族と過ごす事が出来た。そこでは弟のミシェルの家に泊まった。

ロラン神父が彼に言った。
「何れにしても、貴方の先任者だったリオ(Riaud)神父様は貴方に会う事はないでしょう。と言うのも、総長様が出来るだけ早くカナダでの新しい役職を引き受けるようにと彼に依頼したからなんです。マシェ(Macher)神父が、貴方の到着まで舵を取ってくれるでしょう。」

  マルセル神父はパリからモルタンまでを車でロラン神父と共に旅し 、この旅行中、自分の長上かつ友人が、新しい役職のデリケートな性質を説明する時は、幾分かそれに恐る恐る耳を傾けた。諸聖人の大祝日の朝、一行の車は悲痛な思いにさせる破壊し尽くされた町の瓦礫の中を通過し、未だに蝶つがいの外れた正面門を通ってあの大修道院に入ると、不気味な外見の建物の前で停止した。そこにいる司祭たちは、一行の到着を知るなり中庭に一同集まった。そしてマシェ神父は前に進み出て「ようこそ、神父様」と挨拶した。

  マルセル神父は集合した司祭たちの紹介を受けた。
「こちらはノルマンディー出身で私たちの会計係を務めるフランソワ(François)神父様です。こちらは、哲学を教えておられます元海軍士官(彼はそれを感じさせた)のフェリックス・シモン(Félix Simon)神父様。そしてバカロレアを準備している生徒たちに「大学の哲学」を教えておられるマルセル・ディボー(Marcel Diebold)神父様(非常に厳格そうに見えた)です。ローマでは貴方の同僚で、スコラ哲学を教えておられるヴィドロ(Videlo)神父様(クラスでの話しぶりは呟くようで聴き取りにくかった)。ブルターニュ地方出身で歴史を教えておられますジャン・ロゾ(Jean Rozo)神父様(雄弁で教養がある)。また引退しておられますジャンヴラン(Jenvrin)神父様。そして「大学の哲学」を教えておられるミュラー(Muller)神父様です。」

  次に神学生たちが来た。彼らの一人であったエマニュエル・バラ(Emmanuel Barras)神父は、後年回想している。
「今でも彼が、挨拶しながらその両腕を拡げられ、私たちに向って『ただ今来ました!』と飾らずに言っているのを思い浮かべる事が出来ます。私たちは、この飾り気のなさに彼が好きになったのです。」

  最後に、別々に独自の共同体を形成していた修道士たちがやって来た。忘却(の淵)から非常に多くの細部に亘る事柄を救ってくれたルフェーブル神父の覚え書きは、私たちに次のような修道士たちの名前を提供している。ロベール(Robert)、ニコラ(Nicolas)、ロンジャン(Longin)、ロジェ(Roger)、ギ(Guy)、ベルナール(Bernard)、マラン(Marin)、ピエール(Pierre)などの修道士たち、さらにアコノ(Akono)に教会を建て、2階の桟敷(さじき)に至る螺旋階段を取り付けるということを思いつき(それは詳細な設計図もなく組み立てられたが、最上段まで正確な位置で完成した)アルフォンソ(Alphonse)修道士である。また、そこには1948年に亡くなりこの大修道院の公園にある小さな共同墓地に埋葬されるだろうメレーヌ(Mélaine)修道士もいた。さらには、動物たちと非常に多くの時間を過ごした労働者、ユード(Eudes)修道士もいた。周りの人々が彼の事をよくこう冷やかしていた。「牛たちはユード修道士の臭いがするんです!」

 全ての仕事は前述した人々の中で従事された。庭師、大工、鍛冶屋、靴直し、仕立屋、それから床屋であった。それに加えて受付をしてくれる平信徒の御手伝いもいた。

  1932年には会員12人を数えた聖霊女子修道会の共同体は、修学院の為に洗濯、掃除、更に料理 をしてくれた。マルセル神父は彼女たちに必要なものはないかと非常に気を使ったので、修道女たちは「ついに私たちに父親が与えられましたね!」と言っていたものだ。 しかしながら、持ち時間の殆どは生徒たちの為に取って置かれた。ロラン神父はこう言って彼を安心させた。
「貴方は何一つ授業を担当されませんが、土曜日の校長による講話と、日々の霊的講話はして頂く事になります。」

  諸聖人の大祝日中、その到着を楽しみに待ち構えていた新しい修学院校長を祝った。翌日の夜、ルフェーブル神父は修学院の学生たちを講義室に呼び集めてとても簡単に自己紹介をした。トゥルクワンに住む自分の友人たちに向っては、自分の事を“フランスでの人生をやり直そうと試みるアフリカのジャングルに住む人”だと表現した。これと同じ謙遜なアイロニーで彼は神学生たちの心を開かせた。そして、与えられた勉強時間は上手く使うようにと彼らを招いた。
「あなた方がここで費やす一分一分について、あなた方の職務を待っている霊魂にその責任を負っています。」そして彼はこう締め括った。「私に関して言えば、持っているものは何でも皆さんに差し上げます。」


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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 7.1.3.モルタンに於ける戦闘

2010年08月17日 | ルフェーブル大司教の伝記
モルタンに於ける戦闘(1944年8月1日-14日)

  連合軍によるノルマンディー上陸の翌日である1944年6月7日、この大修道院は野戦病院へと姿を変え、6月8日から最初の戦闘で傷を負っていたドイツ兵の搬送が始まった。巨大な赤十字がこの大修道院と他に幾つもあった病院の屋根にペンキで塗られ、この町の保護を天に懇願したかのようである。

 パットン(Patton)の大戦車軍団がアヴランシュ(Avranche)を目指して前進する間に、アメリカ第1軍集団はモルタンに向って東へ進軍していた。8月3日、ドイツ軍がこの町を放棄したので、早いうちからこの町の住民は安堵のため息を吐く事が出来ると思った。しかし不運にも、ドイツ軍は総統【ヒットラー】によって決定された反撃を準備する為、第314高地を越えて東に後退していただけだった。この反撃が8月5日の午後11時に空爆を以って始まると、炎上したモルタンの人々は避難した。

 その日の夜、ハウサー(Hausser)将軍率いる装甲(Panzer)戦車師団が、パットン戦車隊を後方から切断しようと西方に突進した。こうしてドイツ軍はモルタンを再度占領したのである。

 しかし7日朝、イギリス空軍(RAF)のタイフーン飛行大隊がドイツ軍陣地を低空爆撃し、驚くほどの正確さによってドイツ軍車両の3分の1を破壊した。白の大修道院の周辺地区では、アメリカ兵たちが小銃や、戦車、さらに大砲などによる激しい集中攻撃の中にあっても、自分たちの陣地を死守していた。装甲戦車師団の勢いは失せてしまった。凄まじい戦闘が続いたが、11日になってドイツ兵たちは、ファレーズ(Falaise)と、アランソン(Alençon)間の巧妙な挟撃作戦による包囲網によって危険にさらされた。フォン・クルーゲ元帥(von Kluge)は撤退指令を出した。

 モルタンの80パーセントは破壊された。廃墟の上に、希望の印であるかのように無傷の塔の輪郭を残して聖堂参事会の聖エヴル(Saint Evroult)教会が建っているだけだった。

  聖霊修道会の司祭たちは、自分たちの建物が無事だったのを同じ天主の御保護に帰した。白の聖母は、その記念碑的な無傷の御像が建っているこの大修道院上方の公園から、自分の大修道院を見守った。それでも、8月3日から12日までの間、大修道院は18発の迫撃砲弾を壁と屋根に、100発以上の砲弾をその敷地内に、そのうち2発の爆弾は飛行機から落とされた大きなものだった。

 窓には一欠けらのガラスも残らなかったが、そこにいた司祭や修道士たちは無事であった。白の大修道院は、既に破壊されていたホスピス【老齢者や病人を受け入れる宿泊所‐訳者】にいた病人や年配者たちに加え、モルタンから避難して来た数多くの人々を温かく迎え入れた。 これらの人々は、ルフェーブル神父が到着した時にも、 “ホスピス”と呼ばれる翼に依然として収容されていた。

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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 7.1.2.ノルマンディー攻防戦における白の聖母

2010年08月16日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅰ. ノルマンディー攻防戦における白の聖母


白の大修道院


  白の大修道院は、サヴィニー(Savigny) で1112年に隠遁者ヴィタル(Vital)の姉妹アドゥリンヌ(Adeline)により創立され、1151年、純然たるシトー修道会様式に改築された。フランス革命の後、この修道院は小神学校になった。後年になって、花崗岩で出来た細くて高い建物が二つそこに加えられ、既存の大修道院の教会や回廊と相俟って、見事な中庭を形成した。1906年に公布された政教分離法は、この大修道院からそこにいた生徒たちを奪ったが、そこは1923年になって、最終的に聖霊司祭修道会に一任される事となり、哲学修学院にされた。

 修練院での修練を終え自分たちの司祭養成開始準備の整った宣教師志願者たちは、一つは2年継続クラス、もう一つは3年継続クラスから成る二つの能力別クラスに編成された。 この大修道院は1939年に軍事病院になり、全生徒たちが立ち去った。1940年の夏、これはドイツ軍によって占領された。


聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 7.1.1.モルタンに於ける戦闘

2010年08月15日 | ルフェーブル大司教の伝記
第7章 モルタンに於ける戦闘


  1938年の総会の決定に従い、聖霊司祭修道会フランス管区の本部は、1943年ロモン通りにある当会総本部から離され、パリ北部にあるピレネー通り393番地に移された。連合軍のノルマンディー上陸の日である1944年6月6日、その同じ日付に自らの司牧職務に疲れ果てたアロワズ・アマン(Aloyse Aman)神父の後を継ぎ、エミール・ロラン(Emile Laurent)神父がそこに住居を定めた。 1人の新しい人が、目新しい状況に直面しようとそこにいた。

 神学校や修練院でのマルセル・ルフェーブルの友人かつ仲間であったエミール・ロラン神父は、先ずカメルーンで小神学校の先生となり、その後はサンタ・キアラで生徒たちの補習監督者となった。1940年10月8日、フランスが2つの区域に分断された後、あるいは召集されていなかったか、あるいはドイツ軍によって解放されていたおよそ50名の生徒たちをピュイ・ドゥ・ドーム(Puy-d-Dôme)にあるセリュール(Cellule)に集めていた修学院(スコラスティカ)の校長に彼は任命された。

  シュヴィリとモルタンにあった両修学院は1939年に接収された。しかし神学受講生たちは1944年6月までシュヴィリの神学校に戻る事が出来た。ところがいた哲学受講生たちは、モルタンからブルターニュ地方のランゴネ(Langonnet)に避難しており終戦までそこに留まった。

 確かに定員は減少したが、これらの神学校は自分たちの使命を継続する事が出来、若い宣教師100人以上の養成を成し遂げた。 1945年、フランスの解放に伴い、復員兵や、解放された捕虜らが養成中の修学院に戻り、また近頃誓願を宣立したばかりの修士たちが修練院から送られて修学院の学生たちの中に加わった。人数上この喜ばしい増加には対応が迫られた。フランスでは、モルタンが最も戦争による破壊の煽りを受けていた。これらの問題に対処する為、ロラン神父は友人であるマルセル・ルフェーブル神父を重要人物かつ堅実で、さらに教義の面でも信頼の置ける再建者として選んだのだ。ロラン神父はタルディ司教に、“どのような犠牲を払ってでも彼を求めた” 。最終的には繰り返された彼の要請は承諾された。こうしてマルセル・ルフェーブル神父は、ちょうどモルタンの白の大修道院(Abbaye Blanche)の壁の中に戻され、修学院校長という困難な地位を与えられたのである。


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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.8.7.フランスへの召還

2010年08月14日 | ルフェーブル大司教の伝記
フランスへの召還
  ル・アンセック(Le Hunsec)司教から送られた非常に短い手紙には、デリケートにこう書かれていた。
「聖霊司祭修道会総長は、ルフェーブル神父がフランスに戻る事を希望します。総長は、彼を哲学修学院に送ろうと考えています。」
マルセル・ルフェーブルはこう言うだろう。
「あの短い手紙は私の心を粉々にしました。あの時、目には涙がありました。土着民たちはそれに気が付きましたが、それ程深く理解したわけではありません。」

 宣教師だけがこの悲嘆を理解出来る。それは、遠方の国で霊魂の救いの為に全力を尽くし、汗して働く事や、ファン族といればファン人になり、ガロアス族といればガロアス人になる事、その後でそれを全て離れて、帰ることをもはや望んでもいないフランスに戻らなければならなくなること。それは辛く、実にとても辛いことなのだ。

  しかしマルセル神父は直ちに冷静になって、自分からのfiat【フィアット:そうなれかし‐訳者】を捧げた。 総長はただ希望を表明していただけであったが、タルディ司教はそれが固い決意であると確認することになる。次回の評議会で、ルフェーブル神父はモルタンの“共同体の長及び哲学修練院の長” に任命されるであろう。彼に承諾が求められ、彼は従った。後日、彼は言うだろう。

「従順は常に良い事です。私は、自分の義務を果たしているだけであると言う幸福な思いを抱いて戻りました。」「どうして自分の長上たちは私をここやあそこ、又はどこかへ送ろうとするのかなどと私は絶対に詮索せず、コンプレックスも無く、自分が去ったばかりの職務の喪失を嘆いたりする事なく、仕事に取り掛かろうと決意したのです。それも天主の恩寵のおかげです!皆さんは自分の気質と性格によって、さらに自分の受けた養成に従って生きており、天主様は皆さんに自分の仕事を成し遂げる為に身分上の恩寵をお与えになります。私たちが天主の御眼の下で働いるのは(…)成功した経歴を持つ為ではなく、霊魂を救い、善を行う為なのです。 」

  彼は後任者のネラン(Neyrand)神父に引き継ぎを行い、自分のライフルはカテキスタのアンリー・ンゴム(Henri Ngome)に、幾つか持っていた寝具は使用人のピエール・ポールに与えた。それから、宣教区に別れの挨拶を言う為に出ていき、シスターたちや学生たちの方に出向いた。子供たちは嘆き悲しんだ。マルセル神父はガロラ語で「我が天主よ」としか言う事しか出来なかった。信徒たちは涙を浮かべてそこに立ち、彼をそのまま去らせたくなかった。彼らは自分たちのお金を出し合ってリーブルヴィルに電報を送った。

 「マルセル神父を私たちのために残して下さい。ランバレネを彼にとって最後の任地になりますように。もし彼が死んだら、埋葬の場所はランバレネです。」
タルディ司教は、仮にランバレネがルフェーブル神父を必要としたとしても、公教会は彼を、より重要な事柄の為に必要としていると回答しただけであった。
  川船はマルセル神父をポールジェンティまで連れて行き、次のリーブルヴィル行きの定期船に搭乗出来るまで、アンリ・クレマン神父によって運営されている宣教区で待った。 この【リーブルヴィルの】聖マリア宣教区で、司教と兄であるルネ神父に分かれを告げると、通常は高齢または虚弱なヨーロッパ人たちを本国へ送還する軍用機の一機に搭乗した。それは、北ナイジェリアのドゥアラ(Douala)や、カノ(Kano)、その他にはアルジェに立ち寄る小型飛行機であった。パリのロモン通りで、ル・アンセック司教が彼を温かく迎え入れると、それから彼を地区長神父の所へ送った。司教は彼に言った。
「ロラン(Laurent)神父と会いに行きなさい。彼が犯人です!彼が貴方を欲しがっていたのですよ!」

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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.8.6.幾つもの湖を巡回して

2010年08月13日 | ルフェーブル大司教の伝記
幾つもの湖を巡回して

 マルセル神父が未開地にある村々と森林地帯に設置された作業場への視察の間にもたらしたものは、キリスト教による罪の奴隷状態からの解放だ。マドゥアカ(Madouaka)と呼ばれるモーターボートに乗り、彼は西部にあるゴメ湖(Gomé)周辺の作業場を訪問した。鉱山内と似て、そこで働く労働者たちの状態は哀れであった。
「新しい労働者の募集方法は酷く恥ずかしいものだ。それは奴隷制度だ。労働条件や、報酬、それから住居ときたら、惨めなもので、特に鉱山ではほとんどそうだ。原住民たちは、村の支援と環境、それに彼らが願っている宗教的な助けがあるならば良い仕事をする事が出来る。」

  ルフェーブル神父は、自分がこれらの労働者たちを集めて、ミサに与らせあるいは告解をさせる許可を取る時は何時も、経営者側に対してこれらの事を言及しない事は決してなかった。時折、最も遠方の場所に達するために、“一歩一歩、重い足取りで歩かなければ”ならず、マルセル神父はカバンを持ち、使用人のピエール・ポールは、小さな旅行カバンを運んだ。ある日などは、彼らの踏破した道のりが30キロメートルに達した。

 彼の同伴者は言う。「ルフェーブル神父は歩くのを苦にしませんでした。彼の歩き方は驚くべきものでした。足取りは非常に軽やかで、足先だけで歩いているようでした。彼はとても柔軟でしたよ。」

 彼はこの歩き方を宣教では保った。全盲の足先に体重をかけるようにするのだ。それは僅かに子供たちを怖がらせた。子供たちは彼に“コド・コド【Kodo Kodo】” というあだ名を与えたのである。

  しかしながら、ある晩、ジャングルの中の長い道のりを一人で帰る途中、彼は道に迷ってしまった。夜が訪れていた。自分はそこで天主と共にこうやって一人死ぬのだろうと考えた。この思いに、彼の霊魂は喜びに満たされた。ここで死ぬ。道に迷って、天主と共に一人孤独に! 幸いにも、守護の天使が彼に道を見つけ出させたので、彼の視察は続行した。

  南に向かう湖地帯の巡回は、素晴らしい小旅行を生み出してくれた。オグウェ川のきらめく水は、オンポンウォナ(Omponwona:“愉快さ”の意)へ彼を連れて行った。彼はそこに50名の男児生徒たちを収容する付属寄宿学校を開設していた。 更に、カバが多く生息しているオロンボ・ムネジュエ(Orombo-Mounédjoué:“ペリカン川”)川 を通って帰るのを見合わせて、ルフェーブル神父はウォンボリエ川(“偉大なる川”)を選んだ。しかし、雷雨が来る午後の終わりに航行する事は、常によいことであるとは限らない。数時間前には、電気を帯びる大気が呼吸を苦しくするからである。闇が訪れ、重苦しい空の一方からまたもう一方へと広がる。一つまた一つと閃光がますます短い間隔で起こる。雷の重い轟きが、川岸に大きな音を立てて打ち付け、その前後に反響する。後から来る音響の波はその前のものと衝突するようで、それはまさに不断の轟きとなる。間もなく雨が川に激しく降り始め、川面は荒れ狂い、泡を立てて流れ出す。視界は船内にいても殆どゼロである。水は船底から汲み出されなければならず、出来るだけ早く船は停泊した。

  一行は夜をノンブドゥマ(Nombedouma)で過ごし、翌日には広大なオナンゲ(Onangué)湖に入り込んでいた。マルセル神父はそこにある島々や岬、さらに未踏の諸島に曲がりくねって続く様々な入り江の地図を描いた。風は彼らの顔を激しく打ち、波は乗っている船を揺さぶる。オゲムエ(Oghémoué)湖畔で、彼らはプティット・サヴァンヌ(Petite Savane)の向かいにあるイニゴ(Inigo)に停泊した。別の機会に、マルセル神父はオゲワ(Oguéwa:“打ち寄せる海の波”の意‐多くの事を簡素な語句一つでどうやって言えるのだろうか?)にいた。ここはシリアク・オバンバ神学生の出身地で、そこには指導的カテキスタのトマ・アトンド・ディヤノ(Thomas Atondo-Dyano)が住んでいた。マルセル神父は、附属学校や、そこにある二つの寄宿舎を視察した。

  どれほど痺れを切らして、住民たちは司祭の訪問を待っていた事だろうか! 彼の到着は前もって知らされていたので、聖堂代わりの小屋が準備された。マルセル神父は聖堂に入り、おびただしい告解を聴いた。それは、仮に、聖なるミサの犠牲と聖体拝領が極めて重要だとしても(何故ならそれは人間の活動を聖化し、婚姻の約束を強めるからである)、それにも拘らず、その他の諸秘蹟も、前者二つの秘蹟を受ける為に霊魂を準備させる事を彼は心得ていたからである。彼は司牧の第1原理をどれほど注意深く応用したことだろうか!ミサ聖祭の恩寵を通して、その為に良く準備されてきた数々の霊魂に起こる発展的な変化を目にするのは大きな喜びであった。霊的に変容するのは村全体であった。 “物理的にも、社会的にも、さらには政治的”にも変容したのだ。

  この地方最後の視察地はエザンガ(Ezanga)湖だった。さらに帰りの旅は、川岸に沿った木々の上ではしゃぎまわっているペリカンの目の前を通った。するとその内に、彼らの船は再びオグウェ川に達した。

 このオグエ川で1945年10月のある日、彼に同伴していた子供たちが言った:
「神父様、カヌーが一艘やって来ますよ!」
  「そうですね!」
  「ああ、神父様!宣教区からのカヌーですよ。」
  「宣教区からだって?どうして?どういう訳ですか?彼らはどうしてここに来ているのですか? 何か変わった事でもあるんだろうか?」
  「ああ、本当だ。宣教区からのカヌーだ!本当だ!」
  事実このカヌーは、ますます彼らに向って近づいて来て、最終的には彼らと並行して止まった。すると乗っていた使者がこう伝えた。
「神父様、緊急のお知らせが神父様宛に届いています。これです。」
  同封の手紙はパリからであり、その封筒は修道会総長の筆跡で見分けが付いた。彼は手紙を開いて読んだ。マルセル神父はフランスに召喚されたのだった!


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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.8.5.ルネ・マルセル氏の英雄的な死

2010年08月12日 | ルフェーブル大司教の伝記
ルネ・マルセル氏の英雄的な死

  戦争に関する知らせが定期的に宣教師たちの元に届いたので、彼らの心は期待と苦痛に満たされた。1940年11月8日、北アフリカへの連合国上陸が彼らの期待を増した。1944年1月30日、黒いアフリカの将来が、ブラッザヴィル会議で描かれた。

 間もなくノルマンディー上陸がフランス解放の前兆となった。一週間後、ノール・リーブル【Nord Libre】紙が、我らの宣教師の父親、ルネ・ルフェーブル氏の死去を発表した。

 戦争布告が成されるやいなや、彼はベルギーの諜報機関の為に再び働き出していた。彼には情報伝達やイギリスへの協力を希望する脱走兵又は市民らを自分の家に隠蔽し、彼らをその目的地に到着するのを支援していたのだ。

 1941年4月21日、彼はゲシュタポにより逮捕され、監獄に投げ込まれた。1941年9月9日の家族と友人たちに宛てた最後の手紙にはこう書かれている。
「皆は、私がフランス人のカトリック信徒かつ君主制支持者として死ぬ事を存っています。私にとって、ヨーロッパと全世界はキリスト教的君主政体を確立してこそ、安定と真の平和を見出せるのです。」

  1942年5月28日、彼はベルリンにおいて、“敵との共謀、およびドイツ帝国に反して武器を持つことの出来る青年たちを勧誘した”ために死刑を宣告され、最終的にゾンネンンブルク(Sonnenburg)の監獄へ強制収容された。彼は藁靴を作る事を強いられた。この作業により、彼は指を切りその皮は手から剥ぎ取られてしまった。彼は自分の作業が駄目になるよう企てた。彼は常に愛国者のまま留まったのである。

 そこでの寒さ、湿気、さらに彼が悩んだ腫れ物も、彼の信心‐彼は絶えずロザリオを唱えていた‐あるいは母国の勝利への信頼を退ける事など出来なかった。雨のように降ってくる守衛の強打によって半身不随となり、気絶するほどの痙攣に陥った彼は、1944年2月中にこの世を去った。彼こそは、真のレジスタンス闘士であり、フランスの再獲得した自由の英雄的先駆者たちの1人であった。

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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.8.4.収穫の増加 悪魔との戦い

2010年08月11日 | ルフェーブル大司教の伝記
収穫の増加 悪魔との戦い

  宣教師の人生は、物的かつ霊的、現世と永遠の事柄で織り上げられている。これがその魅力であり独特な召命である。マルセル・ルフェーブル神父はこの要素の中に深く入っていった。

 天の王国は、ランバレネで年間450名以上の洗礼と共に発展を遂げていた。1932年から1945年までに、ガボンのカトリック信徒の数は33,800人から85,471人に達したが、1940年に始まった増加率の減退を伴っての事であった。聖フランシスコ・ザベリオ宣教区でも、この王国は毎日の仕事に反映されなければならなかった。またそれだからこそ、ルフェーブル神父はこの宣教区を最大限に利用する事にかけては秀でた“指導者”であった。

  Primum vivere‐“先ず生きる”。戦争は続いた。組織立てなければならなかった。学年末(6月)すぐの乾季になると、男児たちは網を作り北部にある宣教区所有のニオゴ(Niogo)湖畔で釣りの準備をした。ンジョレ同様に、彼らは獲った魚を乾燥させ樽に入れていた。女児たちは東部のジレ湖と湖のすぐそばにある宣教区所有である大農園に行った。漁業と農作物の余剰物は売却され、その利益はマニョック(キャッサバ)芋と(子供たちが大好物な)米の購入に使われていたのである。彼らは自分たちの優しい神父についてこう言った。「私たちには天主の人がいるんだ。ほら彼だよ!」

  さらに、ルフェーブル神父はライフルを送ってもらい、子供たちの為に新鮮な肉と魚、ジレ湖から上がった大きな鯉を供給する為にと狩人と漁師とを見つけ出した。

  マルセルは微笑みを湛えて尋ねた。「それじゃみんな、ちゃんと食べていますか?」
  「はい神父様、神父様が来てから何時もちゃんと食べてます!おなか一杯に食べています!」

  この食事の改善にも満足出来ずに、この司祭宣教区長は最高の製造手段を持ちたいと思った。共同墓地の隣にある一基の古いレンガ製釜戸が、村の外にあった大きな釜戸と取り替えられた。同様に、彼は発電機と非常発電機を注文した。この宣教区全体が照明を与えられ、大工工作室用の配線が発電機に接続された。人々は言った。「おい、ランバレネの男がいるぞ。彼は私たちに灯りを持ってきてくれた人なんだよ。」次に、マルセル神父は町から宣教区までの道路を、車が通ることが出来るように改善した。ある日、ルフェーブル神父は一本の大木を切り倒させたが、道路上に倒れて道をふさいでしまった。人々は現場でそれを切り刻むのに困ってしまった。 似たような出来事が写真に収められている。 そこには、自分で購入し運転していた新品のトラックの隣に立って、倒れた木の幹の前で、修道士2人と地元民1人と共に話し合うルフェーブル神父が写っている。
  さらに彼は、司祭たちの中古車を、それよりは古い型ではあったが、走り具合の良いもう一台と取り替えもした。戦争の最中にあって、彼はどうやってこれらの乗り物全てを見つけ出し、購入する事が出来たのだろうか? これは彼の同僚たちが自問していたその問いでもあったが、彼らもこの改善についてはとても満足だった。

  しかしそれだけではなかった。ルフェーブル神父は鐘楼の建築設計図を作った。司祭たちの寝室に流れ込む水道管を自分で直々に敷いてしまったのである。最終的に、オグウェ川の対岸にあるイザク宣教区の発展を見越しながら、彼はある晴れた日に、使用人のピエール・ポールを連れ、手には方位磁石と鉈を持って出発した。それは新しいオグウェの聖母聖堂の為に自分が確保していた建設予定地を切り開いて示す為であった。彼らはオベルテン建設会社の飛行機格納庫用の鉄骨が当てはまるよう建設された。 さらに1人カテキスタがそこに配属された。
  この地域がブイティ教 による訪問を時折受けた事に私たちは言及しなければならない。事実、ランバレネのイザク一族の族長であるジャン・マリー・イザク(Jean-Marie Isaac)は、この教派の原理を教え込まれたごく少数存在するヨーロッパ人の1人だった。

 何度か夜になると、トムトムと別種の低音ドラムが悪魔的なリズムを打ち鳴らし、イボイノシシ肉と椰子酒を腹一杯に詰め込んだ男たちが秘密の集会を開いて、顔を仮面で覆ってから、目を丸くした観衆が増す頃、身体を捻って火を飛び越えながら、今度は明滅する火の中で踊り始めるのだ。 これはマルセル神父が好まなかった事だった。何度も数人の逞しい見習者たちに側面を守られて、俗に言うところの“ブイティ攫い(さらい)”をしている人々を追い払おうと試みた。時には正直に言って猥褻な、これら胡散臭く不健全な慣習の外見の背後に、“対話”をする気にもさせない悪魔の力をルフェーブル神父は余りにも鮮明に目撃してしまったのである。

 確かに彼はこの呪物崇拝者たちを直接非難しなかったが、もしもカトリック信徒又は洗礼志願者らが呪物崇拝に舞い戻るとしたら、彼はそれを我慢しなかったであろう。一度、ルフェーブル神父がこの迷信に戻ってしまった人の小屋に行き、恐れるその人の目の前で呪物を斧の一降りで壊してしまったこともあった。
 マルセル神父は、呪物崇拝における宗教の堕落を敏感に感じていた。

 特に、天主への従属のしるしとしてではなく、自分たちを取り囲む(そして時折、正に現実に取り囲んでいる)悪霊を追い払う手段としてアフリカ人が捧げる生け贄においてそうだった。従って、後年ルフェーブル大司教は説明した。
「彼らは悪魔を信じています。しかし怖れの内に生きているので、彼らの捧げる生け贄は最初から歪められています。彼らは人間を生け贄にすることさえします。これは、それが持つ本来の目的から逸脱した宗教です。正真正銘の宗教において、犠牲の奉献あるいは捧げることは、私たちの内的奉献の印なのです。」


聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.8.3.霊魂にとって真に大切な事業

2010年08月10日 | ルフェーブル大司教の伝記
霊魂にとって真に大切な事業

  司祭館でこのような改装を始めるに当たり、修道士たちが持つ実用的な知識は大変貴重であった。先ずロック修道士がいた。既に年を召していた彼は庭の管理をしたり、子供たちに作物の栽培方法を教えたりしていた。 それに加えて、彼は羊と馬屋の責任者でもあったのだ(修道女たちは子ヤギたちの世話をしていた)。彼は1899年にガボンへ到着し、1959年2月1日にランバレネで亡くなるまでの60年間そこに留まった。彼は石工や、指物細工師、そして大工としては熟練であり、建物を建築して後、それを仕上げたら、必要な物を備える事も出来る正真正銘の建築家棟梁となっていた。彼は手際よくやり遂げられた仕事を見るのが好きだった。この素晴らしい人物、ロック修道士は、リーブルヴィルで非常に愛された。彼は時折司教と間違われ、ランバレネでは、多くの人から宣教区長と間違われてしまった。彼は模範的で、聖堂に来るのが殆ど何時も一番だった規則正しい修道士だった。優しく気の利いた彼のからかいも彼の評判を高めたし、自分の生徒たちからは正しく評価された。これらの全ては、彼がマルセル神父と共有していた事柄である。何よりも先ず彼は愛徳深かったので、すっかり愛されたのだ 。

  大きな大工工作室が、道路とオグウェ川に挟まれた土地に建てられていた。そこでは、(戦死したタラバルドン神父の兄弟)アルカード(Arcade)修道士を、マルシアン(Marcien)修道士、バルトレミー(Barthelémy)修道士、及び数人の見習者たちが手伝っていた。彼らは木の伐採とその切り分けの為に未開地に立ち入って材料を持ち帰ると、それを使ってあらゆる種類の枠や、丸木舟の船体、小型漁船、トロール船、はしけ舟などを作った。これらの販売は宣教区に欠かせない収入となった。ルフェーブル神父によって作成された予算案がこれを立証している。以下の数字は、1945年当時の価値に応じたフランス・フランで計算されている。

支出
宣教人件費 . . . . . . . . . . . . .85,000
宣教区及び地域学校運営費 . . . . . 125,000
建物建築費及び見習者養成費 . . . . 45,000
公教要理及び司牧職務費 . . . . . . .65,000
計 . . . . . . . . . . . . . . . . .320,000

収入
布教聖省からの助成金 . . . . . . . . . 40,000
諸学校への政府助成金 . . . . . . . . . 80,000
ミサ献金 . . . . . . . . . . . . . . . .10,000
ヨーロッパ人からの助成金 . . . . . . . 30,000
地元の方々からの助成金 . . . . . . . . 20,000
宣教区工作室の収入 . . . . . . . . . . 140.000
計 . . . . . . . . . . . . . . . . . . .320,000

  見習者養成の仕事は、何らかの職業に従事する為に‐洗礼志願者もしくはカトリック信徒の‐若者を養成し、そうする事で彼らをカトリック家族を築ける立場に置いてあげる事を意図していたのである。工作室での実用的訓練は、より一般的な養成講座や、専門講座、霊的講話、さらに日常の公教要理の授業によって補足されていた。二次的なものとして、見習者たちは宣教区の管理と整備を手伝っていた。

 もし小学校教師養成の専門学校のことを考えると、また、日常的に60人の患者たちを気遣う修道女たちによる健康診療所などを思うと、マルセル神父が2年間で何とかやり遂げたはずの霊的かつ現世的な美しい事業に対して、私たちはちょっとしたイメージを持つだろう。

  最後に、1年に4回の大祝日、つまり学年度末に位置する使徒聖ペトロと聖パウロの祝日、学年度初めに来る大天使聖ミカエルの祝日、そして御降誕祭と御復活祭になると、オグウェ川は多色の丸木舟で一杯になった。それらの多くは、ミッションの近くに作られた“カトリック村”にやって来て典礼上の大祝日をキリスト教的に過ごすために、最も遠くの村々から多くの家族を運んで来たのだ。


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カトリック教会に聖なる召命が与えられるため:現在7891環のロザリオが集まりました

2010年08月09日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 召命のための祈願の祈りの報告をご紹介いたします。
 2010年5月1日から7月31日までの分として、カトリック教会に聖なる召命が与えられるための意向で、現在

 ロザリオ  7891環
 黙想    238回
 聖伝のミサ 184回
 聖体拝領  18回
 霊的聖体拝領 368回
 巡礼    1回
 十字架の道行き 6回
 聖体降福式 14回
 教皇様、司祭様と召命の祈り合計96回
 連祷合計   744回
 聖書朗読  61章
 ノベナ 40回
 射祷  36回
 犠牲

 などが報告されています。
 
 11月1日まで、できれば、愛する兄弟姉妹の皆様から(聖三位一体を賛美して)総計してロザリオを3万環捧げることができれば、幸いに思います!

 ロザリオに限らず、召命のために捧げた祈りや犠牲も教えて下さい。一日15分の黙想・念祷もご報告下されば幸いです。

 愛する兄弟姉妹の皆様の寛大なご協力もよろしくお願いいたします。
 次の祈りが報告されています。

【報告】
フランシスコ・パウロ 聖なる召命のために

†アヴェ・マリア
修院長ご就任をお喜び申し上げます。と同時に我が胸に痛みを感じます。主よ、我が弱き信仰を受け入れ支えてください。もう祈ることしか出来ない年齢になってしまいました。
7月のロザリオは45環、教皇様、召命、司祭のため21回、連祷3連。大変少なく残念です。8月はマリア様の被昇天を迎えますのでもっと頑張ります。

【報告】
アヴェ・マリア!
トマス小野田神父様

1日の平均気温が30℃の日が続き、これはかつてなかったほどの大変暑い夏です。北海道もとうとう沖縄より暑くなってきたし、春の時には珍しくも日本一暑い日になったことがありました。
私たちはこんなに暑くても頑張ってロザリオの祈りをしたりしております。神父様はいかがお過ごしでしょうか。
大変遅くなりましたが、5~7月までのロザリオをご報告させていただきます。136環でした。

【報告】
おはようございます、小野田修院長様。

 7月分のロザリオの御報告をいたします。
ロザリオ・・・31環
聖ピオ十世のノヴェナ・・・31回

 8月に入り、修院長就任式まで後少しになりました。どんな就任式にはどんな儀式があるのでしょうか。私もそれを想像すると緊張して参ります。

 聖母被昇天の大祝日は、大祝日と就任式をどのように私もお祝いいたしましょう、と考えております。


【報告】
Onoda Shinpusama,

o genki desu ka. Asia no tenki wa dou desu ka. Ryokou wa yoku shinakereba naranai to omoimasu. Atsui tenki dattara taihen desu ne. O karada o ki o tsukete kudasai!

Watashi wa 7 gatsu 21 nichi - 25 nichi Furansu no Avrillé ni itte, Br. Nishi san aimashita. Totemo ureshikatta desu. Br. Nishi san mo ureshikatta sou omoimasu. 30pun gurai hanashimashita.

Tokoro de Mère Maria Magdalena san kara Onoda shinpusama ga Avrillé no shuudoin ga yoku wakaru to oshiete itadakimashita ... ;-)) Sore wa hontou ni ii desu!!...

7 gatsu no rosario ban wa 79 desu, soshite "one secret".

Newsletter o doumo arigatou gozaimashita! Pfluger shinpusama ga Nihon ni iku no wa totemo ureshii desu! God bless!

O inori no uchi ni,

【報告】
トマス小野田圭志神父様

十主の平安
アヴェ・マリア
七月分の聖なる召命の為の御報告です。

御ミサ 5回
御聖体拝領 5回
霊的御聖体拝領 142回
連祷 6月の御心の連祷を御報告し忘れていましたのでプラスしまして310回
黙想 61回(黙想は1時間でも1回とカウントしますでしょうか?)


パウロ夫妻 御ミサ3回
    ロザリオ63環
ヨゼフ     36環
マリア    141環
マリア      5環
マリア    328環
バルナバ     1環
エリザベト   90環
テレジア   105環
マリア     46環
マリア     24環
マリア     40環
アンナ     30環

デオグラチアス!!
     御祈りのうちに アレルヤ!

+ + +


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.8.2.何でもする宣教区の長上

2010年08月09日 | ルフェーブル大司教の伝記
何でもする宣教区の長上

  マルセル神父が宣教区にいた時、ンジョレで自分がやり遂げた様に、彼は宣教区長に属する霊的義務を果たし、日曜日のミサの説教を隔週ごとに別の司祭と交替した。彼はこう言った。
「ランバレネでは、少しでも時間があれば、聖ヨハネ・クリゾストモの著作集に目を通しました。聖クリゾストモの説教を土着民の言語に翻訳して、彼らにそのまま説教することがほとんど可能だと思いびっくりしました。住民は理解したことでしょう。」

 彼はさらに洗礼の準備と初聖体の準備の黙想会も指導し、秘蹟を授かる前に子供たちへの口頭試験をなし、予定された時間には、告解を聞き、訓告と勧告とに自分の時間を割きもした。
「訓話は余りにも(…)長過ぎました」と当時の告解した者は思った。償いも長くないなどという事はなかった。例えばロザリオの3連とか、「多きときには」5連だった。

  加えてシュヴァイツァー博士の病院に入院している病者に、彼は終油の秘蹟、又は洗礼の秘蹟を授けもしたのである。毎回、彼はそこを支配している“村の雰囲気”にほほえんだ。実際に1913年3月、ランバレネに来たアルベルト・シュヴァイツァー(Albert Schweitzer)は、自分の病院内に村の雰囲気を取り入れた。彼は言った。
「病人たちが、あたかもいつもの環境に居るかのように生活させなければなりません。ですから、親がいて、豚がいて、鶏がいるのです。これが病人を元気付けてくれるのです。その上、家族は、病院の為に医療費を現物払いもできるし、掃除、洗濯、水運びなどの仕事をする事によって、支払いをすることも出来るのです。」

 汎神論への傾向を持った彼の哲学を仮に共有しなかったにせよ、ルフェーブル神父はこの医師の実用的な感覚には敬服した。汎神論によると、万物が天主であるならば、我々は蚊でさえも敬わなければならないことになる。
「この蚊、殺しちゃあかんで」とある日彼はこの司祭に言った。「蚊にも生きる権利があるやろ。」

 アルザス地方の発音はこの発言をなおさら愉快に思わせたのだ!それでも最高の関係がカトリック宣教区とプロテスタントであるシュヴァイツァー氏との間に存在したのである。この宣教区は、所有する小船を貸し、石の採集及び運搬の為の年長の子供たちによる手助けとを与えて、かつて病院の建設を手伝ったことがなかっただろうか?シュヴァイツァー博士は病気の司祭たちを治療する為に宣教区に行ってくれたのである。シュヴァイツァー医師はさらに腕の良いオルガニストでもあったので、聖フランシス・ザベリオ【宣教区‐訳者】教会の聖歌隊席で、オルガンを弾きに大祝日にはやって来た。

  マルセル神父は、数多くの侍者を務める少年たち向けに行う典礼予行演習の指揮を自分自身でした。子供たちが完璧にやらなかった時には、はっきり彼はよく言ったものである。「だめです、もう一度始めましょう!」
 彼の侍者の一人がこう回想する。「神父様は私たちに祭壇への尊敬を教えてくれました。」

 聖歌の才能にはそれ程恵まれていなかったので、この長上は聖歌隊の指導と、独唱者の選択及び訓練とをクワウ神父に一任した。この土着民たちはグレゴリオ聖歌に対して非常に熱狂的だった。ガシー(Gaschy)と呼ばれていた信者用の音符付きのミサ典書のお陰で、キリアーレ(Kyriale‐キリエやグロリアなどのミサ聖祭の通常聖歌)や、かなりの数の主日ミサや祝日ミサの固有聖歌を空で歌えた。聖歌隊員の1人がこの有名な楽譜付きのミサ典書を何とかして入手すると、彼は喜んで叫んだ。
「やったー、僕は“ガシー”を手に入れたぞ。よし僕は天国に行くんだ。天国で永遠の独唱者になるんだ!」

 修道女たちの指導の下、寄宿学校の年長の女生徒たちは家事の仕事を学んでいた。彼女たちの卒業時に、修道女らは彼女たちのために若きカトリックの夫又は洗礼志願者を見つけて上げたものである。

  ルフェーブル神父は、寄宿学校の男児たちを父親らしい優しさで扱っていたし、競技用のボール、もしくは薮の掃除に使用する鉈などを何とか買って上げていた。 何かへの許可を拒絶しなければならない時の彼は駄目と言った。「まあ、彼が駄目と言う時は、それは駄目なんですよ!」

 テオドール神父は規律と罰の責任者であり、進んでアズガメ(Azougamé)と呼ばれる棒を身につけていた。「言い逃れをしてもためだ、私を挑発しないように。」

 この棒、つまりカバ皮をよじった帯は、大変痛かった。ただし、打たれる子供たちに危険はなかった。この体罰は、彼らが村で両親から受けるやり過ぎの体罰、例えば目や脇の下に唐辛子を入れたりする事に比べれば何でもなかった。この宣教区は正義の秩序と教育的な労働の秩序を教えていた。

 マルセル神父が自分自ら罰を与えなければならなかったのは稀な事であり、「非常に遠慮して叩いたのです。彼が余りにも人を許す事に慣れていたので。」
「彼は何時も表情に微笑を浮かべていました」と、自分のかつての生徒たちは思い出し、その中の1人はこう言う。「彼はとても親切でした。子供たちは皆、神父様のことで満足していました。それどころか、村々も彼の事を‘善い神父さま’、‘善い神父さまだ’と呼んでいました。」

   ルフェーブル神父は香部屋の為に新しい典礼用装具を準備し 、ンジョレでしたのと同様に、自分の寝室の下にある一階に応接室を作った。それ以前は、荘厳ミサの後に司祭たちは訪問者たちを接待しなかったのだが、いずれにせよ信徒たちは、司祭館正面の柵をよじ登ってやって来たのである。時折彼らを追い払う為、生徒たちが水を吹きかけていた。「出て行け、行ってしまえ!」

 ところがルフェーブル神父は、この大混乱が続くのを許さなかった。彼は、人々を迎え入れ、順番に話を聞くために座ってもらうことを望んだ。こうして、新しいこの応接室により、皆に順番が回るようになったのである。

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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.8.1.ランバレネ宣教区長 

2010年08月08日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅷ. ランバレネ宣教区長 1943年4月から1945年10月


  聖フランシスコ・ザベリオ宣教区は、地理的に見てオグウェのミエネ(Myéné)族と北のファン族、さらに南のエシラ(Echira)族との中間に上手く位置し、ングニエ(Ngounié)川とコモ(Komo)川とが合流している川に作り上げる二つの入り江間の岬の上にある。しかしながらこの宣教区はその印象的なレンガ製の建物を持ち閑静な場所ではなかった。そこには3つのプロテスタント系宣教区があり、カトリックよりも昔からあった。その内の2つ、ンゴモ(Ngômo)とサムキタ(Samkita)は工業及び農業の事業を倍増させていた。 “福音派の宣教区”は当時、ほとんど改宗者がいなかったにも拘らず彼らが有する信徒数は無視することは出来なかった。14,000人という人口の内、3,800人はカトリックであり、1,200人は洗礼志願者だったが、2,500人はプロテスタントであった。彼らの“宣教師たち”は原住民の間に憎むべきメンタリティーを蔓延させていた。それについてはこの宣教区長であるル・ブロック(Le Bloch)神父が、“カトリック教義への憎悪、高慢と自由解釈の精神、更に無規律”と、1930年に描写している。

  しかし聖主イエズス・キリストの恩寵に回心させられなければならない【残りの‐訳者】異教徒6,500人に比べればこれは何だったのか?サタンの支配を後退させる為に何をすべきか?この宣教区は、職務の分担をする司祭2名、ルフェーブル神父とテオドール・クワウ(Theodore Kwaou)神父しか有していないのだ。マルセル神父は宣教区の運営と各地の訪問を引き受け、クワウ神父は寄宿学校にいる213名の男児を世話した。寄宿生の女児161名の方は、修道女たちに委ねられた。マリー・アニェス‐Marie-Agnès‐女子修道院長(学校管理、公教要理、講話)、ゴンザーグ‐Gonzague‐修道女(洗濯及びリネン室)、サン・ロジェ‐Saint Roger‐修道女(看護婦、香部屋、保育園)、プラクセード‐Praxède‐修道女(台所、鶏小屋)、そしてガボン人修道女ジュリア‐Julia‐(教職、労働、大農園)たちであった。

 修道女たちの居る女児学校は、司祭と男児たちの住む所から完全に分離されていた。その建物は、大きな中庭を囲む建物として上手く構成されており、木々によって遮られた中庭を囲んでいた。古くて、魅力的な修道女たちの聖堂は、司祭たちが用いる大きくて、世話の行き届いたロマネスク様式の教会に対比して目立っていた。人々はルフェーブル神父の出発直後に鐘楼を加えている。

  1936年から1962年までの間、プティット川‐Petite Rivière‐とオナンゲ湖‐Onangué‐を統治していたトマ・アトンド・ダヤノ‐Thomas Atondo Dyano‐などのような5名の指導的カテキスタたちの元で、5つの地方に派遣されていたおよそ70人に及ぶカテキスタたちの仕事に加え、マルセル神父が非常に鮮明に理解している様に、学校こそが「この国の完全なキリスト教化にとって主要手段なのです。学校なくして私たちには、カトリック宣教区が現在持っている相当な影響力の維持をもはや希望する事など出来ません。これは私たちにとって重大事です。」


聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.7.7.忠告的遺言―ドンギラを去る

2010年08月07日 | ルフェーブル大司教の伝記
忠告的遺言―ドンギラを去る

  1942年の御降誕祭に、リーブルヴィルや、カンゴ、そしてシンシュワの地区に属する村々の70人を超える指導者たちを前に、ファン族婚姻規則案 がドンギラにて公式承認を受けた。マルセル神父はこの文書作成に関わって来ていた。ド・ゴール派のパラン自身によってけしかけられ 、この改正案は、カトリック信徒をして一夫一婦制の義務を承認させた。また未成年少女たちの取引を禁止すると共に、結婚持参金の有効性を認めた。さらにこの改正案は“結婚持参金の伴わない婚姻は、(新婦の父親あるいは保護者に対して)余りに奴隷制度じみた保護の元に新郎と新婦とを置くという理由により非難に値すると裁定した。しかしながら、結婚持参金の額は1千フランに制限されるとする。加えて結婚への幾つかの障害も承認された。このような公文書はガボンの新政権と公教会との素晴らしい関係を明らかにした。

  ある日、寄宿学校から年長の生徒たちが卒業することになり、ルフェーブル神父は彼らに対して忠告的遺言を与えた。それは非常に実用的で簡単に要約されていた。
「皆さんは郷里に帰ります。そうなれば貧困に留まることになりますね。ですから手に職を持たなければいけません。」

  しかしながら、間もなく今度はマルセル・ルフェーブル神父にドンギラに別れを告げる番が回ってきた。事実、1943年3月には、疲れ切ったドフラヌー神父が、ムイラ(Mouila)に体を休ませに行かなければならなくなった。さらにフォレ神父が、司教総代理であるドフラヌー神父を引き継ぐようにと、タルディ司教からリーブルヴィルに召還された。 こうしてランバレネの宣教区は新たな長が必要となったのだ。

 野心のないフォレ神父は、愛しき未開地を去ることを未練に思い、タルディ司教へ幾つか丁寧な異議を持ち出した。
「閣下、閣下は私が何の学位も持ち合わせていないのをご存知ですし、閣下がシュヴィリで私の長上でいらした時、閣下御自身、知的な仕事をする際には自分の全力を尽くし切るな、と私を酷くお叱りになられました。」
  「その通りですよ。ただいずれにせよ私は貴方を選んだのです。」
  「ですが閣下、どうしてマルセル神父をお選びにならないのですか?彼はローマで学びましたし、学位を持っています。」

  すると、タルディ司教が答えた。
「私は、ラバ同様に頑固な人を自分と一緒に働く人として選びません!」
しかしながら、フォレ神父はどう見てもさらに扱い易い人ではなかった。それにも拘らず、彼はマルセル神父よりも年長の宣教師であり、それ故にこの司教の右腕になるにはより相応しかったのである。そういう訳で、マルセル神父はランバレネに、【フォレ神父の‐訳者】代理としてではなく、長上として任命される事になった。

 その結果、彼は、自分が試練の全てを通して愛着するに至った最愛のドンギラを去らねばならなかった。彼は自分に求められた犠牲を寛大に捧げ、幾らかの乏しい所有物を持参してランバレネに向けて出発したのである。



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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.7.6.教会を建てる宣教師

2010年08月06日 | ルフェーブル大司教の伝記
教会を建てる宣教師

  単なる宣教区長代理であったにも拘らず、マルセル神父は、明らかにこの宣教区が必要とする様々な計画に着手せざるを得なかった。彼はまた、カンゴの教会の建設と、ドンギラでは埠頭を築く事業がマルセル・ルフェーブルに帰されなければならない。

 カンゴの人口は、この村がバクエ(Bakoué)川とコモ川が合流する地点に極近かった事により増加しているところであった。その上、リーブルヴィルからランバレネまでの主要道に沿って行く為には、カンゴで川を横断する渡し舟に乗る必要があった。それ故に、地域の学校を設立するだけではなく、常設の教会堂を建設する事は避けて通れなくなった。ルフェーブル大司教は後日、こう言っている。

「司祭の目標は、全ての人を祭壇の周りに引き付けることです。ですから宣教に関して言いますと、一つの地域で最初にやるべき事とは、御ミサが執り行われる事が出来て、人々がそこに引き付けられ、諸々の秘蹟が授けられる事が可能となるように教会を建てる事なのです。人々はそれ以上のことは何も要求しません(…)。原住民たちが、しかも極貧の内に生活する人々でさえが、自分たちの教会堂の美しさと雄大さに、どれほど満足してうれしがるかを見なければならないほどです! 」

  マルセル神父は、教会堂の建設予定地を選び、設計図を描いた。建設用のブロックは現場で作るか、ドンギラから伝馬(でんま)船(ぶね)で運送された。建材の梁は宣教区の大工工作室で準備され、現場で組み立てられた。こうしてカンゴの聖マルセル教会が建てられたのである。

  加えて、何かをドンギラのことも考えなければならなかった。そこで行われる商売は、突堤への船の停泊を妨げる河口付近の沈泥が原因となり痛手を蒙っていたのだ。ある日タルディ司教は、何時もの様に丸木舟に乗り込んで、自分の船から川岸に、頑強な生徒2人組みの手助けを借りながら移ろうとしている時に転落し泥に落ちてしまった事があった。それでマルセル神父は正真正銘の埠頭を建築しようと決意したのである。それは川の中一直線に入って行き、それと並行して小型漁船や、はしけ舟、さらに小船などが停泊出来る長い突堤になるものであった。

 そこで修道士とその見習者たちはこの計画に取り組んだ。基礎杭は、互いの上部が器用に積み重ねられた樽から作られていた。引き潮時を見計らって、コンクリートがこれらの基礎杭に流し込まれると、板材で覆われた桁によってそれは連結された。作業の進み具合は、潮の干満に従うので一日に基礎杭二本と遅かった。マルセル神父自身も参加して、例の樽が正しく積み重ねられる為に、腰まで漬かる泥水の中 を苦労しながら歩くのが目撃されている。この突堤が完成した時、それは全長300メートルだった。 ずっと後になって一艘の小船がこの埠頭に衝突し、それを真っ二つに壊してしまった。そこで彼らは修復を放棄したが、この埠頭はしばらくの間ドンギラの誇りだったのである。

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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.7.5.対イタリア軍の兵士動員

2010年08月05日 | ルフェーブル大司教の伝記
対イタリア軍の兵士動員 ― 分離した宣教師たち

  ルフェーブル神父は、実りもなく自分の運命を嘆くような人間ではなかった。ジェローム・ムバ・べカル(Jérôme Mba-Békale)神父がオギュスト神父の後任者となって、ドンギラは正常に戻った。しかし少したつと、対イタリア軍としてマルセル神父が動員された時には、混乱が発生した。
「イタリア軍はリビアからやって来ていたらしいのですが、私たちは一度として彼らを目撃した事はありませんでした!」

 この機に、マルセル神父は兵士たちと共にバンギ(Bangui)に送られた。 そこにいる間、無駄にイタリア軍を待っているよりはむしろ、司教館のコーヒーの木に浸入した蟻を除去する事に精を出した。この小さな生物に噛まれるのは、非常に不快なものだった。その後、彼はガボンへ送還されが、彼の仲間たちはカメルーンに配置されてしまった。

  今や「自由フランス」の手中にあって、ガボンはフランスから切り離された。若き新米宣教師はこの植民地へ来る事が出来なかった。 確信のみならず、必要に迫られた聖霊司祭修道会本部はペタン元帥に忠実だった。1942年12月8日、ル・アンセック(Le Hunsec)司教は、会の司祭たちに書簡を書いた。「私には、グリモ(Grimault)司教及びゲ(Gay)神父を伴った、ペタン元帥との興味深い面会をしました。彼の溌剌さや明敏さ、そして彼の沈着さに私は敬服いたしております。」  

 タルディ司教は1941年9月10日付けでガボンから本部宛に手紙を書いた。
「私たちの事はご心配なく。資金に関して言いますなら、政府 が援助して下さっており、宣教師たちは全力を尽くしています。全員の士気は‘賞賛に値する以上’であります。」

 他方、フォレ神父はこう書いた。「私たちの職務は、通常通り継続している最中であり、[私たちの内]たった一人が徴兵されました。不可欠な物は全て持ち合わせております。もし【故国フランスが‐訳者】分離されていなければ、私たちも相互的な平和の中で生活出来るのですが。」



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