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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 7.1.1.モルタンに於ける戦闘

2010年08月15日 | ルフェーブル大司教の伝記
第7章 モルタンに於ける戦闘


  1938年の総会の決定に従い、聖霊司祭修道会フランス管区の本部は、1943年ロモン通りにある当会総本部から離され、パリ北部にあるピレネー通り393番地に移された。連合軍のノルマンディー上陸の日である1944年6月6日、その同じ日付に自らの司牧職務に疲れ果てたアロワズ・アマン(Aloyse Aman)神父の後を継ぎ、エミール・ロラン(Emile Laurent)神父がそこに住居を定めた。 1人の新しい人が、目新しい状況に直面しようとそこにいた。

 神学校や修練院でのマルセル・ルフェーブルの友人かつ仲間であったエミール・ロラン神父は、先ずカメルーンで小神学校の先生となり、その後はサンタ・キアラで生徒たちの補習監督者となった。1940年10月8日、フランスが2つの区域に分断された後、あるいは召集されていなかったか、あるいはドイツ軍によって解放されていたおよそ50名の生徒たちをピュイ・ドゥ・ドーム(Puy-d-Dôme)にあるセリュール(Cellule)に集めていた修学院(スコラスティカ)の校長に彼は任命された。

  シュヴィリとモルタンにあった両修学院は1939年に接収された。しかし神学受講生たちは1944年6月までシュヴィリの神学校に戻る事が出来た。ところがいた哲学受講生たちは、モルタンからブルターニュ地方のランゴネ(Langonnet)に避難しており終戦までそこに留まった。

 確かに定員は減少したが、これらの神学校は自分たちの使命を継続する事が出来、若い宣教師100人以上の養成を成し遂げた。 1945年、フランスの解放に伴い、復員兵や、解放された捕虜らが養成中の修学院に戻り、また近頃誓願を宣立したばかりの修士たちが修練院から送られて修学院の学生たちの中に加わった。人数上この喜ばしい増加には対応が迫られた。フランスでは、モルタンが最も戦争による破壊の煽りを受けていた。これらの問題に対処する為、ロラン神父は友人であるマルセル・ルフェーブル神父を重要人物かつ堅実で、さらに教義の面でも信頼の置ける再建者として選んだのだ。ロラン神父はタルディ司教に、“どのような犠牲を払ってでも彼を求めた” 。最終的には繰り返された彼の要請は承諾された。こうしてマルセル・ルフェーブル神父は、ちょうどモルタンの白の大修道院(Abbaye Blanche)の壁の中に戻され、修学院校長という困難な地位を与えられたのである。


聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次
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