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ルフェーブル大司教の伝記 7.4.2.「哲学は、天主との一致なる生活に向けて準備してくれます。」

2010年08月26日 | ルフェーブル大司教の伝記
「哲学は、天主との一致なる生活に向けて準備してくれます。」

  一部の神学生たちは、健全な自由のあるモルタンを、厳しく難しい修練院での養成と比較した。
「やれやれ、ようやく俺たちは修練院から遠く離れることが出来たよ!」と彼らは言っていた。この心の叫びの中に、ルフェーブル神父は熱誠の欠如、あるいは霊的養成や聖性探求における熱意の弱まりを見取っていた。哲学(受講)生たちが専ら知的過ぎる勉強への取り組み方は、重大な罠であった。そこで彼は注意するよう彼らに注意した:

 「これは普通ではありません。この正反対であるべきです。修練院での養成の後、勉強は霊的生活に必要となる糧を供給するべきであって、それを減らす事はない筈です。結局、それを理解し愛するならば、哲学は、“何処にでも現存され、私たちの弱い知性を越えている限り把握不能な天主”に導いてくれるからです。ここに辿り着いたら、今度は信仰の扉が開くのです。」「哲学とは、聖性並びに天主との一致なる生活に向けて準備してくれます。(…)真の知識というものは必然的に謙遜へと案内します。その途上で立ち止まってしまう不完全で偽りの知識は、高慢と自惚れに導くのです。」

 それ【高慢と自惚れ】に対応する薬は、容易に入手が可能だ。つまりそれは聖トマスである。修学院長神父は、霊的講話の中で聖トマス・アクイナスの『神学大全』を駆け巡って論じた。彼は“霊的生活の三部作”を考案した。それは3年間に亘って彼が詳説しようと計画したものであり、後年になってエコンで講話したものだった。

「一年目は、原罪のあらゆる結果を持っている“不義なる人間”についての研究に当てられました。二年目は恩寵により聖化され、諸徳と聖霊の賜物、さらに至福八端を持った“義なる人間”を扱ったのです。三年目は‐もしも私が3年留まったとしたら‐人間を不義の状態から義の状態に移行させる手段を私は説明していたことでしょう。それは先ず、聖主ご自身[彼が成し遂げた贖罪の業]、それから次は彼が制定された聖化の手段である。この聖化の手段とは、御ミサ、諸々の秘蹟、祈り、天主の聖旨を行う事、私たちが持つ弱点と戦い、徳において成長する手段などである。私は人間の四終【死・私審判・天国・地獄‐訳者】、つまり充ち満ちた義化、という内容を取り扱ってこの3年のコースを終えたことでしょう。 」

  かつての生徒の一人が上述の講話を思い出している。
「それは毎回、聖トマス、また聖トマス、そして聖トマスでしたよ!私たちは聖トマスには余り触れなかった修練院から来ていましたが(…)モルタンに来たら、実際聖トマスにどっぷりと漬かったんです。私はと言えば、それが好きでしたね。」

  この修学院長神父は穏やかな声で語り、アフリカの記憶が散りばめられたそのトマス的講話は、修辞的な光沢もなく行われた。「彼は雄弁家ではありませんでしたよ。ですから彼の講話を聴くのはちょっとばかり苦痛でした。」と思い出してくれたのは、もっと“魅力的な話し振り”を好んでいただろう彼の生徒の一人だった。もう1人の生徒は言っている。「彼は雄弁家ではありませんでしたが、私たちは彼に耳を傾けてしまいました。」

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