Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【参考資料】聖伝のミサ典書1962年版のダウンロード先

2007年10月08日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、

【参考資料】聖伝のミサ典書1962年版が次のところからダウンロードできます。

聖伝のミサ典書1962年版


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【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式韓国語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

ロザリオの祈りについて
レオ13世 回勅「オクトブリ・メンセ」 1891年9月22日
レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラートゥス』1883年9月1日
レオ13世 回勅『ユークンダ・センペル』1894年9月8日
レオ13世 回勅『フィデンテム・ピウムクェ』1896年9月20日
レオ13世 回勅『マニェ・デイ・マートリス』1892年9月7日

レオ13世 回勅『マニェ・デイ・マートリス』1892年9月7日
レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラートゥ』1883年9月1日
レオ13世 回勅『ユークンダ・センペル』1894年9月8日
レオ13世 使徒書簡『サルターリス・イッレ』1883年12月24日
レオ13世 回勅『アドュトリーチェン・ポプリ』1895年9月5日

レオ13世 使徒書簡『パルタ・フマノ・ジェネリ』1901年9月8日
ピオ11世 書簡『インクリタム・アク・ペリルストレム』1934年3月6日
レオ13世 回勅『フィデンテム・ピウムクェ』1896年9月20日

レオ13世 回勅『アウグスティッシメ』1897年9月12日
レオ13世 回勅『アドュトリーチェン・ポプリ』1895年9月5日

レオ13世 使徒書簡『パルタ・フマノ・ジェネリ』1901年9月8日
ピオ12世 回勅『イングルエンティウム・マロールム』1951年9月15日

レオ13世 回勅『ユークンダ・センペル』1894年9月8日
レオ13世 回勅『ユークンダ・センペル』1894年9月8日
レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラートゥス』1883年9月1日
レオ13世 レオ13世 回勅『ユークンダ・センペル』1894年9月8日

レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラートゥス』1883年9月1日
レオ13世 回勅『ユークンダ・センペル』1894年9月8日
レオ13世 使徒憲章『ウビ・プリームム』1898年10月2日
レオ13世 回勅『アドュトリーチェン・ポプリ』1895年9月5日
レオ13世 使徒書簡『パルタ・フマノ・ジェネリ』1901年9月8日
レオ13世 書簡『ヴィ・エ・ベン・ノート』1887年9月30日
レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラートゥス』1883年9月1日
レオ13世 回勅『フィデンテム・ピウムクェ』1896年9月20日
ピオ12世 回勅『イングルエンティウム・マロールム』1951年9月15日

レオ13世 回勅『オクトブリ・メンセ』1891年9月22日
ピオ11世 回勅「イングラヴェシェンティブス・マリス」1937年9月29日
ベネディクト15世 回勅「ファウスト・アッペテンテ・ディエ」
1921年6月29日
レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラトゥス』1883年9月1日
ピオ12世 回勅『イングルエンチウム・マロールム』1951年9月15日
ピオ12世 回勅『アド・チェリ・レジナム』1954年10月11日


シスター・ルシア 「ロザリオの祈りによって解決できない問題などありません。」

2007年10月06日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

「私達の生きるこの最後のときに当たって、
聖母はロザリオを唱えることに新しい効果を与えてくださいました。
たとえそれがどんなに難しくとも、
この世的なあるいは、特に霊的な問題、
私たち一人一人の個人的な生活上の問題、
家族の問題、
この世のすべての家族の問題、
修道会の問題、
民族の問題、
国家の問題などなど
私たちがこの聖なるロザリオの祈りによって解決できない問題などありません。
ロザリオを唱えることによって
私たちは自分を救い、聖化し、我らの主を慰め、
多くの霊魂の救いを勝ち取るのです。」

(シスター・ルシア)



兄弟姉妹の皆様、
明日10月7日は、ロザリオの聖母マリアの祝日でもありますね。

 ファチマのシスター・ルシアが1957年12月26日に語った会話を少し引用します。

「神父様、聖母は、よい人も悪い人もだれもそのメッセージを重大視しないので悲しんでおられます。・・・」

"Padre, la Santísima Virgen está muy triste porque nadie ha prestado ninguna atención a Su mensaje, ni los buenos ni los malos. Los buenos continúan su camino, pero sin dar ninguna importancia a Su Mensaje. Los malos, no viendo realmente caer el castigo de Dios sobre ellos, continúan su vida de pecado sin atender siquiera el mensaje. Pero créame Padre, Dios castigará al mundo y eso será de una manera terrible. El castigo del Cielo es inminente."


「神父様、悪魔は聖母マリアに対して決定的な戦いを挑もうとしています。悪魔は天主を最も侮辱することが何か、また最も短期間にどうやったら最も多くの霊魂らを地獄に落とすことが出来るか知っています。だから悪魔は天主に捧げられた霊魂(=聖職者たちのこと)を勝ち取ろうと全てのことをしています。何故なら、こうすることによって悪魔は、指導者によって捨てられた信者らの霊魂たちが取り残され、いとも簡単に彼らを餌食にすることが出来るからです。」
「聖母の汚れ無き御心とイエズスの聖心を悲しませることは、修道者、司祭の霊魂たちが堕落することです。悪魔は、自分の美しい召命の道から堕ちた修道者と司祭らが、多くの霊魂を地獄に引きずり下ろすことを知っています。・・・悪魔は、天主に捧げられた霊魂たちを奪いたいと望んでいます。悪魔は、彼らを腐敗させるように試みています。それは彼らが平信徒の霊魂たちを眠り込ませる子守歌を歌い、彼らが最終的に罪を痛悔しないように導くためです。」

"Padre, el diablo está empeñado en entablar una batalla decisiva contra la Santísima Virgen. Y el diablo sabe que es lo que más ofende a Dios, y lo que ganará para él en el más corto plazo de tiempo el mayor número de almas. Así, el diablo hace todo lo posible para vencer a las almas consagradas a Dios, porque de esa forma, logrará dejar abandonadas de sus guías las almas de los fieles; con esto se apoderará de ellas aún más fácilmente."
"Lo que aflige al Inmaculado Corazón de María y al Corazón de Jesús es la caída de las almas religiosas y sacerdotales. El diablo sabe que los religiosos y sacerdotes que apostatan de su hermosa vocación, arrastran numerosas almas al infierno... El diablo quiere tomar posesión de las almas consagradas. Trata de corromperlas, para adormecer las almas de los laicos y llevarlas así a la impenitencia final. El emplea todos los trucos, yendo incluso tan lejos como para sugerir demorar la entrada en la vida religiosa. Resultado de esto es la esterilidad de la vida interior, y entre los laicos, frialdad (falta de entusiasmo) en la renuncia a los placeres y a la dedicación total de si mismos a Dios."


「私の使命は、この世界が祈らず、償いを果たさなかったら必ず受けるであろう物質的な天罰について、この世界に指し示すことではありません。いいえ、違います。私の使命は全ての人々に、もし私たちがこのまま罪に頑なにとどまるなら、永遠に私たちの霊魂を失ってしまうというその身に迫る危険を指し示すことにあります。」

"Padre, es por ello que mi misión no es indicar al mundo los castigos materiales que ciertamente vendrán si el mundo no reza y hace penitencia antes. ¡No! Mi misión es indicar a todos el peligro inminente en que estamos de perder nuestras almas por toda la eternidad si permanecemos obstinados en el pecado."


「神父様、ローマから教皇様から全世界のために改悛への呼びかけがくると期待しないようにしましょう。その呼びかけが司教区の司教様がたから、あるいは修道会からくると期待しないようにしましょう。今は私たち一人一人が自分で自分の霊的改革を始めなければなりません。一人一人は自分の霊魂を救わなければならないばかりか、その道に天主様が置かれ給うたすべての霊魂をも救わなければなりません。・・・ 既に今から私たちは天主様のものかあるいは悪魔のものかそのどちらかで中間はありません。」

"No debemos esperar un llamado al mundo que venga de Roma, de parte del Santo Padre, para hacer penitencia. Ni debemos esperar que el llamado a penitencia venga de los Obispos de nuestras diócesis, ni de las congregaciones religiosas. ¡No! Nuestro Señor ya ha usado muy a menudo estos medios y el mundo no ha prestado atención. Por eso ahora es necesario a cada uno de nosotros comenzar a reformarnos espiritualmente. Cada persona debe, no solamente salvar su propia alma, sino también todas las almas que Dios ha puesto en su camino... El diablo hace cuanto está en su poder para distraernos y quitarnos el amor por la oración; seremos salvados juntos o seremos condenados juntos."


「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。そして聖なるロザリオもあります。神父様、ご覧ください。私達の生きるこの最後のときに当たって聖母はロザリオを唱えることに新しい効果を与えてくださいました。たとえそれがどんなに難しくとも、この世的なあるいは、特に霊的な問題、私たち一人一人の個人的な生活上の問題、家族の問題、この世のすべての家族の問題、修道会の問題、民族の問題、国家の問題などなど私たちがこの聖なるロザリオの祈りによって解決できない問題などありません。ロザリオを唱えることによって私たちは自分を救い、聖化し、我らの主を慰め、多くの霊魂の救いを勝ち取るのです。 最後に私たちのいとも聖なる母、マリア様の汚れ無き聖心への信心をもたなければなりません。そして聖母を仁慈・善良さ・赦しの座であると考え、天国への確かな門であると考えなければなりません。」

"Los dos medios para salvar al Mundo son la oración y el sacrificio. Respecto al Santo Rosario, Sor Lucía dijo: Mire Padre, la Santísima Virgen, en estos últimos tiempos en los que vivimos, ha dado una nueva eficacia al rezo del Rosario, hasta tal punto, que no hay problema, ni cuestión por difícil que sea, tanto temporal o sobre todo espiritual, en la vida personal de cada uno de nosotros, de nuestras familias, de las familias del mundo, o de las comunidades religiosas, o incluso de la vida de los pueblos y de las naciones, que no pueda ser resuelto por el Rosario. No hay problema, le digo, ni asunto por difícil que sea, que nosotros no podamos resolverlo con el rezo del Santo Rosario. Con el Santo Rosario nos salvaremos. Nos santificaremos. Consolaremos a Nuestro Señor y obtendremos la salvación de muchas almas. Finalmente, la devoción al Inmaculado Corazón de María, nuestra Santísima Madre, consiste en considerarla como la sede de la Misericordia, de la bondad y del perdón, y la puerta cierta por la cual entraremos al Cielo."
La conversación de Sor Lucía con el Padre Fuentes (26 de Diciembre de 1957).


ロザリオの聖母マリアよ、我らのために祈り給え!

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ロザリオの祈りについて
レオ13世 回勅「オクトブリ・メンセ」 1891年9月22日
レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラートゥス』1883年9月1日
レオ13世 回勅『ユークンダ・センペル』1894年9月8日
レオ13世 回勅『フィデンテム・ピウムクェ』1896年9月20日
レオ13世 回勅『マニェ・デイ・マートリス』1892年9月7日

レオ13世 回勅『マニェ・デイ・マートリス』1892年9月7日
レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラートゥ』1883年9月1日
レオ13世 回勅『ユークンダ・センペル』1894年9月8日
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レオ13世 回勅『アドュトリーチェン・ポプリ』1895年9月5日

レオ13世 使徒書簡『パルタ・フマノ・ジェネリ』1901年9月8日
ピオ11世 書簡『インクリタム・アク・ペリルストレム』1934年3月6日
レオ13世 回勅『フィデンテム・ピウムクェ』1896年9月20日

レオ13世 回勅『アウグスティッシメ』1897年9月12日
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ピオ12世 回勅『イングルエンティウム・マロールム』1951年9月15日

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レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラートゥス』1883年9月1日
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レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラートゥス』1883年9月1日
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ピオ12世 回勅『イングルエンティウム・マロールム』1951年9月15日

レオ13世 回勅『オクトブリ・メンセ』1891年9月22日
ピオ11世 回勅「イングラヴェシェンティブス・マリス」1937年9月29日
ベネディクト15世 回勅「ファウスト・アッペテンテ・ディエ」
1921年6月29日
レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラトゥス』1883年9月1日
ピオ12世 回勅『イングルエンチウム・マロールム』1951年9月15日
ピオ12世 回勅『アド・チェリ・レジナム』1954年10月11日




「大阪カトリック時報」2007年9月号「<天皇制>にどのように対峙すべきか」を読んで

2007年10月04日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 「大阪カトリック時報」2007年9月号をいただき拝見した。

 第一面の第二の記事は、「<天皇制>にどのように対峙すべきか シンポジウム『国家と差別』開かれる」という題の記事だ。それによると次のようにある。

 「問題委員会(日本カトリック司教協議会)では、右翼化する社会情勢の中で議論することさえ難しくなっていくであろう「天皇制」を今こそ取り上げておくべきではないかと考え、7月7日、玉造教会小聖堂において大阪教会管区問題活動センターの共催で、「シンポジウム『国家と差別』<天皇制>」を開催した。参加者は百二十人を数えた。上杉聡さん(関西大学講師・部落史研究家)の司会で、三人の発題者から問題提起がなされた。パネリストとテーマは次の通りである。
(1)源淳子さん(関西大学人権問題研究室委嘱研究員)「女人禁制と天皇制」
(2)藤野豊さん(富山国際大学助教授・ハンセン病市民学会事務局長)「排除と統合の天皇制」
(3)本田哲郎神父(フランシスコ会司祭)「神から来る権威」
 シンポジウムから、天皇制は決して神から由来する権威ではなく(ママ)、その本質は、他国を侵略する暴力(ママ)と、そのために必要な国民を選別する差別に他ならない(ママ)ことが明らかにされた(ママ)。
 私たちキリスト者は天皇制にどのように対峙していくべきなのか、態度を明確にするときが来ているのではないだろうか。」


【コメント】
(1)すべての権威は天主に由来する。これはカトリックの信仰だ。

 私たちの主イエズス・キリストは、ローマ総督であったポンシオ・ピラトに向かってその権威を認めてこう言った。「もし上から与えられなければ、あなたは私にたいして、なんの権利ももっていない」と。

「ユダヤ人は、「私たちには律法があります。律法によれば、彼は死にあたる。みずから天主の子となのったからです」と答えた。このことばをきいてますますおそれたピラトは、また官邸にはいって、イエズスに「あなたはどこからきた人か?」ときいた。イエズスはお答えにならなかった。ピラトは、「答えないのか?あなたをゆるす権利も、十字架につける権利も、私にあることを知らないのか?」といった。すると、イエズスは、「もし上から与えられなければ、あなたは私にたいして、なんの権利ももっていない。だからこそ、私をあなたにわたした人の罪は、さらに大きい」とお答えになった。」(ヨハネ十九章)

 聖パウロはこう言っている。
「すべての人は、上の権威者に服従せよ。なぜなら、天主から出ない権威はなく、存在する権威者は天主によって立てられたからである。」(ローマ第十三章)

 従って、皇室も正当に受け入れられた権威であり、天主に由来する。


(2)キリシタンたちは

 私たちの祖先キリシタンたちは、皇室に対しても、将軍に対しても、諸大名に対しても、その権威を疑ったことがなかった。たとえ彼らがキリシタンたちを残虐に殺戮したとしてもだ。


(3)皇室の本質は

 皇室は日本で神話時代から二千年以上と言われる長い歴史を持っている。前方後円墳の作られ出した三世紀、或いは史書『宋書』倭国伝による五世紀ごろからその存在が確認されている。
 しかし、その本質は他国を侵略する暴力ではない。古代の日本にとって、万葉集の防人(さきもり)の歌にあるように、支那大陸からくる侵略の防衛が大きな課題であった。
 例外として、朝鮮半島からの依頼により、唐・新羅の連合軍より攻撃を受けた百済救済のために防人が出兵したことがある。しかしこれは同盟国が侵略されるのを防ぐために援軍を出したのだった。

 歴史的には、元冦を受けた後に、平民出身の豊臣秀吉が明を侵略しようと幻想を抱いたことがあった。或いは、南朝北朝と朝廷が全国規模で争っていた時、中央の統制がゆるく、全く私的な民間人貿易船が、海賊行為をしたこと(倭寇)がある。しかし、後期倭寇は大半が中国人であったという。

 スターリン・レーニン・毛沢東・ポルポト・カストロなどは「人民共和国」という「民主主義」の名前によって何千万人の人民の命を奪った

 人類最初の原爆は、広島と長崎に原爆を落とされたが、それは「主権在民」「民主主義」という神聖にして犯さざるべからざる名前によってなされた。

 むしろ、天主なき「民主主義」の名前のもとで、多くの革命と戦争が起こり、多くの人々の命が奪われてきた。

(4)文化スリップ

 何故、私たち日本人であるカトリック信者が、「天皇制」に対峙しなければならないのか分からない。これは「文化スリップ」ではないのか?

 しかしながら、事実は、これが日本カトリック司教協議会の合法的なシンポジウムの内容だ。このシンポジウムは、司式場所の教区長の許可をとってなされたものだ。聖母マリア様を冒涜し、皇室に対峙している本多哲郎神父は、いつも自由に何でも話すことが許されており、何を言っても「合法ミサ」をささげることが出来ている。

 この記事を読むと、「私たちキリスト者は、カトリック信仰に反することを公然と主張する聖職者たちにどのように対峙していくべきなのか、態度を明確にするときが来ているのではないだろうか」と言いたくなるではないか。

 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
 ロザリオの聖母よ、我らのために祈り給え!
 アシジの聖フランシスコよ、我らのために祈り給え!
 聖アルフォンソ・デ・リグォリよ、我らのために祈り給え!
 日本の尊き殉教者、我らのために祈り給え!

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■ 第二バチカン公会議の全ての文書を捨て去らなければならないのか?
■ 聖ピオ十世会は教会認可の正式な修道会と思ってよいか
■ 離離は深刻なことではないか? 聖アウグスティヌスの言葉についてどう思うか。
■ 松浦悟郎司教さまが呼びかけ人になって、良心の自由を理由に「日の丸」と「君が代」の拒否をすすめているが、どう思うか
■ 異端とは何か? 離教とは何か?:ダブルスタンダード?! 聖伝主義に対する態度とエキュメニズム
■ ヨハネ・パウロ二世の書簡「エクレジア・デイ」について
■  「聖ピオ十世会のミサは有効であり主日の義務を果たすか」
教皇庁立委員会エクレジア・デイの回答

■ 聖ピオ十世会、聖伝ミサに関する問い合わせ
■ 新しいミサでは「王であるキリストの祭日が終末を表す年間最後の主日に定められていることも意義深いものです」
■ 「王たるキリスト」祝日の根拠
■ 「自身の良心に従う」とは?
■ 第二バチカン公会議とは?
■ 第二バチカン公会議のモットー
■ 新しい「光りの玄義」について
■ 東方正教会
■ カトリックのエキュメニズム運動
■ 過ぎ越しの神秘
■ ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿とその思想は?教皇ベネディクト十六世の考えをよく理解するために
■ 地球交響楽:「ガイア理論」はニューエイジ
■ 薬物(マリファナ、大麻など)の使用について
■ 宗教とは何か?
■ 第二ヴァチカン公会議の「洗礼の秘跡による信徒の祭司職」について
■ 何故、新しい神学が過去の公教要理の教えを否定してまでも新しい教理を教えているのか?
■ 「贖い」ということについて公教要理をみてみます。
■ ピストイア教会会議って知っていましたか?
■ だから私たちは「カトリック新聞」の聖福音の説明を読むとびっくりするのです
■ 第二バチカン公会議の『教会憲章』の曖昧な表現についてどう考えるべきか?
■ 第二バチカン公会議の文書の曖昧な性格は何に由来するのか?

「大阪カトリック時報」2007年9月号を読んで:石が叫ぶ

2007年10月04日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 「大阪カトリック時報」2007年9月号をいただき拝見した。

 第一面には、8月12日午後に、大阪のカテドラル(玉造教会)で五地区合同の行事が行われたというニュースが掲載されている。

「2007年 教区平和旬間行事 「あなたのいのち、私の平和」 石が叫ぶ カテドラルでは講演会と平和祈願ミサ」というタイトルで、「イベントのメイン」は、本多立太郎さんの講演で、軍隊体験など「戦争出前噺(ママ)」であった。以下、内容を引用する。

「そのあと平和祈願ミサが、池長潤大司教、松浦悟郎司教らの司式で行われた(原文のママ呼び捨て)。」
「『回心への招き』では講演をされた本多さんの著作が取り上げられ、本多さんがそれまで一切口にしなかった戦争の体験談を、・・・書き残し始めたとの回心の体験が朗読された(原文のママ「さん」付け)。」
「説教において松浦司教は、『石が叫ぶ』から説き起こし、『石は沈黙のイメージがある。しかしすべてを知っており、歴史の中で抹殺された声が閉じこめられている。それが叫び出すのは、赦しと和解のため。今を生きる私たちは、圧殺された声と向かい合い、『真実と和解』を実現する決意を持ちたい」と呼びかけた。

【コメント】
 「石が叫ぶ」とは、確かに私たちの主イエズス・キリストが言われた言葉だ。ただし、石が叫ぶその内容は、私たちの主イエズス・キリストが真の約束された救い主であり天主であるという究極の真理だ。

「かんらん山の下り道に近づくと、喜びいさんだ多くの弟子たちが、その見たすべての奇跡について、声高く天主を賛美しつついいはじめた。「賛美されよ、主のみ名によって来るおん者、王よ。天には平安、いと高きところに栄光」。群衆の中のあるファリザイ人が、「先生、弟子たちをいましめてください」といったが、イエズスは、「私はいう。かれらが黙ったとしても、石が叫ぶだろう!」とお答えになった。」

 私たちは、この真理をこそ叫ばなければならない。私たちの主イエズス・キリストこそ、真の唯一の天主である、真の救い主である、私たちの主イエズス・キリストを通らずにはだれも天の国に入れないことを。

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第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
■ 現在、教会に危機は存在するか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?(つづき)
■ イエズス・キリストは、市民社会の王であるか?
■ イエズスは「自分の王国はこの世からのものではない」と言われたのではないか?
■ 第二バチカン公会議はどこが特別なのか?
■ ミサ聖祭とは何か?ミサがいけにえであるということを誰が否定したのか?
■ 新しいミサの第二奉献文(Prex eucharistica II)は、極めて古代のものではないのか?
■ 決して廃止されたことのないこの古い典礼を求める新しい刷新された関心 聖伝のミサは廃止されているか?
■ どのように御聖体拝領をすべきか?
■ 現在手による聖体拝領を拒むことは、進歩への跳躍と発展をも拒むことであるか?
■ ミサ聖祭はラテン語でなければならないのか?ベネディクト十六世教皇のラテン語奨励はいいアイデアか
■ カトリック典礼が普通に有するべき三つの性質:新しいミサはこの三つの特徴を満たすか?
■ モンシニョール・クラウス・ガンバー(Msgr Klaus Gamber)の「ローマ典礼の改革」
■ 新しいミサの神学的な問題点: 新しいミサの基礎になっている考えとは何か?
■ ミサ聖祭とは何か? (『聖ピオ十世の公教要理』による説明)
■ 新しいミサについて(第二ヴァチカン公会議が始まるわずか数年まえのピオ十二世の言葉)
■ 新しいミサに関するベネディクト十六世教皇の言葉
■ 新しいミサについての権威者のコメント
■ ミサ聖祭とは何か。1952年の「公教要理」による説明と今の流行の説明
■ 聖伝のミサの自由化:リベラルな司教様たちは反対、何故か?
■ 「信教の自由」と新しいミサの多くのオプション。「平信徒の声を聞く、開かれた教会、今までの権威主義ではない信徒のための信徒による信徒の教会、手作りの教会、草の根の教会」というモットー。しかし跪いての口での御聖体拝領は厳禁。何故か?

ロザリオの聖母よ、我らのために

2007年10月02日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

 十月は、ロザリオの聖月。今月こそはたくさんロザリオの祈りを唱えたい。愛する方々のために。病で苦しむ方々のために祈りたい。
 守護の天使よ、我らのために祈り給え。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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