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「大阪カトリック時報」2007年9月号「<天皇制>にどのように対峙すべきか」を読んで

2007年10月04日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 「大阪カトリック時報」2007年9月号をいただき拝見した。

 第一面の第二の記事は、「<天皇制>にどのように対峙すべきか シンポジウム『国家と差別』開かれる」という題の記事だ。それによると次のようにある。

 「問題委員会(日本カトリック司教協議会)では、右翼化する社会情勢の中で議論することさえ難しくなっていくであろう「天皇制」を今こそ取り上げておくべきではないかと考え、7月7日、玉造教会小聖堂において大阪教会管区問題活動センターの共催で、「シンポジウム『国家と差別』<天皇制>」を開催した。参加者は百二十人を数えた。上杉聡さん(関西大学講師・部落史研究家)の司会で、三人の発題者から問題提起がなされた。パネリストとテーマは次の通りである。
(1)源淳子さん(関西大学人権問題研究室委嘱研究員)「女人禁制と天皇制」
(2)藤野豊さん(富山国際大学助教授・ハンセン病市民学会事務局長)「排除と統合の天皇制」
(3)本田哲郎神父(フランシスコ会司祭)「神から来る権威」
 シンポジウムから、天皇制は決して神から由来する権威ではなく(ママ)、その本質は、他国を侵略する暴力(ママ)と、そのために必要な国民を選別する差別に他ならない(ママ)ことが明らかにされた(ママ)。
 私たちキリスト者は天皇制にどのように対峙していくべきなのか、態度を明確にするときが来ているのではないだろうか。」


【コメント】
(1)すべての権威は天主に由来する。これはカトリックの信仰だ。

 私たちの主イエズス・キリストは、ローマ総督であったポンシオ・ピラトに向かってその権威を認めてこう言った。「もし上から与えられなければ、あなたは私にたいして、なんの権利ももっていない」と。

「ユダヤ人は、「私たちには律法があります。律法によれば、彼は死にあたる。みずから天主の子となのったからです」と答えた。このことばをきいてますますおそれたピラトは、また官邸にはいって、イエズスに「あなたはどこからきた人か?」ときいた。イエズスはお答えにならなかった。ピラトは、「答えないのか?あなたをゆるす権利も、十字架につける権利も、私にあることを知らないのか?」といった。すると、イエズスは、「もし上から与えられなければ、あなたは私にたいして、なんの権利ももっていない。だからこそ、私をあなたにわたした人の罪は、さらに大きい」とお答えになった。」(ヨハネ十九章)

 聖パウロはこう言っている。
「すべての人は、上の権威者に服従せよ。なぜなら、天主から出ない権威はなく、存在する権威者は天主によって立てられたからである。」(ローマ第十三章)

 従って、皇室も正当に受け入れられた権威であり、天主に由来する。


(2)キリシタンたちは

 私たちの祖先キリシタンたちは、皇室に対しても、将軍に対しても、諸大名に対しても、その権威を疑ったことがなかった。たとえ彼らがキリシタンたちを残虐に殺戮したとしてもだ。


(3)皇室の本質は

 皇室は日本で神話時代から二千年以上と言われる長い歴史を持っている。前方後円墳の作られ出した三世紀、或いは史書『宋書』倭国伝による五世紀ごろからその存在が確認されている。
 しかし、その本質は他国を侵略する暴力ではない。古代の日本にとって、万葉集の防人(さきもり)の歌にあるように、支那大陸からくる侵略の防衛が大きな課題であった。
 例外として、朝鮮半島からの依頼により、唐・新羅の連合軍より攻撃を受けた百済救済のために防人が出兵したことがある。しかしこれは同盟国が侵略されるのを防ぐために援軍を出したのだった。

 歴史的には、元冦を受けた後に、平民出身の豊臣秀吉が明を侵略しようと幻想を抱いたことがあった。或いは、南朝北朝と朝廷が全国規模で争っていた時、中央の統制がゆるく、全く私的な民間人貿易船が、海賊行為をしたこと(倭寇)がある。しかし、後期倭寇は大半が中国人であったという。

 スターリン・レーニン・毛沢東・ポルポト・カストロなどは「人民共和国」という「民主主義」の名前によって何千万人の人民の命を奪った

 人類最初の原爆は、広島と長崎に原爆を落とされたが、それは「主権在民」「民主主義」という神聖にして犯さざるべからざる名前によってなされた。

 むしろ、天主なき「民主主義」の名前のもとで、多くの革命と戦争が起こり、多くの人々の命が奪われてきた。

(4)文化スリップ

 何故、私たち日本人であるカトリック信者が、「天皇制」に対峙しなければならないのか分からない。これは「文化スリップ」ではないのか?

 しかしながら、事実は、これが日本カトリック司教協議会の合法的なシンポジウムの内容だ。このシンポジウムは、司式場所の教区長の許可をとってなされたものだ。聖母マリア様を冒涜し、皇室に対峙している本多哲郎神父は、いつも自由に何でも話すことが許されており、何を言っても「合法ミサ」をささげることが出来ている。

 この記事を読むと、「私たちキリスト者は、カトリック信仰に反することを公然と主張する聖職者たちにどのように対峙していくべきなのか、態度を明確にするときが来ているのではないだろうか」と言いたくなるではないか。

 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
 ロザリオの聖母よ、我らのために祈り給え!
 アシジの聖フランシスコよ、我らのために祈り給え!
 聖アルフォンソ・デ・リグォリよ、我らのために祈り給え!
 日本の尊き殉教者、我らのために祈り給え!

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「大阪カトリック時報」2007年9月号を読んで:石が叫ぶ

2007年10月04日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 「大阪カトリック時報」2007年9月号をいただき拝見した。

 第一面には、8月12日午後に、大阪のカテドラル(玉造教会)で五地区合同の行事が行われたというニュースが掲載されている。

「2007年 教区平和旬間行事 「あなたのいのち、私の平和」 石が叫ぶ カテドラルでは講演会と平和祈願ミサ」というタイトルで、「イベントのメイン」は、本多立太郎さんの講演で、軍隊体験など「戦争出前噺(ママ)」であった。以下、内容を引用する。

「そのあと平和祈願ミサが、池長潤大司教、松浦悟郎司教らの司式で行われた(原文のママ呼び捨て)。」
「『回心への招き』では講演をされた本多さんの著作が取り上げられ、本多さんがそれまで一切口にしなかった戦争の体験談を、・・・書き残し始めたとの回心の体験が朗読された(原文のママ「さん」付け)。」
「説教において松浦司教は、『石が叫ぶ』から説き起こし、『石は沈黙のイメージがある。しかしすべてを知っており、歴史の中で抹殺された声が閉じこめられている。それが叫び出すのは、赦しと和解のため。今を生きる私たちは、圧殺された声と向かい合い、『真実と和解』を実現する決意を持ちたい」と呼びかけた。

【コメント】
 「石が叫ぶ」とは、確かに私たちの主イエズス・キリストが言われた言葉だ。ただし、石が叫ぶその内容は、私たちの主イエズス・キリストが真の約束された救い主であり天主であるという究極の真理だ。

「かんらん山の下り道に近づくと、喜びいさんだ多くの弟子たちが、その見たすべての奇跡について、声高く天主を賛美しつついいはじめた。「賛美されよ、主のみ名によって来るおん者、王よ。天には平安、いと高きところに栄光」。群衆の中のあるファリザイ人が、「先生、弟子たちをいましめてください」といったが、イエズスは、「私はいう。かれらが黙ったとしても、石が叫ぶだろう!」とお答えになった。」

 私たちは、この真理をこそ叫ばなければならない。私たちの主イエズス・キリストこそ、真の唯一の天主である、真の救い主である、私たちの主イエズス・キリストを通らずにはだれも天の国に入れないことを。

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第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
■ 現在、教会に危機は存在するか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?(つづき)
■ イエズス・キリストは、市民社会の王であるか?
■ イエズスは「自分の王国はこの世からのものではない」と言われたのではないか?
■ 第二バチカン公会議はどこが特別なのか?
■ ミサ聖祭とは何か?ミサがいけにえであるということを誰が否定したのか?
■ 新しいミサの第二奉献文(Prex eucharistica II)は、極めて古代のものではないのか?
■ 決して廃止されたことのないこの古い典礼を求める新しい刷新された関心 聖伝のミサは廃止されているか?
■ どのように御聖体拝領をすべきか?
■ 現在手による聖体拝領を拒むことは、進歩への跳躍と発展をも拒むことであるか?
■ ミサ聖祭はラテン語でなければならないのか?ベネディクト十六世教皇のラテン語奨励はいいアイデアか
■ カトリック典礼が普通に有するべき三つの性質:新しいミサはこの三つの特徴を満たすか?
■ モンシニョール・クラウス・ガンバー(Msgr Klaus Gamber)の「ローマ典礼の改革」
■ 新しいミサの神学的な問題点: 新しいミサの基礎になっている考えとは何か?
■ ミサ聖祭とは何か? (『聖ピオ十世の公教要理』による説明)
■ 新しいミサについて(第二ヴァチカン公会議が始まるわずか数年まえのピオ十二世の言葉)
■ 新しいミサに関するベネディクト十六世教皇の言葉
■ 新しいミサについての権威者のコメント
■ ミサ聖祭とは何か。1952年の「公教要理」による説明と今の流行の説明
■ 聖伝のミサの自由化:リベラルな司教様たちは反対、何故か?
■ 「信教の自由」と新しいミサの多くのオプション。「平信徒の声を聞く、開かれた教会、今までの権威主義ではない信徒のための信徒による信徒の教会、手作りの教会、草の根の教会」というモットー。しかし跪いての口での御聖体拝領は厳禁。何故か?

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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