アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖金大建アンドレア(安魯)神父についてご紹介します。
朝鮮最初のカトリック司祭、アンドレア金大健
李氏朝鮮末期1821年8月21日に、忠清南道の両班で熱心なカトリックの両親のもとに生まれる。兒名は再福といった。祖父である金震厚は1814年に牢死により殉教し、父親イグナチオ金済俊は1836年フランス人司祭であるモバン(Maubant)神父から受洗、1839年に西門外で斬首の殉教をしている。
金大建は、15歳の時モバン神父より受洗、その才能を認められ、マカオ(澳門)の神学校で勉強するように推薦を受け、両親の元を離れて、同輩の崔良業、崔方済とともに遼東と満州を経て中国大陸を縦断するマカオまでの旅に出た。神学、ラテン語、フランス語などをマカオ駐在のパリ外国宣教会司祭から学び、6年の勉学の後、1845年8月17日に、上海でフェレオル司教(Ferreol、注:ペレオールではない)からカトリック司祭として叙階される。
第三代朝鮮教区監牧(朝鮮教区長)であるフェレオル司教を助けるために1845年10月、朝鮮に入り、監牧代理として宣教活動をする。翌1846年6月5日、官憲により逮捕され投獄される。同年9月15日天主教を信じた邪學罪人の反逆罪として軍門梟首による死刑を宣告され、同年9月16日殉教。25歳。
一年に満たない朝鮮での「司牧活動」のために、若くして家を捨て祖国を離れて留学し、フランス式のカトリック神学教育を受た。神学を学ぶため、また祖国朝鮮で司牧するために数千キロメートルも危険な旅を繰りかえした。迫害の中、朝鮮で迫害を受けているカトリック信徒たちを慰め励まし教えた。
1925年7月5日、ピオ十一世により韓国69位福者の一人として列福される。
1984年5月6日、ヨハネ・パウロ二世より103位韓国殉教者の一人として列聖される。
韓国聖職者の守護の聖人。
聖金大建神父の生涯は次にくわしい。
聖金大建神父の生涯
聖金大建神父の生涯
聖金大建神父の生涯
ラテン語で書かれた書簡二十三通が残っている。漢文でも一通書簡を書き、獄中で朝鮮で迫害を受けている信徒たちを励ますための回覧状(廻諭文)を唯一ハングルで書き残した。神父は一度も自分の韓国語の名前を署名で使っていない。常に金アンドレアである。
何故金大建神父は、あらゆる危険、体力の極度の衰弱、重病にもかかわらず、中国大陸を縦断して司祭となり、雪の中でも何百キロを歩き、陸地と海路を通じて命の危険を冒してまで朝鮮に戻ったのか? それは秘蹟を信徒たちに授けるためであった。ミサ聖祭をたて、罪の告白を聞き、祝福するためであった。
金アンドレア神父様のような危険な宣教の旅は、とても真似できるものではない。迫害の中、飛行機も電車もバスも車もない時代の旅行だ。電話もファックスも携帯のメッセージもメールもインターネットもない。金アンドレアは歩いて歩いた。しかしその気持ちが私には痛いようによく分かる気がする。牧者がその信徒たちを思う気持ち、彼らを愛する気持ちがよく分かる。私はその牢獄での書簡を読んで深く感動した。
たった二十五歳になったばかりの朝鮮最初のこの司祭殉教者には、どれ程多くのことを信徒の方々に伝えたかったことだろうか!「言うことは限りなくあり」、いくら紙を尽くしても筆を尽くしても書ききれなかっただろう。彼らのことを「心から愛して忘れることの出来ない」気持ちでどれ程一杯だっただろうか!
聖金アンドレア神父は、彼らに一つのことしか願っていない。これこそ本当の愛から出る願いだった。つまり彼らの救霊だ。聖なる神父は何度もこう繰り返している。
「迫害を耐え忍び、主の栄光のために働き、あなたたちの救霊を全うせよ。」
「天国に行って会おう。」
「天国で会い永遠に至福を享受することを願う。」
金アンドレア神父様の書いたものは日本語ではあまりよく知られていないので、金アンドレア神父の口を通して私も日本にいる愛する兄弟姉妹の皆様に同じことを言うために、この書簡を是非紹介したいと思う。
聖なるロザリオの聖母よ、我らのために祈り給え!
無原罪の御宿りよ、我らのために祈り給え!
聖アンドレア金大建よ、我らのために祈り給え!
*****************************
金アンドレア神父の最後の書簡
獄中にて 1846年8月末
(訳:トマス小野田神父)
교우들 보아라!
信徒たちよ、見よ。
我が友よ、良く考えて、考え抜くように。天主は何もなかった原初(無始之時)より天地万物を創造し、その中に私たち人間を、御自身の姿に似せて創り給いこの世に置き給う目的(慰藉)とその意味を考えるように。
全てこの世のことを、じっくり考えてみると、哀れで悲しいことが多い。このように厳しく哀れな世界に一度生まれ、私たちを生まれさせたもう主(임자)を知らないとしたら、生き甲斐もなく、生きていても無益で、たとえ主の恩によりこの世に生まれ、主の恩により受洗して入信し主の弟子になっても、名前はまた尊くとも、実が伴わなければ、名前を何の役にたつのか。この世に生まれ入信した意味(効験)がないのみならず、むしろ主に背き主の恩に背く(背主背恩)ことになり、主の恩寵を受けるだけで主に罪を犯すならば、生まれてこないだけということと何とも同じことだ。
種を植える農夫を見ると、時に合わせて畑を耕し、肥料を蒔き、暑さに苦労を顧みることなく、美しい種を養い育て、収穫の時に至って、穀物が良く実るなら、汗を流した苦労を心は忘れてむしろ喜び踊り幸福になるだろうし、穀物が良く実らず収穫の時に空籾と殻だけしかならないなら、主人は汗を流した苦労を思い出し、むしろこの畑に肥料を蒔いてやった努力のためにこの畑を冷遇するだろう。このように主は、この地を畑とし、私たち人間をして稲とし、恩寵をして肥料とし給い、贖罪のために御托身し給いて、御血によりて私たちに水を与え、良く育ち実りをつけるようになさっておられる。審判の日に、収穫の時が到来し、恩寵を受けて実りをつけたならば主の養子(義子)として天国を享受するだろうし、もしも実りをつけることが出来なかったのならば、主の養子から主の敵となり、永遠にふさわしい罰を受けることだろう。
私の愛する兄弟たちよ、よく知るように。私たちの主イエズスは、この世に生まれ、その身に無数の苦難を受け給い、苦しみの中から聖なる教会を建て給い、苦難の中でそれを成長させ給う。しかし、この世の嵐がどれ程激しく戦うとも、勝つことは出来ない。イエズスは御昇天後の使徒の時代より今に至るまで、聖なる教会はあまねく無数の艱難の中を成長し、ただ今では我が朝鮮に聖なる教会が到来して五、六十年の間に、幾度も迫害に信徒たちが今までさらされており、また今日、迫害は炎のように燃え上がり、数名の信徒たちと私までが捕らえられ、更にあなたたちまで困難の中に耐えている。私たちが一つの神秘体となり悲しみの心(哀痛之心)がないとしても、肉体(肉情)にはとても耐えられない離別は、難しくないわけがあるだろうか。しかし、聖書に言われているように、小さな髪の毛の先でさえも主は御覧になり給う、と。主にはご存じないことがなく全てを御覧になる、と言われ給うたのだから、どうしてこのようなのかと言うような迫害が、主の御旨(主命)でなかったり、主の与え給う報償と罰(主賞主罰)でないわけがあるだろうか。
主の聖なる御旨に従うなら、全心で天主イエズスの御稜威の側にたち、既に敗北させられたこの世の悪魔を打とう。このように遑々として慌ただしい時代にあたって、気後れさせることなく、むしろ力を尽くしてますます持てる力を出し、ちょうど勇敢な軍人が武器を携えて戦場に立つようにして、戦って勝つように。
どうか互いの友愛を忘れずに助け合い、合わせて主が私たちを憐れみ給い艱難を終えられるまで待て。万一どのようなことがあっても、どうか気をつけて極めてよく注意して主の栄光のために働き、ますます用心を重ねよ。ここにいる者二十名は、まだ主の御恵みにより元気でいる。もしも死んだ後でもあなたたちがこの人たちの家族をどうか忘れることのないようにせよ。
言うことは限りなくあるが、今や紙筆が尽き、ここで終える。私たちは遠からず戦場に出かけるだろうから、どうか、着実に功徳を修め、天国に行って会おう。心から愛して忘れることの出来ない信徒たちに、あなたたちはこのような困難の時代にあたり、どうか心を虚実に惑わされずに、夜も昼も主の助け(主祐)を乞い求め、三仇(=救霊を妨げる三つの敵である、悪魔、世俗、肉欲のこと)に敵対し、迫害を耐え忍び、主の栄光のために働き、あなたたちの救霊を全うせよ。このような迫害の時は、主の試練を受け世俗と悪魔に打ち勝ち功徳をますます積むときである。どうか、困難に大きく降伏する心で主に従う救霊の事業(事主救靈事)を途中で放棄してしまわず、むしろ過去の聖人聖女のあとをすべて自分のものと習得(萬萬修治)し、聖なる教会の栄光をいやまし、天主の着実な軍人と養子となったことを証明し、たとえあなたたちの体は多数でも、心では一人となり、愛を忘れずに、互いに忍びあい、憐れみ、主の憐れみの時を待て。
言うことは無数にあるが、場所が妥当ではなく書けない。全ての信徒たちは、天国で会い永遠に至福を享受することを願う。私の口をもってあなたたちの口に当てて、愛を接吻せよ。
副監牧 金 アンドレア
(追伸)
この世の全てのことは、些かのことも主のみ旨の通り(莫非主命)であり、些かのことも主の報償であり罰(莫非主賞主罰)である。従って、このような迫害もたしかに天主の許しがあってのことであり、あなたたちは甘受忍耐し、主のために生きひたすら主に悲しく乞い求め、早く平和を下さるのを待て。私が死ぬのはあなたたちの肉体と霊魂の大事に、いかに支障でないわけがあるだろうか。しかし、天主は遠からずあなたたちに、私と比較して、より着実な牧者を報償として下さるだろうから、どうかそわそわせず、大きな愛を起こし一つの体のように主に仕え、死後一緒に永遠に天主の御稜威に会い、ともに至福を享受することを多く願う。元気でいるように。
金神父 贈物謝絶
김 대건 신부님의 최후 서한 金アンドレア神父の書簡
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【推薦図書】
小さきものよ,われに来たれ
神との親しさ(6)
愛の賛歌 著者:聖アルフォンソ・デ・リゴリ 訳者:尻枝 満
祈りの偉大な力 者:聖アルフォンソ・デ・リゴリ 翻訳:渡辺美紀子 発行:レデンプトール会
イエス・キリストのご受難 著者:聖アルフォンソ・デ・リゴリ 編者・発行:レデンプト-ル会
聖体訪問と聖母訪問 著者:聖アルフォンソ・デ・リゴリ 翻訳:レデンプトリスチン修道院 発行:レデンプトール会
小さき聖テレジア自叙伝―幼きイエズスの聖テレジアの自叙伝の三つの原稿 ドン・ボスコ社
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖金大建アンドレア(安魯)神父についてご紹介します。
朝鮮最初のカトリック司祭、アンドレア金大健
李氏朝鮮末期1821年8月21日に、忠清南道の両班で熱心なカトリックの両親のもとに生まれる。兒名は再福といった。祖父である金震厚は1814年に牢死により殉教し、父親イグナチオ金済俊は1836年フランス人司祭であるモバン(Maubant)神父から受洗、1839年に西門外で斬首の殉教をしている。
金大建は、15歳の時モバン神父より受洗、その才能を認められ、マカオ(澳門)の神学校で勉強するように推薦を受け、両親の元を離れて、同輩の崔良業、崔方済とともに遼東と満州を経て中国大陸を縦断するマカオまでの旅に出た。神学、ラテン語、フランス語などをマカオ駐在のパリ外国宣教会司祭から学び、6年の勉学の後、1845年8月17日に、上海でフェレオル司教(Ferreol、注:ペレオールではない)からカトリック司祭として叙階される。
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一年に満たない朝鮮での「司牧活動」のために、若くして家を捨て祖国を離れて留学し、フランス式のカトリック神学教育を受た。神学を学ぶため、また祖国朝鮮で司牧するために数千キロメートルも危険な旅を繰りかえした。迫害の中、朝鮮で迫害を受けているカトリック信徒たちを慰め励まし教えた。
1925年7月5日、ピオ十一世により韓国69位福者の一人として列福される。
1984年5月6日、ヨハネ・パウロ二世より103位韓国殉教者の一人として列聖される。
韓国聖職者の守護の聖人。
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聖金大建神父の生涯
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聖金大建神父の生涯
ラテン語で書かれた書簡二十三通が残っている。漢文でも一通書簡を書き、獄中で朝鮮で迫害を受けている信徒たちを励ますための回覧状(廻諭文)を唯一ハングルで書き残した。神父は一度も自分の韓国語の名前を署名で使っていない。常に金アンドレアである。
何故金大建神父は、あらゆる危険、体力の極度の衰弱、重病にもかかわらず、中国大陸を縦断して司祭となり、雪の中でも何百キロを歩き、陸地と海路を通じて命の危険を冒してまで朝鮮に戻ったのか? それは秘蹟を信徒たちに授けるためであった。ミサ聖祭をたて、罪の告白を聞き、祝福するためであった。
金アンドレア神父様のような危険な宣教の旅は、とても真似できるものではない。迫害の中、飛行機も電車もバスも車もない時代の旅行だ。電話もファックスも携帯のメッセージもメールもインターネットもない。金アンドレアは歩いて歩いた。しかしその気持ちが私には痛いようによく分かる気がする。牧者がその信徒たちを思う気持ち、彼らを愛する気持ちがよく分かる。私はその牢獄での書簡を読んで深く感動した。
たった二十五歳になったばかりの朝鮮最初のこの司祭殉教者には、どれ程多くのことを信徒の方々に伝えたかったことだろうか!「言うことは限りなくあり」、いくら紙を尽くしても筆を尽くしても書ききれなかっただろう。彼らのことを「心から愛して忘れることの出来ない」気持ちでどれ程一杯だっただろうか!
聖金アンドレア神父は、彼らに一つのことしか願っていない。これこそ本当の愛から出る願いだった。つまり彼らの救霊だ。聖なる神父は何度もこう繰り返している。
「迫害を耐え忍び、主の栄光のために働き、あなたたちの救霊を全うせよ。」
「天国に行って会おう。」
「天国で会い永遠に至福を享受することを願う。」
金アンドレア神父様の書いたものは日本語ではあまりよく知られていないので、金アンドレア神父の口を通して私も日本にいる愛する兄弟姉妹の皆様に同じことを言うために、この書簡を是非紹介したいと思う。
聖なるロザリオの聖母よ、我らのために祈り給え!
無原罪の御宿りよ、我らのために祈り給え!
聖アンドレア金大建よ、我らのために祈り給え!
獄中にて 1846年8月末
(訳:トマス小野田神父)
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信徒たちよ、見よ。
我が友よ、良く考えて、考え抜くように。天主は何もなかった原初(無始之時)より天地万物を創造し、その中に私たち人間を、御自身の姿に似せて創り給いこの世に置き給う目的(慰藉)とその意味を考えるように。
全てこの世のことを、じっくり考えてみると、哀れで悲しいことが多い。このように厳しく哀れな世界に一度生まれ、私たちを生まれさせたもう主(임자)を知らないとしたら、生き甲斐もなく、生きていても無益で、たとえ主の恩によりこの世に生まれ、主の恩により受洗して入信し主の弟子になっても、名前はまた尊くとも、実が伴わなければ、名前を何の役にたつのか。この世に生まれ入信した意味(効験)がないのみならず、むしろ主に背き主の恩に背く(背主背恩)ことになり、主の恩寵を受けるだけで主に罪を犯すならば、生まれてこないだけということと何とも同じことだ。
種を植える農夫を見ると、時に合わせて畑を耕し、肥料を蒔き、暑さに苦労を顧みることなく、美しい種を養い育て、収穫の時に至って、穀物が良く実るなら、汗を流した苦労を心は忘れてむしろ喜び踊り幸福になるだろうし、穀物が良く実らず収穫の時に空籾と殻だけしかならないなら、主人は汗を流した苦労を思い出し、むしろこの畑に肥料を蒔いてやった努力のためにこの畑を冷遇するだろう。このように主は、この地を畑とし、私たち人間をして稲とし、恩寵をして肥料とし給い、贖罪のために御托身し給いて、御血によりて私たちに水を与え、良く育ち実りをつけるようになさっておられる。審判の日に、収穫の時が到来し、恩寵を受けて実りをつけたならば主の養子(義子)として天国を享受するだろうし、もしも実りをつけることが出来なかったのならば、主の養子から主の敵となり、永遠にふさわしい罰を受けることだろう。
私の愛する兄弟たちよ、よく知るように。私たちの主イエズスは、この世に生まれ、その身に無数の苦難を受け給い、苦しみの中から聖なる教会を建て給い、苦難の中でそれを成長させ給う。しかし、この世の嵐がどれ程激しく戦うとも、勝つことは出来ない。イエズスは御昇天後の使徒の時代より今に至るまで、聖なる教会はあまねく無数の艱難の中を成長し、ただ今では我が朝鮮に聖なる教会が到来して五、六十年の間に、幾度も迫害に信徒たちが今までさらされており、また今日、迫害は炎のように燃え上がり、数名の信徒たちと私までが捕らえられ、更にあなたたちまで困難の中に耐えている。私たちが一つの神秘体となり悲しみの心(哀痛之心)がないとしても、肉体(肉情)にはとても耐えられない離別は、難しくないわけがあるだろうか。しかし、聖書に言われているように、小さな髪の毛の先でさえも主は御覧になり給う、と。主にはご存じないことがなく全てを御覧になる、と言われ給うたのだから、どうしてこのようなのかと言うような迫害が、主の御旨(主命)でなかったり、主の与え給う報償と罰(主賞主罰)でないわけがあるだろうか。
主の聖なる御旨に従うなら、全心で天主イエズスの御稜威の側にたち、既に敗北させられたこの世の悪魔を打とう。このように遑々として慌ただしい時代にあたって、気後れさせることなく、むしろ力を尽くしてますます持てる力を出し、ちょうど勇敢な軍人が武器を携えて戦場に立つようにして、戦って勝つように。
どうか互いの友愛を忘れずに助け合い、合わせて主が私たちを憐れみ給い艱難を終えられるまで待て。万一どのようなことがあっても、どうか気をつけて極めてよく注意して主の栄光のために働き、ますます用心を重ねよ。ここにいる者二十名は、まだ主の御恵みにより元気でいる。もしも死んだ後でもあなたたちがこの人たちの家族をどうか忘れることのないようにせよ。
言うことは限りなくあるが、今や紙筆が尽き、ここで終える。私たちは遠からず戦場に出かけるだろうから、どうか、着実に功徳を修め、天国に行って会おう。心から愛して忘れることの出来ない信徒たちに、あなたたちはこのような困難の時代にあたり、どうか心を虚実に惑わされずに、夜も昼も主の助け(主祐)を乞い求め、三仇(=救霊を妨げる三つの敵である、悪魔、世俗、肉欲のこと)に敵対し、迫害を耐え忍び、主の栄光のために働き、あなたたちの救霊を全うせよ。このような迫害の時は、主の試練を受け世俗と悪魔に打ち勝ち功徳をますます積むときである。どうか、困難に大きく降伏する心で主に従う救霊の事業(事主救靈事)を途中で放棄してしまわず、むしろ過去の聖人聖女のあとをすべて自分のものと習得(萬萬修治)し、聖なる教会の栄光をいやまし、天主の着実な軍人と養子となったことを証明し、たとえあなたたちの体は多数でも、心では一人となり、愛を忘れずに、互いに忍びあい、憐れみ、主の憐れみの時を待て。
言うことは無数にあるが、場所が妥当ではなく書けない。全ての信徒たちは、天国で会い永遠に至福を享受することを願う。私の口をもってあなたたちの口に当てて、愛を接吻せよ。
副監牧 金 アンドレア
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この世の全てのことは、些かのことも主のみ旨の通り(莫非主命)であり、些かのことも主の報償であり罰(莫非主賞主罰)である。従って、このような迫害もたしかに天主の許しがあってのことであり、あなたたちは甘受忍耐し、主のために生きひたすら主に悲しく乞い求め、早く平和を下さるのを待て。私が死ぬのはあなたたちの肉体と霊魂の大事に、いかに支障でないわけがあるだろうか。しかし、天主は遠からずあなたたちに、私と比較して、より着実な牧者を報償として下さるだろうから、どうかそわそわせず、大きな愛を起こし一つの体のように主に仕え、死後一緒に永遠に天主の御稜威に会い、ともに至福を享受することを多く願う。元気でいるように。
金神父 贈物謝絶
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イエス・キリストのご受難 著者:聖アルフォンソ・デ・リゴリ 編者・発行:レデンプト-ル会
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