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第二バチカン公会議の『教会憲章』の曖昧な表現についてどう考えるべきか?

2007年08月01日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

◆ 『教会憲章』の曖昧な表現についてどう考えるべきか?

【答え】まず異端的な共同体や離教的な共同体を「カトリック教会とはまだ充満的な交わりの中にはない教会と教団」(those Churches and ecclesial communities which are not yet in full communion with the Catholic Church)と呼んでいることに注目すべきです。このことは、部分的な、或いは、不完全な、または一部的な交わりということを想定する表現です。

◆ この充満的な交わり full communion という表現は新しいものか?

【答え】「完全な交わり」(充満的な交わり)と「不完全な交わり」という区別は、第二バチカン公会議の考え出した主要な新しい点です。

 この革新は『エキュメニズムに関する教令』3に出てきます。更に、『教会憲章』14にも「完全に合体している」(fully incorporated) という表現が出てきます。

◆ これに関する教会の聖伝の教えは何か?

【答え】教会の教えは極めて単純です。救いを得るためには、或いは現実に(in re)教会に属しているか【つまり、古典的な三つの条件である洗礼・カトリック信仰・位階制度への従順を満たすことによってです】、
或いは少なくとも望みによって(in voto)教会に属していなければなりません【つまり、暗示的な或いは明示的な望みを持つことによってです】。

 現実に(in re)教会に属していない人びとでも、或る状況では望みによって(in voto)属していることができます。このようなことを教会の霊魂(anima)に属するとも言います。この望みは明示的であったり、暗示的であったりします。明示的であるとは、例えば洗礼を受けようとして準備している求道者の場合がそうです。洗礼を受けてはいないけれど洗礼を受けることによって教会に属することを望むとはっきり態度で示している場合です。暗示的であるとは、異端のプロテスタント宗派に生まれてきたけれども、不可避の仕方によって自分の故意ではなく真理を知らなかったことによる以外はこの異端説を信じなかったような人びとです。カトリック教会が唯一の真理の宗教であると知る主眼がなかったけれども、根本的にそれを受け入れる準備ができているような人びとです。

 従って、カトリック信仰を持っていない人びと、或いは正当な位階秩序に従わない人びと、また自分の置かれた状況を変えようと言う暗示的な望みもないような人びとは、教会には属していません。そのような状態では、永遠の救いを確保することができません。

◆ 第二バチカン公会議の新しいところは何処か?

【答え】第二バチカン公会議は、教会への所属と非所属という二つの中間形態を見つけようとしました。カトリックではないキリスト者らは教会と「不完全な交わり」(『エキュメニズムに関する教令』3、『教会憲章』15)にあるとされ、キリスト者ではない全ての人々は「神の民へ秩序づけられている」(ad Populum Dei ... ordinantur)。

 このことは、教会に属したいという少なくとも暗示的な望みを抱かなくても、望もうが望まないが「神の民へ秩序づけられている」のであるから、救われうるということを暗示しています。

◆ 第二バチカン公会議によれば、一体どうやって、離教的な共同体や異端的な共同体らがカトリック教会と「不完全な交わり」にあると言えるのか?

【答え】カトリック教会から離れたキリスト者や教団が「不完全な交わり」にあると言うために、第二バチカン公会議はラッツィンガー枢機卿が「ドミヌス・イエズス」でそうするように、彼らの持つ「聖化の要素」を取り上げます。これによってキリストの唯一の教会と交わっていることになると言います。

◆ 離教的な教団や異端的な団体であっても聖化の要素を保持しているというのは本当ではないのか?

【答え】プロテスタントが(その内容が多かれ少なかれ変更を加えられているとはいえ)聖書を持っていること、東方離教徒たちが秘蹟を保持していることは本当です。しかし聖伝の神学は、カトリック教会からいわば盗んできたこれらの現実を「聖化の要素」とか「教会の要素」とは呼んだことがありませんでした。教会はこれらをむしろ、真理の宗教の「残骸」と見てきました。

◆ 「残骸」を「教会の要素」と言い換えたことは重要か?

【答え】重要です。何故なら「残骸」ということは極めて重大な真理を表明しているからです。何故なら、カトリック教会から離れることによって、これらの要素は生きているという現実であることができなくなるからです。つまり、死に絶えた「残骸」であり「廃墟」と言うことです。この用語の変更は偶然ではありません。

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参考資料】
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

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