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聖ピオ十世会総長の「友人と恩人の皆様への手紙 第75号」(2009年10月11日)

2009年10月31日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会総長の「友人と恩人の皆様への手紙 第75号」(2009年10月11日)が聖ピオ十世会だより「マニラの eそよ風」上に公開されましたのでお知らせいたします。よろしくお願いいたします。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【関連リンク】


2009年10月25日聖ピオ十世会はソウルで王たるキリストの祝日に聖体行列を行いました

2009年10月31日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2009年10月25日、聖ピオ十世会韓国は、ソウルで王たるキリストの祝日にアジア管区長を迎えてささやかながら聖体行列を行いました。幾つか写真をご紹介します。ミサ聖祭に与った方が全て最後まで御聖体行列まで参加することが出来なかったのは残念でした。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ピオ十世会韓国、ソウルにて、2009年10月25日の王たるキリストの祝日の聖体行列


聖ピオ十世会韓国、ソウルにて、2009年10月25日の王たるキリストの祝日の聖体行列


聖ピオ十世会韓国、ソウルにて、2009年10月25日の王たるキリストの祝日の聖体行列


聖ピオ十世会韓国、ソウルにて、2009年10月25日の王たるキリストの祝日の聖体行列


聖ピオ十世会韓国、ソウルにて、2009年10月25日の王たるキリストの祝日の聖体行列


聖ピオ十世会韓国、ソウルにて、2009年10月25日の王たるキリストの祝日の聖体行列


聖ピオ十世会韓国、ソウルにて、2009年10月25日の王たるキリストの祝日の聖体行列


聖ピオ十世会韓国、ソウルにて、2009年10月25日の王たるキリストの祝日の聖体行列


聖ピオ十世会韓国、ソウルにて、2009年10月25日の王たるキリストの祝日の聖体行列


聖ピオ十世会韓国、ソウルにて、2009年10月25日の王たるキリストの祝日の聖体行列


ソウルでこの行列に与られた姉妹の方から次のような暖かいお便り(抜粋)をいただきました。深く感謝します。励まされます。

「アヴェ・マリア!

 ・・・
 今日は・・・、王たるキリストの行列も、撒かれた花の上を、天主様の後ろに続いて歩いているとなんだか誇らしい気持ちが湧き、素晴らしい主日を送ることができました。ありがとうございました。・・・

 神父様、フィリピンでもお忙しく活動され、日本、韓国といらっしゃり、私達には大きな喜びですが、神父様のご健康が損なわれないよう、天主様にお守りくださいますようお祈りいたしております。

 ロザリオの報告はまた月末にいたします。・・・いつも夜にお祈りいたしていますが、たまにロザリオを唱えるのが疲れることがあります。でもその時、神父様がお忙しく過ごされながらも静かにお祈りされている姿を思い浮かべ、誘惑に弱くなっている心を改め、祈ることがあります。神父様、これからもどうぞよろしくお導きください。」

【関連記事】

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教伝記 14.1.2.波乱に富んだ選挙

2009年10月31日 | ルフェーブル大司教の伝記
第14章 総長 防御の最後の試み
Ⅰ. 激戦を伴った選出

波乱に富んだ選挙

修道会上長ではなかったダカールの大司教は厳密な意味で総会メンバーとしての権利を所有していなかった。従って総会への参加資格を得る為には、セネガルとギニアからなる第二選挙区、又はフランスとローマ滞在司祭からなる第六選挙区の代表として選出されなければならなかった。

 共通の危難に直面し、フランスの急進的司祭たちのロビーは【ルフェーブル大司教が代表にならないように】票を集めた。そしてフランスの代表選挙の第一ラウンドで、或る成功をもたらした。しかしながら、聖霊司祭修道会本部は圧力を煽る圧力団体の不名誉な試みに憤慨し投票を無効とした。ローマの高位聖職者たちも投票が無効であることに好意的であった。そんな中、ローマから、おそらく修道会聖省又は使徒座署名院最高裁判所(the Apostolic Signatura)から送られたと思われる一通の書簡は、この選挙の結果が尊重されるべきであると通知したようである。これがどうであれ、1961年9月の同選挙「第二回目の第一ラウンド」は、ルイ・ルディ(Louis Ledit:シュヴィリの校長)、ジャック・ラクルワ(Jacques Lacroix)、ジョゼフ・ヒルツ(Joseph Hirtz:ルフェーブル大司教の敵手)、さらにアンリ・バレ(Henri Barré)という神父たちの選出という結果に終わった。アフリカでの選挙第一ラウンドでは(同選挙での結果には議論の余地がなかった)、ルフェーブル大司教が、9得票のクリエ(Courrier)神父に対して38得票をとって一位で勝利した。

 第二ラウンドでルフェーブル大司教は、103票中59票を獲得してセネガルとギニアの代表に選出された。一方、フランスでは、第二ラウンドでも同じ4名の司祭たちが勝ち残った。少なくとも、彼らのうち二名は大司教の敵であった。

 総会前夜、ジョゼフ・ミシェル(Joseph Michel)神父は英国人代表にアドバイスをしている。
「これと思う人に投票してください。ただルフェーブル大司教はだめです。」

 この英国人は驚いた。
「しかし、パリの大司教フェルテン(Feltin)枢機卿様は、教皇様がルフェーブル大司教の選出を望んでいるとお知らせになりましたよ!」 

 ミシェル神父は大司教館に飛んで行き、こう訂正した。
「パリの枢機卿はただ、ローマのフランス人神学校でこのような願いを聞いただけで、教皇様から聞いたのではないのです。」

 真理は、ルフェーブル大司教のチュール(Tulle)における存在は「フランス司教団」にとって重荷であったこと、そしてローマは、司教職に就いているものが修道会総長職の任命を受ける事には基本的に好まなかったにもかかわらず、もし聖霊司祭修道会の司祭たちが、ルフェーブル大司教を総長に選出するなら、彼をチュールの任務から快く解放するだろうということを伝えたことである。

 最終的に、1962年7月20日、総会はシュヴィリで始まった。7月25日、総長選出選挙の第一ラウンド中、ルフェーブル大司教は出だしから総長に選ばれるためにほとんど十分な支持者を獲得して、全体のおよそ3分の2を占める票を投じられた。翌日の7月26日、彼は立ち上がるとこう言った。

「私をチュールの司教のままでいさせてください。そこにはわずか六ヶ月いただけです。そこにいる司祭たちには会ったばかりで、その司教区を訪問しただけなのです。ですから私をこのままの場所にいさせてください。」

 彼は思い悩む必要などなかった。その後、3分の2以上の票を獲得した。しかしながら、彼は教区長だったゆえ、教皇様以外誰も彼から司牧義務のある教区の任務を解く事が出来なかった。それゆえに総会は教皇様に対し、大司教を総長にしていただけるように「要請」することしか出来なかった。これは実行された。教皇ヨハネ二十三世はこれを受諾され、7月28日の夜、ルフェーブル大司教は、聖堂で信仰宣言とさらに反近代主義の誓いと同修道会の精神と目標を維持する宣誓を行った後、荘厳に総長職に付いた。彼は12年間の総長の任期を受けていた。8月7日、教皇はチュールの大司教をフリジア(Phrygia)のスィンナダ(Synnada)の名義大司教(titular Archbishop)に変更した。

 選挙は続けられ、8月1日には、新たな顧問メンバーが選ばれた。二名の補佐はドイツのハインリッヒ・ハック(Heinrich Hack)とアルザスからジョゼフ・ヒルツ(Joseph Hirtz)が選ばれた。このヒルツは、ルフェーブル大司教に反対する立場での選出だった。四名の総顧問役である、ランベルトゥス・ヴォゲル(Lambertus Vogel: オランダから)、ウィリアム・ヒギンズ(William Higgins)、チャールズ・コノールズ(Charles Connors)、そしてアヴェリーノ・コスタ(Avelino Costa)は、誰一人として大司教に対する策略に加わらなかった。四名全員は有能な人たちだった。そして総長は、「良い雰囲気の中で彼らと良く協力して働く」ことができたと後に述うだろう。しかしこれは、彼が絶えず支払ってきた代価のおかげでしかなかったのである。それは彼の常に絶やさなかった親切のおかげではなく、ヒルツ神父との見解一致のおかげであった。大司教はこの二名の補佐の同意なくして、修道会に関する重要な決定をすることは全く不可能だった。 

 総会の務めは8月13日まで続いた。大司教はこの総会の議決案を厳密に実行に移したが、後ほど見るように、彼はそれらの業に彼独自の目標を置いたのであった。

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第14章 総長 防御の最後の試み
Ⅰ. 激戦を伴った選出

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