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ルフェーブル大司教伝記第14章 I. 激戦を伴った選出 14.1.1.難題に直面して

2009年10月30日 | ルフェーブル大司教の伝記
第十四章
総長
防衛の最後の試み


I. 激戦を伴った選出


難題に直面して

 ルフェーブル大司教の公会議において為した貢献について中断することなく全体像を浮き彫りにするために、私たちは1966年の時点まで話を進めた。今からは、彼の聖霊司祭修道会総長選出について、また、総長という立場において彼が成し遂げた業について詳しく語るために、時間をさかのぼらなければならない。

 ルフェーブル大司教の名前は、同修道会の1950年の総会の間すでに総長候補としてあがっていた。彼はこの総会において、第一期フランス地域出身代表者選出選挙で第二候補にあげられ、第二期同選挙において、第四宣教師グループの第三番目の代表として選ばれたのである。この総会中に、
“もし当時、教皇使節という微妙な任務を果たしている男に投票しないように、という警告が総会メンバー達に発せられていなかったとしたら、彼は間違いなく修道会総長に選出されただろう。”(Clartés, ガダルーペ教区報 1963年5月18日号)

従って、1950年から1962年まで総長だったフランシス・グリフィン(Francis Griffin)神父が、総長再選に出馬しないという意志を表明した時、多くの聖霊司祭修道会司祭達はルフェーブル大司教がその総長職に就くように励ました。彼は宣教師達にとって親しみ深く、親切そのものであった。それはかつて総長であったグリフィン神父とは明らかに違っていた。この神父は総長に選ばれるやもはやロモン通り(Rue Lhomond)を訪問する休暇中の宣教師達の訪問を受けることしなかったからだ。
「貴方は休暇中ですか?よろしい。宣教地に帰って早く働きなさい!私は忙しい。」

 元教皇使節を選ぶという事はこの修道会にとっては光栄となっただろうし、ローマ聖省に関する完璧な彼の知識は、物事をトップレベルで調整させただろう。ルフェーブル大司教はこれに全て気づいており、多くの同僚達はルフェーブル大司教にこう言っていた。
「今度は貴方の番です!」

 それにもかかわらず、大司教についての意見は各自の出身地によって同僚達の間で意見が異なっていた。
アイルランドの会員たちは、ルフェーブル大司教を偉大な宣教師かつシャナハン(Shanahan)司教の競争者として賞賛した。シャナハン司教は聖パトリック大会のためダブリンに滞在していて、その機会にキンメージ(Kimmage)にある修学院(scholasticate)とブラックロック(Blackrock)のカレッジを訪問している。
また他方では、ドイツ人の会員たちはこの前教皇使節の見せる実践能力に感銘を受けていた。訪問先のクネヒトシュテーデン(Knechtsteden)に到着して、車から降りボンネットを開けると、ルフェーブル大司教は直ちに故障を直すためにエンジンをいじりだした。感心した司祭、生徒達は「へえ~、彼は手が汚れても気にならないんだ。これこそ私たちが望む方だぞ」と言ったことだろう。
ポルトガル人の会員たちはといえば、1959年に大司教が、カルカヴェロス(Carcavelos)の地方にいる72人の司祭達のために黙想会を指導しに来た、正統な教義をもつ方であると知り尊敬した。
 フランス人たちの間では、フランスが聖霊司祭修道会のもっとも重要な地域を構成していたが、多くの人が大司教の事を賞賛するだけではなく、真実に愛しさえしたものである。彼に投票する事で、彼らはダカール教皇使節の職から大司教を解任してチュールに左遷させられたという同修道会への汚名をそそぐ決意をした。しかしながら、活動的な少数派にとって、ルフェーブル大司教の教理とアフリカでの活動は、彼の内密な心構えを物語っていた。様々な国からやってくる40名の宣教師からなるグループは毎月共に集い、新しいアフリカの諸教会と修道会、さらにヨーロッパの諸教会の間に存在すべき関係を再定義するために働いていた、と彼らは言っていた。彼らはそのうちの一人に、ダカールの大司教の思想を研究する仕事を与えた。こうして、シュヴィリ神学修学院の教授であり、フランス地域研究所所長であるフィリップ・ベゲリー(Philippe Béguerie)神父は大司教の発言の「注解」集大成を作成し、休暇や黙想会のためにフランスにやってくる宣教師たちにそれを配布したのである。この研究によると大司教に与えられるべき“最適の描写”がドストエスキーの描いた、大審問官(The Legend of the Grand Inquisitor: カラマーゾフの兄弟、第二部)のそれだとなっていた。
「人間にとって一番危険なのは、自由である。自由とは命令を下す人種にだけ与えられるものであり、従う人種にではない。」
 それゆえ、大司教はアフリカの諸教会が少数派であり続けることを望み、目下たちを盲目的従順のうちに維持することを望んでいる、と主張した。

教皇ピオ十二世の前大使に関するこの酷い分析は至る所に響き渡った。ダカールの或るクリエ(Courrier)神父は、大司教の選出に反対する小冊子を配布した。そして総会の前夜には、ジョゼフ・ミシェル(Joseph Michel)神父が、コンゴからの総会出席者であるジャン・ル・ガル(Jean Le Gall)神父に、ルフェーブル大司教に関する小さな書類を手渡した。
 その反対に、1942年以降の同修道会本部修道院長であり、サンタ・キアラ出身の、真の修道者かつ組織編成の賜物を持つ優れた人であったジャン・ルトゥルナー(Jean Letourneur)神父が指揮する、聖霊司祭修道会のフランス人司祭たちからなる別のグループは、マルセル・ルフェーブルの内に、当修道会を無秩序と、さらにはフランス地域に蔓延していた教義的逸脱から救うであろう、御摂理が送った人間を見たのである。教育に携わる聖職者や修道者たちに対するローマからの警告にもかかわらず、これらの荒廃は特にシュヴィリで顕著だった。
ローマの教育聖省(the Sacred Congregation for Seminaries and Universities)からの書簡は、若い聖職者のなかで見受けられる祈りの生活における弛みと心の取締りの怠りの傾向について警告した。そのために活動主義に陥ってしまったのである。
「非常にすばやく、人はむなしい試みに力を費やし、最後には、生温さと失望に陥るのである。」
 公教会への愛は不従順の中で失われる。
「教会の養成施設において、あまりにも統制のない自発性を学生と・・・自己学習に与えるという試みを目の当たりにするのはまれではない。」
と言いつつ、教育聖省は時々介入しなければならなかった。

 同様に、聖職者の養成に関する書簡の中で、修道者聖省(the Sacred Congregation for Religious)は、
“謙遜の欠如、つまり上長の行動に対する迅速な批判、完全に誤っている従順に対する観念、犠牲にたいする心からの嫌悪感、そしてある教義的な問題に関して、頻繁に起こる間違った認識”
などを生み出す心の姿勢を非難した。

同聖省は、“多くの場合、世俗的で俗っぽい環境”にこれらの心の姿勢の根源があり、そしてそこからこれらの召命たちはやって来たのだと判断している。さらに、同省が掲げる修道者の養成方針は、“彼らが現代社会の堕落に対し、挫けることなく立ち向かえるようにと要求している。これには堅固な教義の習得と、なくてはならない聖徳、特に謙遜、従順の徳、さらに犠牲の精神が要求されるのである。若き司祭志願者たちは何よりも先ず、公教会の正統かつ堅固な教義 によって養成されるべきである。“

 聖霊司祭修道会経営の他の修学院や神学校内のように、これらの逸脱の幾つかはシュヴィリで進行していた。学生たち個人の研究が異常に強調され、天使的学者(聖トマス・アクィナス)の確立した体系を無視し、聖書研究か教父学の専門知識の獲得を目的とした、世間一般を支配する狂気がそこには存在した。教皇ピオ十二世の回勅フマニ・ジェネリス(Humani Generis)の中で言及される著者たちと、検邪聖省(the Holy Office)によって非難された人々について与えられた警告は、正しく受け止められなかった。シュヴィリで教授を務める、ルシアン・デス(Lucien Deiss)神父作の自国語による詩は、典礼においてグレゴリアン聖歌が占めていた場所を徐々に奪っていた。さらに1958年以降、5年目で既に叙階された神学生たちは、パリのグラスィエール通り(Rue Glacière)にあるドミニコ会司牧センター(the Dominican Pastoral Center)において6ヶ月間の使徒職体験を行った。(ジャン・ル・ガル神父はシュヴィリと、後にブラザヴィル(Brazzaville)で実施される使徒職体験教室の指導司祭に任命されていた)。加えて、1953年以降に宣教師対象の再教育講座がリール(Lille)の宣教カトリック・アクション・センターで --- これに先立ってこの講座はリュイ(Ruits)にあるドミニコ会の家で行われていた --- 用意されたのである。この組織は既に労働者カトリック・アクション(ACO)と密接に関連していた。

このような有害な傾向に気づきはしていたものの、グリフィン(Griffin)神父と聖霊司祭修道会の総会はそれをせき止める事が出来なかったのである。この総長はもはやシュヴィリに行こうとさえしなかった。そこではスタッフたちが生徒たちを前に当修道会本部の批判をしていたのである。彼らが後継者たちに託す事を強く望んだ根本的なステップを取ることなしには、状況は“救い難い”と思われた。だから人々は近く辞任することが予見されたダカール(Dakar)の大司教に期待を寄せたのである。彼こそ、もし必要とあれば、報われる事のない任務を寛大に遂行する重要人物だったのだろう。聴く耳のある人には誰にでも、大司教はハッキリとこう言った。
「もし自分が総長に選出されるなら、私はシュヴィリを掃き清めましょう。」
 そして自らの総長選出前であっても、シュヴィリにいた彼は“ここを整理整頓する”と言った。

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第12章 公会議の嵐に直面して
I. 中央準備委員会委員

II. 革命が始まる

III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)

第13章 王たるキリストの使者
I. 公会議におけるルフェーブル大司教の発言

II. 苦悩と希望の間

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