今年の「秋のお彼岸」は、台風一過の9月20日(火)が彼岸入りの日、再びの台風の影響で全国的に雨となった9月23日(金)が彼岸の中日(ちゅうにち)の秋分の日、そして、今日9月26日(月)が彼岸明けとなった。京都市出町柳の小さな寺院の門前に「曼殊沙華 離れがたきは 此岸かな」の言葉が掲示されていた。この秋のお彼岸の1週間余り、京都の町中にも、彼岸花(曼殊沙華)がいたるところに咲いていた。(上記写真は、京都市左京区の吉田山山麓「馬場公園」の紅と白の彼岸花。)
9月21日(水)の午後、祇園白川石畳通りを歩く。白川沿いに彼岸花や藪蘭(やぶらん)が咲いていた。「かにかくに 祇園はこひし 寝(ぬ)るときも 枕のしたを 水の流かるる」(吉井勇作)と刻まれた「かにかくに歌碑」。この歌碑は、吉井勇の古希(こき/70歳)の祝いに、谷崎潤一郎らが1955年(昭和30年)に建立したものだ。この歌碑の近くには、吉井や谷崎らがよく通った茶屋「大友」があった。
夏も終わったが、辰巳神社の百日紅(さるすべり)が今も少し赤い花を残す。木槿(むくげ)の白い花もまだ美しい。
秋の花、萩(はぎ)や芙蓉(ふよう)が白川沿いに咲く。アオサギがこの白川に来て、じっと川面を見つめていた。
祇園白川の辰巳小橋の近くの茶屋に「祇園をどり」(11/1~11/6於祇園会館)のポスターが貼られていた。あと1か月余りで開演だ。八坂神社には着物姿の若い女性も多いこの彼岸のころ。神社近くの円山公園には、修学旅行生たちがお弁当を広げていた。鴨川べりの四条大橋のたもとにある菊水ビルの上の空を見上げると、秋の「鰯(いわし)雲/おぼろ雲」が空一面に。
9月24日(土)の午後、「ウクライナ諷刺漫画展」の会場に行くために鴨川に架かる御池大橋を渡ったところに、夏目漱石の句碑があった。夏目漱石は『虞美人草』などの作品を書くために京都を4度訪れている。そして、最後に京都に来たのが1915年3月~5月にかけての時期。句碑には、「木屋町に宿をとりて 川向こうの御多佳さんへ "春の川を 隔てゝ 男女哉(おとこ おんなかな)"」の一句。漱石は祇園白川石畳通りにある茶屋「大友」の女将(元芸妓)に恋をしていた時の句だ。御多佳(おたかさん/磯田多佳子)は当時36歳、漱石は48歳だった。この時、「大友」での茶屋遊び途中に、持病の胃潰瘍が悪くなり、「大友」で御多佳さんに2〜3日、やっかいなってもいる。
彼女を巡って、他の男性への嫉妬に悩んだりもしている漱石。句碑の近くにある木屋町通りにある旅館が京都での漱石の定宿だった。なかなか東京に戻ってこない漱石、漱石の妻は京都まで迎えに来てもいる。翌年の1916年に漱石は、胃潰瘍の悪化で亡くなった。享年49歳。2016年に、NHKBSプレミアムで「漱石悶々 夏目漱石の恋—京都祇園の二十九日間」と題されたドラマが放送された。夏目漱石役は豊川悦司、御多佳さん役は宮沢りえ。漱石が最後に京都祇園のお茶屋に来ていた1915年、谷崎潤一郎と吉井勇は共に29歳となり、文壇に認められて4〜5年が経っていたが、東京住まいでまだ京都の祇園のお茶屋を訪れたことはなかったようだ。
この日、「ウクライナ諷刺漫画展―ウクライナからの手紙」を見たあと、三条通りにあるイノダコーヒー本店に行き、喫煙可のテラス席にて、しばし本や新聞などを読んで過ごした。
同日、夕方の四条大橋から三条大橋方面を見ると、たくさんの人が鴨川べりに座っていた。9月末日まで設けられている鴨川沿いの「納涼床」もたくさんの人で賑わっていた。好天に恵まれたこの一日、東山の山々の空が茜色(あかねいろ)に染まり始めていた。
9月22日(木)の午後、午前中のオンライン授業を終えて、すぐさま、銀閣寺近くの娘の家に孫たちの子守のサポートに行く。いつもはこの11月下旬に2歳になる寛太と、近くの吉田山山麓にある真如堂や金戒光明寺に散歩に2〜3時間ほど行くのだが、この日はこの12月下旬に4歳となる孫の遙(はるか)もついてきた。
光明寺のいつもの寛太と過ごす場所で、孫たち二人は水遊びに興じていた。墓地にお参りする人たち用の小さなバケツや柄杓(ひしゃく)がたくさん置かれている水汲み場で、水をバケツに入れて、水を参道に撒いたりして遊んでいた。秋のお彼岸の墓参りの人たちで、この日の水汲み場は賑わってもいた。
遊び疲れたのか、本堂前の石段で二人の孫はしばらく寝そべる。本堂の建物の縁の下に住みついている三毛猫(みけねこ)に興味をもち、猫に近づくも、猫は寛太と距離をとって離れていく。さまざまな自動車や犬や猫や魚などに、興味がつきない、もうすぐ2歳の寛太。寛太とよくケンカもするが、少しお姉ちゃんらしくなってきたもうすぐ4歳の次女の遙。そして、もうすぐ6歳になる長女の栞(しおり)の、三人の孫たち。混迷の世紀となってきているが、どんな未来が待っているのだろうか…。