彦四郎の中国生活

中国滞在記

京都・嵐山❸―「周恩来(しゅうおんらい)の詩碑」を見る

2017-07-27 10:46:01 | 滞在記

 「御髪神社」を参拝後、近くの「亀山公園(嵐山公園)」に向かう。午後5時ころとなっていてあたりの竹林の道は、薄暗くなり始めた。亀山公園は、保津川(大堰川・桂川)のほとりの少し小高い丘陵地に位置する。夕立の雨が今にも降りそうで湿気がすごく、汗が流れる。

 この丘陵地の一角にある「周恩来(しゅうおんらい)」の詩碑に向かう。かって若い周恩来がこの京都の嵐山に遊びに来て詠った漢詩を記した石碑がある。石碑の詩を読む。

           ―雨中嵐山―

  雨中二次遊嵐山、両岸蒼松、夾着幾株桜。

  到尽処突見一山高、流出泉水緑如許、糸堯石照人。

  簫簫雨、霧濛濃、一線陽光穿雲出、愈󠄀見女交妍。

  人間的万象真理、愈󠄀求愈󠄀喪模糊、模糊中偶然見着一点光明、真愈󠄀覚女交妍。

  ※「女交」は女扁に交※「簫」は左にさんずい扁が付く※「糸堯」で一字

  日本語訳は次のようになる

           ―雨中嵐山―

雨の中、二度、嵐山に遊ぶ。両岸の青い松が幾本かの桜を挟んでいる。

その尽きるところに、ひとつの山がそびえている。流れる水は、こんなにも緑であり、石をめぐって人影を映している。

雨脚は強く、霧は濃く立ちこめていたが、雲間から一筋の光が射し、眺めは一段と美しい。

人間社会のすべての真理は、求めれば求めるほど あいまいである。だが、そのあいまいさの中に、一点の光明を見つけた時には さらに美しい。

 中国の周恩来―1898年~1976年

 周恩来は1917年の19才の時に日本に留学をし、3年間あまりを日本の東京で過ごした。のちに明治大学政治経済学部で学ぶ。京都大学教授の河上肇(マルクス主義経済学者)の著書『貧乏物語』を読み感銘を受け、河上の個人雑誌『社会問題研究』なども熱心に読む。京都大学への入学を真剣に考え始め、入学願書や履歴書を作成し、すでに京大生となっていた友人に渡していた。その「入学願書」「履歴書」が戦後、京都府北桑田郡京北町(現・京都市右京区京北町)で見つかった。いきさつは次のようである。

 戦時中の1944年、京北町で林業を営んでいた太田貞次郎さんが、京都市内で食糧難に困っている親戚や知人に野菜や米などを届けた際に、お礼として「和紙の束」を渡された。その中に、字もしっかりしている書き付けが2枚あったので保存していた。戦後に、中国戦線より帰還した息子にそれを見せたところ、「この書きつけは、周恩来という人が書いたもので、彼は今 中国共産党の重要人物として中国政府で活躍している」ということを聞いたのち、それを額縁に入れて客間に飾っていたという。周恩来は結局 京都大学の受験をすることはかなわず、中国に1919年には中国に帰国し、南開大学に入学し、「5・4運動」等の学生運動の中心人物となる。このため、友人は入学願書や履歴書を処分したものかと考えられる。

  1920年代初頭の中国共産党の設立以来から死去する1976年まで、中国社会でその存在感を持ち続けた周恩来は、国務院総理(首相)として、1972年の「日中共同声明」を当時の日本の首相・田中角栄とともに発表し、日中国交回復の礎を築いた人物でもある。毛沢東主席が主導した あの「文化大革命」を止められなかったなど 評価はさまざまあるが、現代の中国の人々にとっても 敬愛されている人物である。

 1978年「日中平和友好条約」の締結による本格的な日中国交回復が始まった翌年の1979年、ゆかりの地「京都・嵐山」に詩碑ができ、その除幕式に際して、初めて周恩来婦人が来日した。その時、あの「入学願書」「履歴書」を見てもらって、「この字は 夫の書いたものに間違いありません」と夫人は言ったようだ。そして、それは夫人に贈られたようで、今は中国にある。

 周恩来は1919年に中国に帰国する際、東京から 京都大学の学生だった友人の下宿(京都市の岡崎あたり)に数日間泊まり、円山公園や嵐山に遊びに行ったようだ。そして、神戸港からの船で帰国の途に就いた。「偶然見着一点光明」とは、河上肇が教えた「マルクス主義」というものだったのではないだろうか。中国という国を将来的にどのような国としていくのか、考える中で見つけた立ち込める霧と雲間からさし込んだ一筋の光だったのだろう。その後、河上の「貧乏物語」は毛沢東も読んだ可能性があるようだ。私も学生時代に銀閣寺隣の下宿の四畳半で熱心に読み、近くの法然院にある彼の墓を散歩の際に よく立ち寄りもした。

 なにか、奇妙な縁も感じる。その中国共産党が成立してもうすぐ100周年を迎えることとなる。中国社会での貧乏・貧困はなくなりつつある。しかし、「民主主義・人権」などの課題を今後、1949年の「中華人民共和国(共産党政権確立)」から100周年を迎える2049年までにどのような国づくりをしていくのか、世界への影響がとても大きい。あと、32年間という歳月。中国はどのように変化していくのだろうか。

◆周恩来は「不倒翁(ふとうおきな)」と呼ばれることもある。さまざまな政変や共産党内部の繰り返される権力闘争の渦の中でも一度も更迭・束縛されることもなく党の中枢にいて人生を駆け抜けた 人間関係を保ち続けた 希有な人なのだろう。

◆中国から日本への観光客が年々増え続ける中、自然と歴史的建物が調和する「京都・嵐山」も人気の観光スポットとなっている。周恩来詩碑を訪ねる人も多いのだろうか。

 

 

 

 

 

 


1 コメント

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Unknown (山本隆徳)
2017-07-28 11:32:54
周恩来が非常に好かれていたことは、書物で読んでだ事がある。河上肇の貧乏物語は私も読んだがとうじの労働者の経済状況を良く分析していた。彼に憧れて京大に入学したかったのは興味深い。中国を周恩来の観点から見直すことも大切かもしれない。中国史を改めて学習したいと思います。
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