彦四郎の中国生活

中国滞在記

北京へ行く❼―「天壇」を後にして北京首都国際空港に向かう―

2017-04-15 06:29:13 | 滞在記

 シンデレラ風の服を着て、母親に写真を撮ってもらっている女の子。ヨーロッパ方面から来ているような女性が天壇をバックにポーズを決めている。「祈年殿」を見上げるとその彫刻が美しい。「鳳凰」と「龍」の絵が描かれている。天壇の「祈年殿」の内部を見る。ふと、奈良の東大寺「大仏殿」を思う。天壇「祈年殿」も頤和園の「仏香閣」も巨大で壮麗だが、日本の東大寺「大仏殿」も巨大で壮麗だな。なぜか人間という者は、「巨大で壮麗」な建造物というものにある種、驚きに心が動かされるようだ。「東京スカイツリー」のような、巨大だが壮麗さがないものには心はあまり動かない。この日の北京は、空気pm2.5中度汚染ということで、天候は晴れなのだが、日中の太陽は「ぼやっと霞んで」ようやく見える程度だった。

 天壇公園を後にして、再び地下鉄を乗り継ぎ ホテルに向かう。地下鉄「建国門」駅の近くに山吹の花が咲いていた。「中国社会科学院」という中国人文科学研究の中心的な建物が見えた。ホテルの部屋に戻り、荷物を持って北京空港に向かった。

 北京空港に向かう地下鉄「空港線」は、空港に近づくと地上を走る路線となる。若葉が芽吹き始めた北京の4月初旬。北京首都国際空港に着く。ここで、同僚の鈴木先生と待ち合わせをして同じ飛行機に乗って福州に戻ることとなっていた。この空港は、世界最大規模の空港の一つ。現在、この空港の大規模改修と拡張が進められている。

 空港内の壁面に「万里の長城」の大きな写真が掲示されていた。中国の歴史を象徴するようなこの「長城」を、今回は見ることができなかったが、近いうちに ゆっくりと日数をとって 見てみたいと 写真を見ながらつくづく思った。人間の歴史の1ページを物語り連なるこの建造物や周りの山々に おそらく心の底から 何か揺さぶられるものを感じるにことになるだろう。人間というものに、そして人間の歴史というものに。一人一人の人の人生を飲み込む歴史というものを。

 1時間ほど飛行機の出発が遅れて、午後3時ころに北京空港を離陸、約3時間で福州に到着した(福州空港―関西空港とほぼ同じ所要時間と距離)。

 ◆2017年1月下旬の「中国の春節」。この時期の前後から、中国全土の大きな都市には「シェア自転車」が出現した。その数は 膨大な数。福州市内にもたくさんの自転車が置かれている。いまや完全に中国都市市民の足となった感がある。利用料金は、30分ほどで1元(16円)。携帯電話のスマートホンがあれば、料金が自動的に支払われ、鍵を開けることができる。どこに取り捨ててもよいというシステム。オレンジと黄色の2種類がある「1元車」。何時間でも利用できる。

 ◆4月5日と10日付の日本のインターネット記事に「百田(ひゃくた)尚樹」氏が発信していた。(『NEWSポストセブン』)―「中国文化は日本人に合わぬ 漢文の授業は廃止せよ」(4/5付)  「日本人は中国とは理解し合えないと肝に命じよ」(4/10付)―

 発信記事の内容を要約すれば、「日本人は、『中国、悠久の歴史』などと中国への憧れを いまだ持っている人が多いから、現在の中国の軍事的・経済的野望に対して どこか中国という国に対する日本人の敬慕があるから 日本人は中国に対する適切な防衛意識化が国民的にできないのだ。中国悠久4千年の歴史といっても、中国の歴史の本質は 大虐殺が連続する歴史。そんな歴史や文化のどこに憧れをもつのか。中国文化は日本人とは 合わないものだ。日本人は中国という国やこの国の人とは理解し合えないと肝に命じるべきだ。中国への勘違いを育む漢文の授業などは廃止すべきだ」という主張だった。

 私はこの百田氏の主張記事を読んでこう思った。「百田さんも 相当にヤキ(焼き)がまわっているな」と。私は百田尚樹氏の著作(小説)のファンなので、彼が書いて出版されたものは全て読んでいる。最近の著作『カエルの楽園』も 石平さんとの対談本『カエルの楽園が地獄と化す日』も最近 読んだ。なかなか内容があり、日中関係を考えるにも参考になった。しかし、今回の「漢文授業廃止」「中国人とは理解し合えない」発言・発信は、「ヤキが廻りすぎ」感がありすぎだ。「百田氏の見る目が感情に支配され過ぎて曇っている」と思わざるを得ない。

 私も中国に滞在し生活し、仕事をし、中国人と付き合い、中国社会というものに日々直面している中で、いわゆる「中国嫌い」(嫌中)という時期もけっこうあるし、中国人と日本人の違いによる さまざまな苦労や嫌悪感の連続という時もある。どだい、日本人と違う国民(民族)を理解するということの難しさは 当たり前のことだと この頃思う。「中国人とは理解し合えない」という百田氏の主張などは、これはあたりまえのことなのだ。別に中国人でなくても、ベトナム人でもインド人でもアメリカ人でも同じことだ。育ち環境も言語も食べ物環境も違う民族を理解することの難しいことは 当たり前のことなのに とりわけ中国人だけに対して百田氏がこのような主張をしていることに、子供じみているというか 幼いというか、ちょっと残念だな。百田さんは、1956年生まれだから、今60才くらいかな。

 万里の長城や頤和園などを造った中国の歴史の本質は、中国の文化大革命時期も含めて「人民が何千万人死んでも屁とも思わない権力者が支配した歴史の連続体だから、『中国悠久の歴史』だから、間違った憧れを持つな」という百田氏の主張もある程度理解できる。これが中国の歴史の本質だとは私も思う。しかし、その歴史の中で、様々な文化が生まれ 現代のわれわれは それを見て 一種の驚きの感情をもつ。歴史というものを思う。「合う・合わない」の次元の問題ではないのだ、歴史を見るということは。百田氏はある種 とても優れた作家だが、歴史というもの 民族というもの を考える重要なファクター(要素)の何かが欠けている人だと思う。百田さん、「もっと勉強して、もっと直接的な経験をして、もっと歴史というもの・民族というもの・人というもの」を、欠けている重要なファクターを補って考えてな。

 

 

 

 


北京へ行く➏―明代・清代の王朝が「五穀豊穣」を祈願した「天壇」(中国最大の祭祀建造物)

2017-04-14 21:18:13 | 滞在記

 4月4日(火)、この日は北京滞在の最終日。午後の飛行機便で福州に戻らなければならない。中国の「清明節」(祝祭日)の日でもある。いつもの習慣で午前4時には起床。このホテルは中国では珍しく全室禁煙となっていて、一日4箱(80本)の喫煙者には 少々 忍耐を要するホテル。日系のホテルだからだろうか。中国の大きな格式のあるホテルでも生の「生け花」というものは少なく、豪華な造花が多いが、このホテルは生の「生け花」があった。ホッとするな。5時半前には空が白らじんできたので、さっそく喫煙を兼ねてホテル周辺の散歩に出る。桜の花が咲いているところがあった。ライラックの花から、微かな そして上品な香りが少し匂う朝。この日の北京は、Pm2.5予報は中度汚染のオレンジマークとなっていた。空が薄い灰色だ。

 北京の街は、ゴミが少ない。地方の大都市福州などとは対策も市民の意識もがちがうのだろう。ホテルの周辺に大きな建物があった。北京市人民代表大会常任委員会とあった。ホテルに戻り1時間あまり休憩し荷物を整理して、再び10時に戻る予定で「北京駅」と「天壇」に向かう。途中、露店で朝食をとる。薄緑のライラックの樹木の下で食べる。まず、歩いて「北京駅」へ。北京駅近くに、北京城の城壁の一部が残る場所があった。

 北京駅はなかなか荘厳な建物だった。地方から来たような人たちもたくさんだ。「今日の宿は どうですか。北京観光ツアー、万里の長城の観光手配しますよ」と呼びかける客引きの人の姿もけっこう多い。銃を持って警備する警察官の姿も。地下鉄に乗って「天壇」に行くため地下鉄券売り場に行くと、大勢の人。買うのにかなり時間がかかりそうだ。近くでおばあさんが「地下鉄カード」を売っていた(ダブ屋)ので5元(70円)で売っていたので買って地下鉄に乗車。

 天壇近くの地下鉄を地上に上がると、そこはもう「天壇公園」だった。巨大な公園のようだ。長い廊下には、北京の年配の人たちが大勢集まって何かをしながら楽しんでいる。編み物をしているおばさん、トランプや将棋など、いつもの集まり仲間とともに集っている。毎日来ているのだろう。

 「天壇」のシンボル的な建物「祈年殿」が塀越しに見えていた。お金を20元(320円)を払って この建物のエリアに入場する。ここも欧米からの観光客が多く見られた。

◆天壇は、明、清時代の皇帝が「五穀豊穣」を願って祭祀を行った場所で、現存する中国最大の祭祀建造物。北京の故宮の南方に位置している。1998年に世界文化遺産に登録された。日本の京都市などにあるのが 老舗の「焼き肉の天壇」。

 

 


北京へ行く❺―中国雑技を見る―超絶、華麗・妖艶、アクロバットな芸術集団のワンダーランド②

2017-04-13 19:33:22 | 滞在記

 ⑤続いての演目は「女性たちの華麗で柔軟な演技」が始まった。美と柔軟さとバランス感覚の曲芸のコラボ。

 ポールのある部分を口に咥(くわ)えての超柔軟な人形姫のような演技。この女性たちの演技が終わって、ピエロが登場し笑いを誘う。⑥時計の歯車のような巨大な装置。男性二人がこの回転する歯車の上や中で動き回る。黒い頭巾で顔を覆い、目が見えない状態で、回転する車輪の上を歩いた時は、見ている方がハラハラする。

 ⑦次は超バランスとりの男性が登場。長く張られた太い針金の上にて逆立ちをしたり歩いたり。ゆらゆら揺れながらも抜群のバランス感覚。ちょっと人間離れしている。小さな車輪の上に逆立ちをして針金の上を進む。⑧そして、女性たちの自転車での演技も、けっこうすごい。10人以上が千手観音のように手をかざし、1台の自転車に乗って進む。そうとうな練習をしているのだろう。

 ⑨最後の演目は、オートバイ。1台がまず球形のドームに入って中で疾走する。2台目が入り疾走する。2台が全速で疾走する。ちよっとでもお互いのスピードが違ってくると激突。これが、3台、4台と加わり疾走する。もうこれで充分な演技なのだが、さらに1台1台と増えていき、8台が疾走し始めた。そして、1台1台とオートバイがドームから出てきた。

 ⑩最後に、出演者全員によるフィナーレで、雑技が終了した。約1時間の初めて見た中国の雑技演舞だった。よかった。八時すぎに、劇場を後にして 地下鉄を乗り継いでホテルに向かった。

◆中国の雑技の歴史は古い。中国においては、曲芸や奇術など、様々な芸能を雑技という。現代の中国雑技は、世界的な公演芸術といえよう。サーカス的な要素もかなり入っている。現在、中国には100あまりの雑技団があるといわれている。北京・上海・広州・武漢・重慶・瀋陽・西安などの都市に行けば、雑技団の公演を常時見ることができるようだ。

 この雑技団の中でも国家雑技団となっているのが中国最高峰の「中国雑技団」。1953年に国家プロジェクとして創立され60年以上の歴史をもつ。世界各国(115か国)での公演活動を行っている。日本には、最近では2007年と2010年に来日し、47の都市で公演を行っている。この公演では、よく知られている「変面」の名手による雑技も演じられた。これがすごいらしい。一度見てみたいものだ。ロシアのバレー団やサーカス団とともに、世界的な芸能団の「中国雑技団」。      [※ロシアに何度か行った際、サンクトペテルブルク(旧・レニングラード)のマリンスキー劇場で「マリンスキーバレー団(旧・レニングラードバレー団)」の演技を見たことがあった。演目は「くるみ割り人形」だった。プリマの小さな女の子役を演じていたのは、なんと日本人の吉田という名字の女性だった。]

 どの雑技団の団員も、6才〜7才の頃に 親元を離れ訓練所にて 練習・訓練と学業を両立させながらの厳しい集団生活を経て団員となる人が多いようだ。

 午後9時過ぎにホテルに戻ると、ロビーで演奏をしていた。しばらく演奏を聞いて部屋に戻った。よく歩いた一日だった。ビールを飲み、眠りにつく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


北京へ行く❹―中国雑技を見る―超絶、華麗・妖艶、アクロバットな芸術集団のワンダーランド①

2017-04-13 07:07:16 | 滞在記

 4月3日(月)、ホテルから「頤和園」に行く前に、「夜はどうしょうかな--」と考えながら北京の観光案内本を見ていたら、「北京雑技団」鑑賞が目に入った。ダメもとで電話をしてみたら午後7時開演のチケットが予約できた。電話で、劇場の人が「劇場前の劇場紹介看板の前に6時半に来てください。日本語ができる人が あなたのチケットを持ってきますから、その時にチケットと交換にお金を渡してください」とのことだった。

 頤和園の見学を5時ごろにに終えて地下鉄を乗り継ぎ、劇場に向かう。劇場名は「朝陽劇場」。北京には、雑技団の劇場が4〜5つくらいあるようだが、この劇場の雑技団が一番人気があり有名らしい。6時頃に劇場近くの地下鉄駅に着く。劇場はすぐだった。昼ご飯をたべていなかったのでお腹が空いてきていた。近くの露店屋台で昼食兼夕食を食べる。劇場の前には、7時からの公演を見るために人が集まり始めていた。劇場紹介看板を見ていると、2012年には「村山富市元首相(現・日中友好協会名誉顧問)」も来ていたようだ。世界各国の国賓が北京に来た際に、この劇場で鑑賞した人も多い。

 6時半になると「てらさかさんですか。」と若い女性から日本語で呼びかけられた。チケットとお金(380元―約6500円)を交換した。この女性は、すぐに劇場から去って行った。どうやら、劇場のスタッフではなく、「日本人にチケットを渡しお金を受け取る」場合専門に劇場から依頼された人のようだ。欧米からの客が続々と集まって来た。中国の地方から来たおじさん・おばさんの団体客に欧米からの若い団体客が劇場前の階段に並行に並びながら なにか さかんに英語やかたことの中国語で話しかけていた。戸惑い気味の、おじさん・おばさんたち。

 客のほとんどが欧米系の人たちだった。劇場内部は1階席と2階席があり、席によって値段が違っていた。(180元〜880元まで)  午後7時、1時間あまりの雑技団公演(10の演目場面)が始まった。まずは、①オープニングの演目「中国的な色彩の服装の女性たちによる演舞。幻想的な背景画面で舞う姿が観客を魅了する。舞いながらの、雑技団定番の皿回しも。

 華麗で幻想的な雰囲気の舞と皿回しや太鼓廻しの雑技がうまく調和した演目だった。②続いての演目は、男性たちによるアクロバットな雑技体操演技。ちょっと人間離れしている技を披露していた。

 ③3つ目の演目は、男女2人による空中のロープによる演技。口だけで 又は 首だけで 空中ロープで演技したりと2人の演技にハラハラさせられる。

 ④4つ目は、だんだんと椅子の数を増やしていき、その上で 逆立ちなどをする かなり怖い演技。絶妙のバランス感覚を持っている人の演舞に驚く。

  ここまでの演目を見て「今までの雑技団というものに対して思っていた (ちよこちょこした雑技を次々と披露するという)イメージ」とかなり違うと感じていた。スケールが大きいのだ。これは、超絶、華麗・妖艶な舞やアクロバットな芸術集団によるワンダーランドだと思った。サーカス的な要素もかなり入っていた。(※次回に続く)

◆前回の「頤和園」のブログで、1960年とあったのは1860年の間違いです。訂正いたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


北京へ行く❸―中国王朝文化最後の華、巨大なロイヤルガーデン「頤和園(いわえん)」②―

2017-04-12 19:35:53 | 滞在記

「頤和園②」 頤和園は清の第4代皇帝「康煕帝」によって造営され始めた。1750年、清朝第6第皇帝「乾隆帝」が母の還暦を祝うため離宮として大改造した。昆明湖という半人造湖を造り、その掘った土を盛り上げて約60mの高さにもなる山を築いた。この山の中腹には、頤和園で最も高い建物(八角形)の「仏香閣」が造営されている。

 いたるところに桃の花が咲いていた。壮麗な中国風の建物が続く。ふと、壁際を見上げると巨大な八角形の建物が目に飛び込んできた。「なんだ、あれは--。すごい!あの建物がもっとよく見える所に行ってみよう」と足を運んだ。

 この頤和園で最も高い建物で、頤和園のシンボルともなっている「仏香閣」という建物。建物の高さは基壇から41mあるという。建物に圧倒される感があり、しばらく眺めていた。湖の向こうの山の頂きに高い塔が霞んで見えた。

 ここ頤和園には、時折 外国からの國賓も招かれて晩餐会が開かれてもいたようだ。そんな当時の写真も(カラー)残っている。(左から3番目の写真が「西太后」、4番目が「光緒帝」)

「頤和園③」1842年のイギリスとのアヘン戦争に敗北した清王朝は、1956年から始まった第二次アヘン戦争(アロー戦争)にもイギリス・フランス連合軍に敗れ、1960年に北京に攻め込まれて、この頤和園も 仏香閣をはじめ ほとんどが破壊された。それから35年後の1895年、清の最後の実権者・女帝「西太后」は、頤和園を いっそう豪華に再建した。この年は「日清戦争」がおきた年であったが、清国の軍費の2/3を この頤和園の再建に流用したため、日清戦争に負けたともいわれている。頤和園を愛し続けた西太后は、清王朝の政務の中心地・故宮にて政務をとるかたわら、1年の2/3をこの離宮で過ごしたといわれている。(※1885年頃から、日清戦争を経て清王朝の滅亡[1912年]に至るまでの歴史小説として、浅田次郎の『蒼穹の昴』がある。とてもすぐれた歴史小説だ。中国の清王朝を英仏日独露などに負けないように、政治改革をしようとした「光緒帝」<西太后の妹の子>は、西太后との政治的対立で幽閉され 後にヒ素で毒殺されたのも ここ頤和園であった[1908年]。その2カ月後に30年間にわたって中国を支配した西太后も死去した。この年、最後のラストエンペラーといわれた「溥儀[ふぎ](宣統帝)」がわずか3才で即位した。)

 巨大な柳の樹木が若い葉を伸ばしていた。大理石で造られた「石舫(せきほう)」と呼ばれる船があった。[全長36m]

 頤和園内をいくつかの運河のような場所を船が進んでいた。咲き誇る黄色いレンギョウの花。小高い丘を越えて北宮門に向かう。

 頤和園の北宮門の近くの運河のような湖面沿いにいろいな店が立ち並んでいた。ここは新しく作られた 観光客用の商店街や料理店などの店のようだ。北宮門を出て、もう一つの地下鉄の駅に向かう。

 その道すがら、一人の男性が「書」を書いていた。両腕がなく、全身が火傷のケロイド跡がある男性だった。「上善若い水」など、見事な書だった。足の指で書いていた。男性の隣に、彼自身を紹介する写真や文が書かれていた。それによると、彼は山東省の農村で1980年代に生まれ、青年となり結婚し子供もできたが、事故に遭い 全身火傷を負ったという。北京の病院で、14度にわたる手術を受け、両腕も切断。まったくの労働能力を失い、家族や子供を養うこともできなくなったという。書を独学で学び、こうして家族や子供を養い そして自分が生きるために こうして書を書き売っているのだという。今、30代の後半くらいの年齢だろうか。掛け軸にしたものは、80元(約1200円)となっていた。1つ買おうかどうか迷ったが、結局買わなかったことを今では 少し後悔している。(例えば8文字の文字を書くのに、一旦 長方形の半紙を8つに折って そして、又 それを広げて書いていた。紙を折るときも足使っていた。)

 地下鉄駅の通路には、清の時代の書かれた『紅楼夢(こうろうむ)』[中国4大古典の一つ]の挿絵がカラーで描かれていた。清時代の身分が高い者たちの生活の様子が描かれていた。