彦四郎の中国生活

中国滞在記

北京へ行く❸―中国王朝文化最後の華、巨大なロイヤルガーデン「頤和園(いわえん)」②―

2017-04-12 19:35:53 | 滞在記

「頤和園②」 頤和園は清の第4代皇帝「康煕帝」によって造営され始めた。1750年、清朝第6第皇帝「乾隆帝」が母の還暦を祝うため離宮として大改造した。昆明湖という半人造湖を造り、その掘った土を盛り上げて約60mの高さにもなる山を築いた。この山の中腹には、頤和園で最も高い建物(八角形)の「仏香閣」が造営されている。

 いたるところに桃の花が咲いていた。壮麗な中国風の建物が続く。ふと、壁際を見上げると巨大な八角形の建物が目に飛び込んできた。「なんだ、あれは--。すごい!あの建物がもっとよく見える所に行ってみよう」と足を運んだ。

 この頤和園で最も高い建物で、頤和園のシンボルともなっている「仏香閣」という建物。建物の高さは基壇から41mあるという。建物に圧倒される感があり、しばらく眺めていた。湖の向こうの山の頂きに高い塔が霞んで見えた。

 ここ頤和園には、時折 外国からの國賓も招かれて晩餐会が開かれてもいたようだ。そんな当時の写真も(カラー)残っている。(左から3番目の写真が「西太后」、4番目が「光緒帝」)

「頤和園③」1842年のイギリスとのアヘン戦争に敗北した清王朝は、1956年から始まった第二次アヘン戦争(アロー戦争)にもイギリス・フランス連合軍に敗れ、1960年に北京に攻め込まれて、この頤和園も 仏香閣をはじめ ほとんどが破壊された。それから35年後の1895年、清の最後の実権者・女帝「西太后」は、頤和園を いっそう豪華に再建した。この年は「日清戦争」がおきた年であったが、清国の軍費の2/3を この頤和園の再建に流用したため、日清戦争に負けたともいわれている。頤和園を愛し続けた西太后は、清王朝の政務の中心地・故宮にて政務をとるかたわら、1年の2/3をこの離宮で過ごしたといわれている。(※1885年頃から、日清戦争を経て清王朝の滅亡[1912年]に至るまでの歴史小説として、浅田次郎の『蒼穹の昴』がある。とてもすぐれた歴史小説だ。中国の清王朝を英仏日独露などに負けないように、政治改革をしようとした「光緒帝」<西太后の妹の子>は、西太后との政治的対立で幽閉され 後にヒ素で毒殺されたのも ここ頤和園であった[1908年]。その2カ月後に30年間にわたって中国を支配した西太后も死去した。この年、最後のラストエンペラーといわれた「溥儀[ふぎ](宣統帝)」がわずか3才で即位した。)

 巨大な柳の樹木が若い葉を伸ばしていた。大理石で造られた「石舫(せきほう)」と呼ばれる船があった。[全長36m]

 頤和園内をいくつかの運河のような場所を船が進んでいた。咲き誇る黄色いレンギョウの花。小高い丘を越えて北宮門に向かう。

 頤和園の北宮門の近くの運河のような湖面沿いにいろいな店が立ち並んでいた。ここは新しく作られた 観光客用の商店街や料理店などの店のようだ。北宮門を出て、もう一つの地下鉄の駅に向かう。

 その道すがら、一人の男性が「書」を書いていた。両腕がなく、全身が火傷のケロイド跡がある男性だった。「上善若い水」など、見事な書だった。足の指で書いていた。男性の隣に、彼自身を紹介する写真や文が書かれていた。それによると、彼は山東省の農村で1980年代に生まれ、青年となり結婚し子供もできたが、事故に遭い 全身火傷を負ったという。北京の病院で、14度にわたる手術を受け、両腕も切断。まったくの労働能力を失い、家族や子供を養うこともできなくなったという。書を独学で学び、こうして家族や子供を養い そして自分が生きるために こうして書を書き売っているのだという。今、30代の後半くらいの年齢だろうか。掛け軸にしたものは、80元(約1200円)となっていた。1つ買おうかどうか迷ったが、結局買わなかったことを今では 少し後悔している。(例えば8文字の文字を書くのに、一旦 長方形の半紙を8つに折って そして、又 それを広げて書いていた。紙を折るときも足使っていた。)

 地下鉄駅の通路には、清の時代の書かれた『紅楼夢(こうろうむ)』[中国4大古典の一つ]の挿絵がカラーで描かれていた。清時代の身分が高い者たちの生活の様子が描かれていた。