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偏向した“経済”を批判 復興への原理探る 西谷修さん(哲学者)

2011-06-11 20:50:13 | 多文化共生
(以下、東京新聞から転載)
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偏向した“経済”を批判 復興への原理探る 西谷修さん(哲学者)
2011年6月11日

 東日本大震災からの復興が叫ばれる今、盛んに飛び交うのは「経済」の二文字だ。被災地の経済をいかに立て直すか。それが中心的課題であることに疑いを挟む余地はない。だが、哲学者で東京外国語大教授の西谷修さん(61)は異論を唱える。「今、経済を語ることは、特定の思想を語ることに等しい。経済として語られているものは何か、震災後の今こそ、徹底的に問い直さねばならないのです」
 政治、法律などと同様、人間社会に不可欠な事象を示す語として意識されている「経済」とは何か。「その語源は古代ギリシャ語のオイコノミア。一族や奴隷をどう食べさせ、切り盛りしていくかという課題であり、人間の生存の基本的条件をすべて含み込む豊かな意味を持っていました」
 しかし、近代以降、意味が変質する。「十八世紀の英国で、所有権に基づいて土地を囲い込まれ、土地を追われた農民が都市に流入し、労働力を“自由”に売る労働者が出現した。これを正当化するのが、経済学がモデルとする人間像“経済人”です」。経済人は「孤立し、飢えを恐れ、自分の利益を求めて合理的に行動する」とされ、「アダム・スミスは『国富論』で、各人が利己的に自分の利益を追求することで、社会は活性化し、国全体の富も増えると指摘、経済の自由放任を主張した。これが市場の自己調節機能に任せるという自由主義経済の出発点になった」。
 何も所有しないと経済人は惨めな存在だが、「開拓期の米国では俄然(がぜん)、輝いてくる」。英国はアメリカ大陸で、先住民から奪った土地を移民に払い下げた。その結果、自然環境だった大地が、個人間で自由に取引できる不動産となった。それを起源として、後にはドルが変動相場制に移行し、インターネットの普及で市場がグローバル化するなど環境は激変したが、「米国建国以来の“私的所有権に基づく自由”を原理とする経済は、新自由主義(ネオ・リベラリズム)として世界を席巻している」。
 今、すべてが経済の用語で語られ、指標が数値化されて、利潤や生産効率だけが善しとして追求されるが、「人間社会の豊かさを完全に数値化などできない。オイコノミアと比べ、経済はやせ細ってしまった」。英国の農民の悲哀に彩られ、アメリカ先住民の血に染まった功利主義としての経済。それは人間社会の基本原理というより、社会を利潤追求に落とし込む一つの偏向した思想なのである。
 西谷さんが中心となってまとめた『“経済”を審問する』(せりか書房)は二〇〇八年秋の世界金融恐慌を機に、金融システムの破綻を予言した金子勝氏や、反功利主義を研究するフランスの社会学者アラン・カイエ氏らを論者に、経済至上主義を批判し、未来を司(つかさど)るべき原理を展望した書だ。直接の標的は金融恐慌だが、震災と原発事故からの復興論議が盛んな今、注目すべき示唆に富んでいる。
「自然を征服し、産業の仕組みで社会化する今の産業技術経済システムは一九六〇~七〇年代、資源の枯渇と公害の発生、人口爆発などの問題にぶつかった。これを突破する打ち出の小づちが原発だったのです」
 経済成長を至上の価値とするこのシステムの延命に原発は寄与したものの、今回の事故でその命運は尽きた。だが、私たちは慣れ親しんだこのシステムからどうやって脱却するのか。
「このシステム自体を使って方向転換すればいい。今の私たちは電力会社から大量の電気を使うように仕向けられている。これをやめ、送電と発電を切り離し、送電システムを公共財として地域ごとの管理とする。そして、その地域が発電システムを水力、風力などと独自に選んで、必要な分だけ電気を買うのです。もちろん、発電所の事故は電力会社が全責任を負う。そうすれば、リスクを恐れて原子力発電などできなくなる」
「従来のシステムに風穴を開けなければならない。今が最大で、最後のチャンスです」と強調する。実際、日本人は経済学のモデルにはなり得ない。「被災者の皆さんは孤立したり、自己利益の追求に走ったりせず、お互いに助け合った。経済人なんて嘘(うそ)ですよ」
 専門は西欧的な理性を批判したフランスの思想家ジョルジュ・バタイユだが、思想家個人の研究よりも、戦争などを切り口に、世界を動かす原理の探究に重きを置く。「私たちは、これから生まれてくる子に、日々、放射線量を気にしながら生きなければならない世界を残してしまった。このことを重く受け止めねばなりません」 (三沢典丈)

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