今一度、生きるということは、どういうことなのか、見つめなおしたい。
(以下、日経ビジネスから転載)
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南三陸で静かに進む「農業プロジェクト」
2011/09/09
瀬戸 久美子[日経ビジネス編集]
夕日が緑を染め始めても、宮城県南三陸町の高台では、土を耕すトラクターが低い音を立て続けていた。
地元住民しか知らないような小道を進んだ森林の奥で、そのプロジェクトは静かに始まっていた。
「COMMUNITY FARMING PROJECT IN MINAMI SANRIKU CHO」(南三陸町における、コミュニティーファームプロジェクト)。
筋骨隆々の男性が運転するトラクターの向こうに、作業着姿で背丈以上もあろうかという草を刈り倒していく1人の女性の姿があった。現場作業を取り仕切る、アンジェラ・オルティス氏だ。青森県のインターナショナル・スクールに勤めていたが、2011年3月11日の東日本大震災を機にボランティア活動を開始。今は社団法人「O.G.A FOR AID」の管理担当理事をしている。
土地の所有者の了承を得たうえで、黙々と草を刈り、荒れ果てた土地を開墾していく。6月末から開始し、既に大小合わせて10数ヵ所を開墾した。彼らの目線の先には、単なるボランティア活動にとどまらない、復興への思いがあった。
休耕地を耕し、希望の芽を植える
O.G.A FOR AIDは、被災地支援のために作られた一般社団法人だ。日本人、外国人を含む多国籍メンバーで構成されたこの集団は、3月以降、救援物資を調達したり、被災者の心のケアを行ったりと、南三陸町の復興に向けた取り組みを続けてきた。
だが、被災者らと交流しながらボランティア活動を続けるうち、彼らは復興の遅れと共に、南三陸に住む人々の「絶望」を肌で感じるようになる。
周知の通り、南三陸エリアの中心的な産業は漁業だ。だが、津波で漁港一帯は壊滅的な状況と化した。復興には相当の時間がかかるのは間違いない。多くの被災者は仮設住宅で、時間をやり過ごす日々を強いられている。
「ただ待っているだけの生活では、夢や希望が感じられません。今、被災者の方々に必要なのは、外に出て働く場を提供することだと思ったのです。毎朝、決まった時間に起きて、働きに出る。そんな生活のきっかけをつくれないかと考えた結果、行き着いたのがこのコミュニティーファームプロジェクトでした」(アンジェラ氏)
農業に目をつけたのには、いくつかの理由がある。
南三陸では、漁業を営む一方で、自宅の裏庭などで農作物を育て、自らの食卓を支えていた住民が多く存在した。だが、高齢化や人手不足などを理由に農作業をやめる家庭が増えた結果、今も津波の難を逃れた高台などには、休耕地が数多く残されている。
彼らが自らの手で、ゼロから土地を作ることは難しいかもしれない。だが、手はずを整えてあげれば、過去に培った経験や知識を生かして農業に取り組んでもらえるのではないだろうか。待つだけの生活から脱し、人々が生きがいを感じるきっかけにはなれないだろうか――。農業を通じて、被災者の暮らしに「働く習慣や喜び」をもたらす。それがこのプロジェクトの第一の目的だ。
もちろん、農業が被災地の食糧支援につながるという単純な理由もある。南三陸ではいまだに流通が機能しておらず、片道数10分をかけて買い出しに行くことを余儀なくされている住民は多い。交通網が限られる中、住民の負担は大きい。農業が軌道により、一定の収穫が得られるようになれば、南三陸の住民が新鮮な野菜を手に入れやすくなる。
もう1つの大きな目的は、「コミュニティーの再生」だ。
震災後、南三陸で被災した人々は避難所生活を余儀なくされた。同じ地域で支えあった人たちと離れ離れになり、孤独を感じている住民は多い。仮設住宅に入ってからは、仕事もなく近くに友達もおらず、家の中に引きこもりがちになる。
農作業は、人が集まる場所ときっかけをもたらしてくれる。外部からのボランティアも受け付けることで、被災者同士だけではなく、幅広い人たちとの交流が芽生える。
「当初は漁業から農業へと矛先を変えることに、戸惑いを覚える人も少なくはありませんでした。『自分はこの先も、ワカメ一筋で生きていく』。そんな風におっしゃる方もいます。でも、徐々にではありますが、被災地の人たちの反応が変わってきていると感じています」(アンジェラ氏)
農業を通じて、閉じた環境と心が、少しずつ溶け始めている。
農作業が交流の芽を生み出す
8月末。プロジェクトリーダー、アンジェラ氏が親交を深める「南三陸ホテル観洋」の阿部憲子女将の元に、色鮮やかなナスとピーマンが届いた。6月末のスタートからおよそ2カ月。数人の思いから始まったプロジェクトは、早くも作物を生み出し始めている。
「荒れ果てた土地がきれいに整備されて、そこに食べ物ができる。希望の芽を感じます。プロジェクトが軌道に乗れば、被災者の方々もお小遣い程度の稼ぎが得られるかもしれない。わずかではあっても、精神的には大きなプラスになります。
そして、『がれき処理は無理だけれど、被災地で何かできることはないだろうか』『被災地でボランティアしたい』と思ってくださる方々も、農作業だったら参加しやすいと思うんです。被災地の方々が“置き去り感”を覚えつつある今、新たな交流の場ができるのは本当にありがたいです」
阿部憲子女将は、こう言って目を細めた。
現在、南三陸ホテル観洋では、このプロジェクトから生まれた農作物をホテル内の売店などで販売することを検討している。
農業プロジェクトは始まったばかりだ。資金力も認知度も、地域住民への広がりもまだ少ない。持続可能なプロジェクトとなって、被災地に貢献できるか否かは、未知数といえる。だが、荒れ果てた農地が耕され、新たな実りを生み出す姿は、絶望感に苛まれがちな被災地に静かな光を生み出している。
(以下、日経ビジネスから転載)
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南三陸で静かに進む「農業プロジェクト」
2011/09/09
瀬戸 久美子[日経ビジネス編集]
夕日が緑を染め始めても、宮城県南三陸町の高台では、土を耕すトラクターが低い音を立て続けていた。
地元住民しか知らないような小道を進んだ森林の奥で、そのプロジェクトは静かに始まっていた。
「COMMUNITY FARMING PROJECT IN MINAMI SANRIKU CHO」(南三陸町における、コミュニティーファームプロジェクト)。
筋骨隆々の男性が運転するトラクターの向こうに、作業着姿で背丈以上もあろうかという草を刈り倒していく1人の女性の姿があった。現場作業を取り仕切る、アンジェラ・オルティス氏だ。青森県のインターナショナル・スクールに勤めていたが、2011年3月11日の東日本大震災を機にボランティア活動を開始。今は社団法人「O.G.A FOR AID」の管理担当理事をしている。
土地の所有者の了承を得たうえで、黙々と草を刈り、荒れ果てた土地を開墾していく。6月末から開始し、既に大小合わせて10数ヵ所を開墾した。彼らの目線の先には、単なるボランティア活動にとどまらない、復興への思いがあった。
休耕地を耕し、希望の芽を植える
O.G.A FOR AIDは、被災地支援のために作られた一般社団法人だ。日本人、外国人を含む多国籍メンバーで構成されたこの集団は、3月以降、救援物資を調達したり、被災者の心のケアを行ったりと、南三陸町の復興に向けた取り組みを続けてきた。
だが、被災者らと交流しながらボランティア活動を続けるうち、彼らは復興の遅れと共に、南三陸に住む人々の「絶望」を肌で感じるようになる。
周知の通り、南三陸エリアの中心的な産業は漁業だ。だが、津波で漁港一帯は壊滅的な状況と化した。復興には相当の時間がかかるのは間違いない。多くの被災者は仮設住宅で、時間をやり過ごす日々を強いられている。
「ただ待っているだけの生活では、夢や希望が感じられません。今、被災者の方々に必要なのは、外に出て働く場を提供することだと思ったのです。毎朝、決まった時間に起きて、働きに出る。そんな生活のきっかけをつくれないかと考えた結果、行き着いたのがこのコミュニティーファームプロジェクトでした」(アンジェラ氏)
農業に目をつけたのには、いくつかの理由がある。
南三陸では、漁業を営む一方で、自宅の裏庭などで農作物を育て、自らの食卓を支えていた住民が多く存在した。だが、高齢化や人手不足などを理由に農作業をやめる家庭が増えた結果、今も津波の難を逃れた高台などには、休耕地が数多く残されている。
彼らが自らの手で、ゼロから土地を作ることは難しいかもしれない。だが、手はずを整えてあげれば、過去に培った経験や知識を生かして農業に取り組んでもらえるのではないだろうか。待つだけの生活から脱し、人々が生きがいを感じるきっかけにはなれないだろうか――。農業を通じて、被災者の暮らしに「働く習慣や喜び」をもたらす。それがこのプロジェクトの第一の目的だ。
もちろん、農業が被災地の食糧支援につながるという単純な理由もある。南三陸ではいまだに流通が機能しておらず、片道数10分をかけて買い出しに行くことを余儀なくされている住民は多い。交通網が限られる中、住民の負担は大きい。農業が軌道により、一定の収穫が得られるようになれば、南三陸の住民が新鮮な野菜を手に入れやすくなる。
もう1つの大きな目的は、「コミュニティーの再生」だ。
震災後、南三陸で被災した人々は避難所生活を余儀なくされた。同じ地域で支えあった人たちと離れ離れになり、孤独を感じている住民は多い。仮設住宅に入ってからは、仕事もなく近くに友達もおらず、家の中に引きこもりがちになる。
農作業は、人が集まる場所ときっかけをもたらしてくれる。外部からのボランティアも受け付けることで、被災者同士だけではなく、幅広い人たちとの交流が芽生える。
「当初は漁業から農業へと矛先を変えることに、戸惑いを覚える人も少なくはありませんでした。『自分はこの先も、ワカメ一筋で生きていく』。そんな風におっしゃる方もいます。でも、徐々にではありますが、被災地の人たちの反応が変わってきていると感じています」(アンジェラ氏)
農業を通じて、閉じた環境と心が、少しずつ溶け始めている。
農作業が交流の芽を生み出す
8月末。プロジェクトリーダー、アンジェラ氏が親交を深める「南三陸ホテル観洋」の阿部憲子女将の元に、色鮮やかなナスとピーマンが届いた。6月末のスタートからおよそ2カ月。数人の思いから始まったプロジェクトは、早くも作物を生み出し始めている。
「荒れ果てた土地がきれいに整備されて、そこに食べ物ができる。希望の芽を感じます。プロジェクトが軌道に乗れば、被災者の方々もお小遣い程度の稼ぎが得られるかもしれない。わずかではあっても、精神的には大きなプラスになります。
そして、『がれき処理は無理だけれど、被災地で何かできることはないだろうか』『被災地でボランティアしたい』と思ってくださる方々も、農作業だったら参加しやすいと思うんです。被災地の方々が“置き去り感”を覚えつつある今、新たな交流の場ができるのは本当にありがたいです」
阿部憲子女将は、こう言って目を細めた。
現在、南三陸ホテル観洋では、このプロジェクトから生まれた農作物をホテル内の売店などで販売することを検討している。
農業プロジェクトは始まったばかりだ。資金力も認知度も、地域住民への広がりもまだ少ない。持続可能なプロジェクトとなって、被災地に貢献できるか否かは、未知数といえる。だが、荒れ果てた農地が耕され、新たな実りを生み出す姿は、絶望感に苛まれがちな被災地に静かな光を生み出している。
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