(以下、ダヴィンチニュースから転載)
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障害は個性なのか? 「発達障害=脳の個性」と捉える新たな教育法とは
2015.1.23
『脳の個性を才能にかえる 子どもの発達障害との向き合い方』(トーマス・アームストロング:著、中尾ゆかり:訳/NHK出版)
多様性がある柔軟な社会がよしとされている。怒りっぽい人、忘れっぽい人、少し空気が読めない人などさまざまいるが、ひとクセある大人たちが肩を寄せ合って社会を形成している。たとえば、怒りっぽい人は熱心な人、忘れっぽい人はおおらかな人、少し空気が読めない人は自分をもっている人、といった具合にポジティブに解釈すると、人間関係が円滑にいって、せせこましい社会でも比較的、生きやすいのではないだろうか。
さて、少子化や教育改革などで、個を尊重した教育が進められている。伸び伸びと育つ子どもたちがいる一方で、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、ディスレクシア(学習障害の一種で読み書きが困難)、自閉症など障害をもつ子どもにとっては、依然生きづらい、窮屈な環境であるのも確かだろう。障害は個性なのか。このような議論は、あちらこちらで見る。
確かに、障害をもつ子どもたちは、いわゆる「普通の子ども」とは違う面があるらしい。勉強に集中できなかったり、コミュニケーションをとるのが苦手だったり。ある程度は勉強に集中できるのが普通だ、コミュニケーションがとれるのが普通だという、今の子どもたちの平均値に照らし合わせてみれば、障害をもつ子どもたちには足りないものが目立つ。それは「負」の面である。そこで、大人は環境を整えたり、専門的な治療を行ったり、投薬したりするわけだが、『脳の個性を才能にかえる 子どもの発達障害との向き合い方』(トーマス・アームストロング:著、中尾ゆかり:訳/NHK出版)では、全編を通じて発達障害を「脳の個性」として解釈する。
断っておくが、本書は多様性という考え方をかつぎ出して、精神疾患を美化しようというものではない。「脳の多様性」という言葉は、すでに10年前から欧米で使われており、本書ではこれを科学的根拠も踏まえつつ「脳の個性」として見直すことで、それぞれの障害(ADHD、自閉症、ディスレクシア、気分障害=うつなど、不安障害、知的発達の遅れ、統合失調症、の7種の脳)を冷静に分析、理解する。そして、子どもに合う新しい教育のあり方を考えていく。
例えば、ADHDの場合は「落ち着きがない」「注意散漫」という特徴が見られることが多い。学校では、そわそわとしてときに授業中であっても立ち歩く、忘れ物が多い、衝動的に話に割り込んでくるなどの子どもは「多動」と見られる。現実問題として、授業が停滞することがあれば、手段を講じざるを得ない。場に馴染めていないのだ。しかし、場が教室ではなく、たとえば南太平洋諸島であったなら。本書によると、プルワット文化圏は500の島にわかれており、舟で島から島へ渡る能力が高く評価される。注意がさまざまにいくADHDの才能は、大洋に出たときに水平線に見え隠れする小さな島影を見つけるのに役立つだろうと推測している。障害が才能に変わり、生活に生かせるのだ。
脳の発達の遅れに起因はするものの、同年代の子どもと比べ遊び心があり、自発性に富み、ユーモアがあるとされるADHD。著者は、障害というものは生まれた時代や場所、そのときの価値観や美徳などで位置づけが大きく左右されるとしている。
とはいっても、現実は生まれた時代や場所、そのときの価値観や美徳などに一人ひとりが合わせなくてはならない。と同時に、本書が提唱するのは「障害という個性的な脳のニーズに合わせて、まわりの世界を修正すること」。ADHDの特性を正しく理解すれば、現代の都会であっても、訪問販売員、音楽療法士、新聞記者、消防士、設計士、トラックの運転手、農業従事者など、さまざま仕事に従事できるばかりか、一級の才能を発揮できるだろうと予言している。
障害をもつ人を社会にとっての「金の卵を産む鶏」に変えるのは、社会を構成する人間すべてであるという主張に、無限の可能性と希望を感じ取ってほしい。
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障害は個性なのか? 「発達障害=脳の個性」と捉える新たな教育法とは
2015.1.23
『脳の個性を才能にかえる 子どもの発達障害との向き合い方』(トーマス・アームストロング:著、中尾ゆかり:訳/NHK出版)
多様性がある柔軟な社会がよしとされている。怒りっぽい人、忘れっぽい人、少し空気が読めない人などさまざまいるが、ひとクセある大人たちが肩を寄せ合って社会を形成している。たとえば、怒りっぽい人は熱心な人、忘れっぽい人はおおらかな人、少し空気が読めない人は自分をもっている人、といった具合にポジティブに解釈すると、人間関係が円滑にいって、せせこましい社会でも比較的、生きやすいのではないだろうか。
さて、少子化や教育改革などで、個を尊重した教育が進められている。伸び伸びと育つ子どもたちがいる一方で、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、ディスレクシア(学習障害の一種で読み書きが困難)、自閉症など障害をもつ子どもにとっては、依然生きづらい、窮屈な環境であるのも確かだろう。障害は個性なのか。このような議論は、あちらこちらで見る。
確かに、障害をもつ子どもたちは、いわゆる「普通の子ども」とは違う面があるらしい。勉強に集中できなかったり、コミュニケーションをとるのが苦手だったり。ある程度は勉強に集中できるのが普通だ、コミュニケーションがとれるのが普通だという、今の子どもたちの平均値に照らし合わせてみれば、障害をもつ子どもたちには足りないものが目立つ。それは「負」の面である。そこで、大人は環境を整えたり、専門的な治療を行ったり、投薬したりするわけだが、『脳の個性を才能にかえる 子どもの発達障害との向き合い方』(トーマス・アームストロング:著、中尾ゆかり:訳/NHK出版)では、全編を通じて発達障害を「脳の個性」として解釈する。
断っておくが、本書は多様性という考え方をかつぎ出して、精神疾患を美化しようというものではない。「脳の多様性」という言葉は、すでに10年前から欧米で使われており、本書ではこれを科学的根拠も踏まえつつ「脳の個性」として見直すことで、それぞれの障害(ADHD、自閉症、ディスレクシア、気分障害=うつなど、不安障害、知的発達の遅れ、統合失調症、の7種の脳)を冷静に分析、理解する。そして、子どもに合う新しい教育のあり方を考えていく。
例えば、ADHDの場合は「落ち着きがない」「注意散漫」という特徴が見られることが多い。学校では、そわそわとしてときに授業中であっても立ち歩く、忘れ物が多い、衝動的に話に割り込んでくるなどの子どもは「多動」と見られる。現実問題として、授業が停滞することがあれば、手段を講じざるを得ない。場に馴染めていないのだ。しかし、場が教室ではなく、たとえば南太平洋諸島であったなら。本書によると、プルワット文化圏は500の島にわかれており、舟で島から島へ渡る能力が高く評価される。注意がさまざまにいくADHDの才能は、大洋に出たときに水平線に見え隠れする小さな島影を見つけるのに役立つだろうと推測している。障害が才能に変わり、生活に生かせるのだ。
脳の発達の遅れに起因はするものの、同年代の子どもと比べ遊び心があり、自発性に富み、ユーモアがあるとされるADHD。著者は、障害というものは生まれた時代や場所、そのときの価値観や美徳などで位置づけが大きく左右されるとしている。
とはいっても、現実は生まれた時代や場所、そのときの価値観や美徳などに一人ひとりが合わせなくてはならない。と同時に、本書が提唱するのは「障害という個性的な脳のニーズに合わせて、まわりの世界を修正すること」。ADHDの特性を正しく理解すれば、現代の都会であっても、訪問販売員、音楽療法士、新聞記者、消防士、設計士、トラックの運転手、農業従事者など、さまざま仕事に従事できるばかりか、一級の才能を発揮できるだろうと予言している。
障害をもつ人を社会にとっての「金の卵を産む鶏」に変えるのは、社会を構成する人間すべてであるという主張に、無限の可能性と希望を感じ取ってほしい。