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サッカーW杯 移民の歴史にも思いを

2014-06-13 20:05:35 | 多文化共生
(以下、毎日新聞から転載)
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社説:サッカーW杯 移民の歴史にも思いを
毎日新聞 2014年06月13日 02時30分

 「遠くて近い国」と言われるブラジルを舞台にしたサッカー・ワールドカップ(W杯)は7月中旬の決勝まで約1カ月に及ぶ。5大会連続出場となる日本代表の戦いぶりに注目が集まるが、約100年前のブラジル移民から始まった両国の深いつながりにも思いをはせたい。

 今大会の日本代表は史上最強と言われる。選手23人のうち欧州各国リーグでプレーする海外組は前回の南アフリカ大会から8人増えて12人となり、初めて半数を超えた。初出場を果たした1998年フランス大会当時は一人もいなかったことを思うと隔世の感がある。代表選手の平均年齢は26.8歳。Jリーグが始まった93年当時は小学生にもなっていない。幼いころからJリーグを見て育ち、Jリーグで力を蓄えた。

 日本をサッカー新興国からW杯常連国に押し上げたJリーグの発展と代表チームの成長にブラジルから太平洋を越えてやって来た人たちが果たした役割を改めて評価したい。

 J1クラブに在籍した外国籍選手は800人を超えているが、半数以上をブラジル籍が占めている。日系3世の田中マルクス闘莉王選手ら日本国籍を取得してW杯で日の丸をつけてプレーした選手もいる。貢献はそれだけにとどまらない。

 日本サッカーの強みは「組織力」だと言われている。だが、65年に日本リーグが始まった当時は中盤を省略してロングボールを蹴り合うのが主流だった。ショートパスをつないでいくサッカーを持ち込んだのは日系のブラジル人選手だ。

 67年に来日した日系2世のネルソン吉村さん(故人)は日本代表にも選ばれ、釜本邦茂さん(元日本代表FW)とコンビを組んで活躍した。その後も与那城ジョージさん、セルジオ越後さんをはじめ有名無名の日系ブラジル人が伝えてくれた技術や考え方によって日本のパスサッカーの下地が作られたことを多くのサッカー関係者が証言している。

 彼らのルーツはブラジル移民だ。神戸港から最初の移民船「笠戸丸」が出港したのは1908(明治41)年4月28日。以来、戦前戦後を合わせて約25万人が太平洋を越え、勤勉さと実直さを身上にブラジル社会に確固たる地位を築いた。ブラジルには開幕戦が行われるサンパウロを中心に海外では最多となる約160万人の日系社会が形成されている。

 日系選手が切り開いたサッカーを通じた両国の交流は世紀が変わっても盛んだ。彼らの存在と貢献を抜きに日本サッカーの歴史は語れない。日本代表には相手選手に敬意の気持ちを示し、日系の人たちが自分のルーツが日本であることを誇りに思えるようなプレーを期待したい。

不器用だけど一生懸命

2014-06-13 19:27:09 | ダイバーシティ
(以下、DIAMONDオンラインから転載)
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不器用だけど一生懸命――沖縄の焼き肉店、キングコングが実践する、ゆがんだ社会や組織を治すヒント

 沖縄に、障がい者と健常者を隔てなく混在させ、相互に良質の影響を与え合う職場づくりによって、従業員使い捨てと他責の文化にまみれた組織風土を一変させた職場がある。株式会社NSP(砂川惠治代表取締役)が経営する「キングコング」である。

「使い捨ての飲食業文化はやめたい」

 NSPとは、ナガイ・ソーシャル・プロジェクトの略で、沖縄で4店舗の居酒屋・飲食店を経営するナガイ産業が母体となり、「企業と福祉とのコラボレーション」を目的として立ち上げた別会社で、焼き肉店「キングコング」を経営している。

 ナガイ産業は8年前、ピーク時に10億円ほどあった年商が3億円にまで落ち込むという経営危機にあった。当然、人件費、材料費などを削減し、生き残りをかけた。このとき、経営者も辛かったが、現場の従業員たちの気持ちもササクレだっていた。洋食の調理師は和食の調理師を責め、厨房は接客(フロア)を責め、従業員は経営者を責めるなど、あちこちで「他責の文化」が職場を支配した。

 当時、ナガイ産業の飲食部門を統括する部長だった砂川さんは、「離職を減らし、安定した人員にしないと企業文化も育たない。使い捨ての飲食業文化はもうやめたい」としみじみ思った。そして、教えること、学ぶことを大事にし、従業員たちの勉強会に力を入れると共に、障がい者雇用も始めることにした。

 砂川さんは、障がい者雇用を真剣に考えるために、幼いころからの親友で作業療法士である仲地宗幸さん(NSPの障がい者就労支援事業サービス管理責任者)と共に、障がい者雇用のための従来の施設をいくつも見学して回った。そこでは、同じような仕事をたんたんとこなしており、楽しんでやっている人はいないように見えた。「社会復帰というより、社会から離れていっているんじゃないか?」と砂川さんは感じた。

 ここから、NSP流の独自の障がい者就労支援への挑戦が始まった。そしてまたこの頃から、キングコングを始めとするナガイ産業の飲食業文化はしだいに変わり始め、従業員の帰属意識と定着率が高まり始めるのである。健常者だけのときには、互いに責任をなすりつけていて、従業員の定着率も低かったというのに、障がい者が混ざることによって人も組織も活性化していった。一体、何が起こったのだろうか?

不器用だけど一生懸命。
“BIメンバー”が職場の文化を揺さぶる

 NSPでは、障がい者のことを「BIメンバー」と呼んでいる。「不器用だけど、一生懸命」の略である。現在、ナガイ産業では4店舗80名の従業員中、11名が病気や障がいのために社会に適応しにくい人たちである。「就労のサポートが難しいとされる統合失調症の方でもいきいきと働ける職場を作ることができれば、他の障がいも含めてユニバーサルに通用すると思っています」と仲地さんは語る。

 BIメンバーの一人、真喜志竜次さんはキングコングに入社したとき、「俺は、洗い場しかできない」と言い張っていたという。親御さんもそう言うので、本人も信じ込んでいるようで、「皿と自分しかない世界」に閉じ籠ろうとしていた。だが、キングコングの大石英吾店長は彼を見ていて「それは違うんじゃないか」と感じ、いろいろな仕事をやってもらった。大石さんには障がい者に関する医学的な専門知識はない。だからこそ常識に凝り固まらずに真喜志さんの可能性を信じ、何でも頼んでみた。真喜志さんはしだいに「人の世界」にも積極的に関わっていくようになり、今ではお客様から大人気の店員となっている。

 ここからが面白い。その様子を見ていた他のBIメンバーが真喜志さんに嫉妬し、より大きな声で接客するようになったのだ。互いに競争するようにして職場に活気と意欲が満ちていった。真喜志さんは最近、大石店長に向かって次のように言ったそうだ。「俺の記録より、組織の記録の方が大事」。そう語る大石さんの目には涙が浮かんでいた。「人の成長に関われることが嬉しい」。

 そんな大石さんでさえ、最初は、障がい者に対する偏見が人一倍強かったと隠さずに話す。だが一緒に仕事をする中で、「良いものは良い」と思えるようになった。「障がい者には裏表がない。仕事に向き合う姿勢が真摯で一途である。労働観についていえば、むしろ私たち健常者の方に疑問を感じる」とさえ言う。

BIメンバーと健常者が一緒になった経営勉強会

 キングコングでは週1回、2時間ほどの経営勉強会を継続的に実施している。店長の大石さんが講師やファシリテーターになり、統合失調症や自閉症の従業員も混ざって、一緒に勉強をする。内容は、お店の経営と実践に関わることや、それぞれの人生や生き方に関わることの2つである。大石さんが丁寧にゆっくりと、極めて本質的なことを従業員たちに伝え、対話している。

 もちろん普通の会社の会議のように効率的にはいかない。自分の意見を言う順番が来ても、何もしゃべらない従業員がいる。狭い部屋を静寂が支配するが、みんな、何かを信じているかのようにじっと待っている。目を見ればわかる、何かを考え、しゃべろうとしている。そんな努力の途中に口を挟む人はキングコングの従業員にはいない。

 ひとりひとりがしゃべるのは確かに遅くて、勉強会はゆっくりとしたテンポで進むが、2時間ほどの間に、勉強や課題共有だけに留まらず、それに対する各自の行動計画にまできちんと落とし込まれる。世の中には、2時間やっても誰が何をするのか全く決まらない会議もあるが、一体、どちらが非効率なのだろうか。

 この勉強会、最初はBIメンバーを除き、健常者だけで話し合っていたそうである。自ずと、どうやって障がい者を助けるかといった話し合いが多くなり、「なんだか批評しているみたいな感じ」だったという。そこである時から思い切って、BIメンバーも混ぜて話し合うことにした。すると、むしろ健常者のほうがBIメンバーから学び、影響を受けることのほうが多いことに気付いた。当初抱いていた、教える側、教えられる側という区分も消えていき、健常者も障がい者も、互いに学び、人間的に豊かになっていった。

ひきこもりの経験を跳ね返した若者たち

 BIメンバーと一緒に働き、大きな人間的成長を遂げている若い従業員たち、興那嶺捺美さんと村山雄喜さんに話を聴いた。二人は中学卒業後に働いていて、ひきこもり経験がある。しかしキングコングにはもう3年以上勤めており、まだ二十歳そこそこの年齢であるものの、職場をひっぱるリーダーとなっている。発言内容は2人とも異口同音なので、ここでは興那嶺さんの発言を紹介する。

――BIメンバーと一緒に仕事をするようになって、職場の雰囲気はどう変わりましたか?

「BIメンバーが入ってから、やりやすくなった。勉強会を通じて、それぞれの気持ちや取り組みがわかりあえる。3年前に比べて、職場の空気や人間関係が明るくなった。全員でやっているという空気が生まれている」

――BIメンバーから学んだことは何ですか?

「あたりまえのように継続する力。楽しいと思ったら生き生きと働く元気なところ。素直なところ。まっすぐに突き進むところ。人は仕事に慣れてくると、なあなあになってくるから、そこで成長がストップしてしまう。でもBIメンバーは、うまくいったら、もっとうまくなりたいって感じ。いったんスイッチが入ったら、どんどん上へ行く」

「自分が落ち込んでいる時、店長に何を言われてもダメ(笑)。でもBIメンバーの前向きさを見て、立ち直ることができる」

――最後にひとつ聴きたいのだけど、将来、どんな人になりたい?

「中卒、ひきこもりでも、仕事は楽しいってことを伝えたい」

 とりわけ最後のビジョンは心に響いた。

 大石店長にも、将来の夢を聴いてみた。

「会社を通じて学校を作りたい。障がい者、ひきこもり、二-ト、家庭環境が悪い人などに、寮生活などもセットにして、仕事って楽しいということを教えたい」

 みんなの想いが同じ方向へ向かっていると感じた。

漁船コング丸で海に繰り出す

 翌朝、砂川さん、仲地さんと共に、コング丸で漁へ出た。コング丸とはNSPが所有する船の名前であるが、実はこれもまた、鬱やひきこもりなどの人たちの再生手段として、漁船で海に繰り出すという、今まで聞いたことのない、斬新かつ危険とさえいえる挑戦である。

 ある発達障がいの男性は、失業しており、自暴自棄になっていた。この方は、コング丸での漁を通じて、釣った魚を家に持って帰るようになった。すると今まで、家に帰っても会話なんてなかったのに、自分で釣ってきた魚によって食卓にドラマが生まれた。家族が喜んでくれて、感謝の言葉が返ってくるようになった。この男性はコング丸で漁をするようになってから、自己効力感や自尊心などの生活の質に関わる指標(QOL)が急激な回復を見せ、主治医が驚いたという。

 漁が回復と動機づけの場になったのである。そこには、男や父親としての本質を回復させる何かがあったのだ。「漁師(ウミンチュ)の仕事には、海で漁をする他にも、網や仕掛けを作ったり、船体やエンジンを修繕したり、船を掃除したり、魚をさばいて調理したりなど、幅広い内容が含まれている。だからだろうか、漁師は、自分で何でもやる自信に満ちている人が多い」と仲地さんは語る。

 コング丸は、学校もどうしてよいのか分からずに手を焼く不登校の少年も乗せたことがある。少年の姿は必ずしも本人が求めているものではなかった。本人もしたくてしているわけではなく、集団形成上そういうポジションになっているから、虚勢を張り続けているだけだった。漁に出ることによって、集団の中で着ていた鎧を脱ぎ、自分自身に素直になることができた。

「現代社会は、人と深く関わるということが少なくなっている。また複雑な人間関係の中で、人にどう見られるかを意識し、人からの評価により一喜一憂していて、自分自身(アイデンティティー)が不安定になっている。

 そういう時代において、社会の喧騒から離れ、海に繰り出す意義は大きい。わずか15分岸から離れるだけで、そこは別世界。陸では、自分はどう見られているかということに意識が向いていたが、海では、風や波、雲の動きからその日の海の機嫌を推測する。

 釣り糸を垂らしてからは、海中の様子をイメージしながらひたすら魚のあたりを待つ。日の出、日の入りに自分の生活を重ね、潮の満ち引きに人生を重ねる。海には等身大の自分を教えてくれる機能が備わっている。背伸びしなくてもいい」と仲地さんは話す。

 現在、コング丸には、精神になんらかの障がいがある人たちが5人乗っている。海に落ちたらどうするのだ、海上で発作が起きたらどうするのだ、とリスクを心配する声もある。だが、海では誰もが子どもにかえり無邪気な笑顔が自然に出てくる。みんなで釣った魚をさばいて作る魚汁はことのほか旨い。そんなことが、疲れきってしまった心、塞ぎこんでしまった心に効くのだろう。「魚汁は命薬(ヌチグスイ)」と仲地さんは笑う。

めっぽう腕の立つ自閉症の寿司職人

 コング丸での漁を終え、東京へ戻る前に、もう一ヵ所、砂川社長のお店に寄った。日本でおそらくただ一人の自閉症の寿司職人、津波古郷さんによる心を込めた握りを頂戴するためである。津波古さんが握るシャリの量は正確この上ない、少しだけ含める空気の量も絶妙と言われる。雑念のない集中力、旨いとの噂は本当だった。


彼が握るシャリの量は正確この上ない
 NSPはこれから先、障がい者雇用のみならず、刑余者を含む様々な立場の人を雇用することにも挑戦しようとしている。それも福祉施設のような特別な空間ではなく、普通に町にあるお店でやることが大事だと考えている。

「いつからでも、どこからでもやり直せる、という言葉がありますが、今の日本において一度犯罪を起こしてしまった人は、二度とお天道様の下で働くことができないのが現状です。本当に罪を悔いてもう一度やり直したいと思う方に対して、その機会を提供したい。そしてただ働いてもらうだけではなく、できれば犯罪を犯してしまった当事者だからこそできる社会貢献を企業とともに行っていきたい」と仲地さんは言う。

純粋な思考と行動が、
眠っていた人間性を突き動かす

 この会社は一体何なのだろう? 障がい者と健常者を混ぜた勉強会で企業文化を革新し、発達障がいの人や非行少年をコング丸で漁に連れ出し人間性を回復させ、自閉症の青年を寿司職人に育て上げる。さらには犯罪を犯してしまった人に対しても、その経験を活かした新しい道を作ってみたいと言う。

 NSPは地方の小さい企業に過ぎないが、その挑戦は異色であり、注目に値する。福祉や治療や更生のモデルとしてけっして完成したものではない。むしろ全くの途上と言ってよい。しかしこの取り組みが示している新たな挑戦を、もっと多くの人々に知ってほしいと思う。

 健常者だけの職場の方が効率的なはずなのに、逆に互いに相手を非難し合い、ギスギスした人間関係に陥り、業績も悪化する。他方、障がい者と健常者を混ぜたら非効率でイライラするはずなのに、逆に人間性が豊かになり、職場に意欲や活気がよみがえる。

 これはいわゆる福祉ではない。社会的責任とか、善意とか、助けるとかいう感覚ではない。障がい者が持っている純粋な思考と行動とによって、健常者もまた自分の中に眠っていた人間性が突き動かされ、感動し、自分の勘違いを知り、もっと豊かな生き方を発見し始める。

 健常者が作ってきた社会や経済の歪(ひずみ)を克服するための鍵の一つは、純粋な心や突き抜けた能力を有する障がい者たちが持っているのかもしれない。砂川さん、仲地さん、大石さん他、NSPの皆さんが手探りで挑戦しているのは、人を分け隔てて解決するのではなく、混ぜあわせて豊かになる、そんな社会モデルやビジネスモデルのように思えた。

外国人労働者5年受け入れを恒久措置で、法相に提言

2014-06-13 11:46:30 | 多文化共生
即ち、当初の制度設計が間違ってましたということになる。であれば、当初の制度導入の経緯・背景から見直すべき。

(以下、ケンプラッツから転載)
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外国人労働者5年受け入れを恒久措置で、法相に提言

2014/06/12
 法務省の有識者会議は6月10日、建設業を含む外国人の技能労働者の受け入れ期間を、時限的でなく恒久的な措置として現行より2年長い5年程度に延長することなどを谷垣禎一大臣に提言した。政府が同日に開いた産業競争力会議で提示した「日本再興戦略」改訂の骨子案にも、外国人技能労働者の受け入れ制度の抜本的な見直しが盛り込まれた。

 外国人技能労働者の受け入れ制度は「外国人技能実習制度」で、発展途上国出身の技能労働者を教育する制度。受け入れ期間は3年以内となっている。政府は4月4日、建設業の技能労働者を対象に、人手不足対策として受け入れ期間を5年間に延長すると発表した。ただし、これは東日本大震災の復興事業や2020年の東京五輪開催を背景とした時限措置で、期間は15年度初頭から20年度までとする予定だ。

 法務大臣への提言を行う出入国管理政策懇談会の外国人受け入れ制度検討分科会(分科会長:多賀谷一照・獨協大学法学部教授)は、「5年いないと一人前にならない職務は多い。型枠大工のように、一人前になるには10年かかると言われるものもある」といった議論を経て、今回の提言をまとめた。3年以内では「高度な技術を修得した優れた技術者・技能者を育成するという制度の目的を達することが困難」と指摘し、一定の要件を満たす優秀な技能労働者には2年程度の期間延長を認めるべきだとした。

■外国人技能実習制度見直しの提言から
(資料:法務省)

 このほか、実習中の技能労働者に対しては賃金などの処遇を適正化すること、実習修了時には技能評価試験の受験を義務化することなどを提言した。

日本再興戦略でも「抜本的見直し」へ
 一方、安倍首相を議長とする政府の産業競争力会議は、「日本再興戦略」改訂の骨子案の「雇用制度改革・人材力の強化」という項目に、「外国人材の受け入れ」を盛り込んだ。外国人技能実習制度については、期間や分野などについて「抜本的見直し」を行うとしている。

災害教訓の継承 多様な視点で取り組め

2014-06-13 11:45:58 | ダイバーシティ
(以下、カナロコから転載)
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【社説】災害教訓の継承 多様な視点で取り組め

2014.06.08 10:00:00

 災害を語り継ぐ-。その大切さを社会全体であらためて共有しておきたい。

 日本は地震に限らず、風水害や噴火などが繰り返す「災害大国」である。いつ、どこで何が起きるか分からないだけに、過去の経験や反省に学び、命を守れるようにしたい。そのためにも被害状況や復興の過程を正確に記録し、あらゆる機会を通じて伝えていく努力が欠かせない。

 その役割は、国や自治体、メディアや専門家が果たすのはもちろんだが、一人一人の市民も担っていく必要があろう。

 国レベルで災害の発生頻度が高くても、個人が生涯のうちに遭遇する機会は多くない。親から子、そして孫へと被災体験を語り継ぎ、イメージを共有しておくことは有効な手だてとなる。それは、過去の津波被害を教訓に、率先して逃げる「津波てんでんこ」を東日本大震災時に実践した三陸沿岸の人々の行動に示されている。

 昨年9月に発生から90年の節目を迎えた関東大震災についても、教訓を掘り起こす動きが広がった。その経験を踏まえ、展示や講演などに携わった専門家や学芸員らが今春、専門分野を超えて集い、共同研究を視野に模索を始めたのは大きな一歩と言えよう。

 高まった人々の関心を一過性のもので終わらせず、より多様な視点で過去の災禍を見つめ直そうとの試みだ。時宜にかなったものであり、着実な取り組みを期待したい。

 詳細な調査報告書や数々の写真、体験者の手記など豊富な資料が残る関東大震災は、その被害の大きさから、いまだに全容が解明されていない。実相に迫るには、歴史学者と地震学者らが垣根を越えて手を携える「文理融合」が不可欠だ。

 理念や必要性について研究者の意見は一致しているが、これまでに実例はないとされる。手探りで進めざるを得ないが、むしろ今後のベースをつくり上げていくという気概を持って取り組んでもらいたい。

 そして研究成果を広く社会に、特に教育現場に還元する視点を持つべきだ。折しも中教審では、防災教育の教科化を念頭に置いた検討が進んでいる。災害教訓を継承する意義を訴えていく必要もあろう。

 私たちは災害大国に生きている。命を守る大切さを伝える取り組みに終わりはない。

【神奈川新聞】