多文化共生なTOYAMA

多文化共生とは永続的なココロの営み

経済の死角

2011-07-04 23:18:31 | 多文化共生
画一化・マニュアル化された社会が露呈した構造的欠陥。
多様な事象に多様に対処でき、豊かで多様性に富んだ社会を
今をおいて他に考えるときはない。


(以下、現代ビジネスから転載)
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経済の死角
 国が公表しなかったホットスポットを明らかにしたNHK番組が反響を呼んだ。その番組の主役、科学者・木村真三氏は、今もフクシマ各地を精力的に飛び回り、放射能汚染の実態を調査し続けている。

本誌記者:阿部崇

子供には食べさせられない

 6月18日の夜、福島県いわき市北部の山あいの町・川前町の志田名集会所に、住民がぞくぞくと詰めかけてきた。一人の若い科学者によるこの地の放射能汚染調査の結果を聞くためだ。

 科学者の名を木村真三(43歳)という。北海道大学医学部の非常勤講師の木村氏は、おそらく今、最も多忙な放射線の専門家だ。福島第一原発の事故以来、放射能汚染の実態調査のためにたびたび福島県内を訪れ、車で走破した距離はおよそ5000kmにも及ぶ。事故後の平均睡眠時間は4時間足らずだという。

 その木村氏が、最近集中的に調査を行っているのがいわき市だ。とりわけ、ここ志田名地区と荻地区は、地元の人々の手によって放射線量が高いことが突き止められていたが、報告を受けても行政は一向に動かなかった。そんな苛立ちを抱えていた住民の要請に応える形で、木村氏が詳細な調査を買ってでたのである。

 集会所で木村氏の口から発せられたのは、地元の人々にとってショッキングな言葉だった。

「この地域の中には、チェルノブイリ事故の際に避難(特別規制)対象地域と設定された、汚染度が最も高いゾーンに匹敵する場所もありました」

 チェルノブイリの避難(特別規制)対象地域の基準は、1480キロベクレル/平方メートル以上だった。この地区のある土地では、それをわずかだが上回る数値が計測されていたのだ。

 沈黙ののち、住民からは質問が相次いだ。

「このままにしておいたら、田畑に作付け可能になるまでどのくらいの年月を要するんですか?」

「・・・ものすごくかかると思います。セシウム137の半減期は、30年ですから」

 厳しい現実を突きつけられて聴衆の間からはざわめきと、あきらめ混じりの乾いた笑いが漏れる。

 別の男性が質問した。

「作付けはどの程度ならできると思いますか?」

「若い人に食べさせないのなら、そこで作付けした作物は食べてもいいと思う。人体影響が出るのは20~30年後ですから、50~60歳以上の方々に何か影響が出たとしても、それはお年を召されたら身体に出てくる障害とほとんどかぶってしまう程度です。ただし、もちろん小さいお子さんには食べさせてはなりません」

 質問した男性が聴衆に向かって声をかけた。

「みなさん、先生の言われていること分かりましたか?『ここには30年間は作物を作ってはダメ、作ってもいいけれどそれは自分の年齢を考えて食べてくれ』ということですよ。それが現実であるならば、ここにはわれわれの子どもたちは後継者として住めないということ。深刻な問題です」

 重苦しい雰囲気が集会所に満ちていく。

ホットスポットを発見

 いわき市は、その大半が福島第一原発から30kmの圏外に位置する。そのため20~30km圏に出されていた「屋内退避指示」が解除されて以降は、計画的避難区域はもとより緊急時避難準備区域にも指定されなかった。市も安全をアピールしていた。

 だが、それは詳細な調査結果に基づかない、机上の空論でしかなかった。福島第一原発から約28kmの地点にある荻・志田名地区の一部には、前述のようにチェルノブイリ事故時に避難地域と設定された土地と変わらない汚染レベルの土地があることが判明した。だが、行政上は危険地帯ではないため、遠くに避難したくても現時点で国や行政からのサポートはない。これが現実だ。

 何度もこの地を訪れている木村氏は多くの住民と顔なじみだ。車ですれ違えば笑顔で会釈してくれるお婆さんや、「差し入れだ」と言って山盛りの柏餅を届けてくれるお爺さんもいる。この日は、そういう人たちに向かって「ここに住むのは難しい」と宣告しなければならなかった。

 木村氏は言う。

「本当に辛い。こういう仕事は本来、行政がやるべきことなんですが、行政がそれをしようとしない。だから僕がやるしかない。

 チェルノブイリのように20年以上経ってから事故の影響が表れてくるような事態を起こさないためには、今きちんと対応していかなければならない。今なら食い止めることが出来るんじゃないか。その思いが今の僕の仕事のモチベーションになっているんです」

 木村氏は、その活動がNHK教育テレビのETV特集『ネットワークでつくる放射能汚染地図~福島原発事故から2か月~』(5月15日放送)で取り上げられ、急速にクローズアップされるようになった。同番組は放送から間もなく、2度も再放送され、3週間後には『続報 放射能汚染地図』も放送された。

 放送では、木村氏が放射線測定の権威・岡野眞治博士(84歳)とともに、岡野氏が開発した放射線測定装置を積み込んだ車両で福島県内を走行しながら、放射線量を測定していく様子が紹介された。この調査の中で、浪江町赤宇木地区というホットスポットも発見した。当時、文部科学省は赤宇木地区の放射線量が高いことを把握しながらも、地名を公表してはいなかった。そのため、近隣からこの地区に避難してきている人さえいた。木村氏らの調査で、はじめて汚染レベルの高さが明らかになった。

 さらに『続報』では、福島第一原発の敷地外で木村氏が採取した土壌からプルトニウムが発見されたことも報じられた。すべて、足を使った調査によって発見された成果だった。

 志田名集会所での説明会の翌日。荻地区の牧草地に木村氏の姿があった。

 牧草地前の用水路の、コンクリート製の蓋に、赤いテープで×印が付けられている。文科省がモニタリングカーで定期的に測定に訪れるポイントである印だ。

 文科省が公表するデータを見ると、6月22日時点で、このポイントの線量は毎時2・6マイクロシーベルト。この日、木村氏が牧草地の中央地点で測ってみると毎時およそ3マイクロシーベルトを計測した。さらに別の牧草地で、牧草をまとめたロールの表面線量を測ると、毎時19・99マイクロシーベルトまで測定できる線量計が振り切れてしまった。

 その結果に地元の酪農家たちも肩を落とすが、木村氏に向けて出てくる言葉は感謝の言葉ばかりだ。

「先生がここに来てくれるようになって、志田名や荻の線量が高いということで大きな騒ぎになった。それがなかったら、行政は最後まで知らんぷりだったはずに違いないですよ」

 地元の人々がそれほど信頼を寄せるのは、木村氏が職を辞し、ボランティアで調査活動をしていることを知っているからだ。木村氏が、このような形の活動を始めたのには理由がある。

辞表をたたきつけた

 3月12日、福島第一原発1号機で水素爆発が起きた。当時、木村氏は厚生労働省が管轄する独立行政法人・労働安全衛生総合研究所の研究員だった。

 放射線衛生学の研究者である木村氏はすぐに現地調査に向かおうとしていた。しかし、研究所から所員に一斉にメールが届く。勝手な調査行動を慎むよう指示する通達だった。

 すぐに辞表を書いた。一刻も早く現場に入るべきだという信念を貫くためだ。「こんな時こそ現場に入らないと放射線の研究者としての存在意義がなくなってしまう」、そんな思いを抑えられなかった。

 実は、木村氏は過去にも似たような経験をしている。1999年9月、東海村JCO臨界事故の時のことだ。当時、木村氏は放射線医学総合研究所に入所したての任期付き研究員だった。

 放射線事故は初動が大切だ。時間が経てば経つほど、半減期の短い放射性核種が計測できなくなってしまい、事故の実態がつかめなくなってしまう。だが当時、放医研を管轄していた科学技術庁は、現場入りしようとする研究者たちにストップをかけた。

 木村氏ら有志の研究者は独自に現地調査に乗り出したが、このドタバタで現場入りは1週間ほど遅れてしまった。同じ轍を踏まないために、福島第一原発の事故直後に、労働安全衛生総合研究所を辞めてしまったのだ。

「東海村の事故を調査してから、日本でも大規模な放射線事故が起こりうると考えていました。そのときのために、チェルノブイリ事故から学ぶべきだと考え、何度も現地に足を運びました。2000年から現地で健康調査を始め、昨年は7月と9月に、今年も1月と、この6月にも現地に行きましたが、事故から25年経った今でも、健康被害は住民に表れているんです」

 実際、日本でも事故は起きた。だが職場は現場調査を止めようとした。

「人のためになる仕事をしたいと思って研究者になったのに、これじゃあ何のための研究なのか分からない」

 こうして木村氏は職をあっさりと捨ててしまった。

 荻地区の牧草地の調査をしたその日の午後、木村氏はいわき市の小名浜市民会館で約900名の聴衆を前に調査報告会を行った。さらにその日の夜には、郡山市で約40名の聴衆を前に説明会も行った。

 普段は調査中心の生活だが、説明会などの機会があれば、地域の人々に現状を丁寧に説明し、質問にも出来る限り答える。

「汚染された芝生を剥がしたが、その後の処理はどうしたらいいのか」、「母乳からセシウムが検出されたが、赤ちゃんに飲ませても大丈夫なのか」、「畑の草は刈っても大丈夫なのか」。

 放射能に汚染された地域の人たちが抱いている日常的な疑問に、わかりやすい言葉で答える姿勢が住民に安心感を与えている。

 徹底しているのは、調査はもちろん、説明会などの際にも謝礼を一切受け取らないことだ。自宅のある都内からの移動費も自腹だ。職をなげうっておきながら、完全なボランティアとして活動している。

各地から「調査してほしい」

 放医研を5年で退職してから労働安全衛生総合研究所に入るまでの2年7ヵ月の間、木村氏には塗装工として働いた時期がある。その時期にも研究者の道は諦めなかった。東海村事故をきっかけに知己を得た京都大学原子炉実験所の今中哲二氏の実験室を借りて実験に取り組んだり、一人で論文をまとめる作業に打ち込んでいた。きちんと研究を続け、業績さえあげればいつか必ず研究職に戻れる。そう信じて不遇の時期を乗り切った。

「苦境から這い上がれたのは、東海村事故以来の仲間の応援があったからです。そういう人間関係が僕の活動を支える原動力になっています。テレビで取り上げられたことで僕が注目されるようになっていますが、福島での調査は仲間たち全員でやっている。現場で調査するのは僕ですが、そこで採取したサンプルを測定したり解析したりしてくれるのは、京都大学の今中さんや長崎大学の高辻俊宏さん、それから広島大学の静間清さんや遠藤暁さん、金沢大学の山本政儀さんという一流の研究者。彼らがいればこそのこの調査活動なんです」(木村氏)

 放射能汚染に苦しむ人々に対し、国は必ずしも正確で詳細な情報を提供していない。県や市は、「原子力行政は国の専権事項」とばかりにダンマリを決め込んでいる。結局、正確な情報を欲している住民のニーズに応えているのは、木村氏のような組織に縛られない研究者だけだ。


ガイガーカウンターの正しい使い方を解説する木村真三氏

 現在、木村氏の元には、福島県内の各地から「こちらでも調査してほしい」という依頼が殺到している。だが、たった一人でその要望に応えるのは無理な相談だ。そこで現在考えているのが、「市民科学者」の育成である。

「普通の市民に放射線についての知識を深めてもらい、自分たちで正しく線量の測定をしてもらう。そういう中で、線量の高いポイントが出てきた時には僕が出向いて専門的な調査をしようという発想です。

 残念ですが、汚染された地域は、今後長期にわたって放射能と付き合いつづけて行かなければならない。そういう理解を深めてもらうためにも、市民科学者の育成が大事なんです」

 チェルノブイリ事故発生から25年。多くの研究者が今でも現地での調査にあたっている。福島でも同じように数十年単位での調査が必要になると言う。仮に内部被曝の被害が出た場合にもすぐ対応できるよう、活動の基盤を福島県内に設けることも考えている。

「今後は福島県内だけでなく、宮城県南部などでも調査を進めたい。チェルノブイリでも僕を待ってくれている人がいる。ほんとうに、体が10個あっても足らない状態ですよ」

 木村真三の闘いは、これからも続く。

子どものオシッコから放射性セシウムの検出

2011-07-04 10:07:21 | 多文化共生
(以下、BLOGSから転載)
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子どものオシッコから放射性セシウムの検出

2011年07月03日09時31分

武田邦彦 プロフィール

かわいそうなことですが、日本の子どものオシッコから放射性セシウムが検出されました。

この問題を正しく判断するポイントは、

1) 検出された量は、世界の水道水の規制のレベルだから、ハッキリした内部被曝をしたことを意味している、

2) 子どもが内部に取り込んだ時期は3月下旬から4月上旬と考えられる、

3) 子どもの体内に入った総量はこの測定では分からず、一過性なら大したことはないが、継続的にでる場合はかなりの量が体内に入ったと考えられる、

4) 測定値が日本からではなく、フランスからであることが残念だ、

5) この件について、文部大臣が「健康に影響はない」と発言したことには何の根拠もない。ただ「安全だ病」にかかっているだけ、

です。

放射性セシウムの半減期は30年ですが、体内には成人男子で約3ヶ月ぐらい体に残ります. 子どもの場合、最短で2週間位から出始めます.

この子どものオシッコを採ったのが5月中旬ですから、おそらく4月の体内被曝の分が出たと考えられます. だから、もしこの子どものオシッコをもっと早く採っていれば、高い濃度のセシウムが検出されたと思います。

国は測定値が高い頃に測定するのを控えていたと考えられます. 私は今回の福島原発の事故で、何回か日本人としてのプライドを傷つけられました。

1) 最初の段階で日本の気象庁のデータが出ないので、ドイツの気象庁のデータで風向きを推定した、

2) ソ連は事故の翌日に1100台のバスで住民を大量に避難させたが、日本政府はなにもやらなかった、

3) 福島沖から茨城沖の魚や藻類の放射線のデータをフランス原子力センターの測定値を使った、

4) 今回のオシッコの検査も外国だった。

この機会に文部大臣が反省して欲しかったのですが、逆に内部被曝の時に用いる「預託線量計算」が50年(実質1年)であることを取り上げて、「大したことはない」を繰り返していました。

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子どものオシッコにでる放射性物質は、例えば、1ヶ月目から出始めて、最初は濃度が低く、徐々に上がっていって1ヶ月半ぐらいでピークになり、それから徐々に減り始めます.

ということは、今回のサンプルが子どものどの時期に当たっているかによって、そのお子さんの内部被曝量が決まるのであって、今の段階では、「極めて厳しい」という状態から「大したことはない」まであって、誰も決めることは出来ません。

・・・・・・

いずれにしても、空気中や野菜の中の放射性物質を体に取り込んだのですから、オシッコにでるのは当然です。

今後も「放射性物質を含む野菜を食べないなんて、風評だ!」といって放射性物質を食べさせた子どものオシッコにはすでに放射性物質が出ているはずです. 

ひどいことをする日本の大人(政府、農水相、教育委員会など)です。「自分のオシッコにヨウ素やセシウムが出て欲しくない!」と叫んでいる子どもの声が聞こえないのでしょうか?

その子供たちの態度を「風評を煽る」といって非難するのですから、鬼のような大人です.

・・・・・・

防御方法ですが、

1) 新たに内部被曝しないように、風の日はマスクをし、食材に注意する、

2) 新陳代謝を盛んにして、放射線に注意しながら(カリウムは自然のものでも若干の放射性カリウムを含む)カリウムの食材を少しずつ採る、

3) 体力を維持し、栄養のバランスをとり、3月に被曝した子どもはできるだけ放射線の夏休みを過ごす、

ということです。

被災外国人に言葉の壁

2011-07-04 10:06:45 | 多文化共生
(以下、読売新聞【山梨】から転載)
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被災外国人に言葉の壁

地震に当惑、情報不足に悩む

3か月ぶりの母国語での会話に、外国人妻らは笑顔だった(6月23日、宮城県石巻市で)

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県石巻市で6月12日から2週間、復興活動などを取材した。漁師町に嫁いだ外国人妻らは、人生で初めての巨大地震に当惑し、言葉の壁による情報不足に悩んでいた。(小高広樹)

嫁不足の漁村に嫁ぐ 

石巻市がある牡鹿半島沖合は海流がぶつかる好漁場として知られ、町は水産業で発展してきた。フィリピン、中国などの女性が結婚紹介業者の仲介で来日し、慢性的な嫁不足に悩む漁村に嫁ぎ、港に隣接した水産加工品工場などで働いていた。外国人妻は日本語教室を通じて、母国出身の同じ境遇の仲間と出会い、交流を広げていたという。

 震災で日本語教室が休止したため、宮城県国際交流協会は、外国出身者同士が震災について語り合う集会を開き、情報交換や心のケアを行っている。石巻地区の集会では、フィリピンから来日し、外国語教師をしている高橋リャネットさん(34)が「日本人は優しくて、避難所でも助けられたけれど、外国人が普段から一緒に住んでいることを考えて災害に備えてほしい」と県職員に要望した。必死な表情に、3か月の被災生活のつらさがにじみ出ていた。

 石巻市や周辺は震災で漁港が壊滅。ワカメの加工工場で働いていた石巻市の木村ジェニファーさん(29)は、工場が休業し、新しい仕事も見つかっていない。被災後しばらくは度重なる地震が怖くて何も出来なかった。ようやく仕事を探し始めたが、「市役所で失業保険などについて聞いたが、言葉が難しくて分からない」と肩を落とす。タガログ語の分かる弁護士や行政書士の協力で何とかハローワークに通い始めた。

夫は会社復興で多忙 

石巻市渡波で輸入雑貨店を経営していた中国出身の三川小夜子さん(44)は、2人の子どもに恵まれ、日本国籍も取得した。店舗は津波で全壊した。夫は自分の経営する会社の復興で忙しく、子どもの世話や、家に関する手続きなどは三川さんが行うことになったが、市役所の機能はまひし、被災申請などの制度も専門用語が多く理解出来ない。悩みを相談しようにも、同郷の仲間は避難のため散り散りに。役所で受け取った外国人向けパンフレットも、「書類の書き方ばかりで、どんな制度があるかといった本当に知りたいことが書いてなかった」。震災から3か月が過ぎ、ようやく生活は安定してきたが、「ちゃんと申し込みが出来ているのか不安」と話した。

本県に1万7000人 

山梨県の外国人人口は約1万7000人。ブラジル人が最も多く中国、韓国と続く。地域では製造業工場のある甲府市、中央市、南アルプス市に集中している。中央市ではブラジル出身の住民向けに、震災を受けて市のホームページに英語とポルトガル語で防災情報の掲載を始めた。外国人観光客の多い山梨県では、日本語がまったく分からない外国人が被災する可能性もある。災害弱者や情報過疎を起こさない備えが必要だ。
(2011年7月4日 読売新聞)

被災地のフィリピン人妻に心のケア

2011-07-04 10:05:35 | 多文化共生
(以下、nikkansports.comから転載)
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被災地のフィリピン人妻に心のケア

 東日本大震災の被災地に居住するフィリピン人の「心のケア」のため来日したフィリピンの女性医師3人が3日、岩手県陸前高田市を訪れ、同市や同県大船渡市から集まった女性たちの診療をした。

 農漁村の嫁不足を背景に、岩手県や宮城県には日本人男性と結婚した外国人女性が多い。

 フィリピン政府から支援の申し出があり、先月28日に来日。診療に当たったマリア・パス・コラテス医師は「津波でのトラウマ(心的外傷)やうつ症状、他の人を助けられなかった罪悪感を感じている人が多い」と指摘した。同行した外務省の石川義久南東アジア第2課課長補佐は「母国語で相談や話ができることが大事」としている。

 陸前高田市の貝山ハイディーさん(42)は「津波で家が流された時のことがタガログ語で話せて、うれしかった」と安心した表情で話した。

 3人は災害医療の専門家と精神科医。13日まで両市や宮城県気仙沼市など計6市3町1村を日本人の精神科医などと巡回する。在日フィリピン人家族や日本人への医療活動もする。

 外国の医療チーム受け入れはイスラエル、ヨルダン、タイに続いて4カ国目だが、心のケアに特化した活動は初めて。

 法務省の2010年の統計によると、岩手、宮城両県には約1900人のフィリピン人が外国人登録している。(共同)

 [2011年7月3日18時53分]

農業の現場労働力不足 原発事故で実習生帰国

2011-07-04 10:04:54 | 多文化共生
(以下、茨城新聞から転載)
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2011年7月3日(日)
農業の現場労働力不足 原発事故で実習生帰国
回復困難、生産縮小も
外国人研修・技能実習制度を活用し県内のJAが受け入れていた外国人実習生が、東日本大震災に伴う福島第1原発事故の影響を心配して帰国するケースが相次ぎ、農業の現場で労働力が足りなくなっている。1500人余りの実習生のうち3割近くが帰国した。主に中国人実習生で、特に鹿行地域が目立つ。JAは新たに実習生受け入れを進めているが、震災前の状況には回復しておらず、生産規模縮小などを迫られる農家も出ている。

JA県中央会は2日までに、「外国人農業研修生県JA連絡会」に加入する県内12JAから4月末現在の帰国者数を聞き取り調査した。それによると、震災前日の3月10日現在で1583人だった実習生の約28%に当たる439人が、震災などを理由に帰国した。

帰国者が最も多かったのはJAかしまなだで197人、次いでJAなめがたが88人、JA茨城旭村が73人の順で、メロンや葉物野菜などを大規模経営する鹿行地域が多かった。

県西地域は、中国の実習生送り出し機関が慰留に動いたことから、帰国者はほとんどいなかった。

JAはベトナムなど中国以外からの受け入れも視野に、新たな実習生の受け入れや対応に奔走。5月以降、徐々に来日しているが、原発事故前の状態には戻っていないという。

5人の実習生が帰国したままという鉾田市のホウレンソウ農家の男性(51)は「9月に新たに実習生が来ることになったが、今は人手が足りず、栽培面積を半分以下に減らすしかない」と話す。

JAなどによると、実習生が帰国した農家では日本人のパート従業員を雇って対応するほか、経営面積を減らしたり、借り受けていた畑を返したりする事例もあるという。

実習生の滞在期間は最長3年。受け入れは1農家で1年に2人までと決められている。JAかしまなだの関係者は「震災前の状態に戻るには、2~3年はかかる」と見通す。

原発事故収束の見込みが立たないことも重なり、JA土浦の担当者は「帰国しなかった実習生からも『帰りたい』という声が、依然として毎週のようにある」と頭を悩ます。

別の関係者は「事故の影響は表面上収まっているように見えるかもしれないが、農家は影響が続いている」と話した。

外国人みこし担ぎ手に 長崎くんち史上初

2011-07-04 10:04:20 | 多文化共生
(以下、西日本新聞から転載)
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外国人みこし担ぎ手に 長崎くんち史上初 米国人のヘスリングさん
2011年7月4日 00:25

土のうを積んだ約300キロのみこしを苦しそうに担ぐマイク・ヘスリングさん

 370年以上の歴史を誇る長崎くんちで史上初めて、外国人がみこしの担ぎ手を務めることになった。今年の神輿守町「伊良林神輿守町連合会」に加わった米国人のマイク・ヘスリングさん(52)は3日、初練習に参加して汗を流した。目標は担ぎ手の花形「本肩(ほんかた)」。10月の本番に向け、精進を誓っている。

 ヘスリングさんは日本に留学していた米国人の父と日本人の母の間に生まれた。生後すぐ米国に移住し米国籍になったが、母が日本を恋しがり小学校3年のとき再び来日し、中学まで東京で過ごした。

 その後は米国と日本を転々とし、22歳のとき、商談でシリコンバレーを訪れる日本人相手に通訳の仕事を始めた。30年近く米国で働いた末に、ラスベガスで出会った妻・玲子さん(40)と結婚。08年に玲子さんの実家がある長崎に移り住んだ。

 くんちを知ったのは長崎に来てから。「町全体が盛り上がるのがいい」。毎年観客として楽しんでいたが、翻訳の仕事のため通い出したパソコン教室で担ぎ手経験者と知り合いスカウトされた。

 ヘスリングさんは渡りに船だったが、同連合会の西脇金一郎会長(76)は戸惑った。各連合会の会長に確認したが、長い歴史のなかで外国人がみこしを担いだことはない。念のため諏訪神社に尋ねたところ、宮司は「しきたりを理解して無礼がないなら、外国人でもまったく問題ない」と快く受け入れてくれた。

 みこしは諏訪神社の神を乗せ、くんち初日にお旅所(長崎市大波止)に下り、最終日に神社に戻る。中でも両日に県庁坂や諏訪神社の長坂などを一気に駆け上がる「もり込み」が見せ場で、これを担当する「本肩」は、担ぎ手の憧れだ。

 ヘスリングさんは3日、3キロ減量して初練習に臨んだが、20キロの土のうを持ってのダッシュについていけなかった。約300キロのみこしを担いで何とか歩いたものの「侮っていた」と反省しきり。しかし勝負はこれから。「本格的にトレーニングして、本番は本肩になります」

=2011/07/04付 西日本新聞朝刊=