昔に出会う旅

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南九州旅行No.18 志布志市「天水氏庭園」と町の散策

2012年08月15日 | 九州の旅
南九州旅行2日目、5月8日、鹿児島県志布志市の「宝満寺跡」に駐車し、武家屋敷地区の「平山氏庭園」を見学した後、「天水氏庭園」へ向かいました。



「宝満寺跡」の駐車場にあった観光案内図の一部です。

「宝満寺跡」を出発し、「平山氏庭園」「天水氏庭園」(黄色の★印の場所)と歩いて行きました。



カーブの上り坂先に三叉路があり、その上に「天水氏宅」が見えてきました。

道路右手の石垣や、左の家の石塀は、びっしりと緑で覆われ、沖縄でよく見る南国の風景です。



三叉路の突当たりが天水氏の屋敷で、庭園は以外に高く積まれた石垣の上にあるようです。

石垣の上に見える細い竹は、かつて矢の材料とした「矢竹」でしょうか。

三叉路を右に歩き、写真の右端にある門へ向かいました。



天水氏の屋敷に入る門です。

自然の岩盤が露出した斜面に石垣を積み、造成された屋敷のようです。

岩の窪みにしめ縄が掛けられた石の祠が祀られ、何の神様が祀られているのか気になります。



門をくぐり、左手に上った石段の上から見下ろした風景です。

門の内側の二方向が石垣で塞がれ、まるで防御を固めた小さな城の門の様です。

庭園は、門の屋根の庇の高さまで積まれた石垣の高さにあります。



門から続く石段を上がり、右手の石塀に造られた木戸の奥に見えた東側の庭園風景です。

石段を登った辺りで庭を眺めていた時、天水氏の御主人と思われる人が帰って来られ、「こちらも見てください」と教えられたものです。

南側の庭園には面した建物の壁は植木で遮られており、縁側で解放されたこちらが庭園の中心だったようです。

■門の脇にあった案内板です。
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国指定丈化財 天水氏庭園
 種  別  名  勝
 所 在 地  志布志町帖6605番地
 指  定  平成19年7月26日
 管理団件  志布志市
 この庭園は、江戸時代中期に造られた築山枯山水の庭園で、作庭型式は風景式の三尊石組枯滝石組式、庭趣は築山枯山水・借景法で、面積は120平方メートルである。
 作庭者は、この庭園の元所有者村原氏の祖先と推定されている。
 作庭の手法は、自然の大岩盤の上に、貝蝕された海石を築山状に石組(当地方の特徴的な様式でもある)し、それにサツキ・ツツジ・ハクチョウゲ・クチナシ・モミジ等の小灌木を配植し、地被植物としてハラン・ツワプキ・ヤプラン・シダ類等を下草にあしらっている。また植栽生垣の背景には志布志内城を借景として展望することができる。
 築山中央正面の最高部に立てた巨石は枯滝石を象徴して庭園意匠の中核をなし、その背景の常緑広葉樹(ツバキ・アラカシ・サザンカ等)は刈込物として遠山を表象している。
枯滝石の前面には、脇侍石・水分石・鯉魚右等の役石が配せられ、三尊石組枯滝石組の型式をとっている。
 築山の裾中央には大ぶりの富士山形の海石が立てられ、その近くには水盤的な水鉢が置かれている。さらにその左方には小さいながら洞窟石組が2箇所もつくられている。
 築山と在家との間には飛び石が打たれているが、おそらく後からの添作物であり、築庭当初は砂を敷いて枯れ池を象徴Lたものであったと思われる。
 在家の縁先には鮟鱇型或いは司馬温公型に近い手水鉢が自然石の台石3個の上に裾えられている。これは縁側の内外南側から共用できるようになっており、内側からの景観としては、視点より著しく低い位置にあるのであまり目立たず、近景としての効果は薄い。しかし、その傍らに配したシュロチク・クチナシ(以前はツツジ)等の鉢請樹によって鉢前の景色を引き立て、また遠景と相俟って景観により深い奥行きを見せている。
   志布志市
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木戸をくぐり、東側の庭園の右手奥の風景です。

赤いモミジの付近に並ぶ大きな岩は、案内板に「築山中央正面の最高部に立てた巨石は枯滝石を象徴して」とある岩でしょうか。

しかし、案内板に「枯滝石の前面には、脇侍石・水分石・鯉魚右等の役石が配せられ、三尊石組枯滝石組の型式をとっている。」と書かれていても、どの石か分らず、専門用語は予備知識の無い私には理解出来ませんでした。



東側の庭園の奥の高くなった場所から入口の木戸の方向(南側)を見た風景です。

松尾城跡のある南西方向の山を背景に、南の石垣に植えられた竹が重なり、細長い庭に広がりのある空間を感じさせているようです。

南側の庭園とさえぎる石塀に造られた木戸は、城壁に造られた門のようでもあります。

木戸を出て左が門の方向、右に南側の庭園が広がっています。



門から続く石段を上がり、正面に見える南側の庭の風景です。

左側に高く積まれた石垣に向かって庭の斜面が造られ、様々な草木が植えられています。



南側の庭の奥から門のある東方向を見た風景です。

借景した背後の山は、観光案内図にもある「内城跡」で、石垣沿いに植えられた竹や、植木が庭の風景とつながりを持たせているようです。

4ヶ所ある志布志の城郭は、南西の松尾城がもっとも古く、次いで東の内城が築かれたようです。

二つの城郭の中間に突き出た小山に石垣を高く積み、建てられているこの屋敷もこの地を守る戦術的な役割を持っていたのかも知れません。



帰りの道路脇に湧水が流れ出る場所がありました。

 「飲まずには通れない 水がしたゝる 山頭火」

石碑に山頭火の句が刻まれ、志布志の町を行乞[ぎょうこつ]する山頭火が立ち寄って飲んだ湧水かも知れません。

案内図にも志布志の街の各所に湧水が紹介され、山頭火にも讃えられた水のおいしさもこの町の繁栄を支えたものと思われます。

■山頭火の歌碑の案内板です。
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 放浪の俳人・種田山頭火[たねださんとうか]が志布志を訪れたのは、昭和五年の秋のことである。十月十日福島から徒歩志布志に入り、鹿児島屋に二泊滞在しながら街中を行乞[ぎょうこつ]し、十ニ日志布志駅から都城へ向かっている。この間山頭火は四十六の句を詠んでいるが、この旅の日誌『行乞記[ぎょうこつき]・あの山越えて』には、当時の志布志の様子がいきいきと描かれている。
 「究極の美味さとは淡白にあり、その極致は水にある」とされるが、酒を愛しまた水を愛した彼は、別名「水飲み俳人」とも呼ばれ、「きき水」 の達人として各地で名水の秀句を残している。
 日誌の中にその足跡は辿れないが、志布志麓[しぶしふもと]の湧水群[ゆうすいぐん]は彼の心を充分に満足させたであろうと思われる。
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説明文に「福島から徒歩志布志に入り」とある「福島」は、東に隣接する串間市の市街地と思われ、山頭火は海岸の風景を見ながら歩いてこの志布志に来たようです。



山頭火の歌碑から更に南に戻った場所に「鬼塚製茶」があり、立ち寄ってみました。

お店の中で頂いたサービスのお茶がとてもおいしく、湧水でたてられていたのでしょうか。

お茶の栽培、加工、販売と熱心に取り組まれ、隣の奥の建物で加工されているそうです。

お土産の他、自家用に買って帰ったおいしい「宝満茶」を飲むと、志布志での思い出がよみがえってきます。