南九州旅行2日目(2012/5/8)、鹿児島県志布志市の観光を終え、都城市へ戻り、山之口町の 「田島かくれ念仏洞」と、関連する「安楽寺」を訪れました。
「隠れキリシタン」はよく聞きますが、「かくれ念仏」は聞いたことがなく、強い興味が湧き、訪れたものです。
薩摩藩(島津氏領)や、隣接の人吉藩(相良氏領)では江戸時代以前から一向宗(浄土真宗)が禁止され、明治時代に信教の自由が解禁されるまで「隠れ念仏」として信仰が続いていたようです。
「田島かくれ念仏洞」は、密かに一向宗(浄土真)の信仰を続けていた人々が信仰の場としていた地下洞窟の史跡です。
「田島かくれ念仏洞」駐車場の風景です
奥に石碑と、案内板が建ち、左手の道を下ると地下に掘られた「田島かくれ念仏洞」の遺構が保存されています。
■駐車場にあった「田島かくれ念仏洞」の案内板です。
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町指定史跡 田島かくれ念仏洞
所在地 都城市山之口町冨吉四九七九番地
■洞入口=高さ一一〇cm・幅七〇cm
■洞 内=高さ一二六m・直径二二〇cm
都城盆地内には、たくさんのかくれ念仏洞が現存しています。この遺跡は当地方の貴重な文化遺産であり、藩政時代の一向宗(浄土真宗)禁制下におけるすさまじいまでの信者たちの「信念」対「圧政・弾圧」という両者葛藤の記念碑でもあります。
薩摩藩の一向宗に対する弾圧は、慶長二年(一五九七年)二月二十二日、十七代藩主島津義弘が二度目の朝鮮出兵の際に出した「一向宗の事先祖以来御禁制の儀に候事。彼の宗体になり候者は曲事たるべき事」などの布令に始まります。
また、明暦元年(一六五五年)「宗体座」が設けられたのを最初に、名称を変えながら安永七年(一七七八年)「宗門改役」という名称で明治時代を迎えています。役人の拷問は悪辣を極め、水責め、火責め、水牢、木馬などの体罰を容赦なく信者に加えたのでした。責め苦に耐えきれずに白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否をすれば死刑に処せられました。特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰を免れず、切腹の重刑、軽くても家禄召楊の上、百姓として追放処分を受けました。
本町には、荒平神社法座跡(川内大谷奥の山中)や、上森、木上、吹上、田原、など四ヵ所のかくれ念仏洞が在りましたが、原形をとどめているのはこの田島だけです。
都城市教育委員会
山之口町ふるさとの伝統文化掘り起し事業
宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
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宮崎県都城市山之口町にある「田島かくれ念仏洞」と、「安楽寺」の地図です。
上の地図は、概略の位置を示す広域図、下の地図は狭域図です。
山之口町は、都城市の中心街から北東方向にあり、高速道路都城インーチェンジから南東方向にある田園地帯でした。
石碑の横の坂道を見下ろした風景です。
丘の斜面の下が塀で囲まれ、奥にコンクリートの建物が見えてきます。
「田島かくれ念仏洞」は、丘の斜面の下に造られていました。
■駐車場に建てられた石碑の碑文です。
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念仏禁制 殉難之旧蹟 かくれ念仏洞
<台座碑文>
念仏はいのちなり
念仏はまことなり
血吹き
涙あふるゝ
暗き世に
わが無碍光※は
されど
その力にては
消えざりき
*************************************
※無碍光[むげこう]=阿弥陀仏の発する十二光の一。何ものにも妨げられない救いの光明。<デジタル大辞泉より>
碑文を読むと、過酷な弾圧に耐え、信仰を守り続けてきた信者の人々の強い気持ちが伝わってくるようです。
建物の手前の木の横に斜面を石垣で覆い、鉄柵で囲われた場所がありました。
斜面の下に地下洞窟があったようです。
琉球石灰岩の地層が広がる沖縄では自然の洞窟が多く、「ガマ」と呼ばれていますが、南九州でもこのような洞窟を「ガマ」と呼ぶようです。
古代からの続く言葉の共通性によるものか、薩摩藩による琉球支配で伝わったものか、興味のあるところです。
鉄柵で囲われた地下洞窟をのぞいてみましたがよく見えませんでした。
島津氏領内に一向宗が布教されたのは室町時代中期とされています。
一向宗の布教は、本願寺第8世蓮如(1415-1499年)以来、先ず土地の有力者を信者とし、その後、地域全体へ広げていく極めて効率的な手法で、教団を急成長させたようです。
又、一向宗の組織は、地域の信者を「講[こう]」と呼ぶ組織にまとめ、それを束ねた「道場(坊)」、その上に「寺」を置くピラミッド型組織だったようで、身分を越えた人々の信仰の集い(講)により地域の結束と、布教が促進されたものと思われます。
建物の前面は、鉄の扉で囲われていました。
建物に向かって左の壁の一部が空いており、自然の斜面が残される構造になっているようです。
一向宗の禁止は、島津氏領(薩摩藩より約40年早い1555年(天文24)に相良氏領(人吉藩)で、日蓮(法華)宗と共に禁止が始まっていたとされています。
相良氏領で禁止された背景には、加賀国で守護が追放され、約90年間の一向宗支配が続いていた「加賀一向一揆(1488~1580年)」の強い影響が考えられます。
その後、一向宗の本拠「石山本願寺(大阪城の場所にあった)」では織田信長と10年間続く石山合戦(1570~1580年)を行い、和睦したものの一向宗の潜在的脅威を広く知らしめたようです。
戦国時代の1560年頃から将軍足利義輝の許しを得て京都で布教を行っていたポルトガル人宣教師ガスパル・ビレラは、石山本願寺を「日本の金銀のほとんどはここにある」と評しており、一向宗信者から本願寺へ行う寄進が各地の大名にとっても経済的に大きな影響があることも認識されいたものと思われます。
一向宗の懐柔に動いた秀吉は、1591年(天正19)京都に土地を寄進、そこに建てられたのが西本願寺で、現在世界遺産に指定されている豪華絢爛の桃山建築からも、当時の一向宗信者の負担の大きさを量り知ることが出来ます。
室町時代中期から布教されたとされる島津氏領内の一向宗が禁止されたのは、秀吉の二回目の朝鮮出兵に従う直前の1597年(慶長)とされ、相次ぐ戦いで戦費確保を迫られる中、寄進による領内からの金品流出と、宗教活動の制限による一向一揆の防止が急務だったことが考えられます。
又、島津氏が最も恐れる秀吉が一向宗を懐柔し、その情報ネットワークを利用して領内から情報収集されることへの防止策でもあったと思われ、相良氏の導入事例を参考に一向宗禁止が決断されたものと推察されます。
建物をのぞくと右手に小さな仏壇があり、その前には賽銭箱も置かれています。
改めて「田島かくれ念仏洞」が今でも仏教施設として存続していることを認識させられます。
鉄柵にデジカメを差入れて撮った地下洞窟です。
階段が取付けられた洞窟は、ほぼ垂直に降り、前方へ掘られているようでしたが、奥の様子は見えませんでした。
江戸時代以前から長く使われていた洞窟にしては余りに簡素なもので、大雨による浸水なども考えられます。
これら二つの洞窟が同じ時期に使われていたとすれば地盤が弱く、大きな洞窟では崩落の危険があったのかも知れません。
いずれにせよ洞窟は極めて小規模で、数名が唱える念仏を外に漏らさない簡易な施設だったように思われます。
「田島かくれ念仏洞」に近い「安楽寺」門前の風景です。
観光案内に「かくれ念仏」の取調べで使われた拷問石があるとされ、訪ねてきたものです。
「日本人の心6」(五木寛之著 講談社)に五木寛之氏と、安楽寺佐々木住職との対談が掲載されており、興味深く読ませて頂きました。
それによると、佐々木住職の五代前のご先祖は、本山(本願寺)から毎年五名ずつ派遣された使僧のひとりだったとされ、「藩境を越えてひそかに薩摩藩に入って、薩摩一円を回ったらしいです。」と話されており、薩摩藩の禁止をかいくぐった布教活動が続いていたことを知りました。
門をくぐると「安楽寺」の本堂がありました。
右手には親鸞聖人の銅像が立っています。
「日本人の心6」(五木寛之著 講談社)に掲載の佐々木住職のお話で、1800年(寛政12)京都の西本願寺の御影堂の大修復が行われ、1万1千両という莫大な金額がかかり、1857年(安政4)まで賦課金(信者への割り当て金?)が続いたと書かれています。
更に佐々木住職は、薩摩藩では「諸県」内場[うちば]五講と「大口」椎茸[しいたけ]講とで合わせて二千六百五十両、なんと24パーセントを、薩摩藩の「隠れ念仏」の信者たちが請け負っていると話されています。
1800年から57年間、賦課金の24%が薩摩藩の北部、諸県・大口地区に割り当てられたとする余りに過酷な話に驚き、本願寺の姿勢に強い疑問を感じました。
江戸時代中期の1754年(宝暦4)、幕府は、薩摩藩の財政弱体化を目的に濃尾平野西部を流れる木曽川、長良川、揖斐川の治水工事を命じ、約1年間の大工事を完了した薩摩藩では50名以上の自刃者と、膨大な負債を残した歴史がありました。
薩摩藩が西国最大の外様大名だったことによるものと思われますが、西本願寺の御影堂の大修復でも幕府の意向による賦課金割当ての操作があったのでしょうか。
本堂の横にある拷問石です。
台座の上に長方形の石が4枚積まれ、その後方にも1枚置かれているのが見えます。
佐々木住職のお話では「割れ木などの上に正座させて、その膝の上に石を五段まで積んでいった。」とあり、「さらに、石を載せるとごりごり揺すったというんですね。だから、「肉は裂け骨は砕けた」と。」すさまじい拷問の様子が語られています。
又、対談の中で、当地に伝わる「隠れ念仏音頭」二番目の歌詞が紹介されていました。
「薩摩島津のこの村は 血ふき涙の三百年 死罪拷問くりかえす 嵐のなかのお念仏」
自白して拷問から逃れようとしても、地域の「講」の破滅に及ぶことから逃げ場のない拷問に耐えるしかなかったこの地の人々の悲惨な歴史を知りました。
「隠れキリシタン」はよく聞きますが、「かくれ念仏」は聞いたことがなく、強い興味が湧き、訪れたものです。
薩摩藩(島津氏領)や、隣接の人吉藩(相良氏領)では江戸時代以前から一向宗(浄土真宗)が禁止され、明治時代に信教の自由が解禁されるまで「隠れ念仏」として信仰が続いていたようです。
「田島かくれ念仏洞」は、密かに一向宗(浄土真)の信仰を続けていた人々が信仰の場としていた地下洞窟の史跡です。
「田島かくれ念仏洞」駐車場の風景です
奥に石碑と、案内板が建ち、左手の道を下ると地下に掘られた「田島かくれ念仏洞」の遺構が保存されています。
■駐車場にあった「田島かくれ念仏洞」の案内板です。
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町指定史跡 田島かくれ念仏洞
所在地 都城市山之口町冨吉四九七九番地
■洞入口=高さ一一〇cm・幅七〇cm
■洞 内=高さ一二六m・直径二二〇cm
都城盆地内には、たくさんのかくれ念仏洞が現存しています。この遺跡は当地方の貴重な文化遺産であり、藩政時代の一向宗(浄土真宗)禁制下におけるすさまじいまでの信者たちの「信念」対「圧政・弾圧」という両者葛藤の記念碑でもあります。
薩摩藩の一向宗に対する弾圧は、慶長二年(一五九七年)二月二十二日、十七代藩主島津義弘が二度目の朝鮮出兵の際に出した「一向宗の事先祖以来御禁制の儀に候事。彼の宗体になり候者は曲事たるべき事」などの布令に始まります。
また、明暦元年(一六五五年)「宗体座」が設けられたのを最初に、名称を変えながら安永七年(一七七八年)「宗門改役」という名称で明治時代を迎えています。役人の拷問は悪辣を極め、水責め、火責め、水牢、木馬などの体罰を容赦なく信者に加えたのでした。責め苦に耐えきれずに白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否をすれば死刑に処せられました。特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰を免れず、切腹の重刑、軽くても家禄召楊の上、百姓として追放処分を受けました。
本町には、荒平神社法座跡(川内大谷奥の山中)や、上森、木上、吹上、田原、など四ヵ所のかくれ念仏洞が在りましたが、原形をとどめているのはこの田島だけです。
都城市教育委員会
山之口町ふるさとの伝統文化掘り起し事業
宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
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宮崎県都城市山之口町にある「田島かくれ念仏洞」と、「安楽寺」の地図です。
上の地図は、概略の位置を示す広域図、下の地図は狭域図です。
山之口町は、都城市の中心街から北東方向にあり、高速道路都城インーチェンジから南東方向にある田園地帯でした。
石碑の横の坂道を見下ろした風景です。
丘の斜面の下が塀で囲まれ、奥にコンクリートの建物が見えてきます。
「田島かくれ念仏洞」は、丘の斜面の下に造られていました。
■駐車場に建てられた石碑の碑文です。
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念仏禁制 殉難之旧蹟 かくれ念仏洞
<台座碑文>
念仏はいのちなり
念仏はまことなり
血吹き
涙あふるゝ
暗き世に
わが無碍光※は
されど
その力にては
消えざりき
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※無碍光[むげこう]=阿弥陀仏の発する十二光の一。何ものにも妨げられない救いの光明。<デジタル大辞泉より>
碑文を読むと、過酷な弾圧に耐え、信仰を守り続けてきた信者の人々の強い気持ちが伝わってくるようです。
建物の手前の木の横に斜面を石垣で覆い、鉄柵で囲われた場所がありました。
斜面の下に地下洞窟があったようです。
琉球石灰岩の地層が広がる沖縄では自然の洞窟が多く、「ガマ」と呼ばれていますが、南九州でもこのような洞窟を「ガマ」と呼ぶようです。
古代からの続く言葉の共通性によるものか、薩摩藩による琉球支配で伝わったものか、興味のあるところです。
鉄柵で囲われた地下洞窟をのぞいてみましたがよく見えませんでした。
島津氏領内に一向宗が布教されたのは室町時代中期とされています。
一向宗の布教は、本願寺第8世蓮如(1415-1499年)以来、先ず土地の有力者を信者とし、その後、地域全体へ広げていく極めて効率的な手法で、教団を急成長させたようです。
又、一向宗の組織は、地域の信者を「講[こう]」と呼ぶ組織にまとめ、それを束ねた「道場(坊)」、その上に「寺」を置くピラミッド型組織だったようで、身分を越えた人々の信仰の集い(講)により地域の結束と、布教が促進されたものと思われます。
建物の前面は、鉄の扉で囲われていました。
建物に向かって左の壁の一部が空いており、自然の斜面が残される構造になっているようです。
一向宗の禁止は、島津氏領(薩摩藩より約40年早い1555年(天文24)に相良氏領(人吉藩)で、日蓮(法華)宗と共に禁止が始まっていたとされています。
相良氏領で禁止された背景には、加賀国で守護が追放され、約90年間の一向宗支配が続いていた「加賀一向一揆(1488~1580年)」の強い影響が考えられます。
その後、一向宗の本拠「石山本願寺(大阪城の場所にあった)」では織田信長と10年間続く石山合戦(1570~1580年)を行い、和睦したものの一向宗の潜在的脅威を広く知らしめたようです。
戦国時代の1560年頃から将軍足利義輝の許しを得て京都で布教を行っていたポルトガル人宣教師ガスパル・ビレラは、石山本願寺を「日本の金銀のほとんどはここにある」と評しており、一向宗信者から本願寺へ行う寄進が各地の大名にとっても経済的に大きな影響があることも認識されいたものと思われます。
一向宗の懐柔に動いた秀吉は、1591年(天正19)京都に土地を寄進、そこに建てられたのが西本願寺で、現在世界遺産に指定されている豪華絢爛の桃山建築からも、当時の一向宗信者の負担の大きさを量り知ることが出来ます。
室町時代中期から布教されたとされる島津氏領内の一向宗が禁止されたのは、秀吉の二回目の朝鮮出兵に従う直前の1597年(慶長)とされ、相次ぐ戦いで戦費確保を迫られる中、寄進による領内からの金品流出と、宗教活動の制限による一向一揆の防止が急務だったことが考えられます。
又、島津氏が最も恐れる秀吉が一向宗を懐柔し、その情報ネットワークを利用して領内から情報収集されることへの防止策でもあったと思われ、相良氏の導入事例を参考に一向宗禁止が決断されたものと推察されます。
建物をのぞくと右手に小さな仏壇があり、その前には賽銭箱も置かれています。
改めて「田島かくれ念仏洞」が今でも仏教施設として存続していることを認識させられます。
鉄柵にデジカメを差入れて撮った地下洞窟です。
階段が取付けられた洞窟は、ほぼ垂直に降り、前方へ掘られているようでしたが、奥の様子は見えませんでした。
江戸時代以前から長く使われていた洞窟にしては余りに簡素なもので、大雨による浸水なども考えられます。
これら二つの洞窟が同じ時期に使われていたとすれば地盤が弱く、大きな洞窟では崩落の危険があったのかも知れません。
いずれにせよ洞窟は極めて小規模で、数名が唱える念仏を外に漏らさない簡易な施設だったように思われます。
「田島かくれ念仏洞」に近い「安楽寺」門前の風景です。
観光案内に「かくれ念仏」の取調べで使われた拷問石があるとされ、訪ねてきたものです。
「日本人の心6」(五木寛之著 講談社)に五木寛之氏と、安楽寺佐々木住職との対談が掲載されており、興味深く読ませて頂きました。
それによると、佐々木住職の五代前のご先祖は、本山(本願寺)から毎年五名ずつ派遣された使僧のひとりだったとされ、「藩境を越えてひそかに薩摩藩に入って、薩摩一円を回ったらしいです。」と話されており、薩摩藩の禁止をかいくぐった布教活動が続いていたことを知りました。
門をくぐると「安楽寺」の本堂がありました。
右手には親鸞聖人の銅像が立っています。
「日本人の心6」(五木寛之著 講談社)に掲載の佐々木住職のお話で、1800年(寛政12)京都の西本願寺の御影堂の大修復が行われ、1万1千両という莫大な金額がかかり、1857年(安政4)まで賦課金(信者への割り当て金?)が続いたと書かれています。
更に佐々木住職は、薩摩藩では「諸県」内場[うちば]五講と「大口」椎茸[しいたけ]講とで合わせて二千六百五十両、なんと24パーセントを、薩摩藩の「隠れ念仏」の信者たちが請け負っていると話されています。
1800年から57年間、賦課金の24%が薩摩藩の北部、諸県・大口地区に割り当てられたとする余りに過酷な話に驚き、本願寺の姿勢に強い疑問を感じました。
江戸時代中期の1754年(宝暦4)、幕府は、薩摩藩の財政弱体化を目的に濃尾平野西部を流れる木曽川、長良川、揖斐川の治水工事を命じ、約1年間の大工事を完了した薩摩藩では50名以上の自刃者と、膨大な負債を残した歴史がありました。
薩摩藩が西国最大の外様大名だったことによるものと思われますが、西本願寺の御影堂の大修復でも幕府の意向による賦課金割当ての操作があったのでしょうか。
本堂の横にある拷問石です。
台座の上に長方形の石が4枚積まれ、その後方にも1枚置かれているのが見えます。
佐々木住職のお話では「割れ木などの上に正座させて、その膝の上に石を五段まで積んでいった。」とあり、「さらに、石を載せるとごりごり揺すったというんですね。だから、「肉は裂け骨は砕けた」と。」すさまじい拷問の様子が語られています。
又、対談の中で、当地に伝わる「隠れ念仏音頭」二番目の歌詞が紹介されていました。
「薩摩島津のこの村は 血ふき涙の三百年 死罪拷問くりかえす 嵐のなかのお念仏」
自白して拷問から逃れようとしても、地域の「講」の破滅に及ぶことから逃げ場のない拷問に耐えるしかなかったこの地の人々の悲惨な歴史を知りました。