南九州旅行2日目、5月8日、鹿児島県志布志市の「宝満寺跡」を見物、車はそのまま駐車場へ置いて前川西岸に広がる武家屋敷地区の散策に出かけました。
「宝満寺跡」の駐車場にあった観光案内図の一部です。
観光案内図には町歩きの4コースが紹介されていましたが、事前に調べていた武家屋敷地区の庭園見学としました。
「前川」の東岸「宝満寺跡」の駐車場を出発、「宝満寺橋」を渡り、「平山氏庭園」「天水氏庭園」(黄色の★印の場所)などを見学するルートです。
案内図には三か所の山にそれぞれ「内城跡」「松尾城跡」「高城跡」があり、南西にある「高城跡」の西隣にも「新城跡」の名が書かれてあり、志布志市街地の城跡は全部で4ヵ所もあるようです。
重要な土地だけに、時代の変遷の中で城の立地も大きく変化していったのでしょうか。
「宝満寺橋」を渡り、直進すると志布志小学校が見えてきました。
たくさんの草花で彩られた道の向こうには大きなクスの木がそびえ、周囲に広がる校庭には子供たちの声が響いていました。
観光案内図では、この場所が「地頭御仮屋跡」とあり、江戸時代に志布志を治める役所「地頭仮屋」があった場所のようです。
江戸時代の薩摩藩では、領内を約110ヶ所の地域に分けて「地頭仮屋」を置き、その周囲に武家屋敷群を配置した「麓[ふもと]」と呼ばれる集落が形成されていました。
「津口番所」の案内板に「前川河口部の湾口から宝満橋付近までを津として利用しており、番所の上流150mにあった船着き場付近には船奉行所や蔵屋敷が立ち並び」とあり、ここの辺りから河口まで交易の町並が続いていたようです。
又、「麓」と呼ばれた武家屋敷群は、ここから北の前川沿いや、城に挟まれた二つの谷筋に見られます。
前川河岸の船着き場に近いこの場所に「地頭仮屋」が置かれたのは、この地が重要な交易拠点だったことを物語っているようです。
西側の道に面した門から「平山氏庭園」が見えてきました。
右手の路地は、庭園の南に面しており、その先は志布志小学校の校庭です。
■門の脇に案内板がありました。
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国指定文化財 平山氏庭園
種別 名勝
所在地 志布志町帖6390番地
指定 平成19年7月26日
管理団体 志布志市
この庭園は、江戸時代初期に造られた寺院庭園で、作庭型式は風景式、庭趣は自然的岩石園の築山観賞式で、面積は246平方メートルである。
当家の敷地は古刹石峯寺の遺跡で、明治の廃仏毀釈の後は代々平山家の住宅となっている。
作庭者は明らかでないが、石峯寺時代の住職が世俗を離れた仏道を修行するための場として自ら想を練り作庭したものと推定されている。
作庭の手法は、背後に樹林を負い住家の前に迫った自然の傾斜地を利用して、その裾に露出した大岩盤の崖を主景となし、その上に青々とした山の景観を表象する60数株のサツキ・ツツジ類の小刈込物を配して、深山幽谷の自然を風景的にまとめあげた庭園である。
荒々しい大岩盤は数段となって豪快な趣があり、稜角は鋭く直線的に延び、正面に岩窟があって宗教的な雰囲気が漂い、見る者を圧してその心に訴える厳しさをもっている。これは修験道の寺庭として、その修行道の厳しさに通ずる表現であると解釈される。
下段の岩盤には、直径約30cm深さ約2cmの円形穴を掘り込んで満月を表象する斬新な意匠も見られ、その出典は神仙説話により、仏法の悟りの境地を象徴するものとされている。
庭の西隅には大日如来の化身を象徴するといわれる多宝塔をかたどった灯籠が配されていかにも寺庭らしく、これはまた庭の末端を抑えて引き締め、添景物として利かせた作者の自信を推すに足る。
植栽は、概ね不等辺三角形の頂点に配植する自然風植栽法をとり、樹石間の美しい釣合を永遠に崩さないように丸刈込みとなし、岩石の直線とよきコントラストもなしている。
降雨の際には、雨水が岩肌を伝って滝として落ちるような妓巧も凝らされている。」
志布志市
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門を背にして見た「平山氏庭園」です。
左手の建物の手前に玄関があり、門から続く敷石は、カーブしているようです。
左の木戸を入ると建物西の庭に続いています。
門を入り、左手の木戸の奥を見た風景です。
勝手口の雰囲気が漂う建物西側の庭には、竹で組まれた柵に手入れの良さを感じさせられます。
上段の写真にも少し見えていましたが、門から左手の木戸を入ると大きく枝を張るサボテンの木が立っていました。
南九州以外でも見られるものですが、九州南端に近い志布志で見る大きなサボテンの風景は、南国へ来ている実感が湧いてくるものでした。
後方の建物は、生垣で仕切られた隣家のようです。
南の庭を奥に進み、突き当った辺りの風景です。
巨大な自然の岩盤を巧みに活かしたこの庭一番の風景を客間となる南東の部屋から一望できたようです。
丸く刈り込まれたサツキ・ツツジ類を巧みに配置し、殺伐となりがちな岩盤の風景を趣のある庭園に仕上げているようです。
事前の観光案内情報では、生活されている住宅とされており、ちょっと緊張して門を入りましたが、窓越しに見える家の中はしばらく空き家が続いている様子でした。
敷地南東の岩盤の上から玄関や、門の方向を振り返った風景です。
案内板に「当家の敷地は古刹石峯寺の遺跡で、明治の廃仏毀釈の後は代々平山家の住宅となっている。」とあり、かつての「石峯寺」は歴史の中に消えていました。
志布志市志布志町では明治初期の廃仏毀釈で9ヶ寺が廃寺され(「鹿児島県の廃仏毀釈」名越護著より)、現在、同名の寺が見られるのは「大慈寺」「宝満寺」の2寺で、徹底した廃寺の後の再興には困難な環境が続いていたものと思われます。
敷地南東から建物の東側を見た風景です。
雄大な岩盤の風景が敷地の東側全体に広がっていました。
案内板に「住家の前に迫った自然の傾斜地を利用して、その裾に露出した大岩盤の崖を主景となし」とある風景は、この場所だったのでしょうか。
数年前、知覧の武家屋敷群の庭園を見て歩きましたが、、ここまで大自然の景観が取り入れられた庭は記憶にありません。
巨岩の割れ目に根を張ったツツジがひっそりと赤い花を咲かせていました。
「宝満寺跡」の駐車場にあった観光案内図の一部です。
観光案内図には町歩きの4コースが紹介されていましたが、事前に調べていた武家屋敷地区の庭園見学としました。
「前川」の東岸「宝満寺跡」の駐車場を出発、「宝満寺橋」を渡り、「平山氏庭園」「天水氏庭園」(黄色の★印の場所)などを見学するルートです。
案内図には三か所の山にそれぞれ「内城跡」「松尾城跡」「高城跡」があり、南西にある「高城跡」の西隣にも「新城跡」の名が書かれてあり、志布志市街地の城跡は全部で4ヵ所もあるようです。
重要な土地だけに、時代の変遷の中で城の立地も大きく変化していったのでしょうか。
「宝満寺橋」を渡り、直進すると志布志小学校が見えてきました。
たくさんの草花で彩られた道の向こうには大きなクスの木がそびえ、周囲に広がる校庭には子供たちの声が響いていました。
観光案内図では、この場所が「地頭御仮屋跡」とあり、江戸時代に志布志を治める役所「地頭仮屋」があった場所のようです。
江戸時代の薩摩藩では、領内を約110ヶ所の地域に分けて「地頭仮屋」を置き、その周囲に武家屋敷群を配置した「麓[ふもと]」と呼ばれる集落が形成されていました。
「津口番所」の案内板に「前川河口部の湾口から宝満橋付近までを津として利用しており、番所の上流150mにあった船着き場付近には船奉行所や蔵屋敷が立ち並び」とあり、ここの辺りから河口まで交易の町並が続いていたようです。
又、「麓」と呼ばれた武家屋敷群は、ここから北の前川沿いや、城に挟まれた二つの谷筋に見られます。
前川河岸の船着き場に近いこの場所に「地頭仮屋」が置かれたのは、この地が重要な交易拠点だったことを物語っているようです。
西側の道に面した門から「平山氏庭園」が見えてきました。
右手の路地は、庭園の南に面しており、その先は志布志小学校の校庭です。
■門の脇に案内板がありました。
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国指定文化財 平山氏庭園
種別 名勝
所在地 志布志町帖6390番地
指定 平成19年7月26日
管理団体 志布志市
この庭園は、江戸時代初期に造られた寺院庭園で、作庭型式は風景式、庭趣は自然的岩石園の築山観賞式で、面積は246平方メートルである。
当家の敷地は古刹石峯寺の遺跡で、明治の廃仏毀釈の後は代々平山家の住宅となっている。
作庭者は明らかでないが、石峯寺時代の住職が世俗を離れた仏道を修行するための場として自ら想を練り作庭したものと推定されている。
作庭の手法は、背後に樹林を負い住家の前に迫った自然の傾斜地を利用して、その裾に露出した大岩盤の崖を主景となし、その上に青々とした山の景観を表象する60数株のサツキ・ツツジ類の小刈込物を配して、深山幽谷の自然を風景的にまとめあげた庭園である。
荒々しい大岩盤は数段となって豪快な趣があり、稜角は鋭く直線的に延び、正面に岩窟があって宗教的な雰囲気が漂い、見る者を圧してその心に訴える厳しさをもっている。これは修験道の寺庭として、その修行道の厳しさに通ずる表現であると解釈される。
下段の岩盤には、直径約30cm深さ約2cmの円形穴を掘り込んで満月を表象する斬新な意匠も見られ、その出典は神仙説話により、仏法の悟りの境地を象徴するものとされている。
庭の西隅には大日如来の化身を象徴するといわれる多宝塔をかたどった灯籠が配されていかにも寺庭らしく、これはまた庭の末端を抑えて引き締め、添景物として利かせた作者の自信を推すに足る。
植栽は、概ね不等辺三角形の頂点に配植する自然風植栽法をとり、樹石間の美しい釣合を永遠に崩さないように丸刈込みとなし、岩石の直線とよきコントラストもなしている。
降雨の際には、雨水が岩肌を伝って滝として落ちるような妓巧も凝らされている。」
志布志市
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門を背にして見た「平山氏庭園」です。
左手の建物の手前に玄関があり、門から続く敷石は、カーブしているようです。
左の木戸を入ると建物西の庭に続いています。
門を入り、左手の木戸の奥を見た風景です。
勝手口の雰囲気が漂う建物西側の庭には、竹で組まれた柵に手入れの良さを感じさせられます。
上段の写真にも少し見えていましたが、門から左手の木戸を入ると大きく枝を張るサボテンの木が立っていました。
南九州以外でも見られるものですが、九州南端に近い志布志で見る大きなサボテンの風景は、南国へ来ている実感が湧いてくるものでした。
後方の建物は、生垣で仕切られた隣家のようです。
南の庭を奥に進み、突き当った辺りの風景です。
巨大な自然の岩盤を巧みに活かしたこの庭一番の風景を客間となる南東の部屋から一望できたようです。
丸く刈り込まれたサツキ・ツツジ類を巧みに配置し、殺伐となりがちな岩盤の風景を趣のある庭園に仕上げているようです。
事前の観光案内情報では、生活されている住宅とされており、ちょっと緊張して門を入りましたが、窓越しに見える家の中はしばらく空き家が続いている様子でした。
敷地南東の岩盤の上から玄関や、門の方向を振り返った風景です。
案内板に「当家の敷地は古刹石峯寺の遺跡で、明治の廃仏毀釈の後は代々平山家の住宅となっている。」とあり、かつての「石峯寺」は歴史の中に消えていました。
志布志市志布志町では明治初期の廃仏毀釈で9ヶ寺が廃寺され(「鹿児島県の廃仏毀釈」名越護著より)、現在、同名の寺が見られるのは「大慈寺」「宝満寺」の2寺で、徹底した廃寺の後の再興には困難な環境が続いていたものと思われます。
敷地南東から建物の東側を見た風景です。
雄大な岩盤の風景が敷地の東側全体に広がっていました。
案内板に「住家の前に迫った自然の傾斜地を利用して、その裾に露出した大岩盤の崖を主景となし」とある風景は、この場所だったのでしょうか。
数年前、知覧の武家屋敷群の庭園を見て歩きましたが、、ここまで大自然の景観が取り入れられた庭は記憶にありません。
巨岩の割れ目に根を張ったツツジがひっそりと赤い花を咲かせていました。