昔に出会う旅

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北海道旅行No.41 中世の山城「上之国 勝山館跡」[1]

2012年01月05日 | 北海道の旅
北海道旅行6日目 6/8(水)、函館のホテルを出発、北海道最南端の白神岬、日本海沿岸の松前町から北へ55Km、江差の南約5Kmの場所にある上ノ国町へ着きました。

上ノ国町は、函館を基点とする江差線が半島の南部を横断して日本海側に出て、はじめての駅がある町でもあります。

先ず訪れたのは発掘された中世の山城「勝山館跡」を紹介する「勝山館跡ガイダンス施設」です。



「天河の湊と上之国三館跡」と書かれた展示パネルに北から見下ろした上ノ国町の風景写真がありました。

日本海に注ぐ天の川対岸の山の斜面に「花沢館跡」「勝山館跡」があり、右手の海岸には「州崎館跡」と、交易で栄えた天の川河口の港を取り囲むように三つの「館跡」が見られます。

対岸にそびえる「夷王山」には、この地で覇権を握り、松前藩主の祖となった「武田(蠣崎)信広」も埋葬され、山頂には「信広」を祀る「夷王山神社」がありました。



「勝山館跡ガイダンス施設」に展示されていた「中・近世における主な交易品の経路」のパネルです。

中・近世の蝦夷地では北の樺太・大陸北部、東の千島など、ユニークな産品の交易が想像を超えるスケールで行われていたことがわかります。

中世、「上之国」といわれたこの地は、和人が日本海沿岸に造った主要な交易拠点では最北に位置していたようです。

■「勝山館」のパンフレットに交易の記述がありました。
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勝山館と日本海交易
 勝山館からは10万点ほどの様々な種類のものが発掘されています。5万点あまりの陶磁器、鉄・銅などの金属製品、漆器や木製品、骨角器、石・土製品などです。陶磁器はすべて本州から運ばれてきたもので、中国製のものが40%ほどあります。瀬戸・美濃、志野、唐津、越前、珠洲[すず]焼などの日本製もあります。物と一緒に仏教や茶道などの本州文化が伝えられ、鉄砲(玉)やキセル(タバコ)など、この頃外国から日本に入ってきたばかりのものなども勝山舘に伝えられています。
 館の中では、当時の最先端技術を駆使して鉄製品や鋼製品を盛んに作っていました。たくさんの鉄製品や銅製品は生活を豊かにし、交易にも大いに役立ったと思われます。
1485年北夷(樺太-今のサハリン)から「銅雀台瓦硯」(中国製)が武田信広に献上され、1920年頃まで松前氏の家宝になっていたことなどは、北との交易が大変盛んだったことを教えてくれます。
 勝山館直下の大澗[おおま]や天ノ川の河口には、各地からたくさんの交易船が集まり、上ノ国は日本海交易の中心地として、とても繁栄していたと思われます。
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「三類のエゾ」と書かれたパネルがありました。

夷島[えぞがしま]と呼ばれた中世の北海道には、日本海沿岸の「唐子」、太平洋岸の「日ノ本」、渡島半島南部の「渡党」と、三類のエゾ(アイヌ?)が住んでいたとしています。

奥州藤原氏が滅亡後、蝦夷地との交易は、鎌倉幕府から蝦夷管領に任じられた安藤氏に支配されていました。

安藤氏は、津軽半島の十三湊[とさみなと]を拠点とし、次第に蝦夷地への影響力を拡大させていったようです。

安藤氏の支配下にあった津軽海峡を挟む南北のエリアを「渡党エゾ」としている点に強い興味が湧いてきます。

函館市「大船遺跡埋蔵文化財展示館」の見学で、縄文時代に共通の文化圏だったことや、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録を目指していることを知りました。

「渡党エゾ」は、縄文時代から続く交易に携わる人々だっのかも知れません。

■「夷島代官安藤氏と三類のエゾ」と題するパネルの説明文です。 ******************************************************************************
夷島代官安藤氏と三類のエゾ
 安藤の乱 鎌倉時代の終わり頃(1322~1328年)幕府の夷島代官、津軽の豪族安藤氏は、相続争いをして従兄弟同士が岩木川を挟んで戦った。幕府はこの紛争を「東夷蜂起」と恐れたが治めることができす、滅亡する原因の一つにもなった。
 戦いに勝った一族は十三湊を拠点に活発に交易を行い、勢力を拡大した。また秋田に進出した一族は湊安藤氏の祖となった。

 この頃の夷島には「日ノ本」「唐子」「渡党」という三類の蝦夷がいた。「渡党エゾ」は時々、津軽外浜に交易にやってきた。
 彼らが毒矢を射る様子などは後のアイヌの風俗ととてもよく似ている。
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渡島半島南部に広がる中世の「館」(交易拠点)の地図です。

安藤氏は、渡島半島南部での交易体制を整備、大館(松前エリア)、茂別館(下之国エリア)、花沢館(上之国エリア)の三拠点に守護を置き、他の館をその支配下に置いたようです。

■パネルの説明文です
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道南十二館と三守護職
1450年頃、函館の東、志濃苔[しのり]から上ノ国の間に12の館[たて]があったという。館には渡党[わたりとう]の子孫とも言われる館主がいた。彼等の中には、津軽や南部の出身者で安藤氏ゆかりの「季」の一字を名乗る者も多かった。
1456年秋田の湊安藤氏から男鹿に呼び寄せられた安藤政季は、大館の下国安藤定季を松前守、茂別館[もべつだてに弟家政を置いて下之国守とし、花沢館の蠣崎季繁[かきざきすえしけ]を上之国守護としてその後を守らせたという。

館と館主
 館 名   所在地(現在の地名)   館   主
1志苔館  函館市志濃里町     小林太郎左衛門尉良景
2箱 館  函館市函館山々麓    河野加賀右衛門尉政通
3茂別館  上磯郡茂別町茂辺地   下国安東八郎式部大輔家政
4中野館  上磯郡木古内町字中野  佐藤三郎左衛門尉季則
5脇本館  上磯郡知内町字脇本   南條治郎少輔季継
6穏内館  松前郡福島町字吉岡   蒋土甲斐守季直
7覃部館  松前郡松前町字及部   今泉刑部少輔季友
8大 館  松前郡松前町神明    下国山城守定季 相原周防守政胤
9禰保田館 松前郡松前町字近藤   近藤四郎右衛門尉季常
10原口館  松前郡松前町原口    岡部六郎左衛門尉季澄
11比石館  檜山郡上ノ国町字石崎  厚谷右近将監重政
12花澤館  檜山郡上ノ国町字勝山  蠣崎修理太夫季繁
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松前氏の始祖「武田(蠣崎)信広」の肖像画が展示されていました。

松前藩の歴史書「新羅之記録」によると「武田信広」は、若狭武田氏とし、事情があり出奔、上之国花沢館の蛎崎季繁の客将となったとされます。

1457年コシャマインの戦いが発生、大半の館が陥落する中、武田信広はコシャマインを討ち、苦境を脱したようです。

蛎崎季繁の娘婿となった信広は、海岸に近い場所に「州崎館」を築き、「花沢館」を廃止した後、「勝山館」の建設に着手したようです。

アイヌとの争いは、その後も90年以上続いていたことが下の年表からもうかがえ、館の立地や、施設の内容には緊迫した時代背景が強い影響を及ぼしたものと思われます。

■年表のパネルが展示されており、その一部を転記しました。(一部文章を簡略化)
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年表
1439(永享11) 平氏、夷島脇沢山神(現函館市石崎)に鰐口を寄進。
1443(嘉吉3) 下国安東盛季、南部義政に敗れ夷島に渡る。
1454(享徳3) 安東政季、武田信広、河野政通、相原政胤らを従え、南部大畑より夷島に渡る。
1457(長禄元) コシャマインの戦い。道南12館の内茂別館・花沢館を除く10館が陥落。武田信広、コシャマイン父子を討つ。
1467(応仁元) この頃、武田信広、上之国勝山館を築造。
1473(文明5) 武田信広、上之国館内に館神八幡宮を造立。
1512(永正9) 宇須岸、志濃里、与倉前の三館が陥落。
1513(永正10) 大館、陥落。
1514(永正11) 蠣崎義広、上ノ国より大館に移住し、松前之守積職に就く。
1551(天文21) 蠣崎季広、東西アイヌと和睦。夷秋之商船往還之法公布。
1593(文禄2) 蠣崎慶広、秀吉より朱印状、貢鷹の印書、公逓の印書を賜り、夷島管理者として公認される。
1596(慶長元) 上ノ国に檎山番所を設置したという。(勝山館終末年代)
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「勝山館跡」のパンフレットに掲載されていた上ノ国町の史跡の地図です。

道南12館の一つ「花沢館」は、天の川に面した山の中腹にある標高58mの尾根に築かれ、天の川上流方向や、海岸に沿った北方向からの敵を見渡し、川を濠とした小規模な施設のようです。

「花沢館」から移転した「州崎館」は、当時北に広がっていた河口湖の北岸にあったとされ、交易港の施設も伴っていたようです。

コシャマインの戦いで陥落した他の和人集落からの流入対策や、コシャマインを破った自信などから平地への移転を決断をしたのかも知れません。

しかし、コシャマインの戦いから10年後の1467年頃、「勝山館」を完成させ、交易港の施設の中心も次第に天の川南岸へ移設したようです。

河口湖の館と、交易港と言えば、蝦夷地の交易を支配していた安藤氏の拠点、「十三湊」が思い浮かんできます。



「勝山館跡ガイダンス施設」に展示されていた「勝山館」のジオラマです。

左上に標高159mの「夷玉山」がそびえ、二つの谷に挟まれた細長い斜面に造られた「勝山館」には以外に多くの建物が見られます。

「天の川」河口の港から続く一本の坂道の両側に家屋が並び、賑わった当時の様子が伝わってくるようです。

「勝山館跡」を見下すように、なだらかな円錐形の「夷玉山」がそびえ、「勝山館跡ガイダンス施設」はその左手にあります。

■「勝山館跡ガイダンス施設」で頂いたパンフレットにあった「勝山館」の説明文です。
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館のつくりと整備・復元
1979年から始まった発掘で、舘の中の様子が大分わかってきました。勝山舘の中心部は宮ノ沢と寺ノ沢に挟まれた丘にあり、三段の大きな平地になっています。二段目と三段目の前後に大きな空壕[からぽり]を掘り切り、柵や櫓[やぐら]などで厳重に守っています。壕の底から段の上までは8~10mの深い急斜面になっています。
 壕の中央に架かる橋を渡り、門をくぐって館の中心部に入ります。館の中央には幅3.6mの道が通り、道の両側に100~150㎡ほどの敷地が作られ、住居などが建てられています。正面の橋を渡ったすぐ右側には2000㎡ほどの広い敷土世かあり、館の主たちが使っていたと思われます。それぞれの地区は5回前後作り変えがされています。
 現地や模型では、勝山舘の勢いが一番盛んだった第Ⅲ期(1520年頃か)の様子を整備・復元しました。
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「勝山館跡」から出土した「フイゴ羽口」(左)と、「るつぼ」(右下)、スラッグ(右上)が展示されていました。

「フイゴ羽口」は、送風管の先端部分、「るつぼ」は、溶解した金属を入れる容器、「スラッグ」は金属の精錬で出来たカスです。

コシャマインの戦いの発端になったのも志苔館(函館の東)の鍛冶屋とアイヌの少年との取引のいざこざからとされ、和人が作る鉄製品は、ここでも重要な交易品だったと思われます。

■添えられていた説明文です。
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鍛冶関連遺物
客殿西側の板塀に囲まれた場所で、鍛冶作業場がみつかっている。そこからは、火力を強めるフイゴ羽口、金属素材を溶解させる容器である土製のるつぼ(坩堝)がみつかっている。

フイゴ 羽口[はぐち]
鍛冶を行う作業では、フイゴを用いて火力を高める。フイゴで発生させた風は、送風管を経て炉に送られる。羽口は、送風管の先端に装着する筒状の付属品である。勝山館では鍛冶作業場もみつかっており、そこから鎧の小札149枚・銅製金具37点、釘317点などが出土している。
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木製のヘラのようなものが展示され、トイレットペーパーの役割をする「ちゅう木」と称する道具と知り、掲載しました。

ちゅう木[籌木]は、古代から近世まで使われただそうで、紙が高価だった時代、必須のアイテムだったことを知りました。

生活の中から生まれた道具と思われますが、上手に使うにはだいぶ慣れが必要なのてしょね。

■添えられていた説明文です。
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ちゅう木
勝山館から長さ約15cm、幅約1~1.5cmの薄い板がたくさん見つかっている。
これらは、大きさからウンチをした後にぬぐう板であることが考えられている。
想像するとちょっと痛そうだが当時は紙が貴重であったため、仕方なかったのかもしれない。
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様々な展示のある「勝山館跡ガイダンス施設」の建物の中に床のない場所があり、発掘された墓の遺跡のレプリカが保存されていました。

夷王山の頂上付近から中腹一帯に600以上の墓があり、これもその一部のようです。



「夷王山墳墓群」と書かれたパネルに「勝山館跡ガイダンス施設」付近の墓の遺跡分布地図がありました。

凡例3番目の茶色「屈葬土葬墓」と、凡例4番目の橙色・十字形「荼毘跡・火葬墓」が混在していたようです。

■墓の説明文です。
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このガイダンス施設の周辺、600㎡ほどの中に19個の盛り土があり墳墓と想定していたが、発掘調査で40基に倍増した。
長い間に盛り土が崩れ、位置が分からなくなったものも多く、中には道の下になってしまったものもある。
なお、このガイダンス施設の中にある7基のレプリカは、真下にある墓をそのままに型取りして再現したものです。
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「勝山館跡ガイダンス施設」内に頭を北に向け、横向きに寝かされた「屈葬土葬墓」のレプリカがありました。

展示パネルでは、この上に盛り土をして「卒塔婆[そとば]」(細長い木片)を立てていたようです。

これが当時の和人の埋葬の基本形式だったのでしょうか。



土の上に「火葬施設」「136号」と書かれ、十字型に掘られた遺跡(レプリカ)がありました。

棺を燃やした跡で、多くはその場に埋葬したとされ、専用の火葬施設ではなかったようです。

墓の分布図では土葬墓と、火葬墓が混在していますが、時代変化によるものか、宗教の違いによるものか不明です。

90年以上続いたアイヌとの争いの時代、数は少ないものの、アイヌの遺品が出土した「伸展土葬墓」も発掘されたようで、遺跡から当時の勝山館の様子が垣間見えてくるようです。

■「火葬施設」の説明文です。
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荼毘の跡と火葬墓
直径1m、深さ20cmほどの円い穴や、十文字型に掘りくぼめた長軸が2m、深さ20cm前後の溝の中から白く焼けた骨、銭、数珠玉、炭、釘などが見つかっている。この上にマキを積み、棺を置いて茶毘[だぴ]に付した火葬場の跡である。
 溝は風通しを良くする工夫と思われる。火葬後その場に埋葬したり、骨を拾い集めて、曲げ物や一辺が30cmほどの木箱に納めて別に埋葬し、残りの骨などをそのまま埋めたりしている。
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次回は、日本海を見下ろす史跡の見学です。