北海道旅行2日目6/4(土)釧路市内の「鳥取神社」へ到着しました。
この一帯は、1884(明治17)年、鳥取池田藩の元武士達が入植して開いた鳥取町で、その歴史が展示されている「鳥取百年資料館」を訪れました。
境内にタンポポの花が咲く、「鳥取神社」の建物です。
出雲大社から勧請した「大国主命」が祀られており、1891年(明治24年)に創建されています。
故郷の鳥取には、因幡一の宮「宇倍神社」(祭神 武内宿禰命)や、藩主の祖先でもある徳川家康を祀った「東照宮(現樗谷神社)」があります。
幕府が崩壊した時代、美濃出身で、徳川との血縁を深めた池田氏の家来達には故郷鳥取の神社の祭神を祀る選択肢はなかったようです。
因幡には大国主命に助けられた「因幡の白兎」の神話がありました。
故郷の生活に行き詰り、この地に移住して苦難の生活に耐える人々が祭神に選んだ神様は、心やさしい大国主命でした。
右手の建物は、「鳥取神社」社務所で、向こうに見えるのは「鳥取神社」社殿の側面です。
側面から見た社殿は、神社建築様式の「大社造り」の正面によく似ています。
「鳥取百年記念館」の窓から見下ろした風景です。
写真左上には観光案内のパンフレットにあった「鳥取百年記念館」正面の風景です。
この場所は、旧鳥取村役場が建っていた場所で、館内には集団移住した士族たちの歴史資料が展示されていました。
鳥取城に似せて造ったものと思われますが、故郷から追われるように移住してきたこの地で、小さいながらも城を築くことが出来た誇りが伝わって来るようです。
「鳥取百年記念館」に「昭和初期の釧路市・鳥取村の展望」の名称で展示されていた絵です。
下には「郷土俯瞰図」、「編さん・発行 鳥取尋常高等小学校」「昭和9年6月9月」とあり、鳥取村の郷土誌に掲載された絵のようです。
この時代、町の観光案内などで俯瞰図が見られますが、なかなか上手な絵です。
「鳥取百年記念館」で頂いた資料に、阿寒川や、釧路川の氾濫に苦しめられ続けた人々が、川の流れを大きく変えて克服した治水工事の歴史が紹介されていました。
かつて釧路市街の西を流れる「阿寒川」は、「仁々志別川」と合流して「釧路川」の河口付近で合流していたようです。
地図に表示した「元阿寒川1」「元阿寒川2」の赤い破線辺りが川が流れていたと思われる場所(推察です)で、流れを直接南へ変えることで町の水害を無くしたようです。
又、「新釧路川」を新設し、分岐する「岩保木水門」で流れを調整することで東の「釧路川」の氾濫を防いだようです。
釧路市街地は困難な湿原周辺の開拓だけでなく、大規模な治水工事によって造り上げられたことを教えられました。
■以下は「鳥取百年記念館」で頂いた資料「鳥取県士族移住前史」の一部です。
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明治十七年六月九日、鳥取県士族移住者四十一戸二百七人が、第一次として人跡未踏のベットマイ原野の一角に、集団移住帰農して「鳥取村」を創始した。ついで、翌十八年五月十四日第二次六十四戸三百六人が移住し、総戸数百五戸、総人口五百十三人の村落が形成された。
第二次が移住した年の秋には、阿寒川が溢水氾濫して農作物は収穫皆無となり、以来、毎年のように水害が生じてその日の食糧にも窮するようになり、一時は離散するような状況ともなった。北海道庁は、阿寒川の溢水氾濫防止と村民救済事業として排水溝を掘削したりしたが、大正六年に阿寒川切替工事が完成通水して、一応水害の危機も少なくなった。そして、大正九年秋の大洪水により阿寒川は、オンネビラより掘削されていた第一分水溝に流入し、大楽毛川に合沫して本流を変え、以来、洪水の脅威より救われた。
阿寒川の溢水氾濫はなくなったが、釧路川は氾濫して下流の釧路市や鳥取村の一部住民にも被害をあたえていた。しかし、昭和六年に新釧路川が完成通水したので被害は皆無となったが、この釧路川治水工事は北海道庁が大正十年に着工し、十年の歳月と巨額の事業費を投入して完成したもので、水害から救われるとともに沿岸流域は自然排水がよくなって開発が進み、鳥取村にとっては画期的な大事業であった。
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一階の展示室の中央に珍しい麒麟獅子が展示されていました。
鳥取県東部の神社の祭では麒麟の獅子舞が見られるようで、ここ鳥取神社にも伝わっているようです。
ガラスケースに展示されていた麒麟獅子です。
珍しい麒麟獅子が展示されていました。
鳥取県東部の神社の祭では麒麟の獅子舞が見られるようで、ここ鳥取神社にも伝わっているようです。
麒麟獅子の隣りには道化役の猩猩[しょうじょう]が立ち、共に朱色の衣装ですが、麒麟の顔は金色のようです。
これも展示されていた麒麟獅子舞の写真で、かなり迫力のある顔です。
麒麟獅子は、鳥取藩主池田光仲が始めたとされ、祖父徳川家康を祀る「鳥取東照宮」の建立で考えられたようです。
鳥取県東部の神社では麒麟獅子が一般的となっているようで、藩主の影響力の大きさを痛感します。
祭神「大国主命」は、中国で考えられた架空の動物をどんな気持ちで見られているのでしょうか。
一階の展示室の奥に「因幡の傘踊り」の傘が展示されていました。
この踊りも故郷の踊りのようで、一時期、途絶えたことがあったようですが、復活して歴史を伝える郷土芸能になったようです。
■「鳥取百年記念館」に展示されていた手書き資料の説明文です。
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釧路・鳥取傘踊りの伝承
昭和37年、鳥取開基八十年記念事業会が高田鳥取市長に「因幡の傘踊り」伝承を依頼したので、同市長から八十年を祝い傘六本が贈られ同時に市職員二人が指導のため派道された。十條錠製紙㈱釧路工場民謡研究会員が指導を受け、同三十八年六月九日の開基八十年記念式典に披露された。ついで、同四十一年に釧路・鳥取傘踊り保存会に鳥取市から新作の「鳥取シャンシャン傘踊り」の傘五十本が寄贈され指導を受けたので、これが契機となり、「釧路・鳥取シャンシャン傘踊り」が学校や一般に普及した。
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この一帯は、1884(明治17)年、鳥取池田藩の元武士達が入植して開いた鳥取町で、その歴史が展示されている「鳥取百年資料館」を訪れました。
境内にタンポポの花が咲く、「鳥取神社」の建物です。
出雲大社から勧請した「大国主命」が祀られており、1891年(明治24年)に創建されています。
故郷の鳥取には、因幡一の宮「宇倍神社」(祭神 武内宿禰命)や、藩主の祖先でもある徳川家康を祀った「東照宮(現樗谷神社)」があります。
幕府が崩壊した時代、美濃出身で、徳川との血縁を深めた池田氏の家来達には故郷鳥取の神社の祭神を祀る選択肢はなかったようです。
因幡には大国主命に助けられた「因幡の白兎」の神話がありました。
故郷の生活に行き詰り、この地に移住して苦難の生活に耐える人々が祭神に選んだ神様は、心やさしい大国主命でした。
右手の建物は、「鳥取神社」社務所で、向こうに見えるのは「鳥取神社」社殿の側面です。
側面から見た社殿は、神社建築様式の「大社造り」の正面によく似ています。
「鳥取百年記念館」の窓から見下ろした風景です。
写真左上には観光案内のパンフレットにあった「鳥取百年記念館」正面の風景です。
この場所は、旧鳥取村役場が建っていた場所で、館内には集団移住した士族たちの歴史資料が展示されていました。
鳥取城に似せて造ったものと思われますが、故郷から追われるように移住してきたこの地で、小さいながらも城を築くことが出来た誇りが伝わって来るようです。
「鳥取百年記念館」に「昭和初期の釧路市・鳥取村の展望」の名称で展示されていた絵です。
下には「郷土俯瞰図」、「編さん・発行 鳥取尋常高等小学校」「昭和9年6月9月」とあり、鳥取村の郷土誌に掲載された絵のようです。
この時代、町の観光案内などで俯瞰図が見られますが、なかなか上手な絵です。
「鳥取百年記念館」で頂いた資料に、阿寒川や、釧路川の氾濫に苦しめられ続けた人々が、川の流れを大きく変えて克服した治水工事の歴史が紹介されていました。
かつて釧路市街の西を流れる「阿寒川」は、「仁々志別川」と合流して「釧路川」の河口付近で合流していたようです。
地図に表示した「元阿寒川1」「元阿寒川2」の赤い破線辺りが川が流れていたと思われる場所(推察です)で、流れを直接南へ変えることで町の水害を無くしたようです。
又、「新釧路川」を新設し、分岐する「岩保木水門」で流れを調整することで東の「釧路川」の氾濫を防いだようです。
釧路市街地は困難な湿原周辺の開拓だけでなく、大規模な治水工事によって造り上げられたことを教えられました。
■以下は「鳥取百年記念館」で頂いた資料「鳥取県士族移住前史」の一部です。
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明治十七年六月九日、鳥取県士族移住者四十一戸二百七人が、第一次として人跡未踏のベットマイ原野の一角に、集団移住帰農して「鳥取村」を創始した。ついで、翌十八年五月十四日第二次六十四戸三百六人が移住し、総戸数百五戸、総人口五百十三人の村落が形成された。
第二次が移住した年の秋には、阿寒川が溢水氾濫して農作物は収穫皆無となり、以来、毎年のように水害が生じてその日の食糧にも窮するようになり、一時は離散するような状況ともなった。北海道庁は、阿寒川の溢水氾濫防止と村民救済事業として排水溝を掘削したりしたが、大正六年に阿寒川切替工事が完成通水して、一応水害の危機も少なくなった。そして、大正九年秋の大洪水により阿寒川は、オンネビラより掘削されていた第一分水溝に流入し、大楽毛川に合沫して本流を変え、以来、洪水の脅威より救われた。
阿寒川の溢水氾濫はなくなったが、釧路川は氾濫して下流の釧路市や鳥取村の一部住民にも被害をあたえていた。しかし、昭和六年に新釧路川が完成通水したので被害は皆無となったが、この釧路川治水工事は北海道庁が大正十年に着工し、十年の歳月と巨額の事業費を投入して完成したもので、水害から救われるとともに沿岸流域は自然排水がよくなって開発が進み、鳥取村にとっては画期的な大事業であった。
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一階の展示室の中央に珍しい麒麟獅子が展示されていました。
鳥取県東部の神社の祭では麒麟の獅子舞が見られるようで、ここ鳥取神社にも伝わっているようです。
ガラスケースに展示されていた麒麟獅子です。
珍しい麒麟獅子が展示されていました。
鳥取県東部の神社の祭では麒麟の獅子舞が見られるようで、ここ鳥取神社にも伝わっているようです。
麒麟獅子の隣りには道化役の猩猩[しょうじょう]が立ち、共に朱色の衣装ですが、麒麟の顔は金色のようです。
これも展示されていた麒麟獅子舞の写真で、かなり迫力のある顔です。
麒麟獅子は、鳥取藩主池田光仲が始めたとされ、祖父徳川家康を祀る「鳥取東照宮」の建立で考えられたようです。
鳥取県東部の神社では麒麟獅子が一般的となっているようで、藩主の影響力の大きさを痛感します。
祭神「大国主命」は、中国で考えられた架空の動物をどんな気持ちで見られているのでしょうか。
一階の展示室の奥に「因幡の傘踊り」の傘が展示されていました。
この踊りも故郷の踊りのようで、一時期、途絶えたことがあったようですが、復活して歴史を伝える郷土芸能になったようです。
■「鳥取百年記念館」に展示されていた手書き資料の説明文です。
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釧路・鳥取傘踊りの伝承
昭和37年、鳥取開基八十年記念事業会が高田鳥取市長に「因幡の傘踊り」伝承を依頼したので、同市長から八十年を祝い傘六本が贈られ同時に市職員二人が指導のため派道された。十條錠製紙㈱釧路工場民謡研究会員が指導を受け、同三十八年六月九日の開基八十年記念式典に披露された。ついで、同四十一年に釧路・鳥取傘踊り保存会に鳥取市から新作の「鳥取シャンシャン傘踊り」の傘五十本が寄贈され指導を受けたので、これが契機となり、「釧路・鳥取シャンシャン傘踊り」が学校や一般に普及した。
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