昔に出会う旅

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北海道旅行No.7 「北斗遺跡展示館」釧路湿原西岸の集落遺跡

2011年07月01日 | 北海道の旅
最古の土器北海道旅行2日目6/4(土)14:00頃、釧路湿原西岸の「北斗遺跡展示館」へ到着しました。



「北斗遺跡展示館」の建物です。

周囲には益々霧が深くたち込め、14:00だというのに薄暗くなり、気温も低下してきました。

「北斗遺跡」までここから約500mを徒歩で行くようで、断念しました。



館内に展示されていた釧路湿原周辺の遺跡分布の地図です。

「北斗遺跡」は、釧路湿原の南西岸に突き出た岬の先端にあります。

西岸の三ヶ所に集中した赤い場所は擦文時代を含んだ遺跡、その他の濃い緑の部分はそれ以外の時代の遺跡を現わしています。

釧路湿原の周囲全体に多くの遺跡が分布していることが分かります。

■「釧路湿原周縁の遺跡」の地図の説明文です。
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釧路湿原周縁の遺跡
釧路湿原は、面積21,440ha、国内湿原総面積の60%を占める低湿地帯である。
湿原のまわりには、旧石器時代からアイヌ時代にかけて約400ヶ所の遺跡が分布する。釧路川やシラルトロ沼・塘路[とうろ]湖・達古武[たっこぶ]沼など海跡湖沼[かいせきしょう]に沿った東側台地に多い。交通や食糧確保など生活条件にめぐまれていたためである。
東釧路貝塚・緑ヶ岡遺跡・幣舞[ぬさまい]遺跡・モシリヤ砦跡などは東側台地にあり、西側の拠点となる遺跡として北斗遺跡が存在する。
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本州と、北海道の年代区分を対比した表です。

本州以西で稲作が始まった弥生時代以降、北海道では本州とは違う文化が営まれていました。

北斗遺跡では旧石器時代から始まり、縄文時代、続縄文時代、擦文時代の遺跡が発掘され、その後の近世アイヌ文化期の遺物も見つかっているようです。

何と、北斗遺跡では約1万年もの間、人々の生活の営みがあったようです。



石器時代から擦文時代まで、釧路湿原が時代により変遷してきた地図が展示されていました。

釧路湿原の変化の地図は、1.石器時代、2.縄文時代早期、3.縄文時代前期、4.縄文時代中期、5.縄文時代後・晩期、6.続縄文時代と続き、下段の擦文時代に至ります。

約6,000年前の「3.縄文時代前期」をピークとして縄文海進(気温が上がり、海面が3~5m高くなった時代)が顕著となり、釧路湿原は大きな釧路湾だったようです。

又、その後の気温の低下により次第に釧路湿原が形成されてきた様子も分かります。

高台にある「北斗遺跡」は、長い時代の変化の中でも豊かな自然に恵まれた生活の場になっていたようです。



「旧石器時代の石器」と案内され、展示されていたものです。

小さな刃のついた細石刃のようなものも見られ、旧石器時代末期の遺物でしょうか。

これらの石器の中には、当時の人々が使い勝手を考え、工夫して作り上げた道具も多かったものと思われます。

案内板によると「北斗遺跡」では旧石器時代の火を焚いた跡も発見されたようです。

高台から低地を見渡し、狩りの獲物を探していたのでしょうか。



「縄文早期の土器」と、下部に「縄文時代早期の墓壙」と案内された写真が展示されていました。

丸い平底の土器で、下部の縄文が波打っているのが印象的です。

縄文時代早期の北海道南部では本州から伝わった尖底土器が主流となったようですが、道東では違っていたようです。

「縄文時代早期の墓壙[ぼこう]」の中には横向きの屈葬人骨が残っていたことに驚きます。



左側三つの土器は、「縄文時代中期~後期の土器」、右下の背の低い土器は「縄文時代後期の土器」と表示されています。

バケツを細長くした様なこの土器は、この時代に道東・道北で作られた「北筒式土器」です。

同じ時代、東北地方北部から道南にかけては、細長く、上部にくびれがあり、丸みのある形の「円筒土器」が作られていたようで、文化圏の違いを教えられます。

三つの土器の上部に連続して開く穴が見られますが、何のためのものだったのでしょうか。

又、土器の縁にヒモをリボンのように結んだ飾りは初めて見るものです。



左は、「縄文晩期の土器」、右の二つは、「続縄文時代の土器」と案内されています。

時代が下るに従い、単純だった文様が次第に複雑なものになっていくようです。



一番多く展示されていた「擦文土器」です。

「北斗遺跡展示館」で、「擦文時代」の遺物の展示コーナーは半分以上を占めていました。

擦文が、木片で擦ったことも弥生式土器などにもみられるようで、本州との交流がうかがわれえます。

■擦文時代の展示コーナーにあった説明文です。
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擦文文化
擦文文化は、縄文・続縄文文化の伝統を受け継ぎ、北海道で7世紀ころに成立し、本州やオホーツク文化の影響を受け、13世紀頃アイヌ文化へ移り変わったとみられる。
生活は、サケ・マス漁が中心で、狩りや野生植物の採取及び雑穀栽培も行われていた。生産用具の石器は姿を消し、鉄器が多用されるようになる。
擦文の名称は、土器の表面に残された「はけ目」による。土器の形を整える際、木片で擦ったあとである。
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上段に並ぶ「高杯形土器」は、古墳時代以降の本州の遺物で見るものに似ており、「擦文土器」が本州の「土師器」の影響を受けたとされることが納得できます。

■「高杯形土器」が底を上にして展示され、説明文が添えられていました。
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刻印記号のある高杯形土器
刻印記号は、高杯形・杯形や台つき浅鉢形など特別な機能を持つとみとめられる土器に限られることから、「祭器印」の可能性が考えられている
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ガラスケースの中に遺構全体模型が「擦文時代の北斗」と案内され、展示されていました。

向って右が南方向で、谷を挟んだ丘の両側に縄文時代から擦文時代の住居跡があり、復元された住居の模型は奥の丘に見られます。



「擦文時代のくらし」と案内された展示パネルです。(パネルの写真の文字が小さく、赤い文字を付けました。)

一年間の生活は、縄文時代とほとんど違いがないようにも思われます。

擦文時代には本州から鉄器が伝わり、狩猟の効率が上がった半面、交易目的の毛皮などの確保が必要となっていったものと思われます。

縄文時代にも交易で黒曜石を得ていたようですが、金属の鍋を交易で得るようになる次のアイヌ時代には土器が作られなくなってしまいました。

近世・近代と押し寄せてくる文明に、アイヌの人々がどんな時代を迎えたのか考えると、文明の功罪に複雑な気持ちになります。



館内に擦文時代の住居が復元されていました。

竪穴住居の出入り口の突当りに「かまど」が見え、四角の建物内の二辺には床が供えられています。

平安時代の東北地方でも同様の竪穴住居が多くあったようです。

大和から東北、北海道とつながる住居の歴史も興味深いものと思われます。

1万年に渡る「北斗遺跡」の歴史に触れ、北海道の奥深い歴史に触れたような気がします。

■擦文時代の住居を発掘風景の写真パネルに添えられた説明文です。
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住まい
縄文・続縄文文化に引き続き竪穴式と呼ばれる半地下式の住居であった。屋内は、本州文化の影響を受け四角形で、一片の長さが5~10m、深さ70~110cm、4~8本の柱、東壁に炊事用のかまど、中央に暖房・炊事用のいろり、南壁寄りに貯蔵穴、北・西壁側に寝床が設けられ、出入り口は東側と考えられる。
住居の柱や梁は、ミズナラ・ヤナギなど、屋根材にはヨシが用いられている。
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