昔に出会う旅

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北海道旅行No.44 間宮林蔵の大陸探検「東韃地方紀行」の世界

2010年11月03日 | 北海道の旅
7/17 北海道旅行4日目、稚内市「北方記念館」の間宮林蔵の樺太探検コーナーの続きです。

1809年5月12日、林蔵は、樺太島の西岸「ナニヲー」まで北上、海峡の存在を確認しました。

今回は、間宮海峡を渡り、アムール川(黒竜江)下流域の探検の記録「東韃地方紀行」の展示パネルの見学です。



間宮林蔵のコーナーにあった<「北夷分界余話」と「東韃地方紀行」>と題するパネルで、探検の日程表と、ルートが書かれた地図がありました。

日程表の赤い下線の行に、1809年旧暦7月2日・新暦8月12日、間宮海峡横断とあります。

次の赤い下線の行、1809年旧暦8月2日・新暦9月11日、黒竜江河口を通過とあり、大陸での探検期間は、約1ヶ月間だったようです。

■パネルにあった説明文です。
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間宮林蔵は、2度にわたって樺太を探検しました。
 第1回目は、1808年(文化5年)4月13日(新暦5月8日)に、松田伝十郎とともに宗谷を出発。シラヌシから東海岸を探査した後、西海岸のノテトで伝十郎と合流。間宮海峡の存在を目視して、閏[うるう]6月20日(新暦8月11日)にシラヌシから宗谷lこ戻りました。

 第2回目の出発は、宗谷帰着から20日ほど後の7月13日(新暦9月3日)。単身で渡樺[とかば]した林蔵は6人のアイヌを雇い、西海岸を北上。トンナイで一冬を過ごし海峡を確認した後、交易に向かう樺太アイヌの一行に同行して大陸のデレンに渡り、その年の晩秋に宗谷に戻りました。
 林蔵の足跡は、村上貞助によって、「北夷分界余話」「東韃地方紀行」としてまとめられ、1811年(文化8年)幕府に提出されました。
この2冊は、「樺太編」「大陸編」というべきもので、前者には、樺太の地名や地勢・民俗が、後者には、清国の仮府(一時的な役所)が置かれていたデレンを中心に、黒竜江(アムール川)下流での調査が報告されており、現在でも、北方アジアを知る貴重な資料となっています。
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大陸探検の最初にあったパネルですが、大陸から樺太に渡って来て交易をする「山丹人」と紹介されています。

山丹人7人が乗る小舟には荷物が見当たりませんが、少し深い船底に交易品が積まれてるのでしょうか。

かぶっている笠は、白樺の樹皮で作った「樺皮笠」と思われます。

樺太北部から対岸のアムール川河口付近に住む民族「ニブフ」(スメレンクル)がかぶる「樺皮笠」が挿絵と共に「北夷分界余話」に紹介されていました。

「山丹人」とはどんな民族なのでしょうか。

■この絵の説明文です。
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山丹人の舟
樺太の人々は、山丹人と日常的に交易している。しかし、彼らから交易に行くのではなく、山丹人が来て交易を行う。島の人々はシラヌシで交易した斧・小刀や自分で獲った獣皮を、山丹人の木綿・錦・玉・煙管・煙草・針などと交易する。(「北夷分界余話」巻之五交易)
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林蔵は、海峡を渡り、先ずアムール川(黒竜江)の河口から遡った「デレン」の交易場所へ行ったようです。(絵の下の地図に赤い丸印がある場所)

「東韃地方紀行 巻之中 満州仮府」に「満州仮府」の名で描かれている絵ですが、展示パネルには「デレンの仮府」とされています。

■パネルの説明文です。
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デレンの仮府
清(中国)が満州に設けた臨時の役所で、元々この土地に住んでいる人はいない。
西は朝鮮半島、東はロシア国境付近から集まってきた人たちがつくった何百という仮屋が、仮府の周りにある。彼らは持参した品物を交換するのに5、6日滞在して帰る。林蔵が行ったときも5~600人が集まっていた。(「東韃地方紀行」中巻)
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「北方記念館」で頂いた資料に掲載されていた「諸夷雑居」と書かれた絵です。

デレン仮府の周りに交易に来た人々が仮屋でくつろぐ風景です。

「北方記念館」の資料にはデレン仮府の交易場所に集まる周辺の民族「サンタン(山丹)」が紹介されていました。

■資料「サンタン」の説明文です。
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サンタン(ウリチ、オロチ「土地の住民」の意)
 ロシアの少数民族で、ハバロフスク地方のアムール川支流トゥムニナ川下流とその支流、およびフンガリ川、アムール川、キジ湖他に居住しました。
 江戸時代、日本では黒竜江[こくりゅうこう](アムール川)下流地方を「サンタン」とよぴ、そこに住む人々を「サンタン人」とよびました。漢字では山野、山里、山丹、三靼などと書きます。おもにその地方に住むウリチ(ウルチャ、オルチャともいう)をさしたようですが、同地方のニヴフも含めていうこともあります。
ニヴフは区別されてスメレンクルとよばれるのが通例でした。サンタン人のなかには、借財のかたにとられたり人身売買されたアイヌもいました。
 主な生業は狩猟(ジャコウジカ、ヘラジカ、クマ)で、沿岸部では漁業も行ないました。木彫りまたは板張りのポートで川へ出て漁を行ない、アザラシやトドを求めて間宮海峡やその湾へもでかけました。文化的にも熊送り儀礼や装飾など、アイヌ民族との共通点・類似点がおおく、シャーマニズムの影響が色濃く残ります。
 古くからアイヌ民族との交易に、装身用のガラス玉、ワシやタカの尾羽、中国の衣服、布地などをもって樺太のアイヌ集落まできて、キツネ、テン、アザラシなどの毛皮、日本の鍋やヤスリなどの鉄類をもち帰りました。これはサンタン交易とよばれ、衣服、布地などの交易品はアイヌから和人へと渡りました。しかし、この交易はアイヌに大きな借財を負わすことになり、文化年間(1804~1818)、幕府はアイヌの借財を整理し、幕府公認の交易に変えています。
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デレン仮府が造られているアムール川(黒竜江)河畔の景色です。

「東韃地方紀行」には「マンコー河」とあり、現地で同行した樺太アイヌの呼称だったのでしょうか。

河には帆柱のある船が停泊し、帆柱の先端には三つ又のヤリと、その下に鳥の形の飾りが付けられています。

デレン仮府は、冬には閉じられるようで、大勢の役人達はこの船で移動しているようです。

■パネルの説明文です。
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デレン仮府の北側河岸
仮府の前はマンコー河(黒竜江)で、背後は樹木がうっそうと生い茂る荒野。このあたりは広々とした大河だが、川の中に小島が2つあるので、波風が立つ心配もなく穏やかで、舟をとめておくには都合のいい場所である。(「東韃地方紀行」中巻)
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上の絵は、デレン仮府の建物で、二重の柵の中央に仮府役人のいる建物が見えます。

下の絵は、中央の建物の中で仮府の役人たちが交易に来た人々から進貢の品を受取り、賞賜の品を与える様子です。(ガラスケースに展示、影あり)

役人への「進貢の儀」は、笠をぬぎ、地上にひぎまづき、三回頭を下げた後、毛皮一枚(筒抜状の黒テンの皮皮)を差し出す場面が描かれているようです。

この儀式で仮府での交易を許されたものと思われます。

■パネルの説明文です。
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仮府の全景
26~27m四方に、丸太[まるた]で2重の柵を作る。柵内の右左と後方の三方に交易所を作り、中央に柵を回して仮府としている。中央の仮府で貢物を受け取り、褒美の品物を渡す。出入り口はそれぞれの柵に1か所あるが、丸太に穴を開け横木を通しただけの粗末なもので、長さもまちまち。カンナをかけたあともなく、大工が作ったものとは思えなかった。(「東韃地方紀行」中巻)
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上の絵は、外側の柵と、内側の柵の間で数百人が交易をする様子です。

この狭い施設で、数百人が交易する様は、盗みあり、ケンカありで、収集がつかない状況だったようです。

下の絵は、交易の交渉場面で、着ていた服を脱いで毛皮と交換を求めている場面のようです。

■上の絵の説明文です。
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デレン仮府内の騒がしい交易
仮府内の騒がしさはたとえよえがない。「毛皮が盗られた」とさわぐ者や、「抱えていた毛皮を切り取られた」とさけぶ者。値段が合わないと衣服を脱いでまで交渉するが毛皮を入手できない役人、けんかをして殴りあう者、走って転ぶ者もいれば、布地を手に入れて帰る者、木綿を返して酒をくれとさけぶ者、鐘を叩いて騒ぎを静めようとする役人、「役所の物が盗まれた」とドラが鳴り、門を閉められると柵をよじ登って屋根に上がる者など、どうなっているのか分からなかった。(「東韃地方紀行」中巻)
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■下の絵の説明文です。
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交易の様子
脇にかかえた獣皮を酒・煙草・布地・鉄器などと交換する。交易が終わっても、毛皮の残りがあると少しでも高く売ろうとしてなかなか交換に応じない。満州人は何とか毛皮を手に入れようと、さまざまな物を出すが、それでも交換に応じないときには自分の着ている衣服まで脱いで交換しようとする。(「東韃地方紀行」中巻)
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上の絵は、「廬船」の文字があり、役人が住居とした船です。

又、左手には「檣頭」[しょうとう]の文字があり、帆柱の先端の飾りが描かれています。

鳥の飾りの上にヤリのようなものが二本と、三本の二種類描かれており、乗船する役人のランク表示だったのでしょうか。

下の絵は、林蔵が上級役人の船を訪ね、歓待された場面です。

座敷でりは役人達が虎の毛皮に座り、右手奥の林蔵が座っているのは熊の毛皮でしょうか。

船内で見た筆・硯・墨・紙や、食器類は、毎年清から長崎にくる物と同様だったとしています。

林蔵の観察は、実に細部に渡り、絵と、文章で表現されています。

■上の絵の説明文です。
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上級役人の船
上級役人が宿泊する船は、幅約3m、長さ約13~14m、積荷は約百石。造りは粗末で舳先[へさき]には波を切るミヨシがなく、両側より板を並べただけで、継ぎ目には白土を塗りこんである。船の3分の2は荷物を積む場所でムシロがかけてあり、残りの部分に小屋を建てて居住区域としている。船尾は白樺の樹皮で屋根をつくった台所。(「東韃地方紀行」中巻)
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■下の絵の説明文です。
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船中での仮府役人との会談
仮府に滞在する上級役人の船を訪ねると、彼らは大変喜んでアルカという焼酎のような酒をすすめ、酒の肴に豚肉・鶏肉・卵・川魚や野菜などを出してくれた。他に、そうめんのようなものをたべさせてくれたが、日本では食べたことのないものだった。(「東韃地方紀行」中巻)
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右の絵は上段の絵から間宮林蔵を部分拡大したもので、左手の写真は「北方記念館」のパンフレットにある間宮林蔵です。

役人の船で食事をする林蔵は、無精ひげを生やし、刀も差さず、みすぼらしい浪人のような姿です。

宗谷岬に立っていた旅姿の銅像や、北方記念館のこの銅像などで、さっそうとした武士のイメージを描いていましたがもろくも崩れてしまいました。

鎖国時代、隠密で外国を調査する実態は、なりふり構わず、命がけで情報を収集する厳しい仕事だったものと思われます。



アムール川河口近くの風景が描かれ「サンタンゴエ地図」の題名で、展示されていました。

右手の丘の上の石碑、左手の山、中洲の家などには名称も付けられています。

林蔵達は、交易場所のデレンからアムール川を河口近くまで下って行ったようです。

ロシアと、清は、このアムール川(黒竜江)周辺で国境紛争を続けていた歴史があり、下の説明文のロシア山賊の話もその歴史の一こまだったのでしょうか。

明治維新から約60年前の林蔵の探検記録は、村上貞助によって「北夷分界余話」「東韃地方紀行」にまとめられ、幕府に報告されました。

幕末、北方の地は、早くから脅威を受け、林蔵は、その前線で命がけの探検を行い、その後の北方領土に大きな影響を与えたものと思われます。

北方領土問題の解決に手をこまねいている現代の私たちは、もっと歴史を知り、林蔵に学ぶことも多くあるような気がしてきました。

■絵の説明文です。
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サンタンゴエ
1809年(文化6年)7月26日(新暦9月5日)に通過。昔ロシアの山賊がホンコー河を下って来て住み着いたという。山賊たちは、ここの人たちから生産物を奪い、土地を支配しようとして満州族と戦ったが、敗れてロシアに逃げ帰ったそうだ。河岸の高いところに2基の石碑があったが、遠く船中から見ただけなので文字までは分からなかった。(「東韃地方紀行」下巻)
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