7/17 北海道旅行4日目16時頃、「稚内市開基百年記念塔」の展望台で雄大なパノラマを見た後は、エレベーターを降りた「北方記念館」の見学です。
「北方記念館」の入口近くに置かれた大きなヒグマのはく製が出迎えてくれました。
そばで見る巨大な熊は、実に迫力があります。
今年の秋、熊や、猪の被害のニュースが多く伝えられていますが、熊の多かった昔の時代、人間はどう対処していたのでしょうか。
もっと昔に学ぶことがないのでしょうか。
■説明文です。
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ひぐま
昭和56年4月21日
宗谷管内猿払で射止められたもの。
推定年齢 12~13才
性 別 オス
体 長 2.3m
体 重 250Kg
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「蝦夷地実用ストーブ」と書かれた一見平凡なストーブが展示されていました。
説明文によると江戸時代末期、この地で作られた日本初のストーブの復元品だったことには驚きでした。
「カッヘル」、オランダ語で、ストーブのことだそうです。
■ストーブの説明文です。
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蝦夷地実用ストーブ(カッヘル)
1856年(安政3年)、宗谷に赴任した梨本弥五郎は、景蔵という名のアイヌにストーブを造らせました。
箱館奉行の許可を得て、赴任前に箱館で製作を依頼したストーブ「カッヘル」が、冬までに間に合わないことがわかったからでした。
日本初の西洋式ストーブとして箱館で完成したストーブは鋳物でしたが、鋳鉄が手に入らない宗谷では鍛鉄[たんてつ]で造りました。その結果、重さが約53kg(14貫300匁)と鋳鉄製よりはるかに軽く、耐久力があり、価格も3分の1で仕上がりました。
完成した第1号は、お産を控えた大塚良輔の役宅で「蝦夷地実用ストーブ」として赤々と燃え、煙をあげました。その後も現地で生産され、各地に配備されたと記録に残されています。
この復元「カッヘル」は「稚内歴史・まち研究会」が鋳物製ストーブの設計図を参考に、宗谷では、素材が手造りの鍛鉄に変わったことを考慮検討して復元したものです。
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ストーブの説明文に添えられていた「鋳物製ストーブの設計図」です。
説明文に「箱館奉行の許可を得て、赴任前に箱館で製作を依頼した」とあり、これはその設計図と思われます。
北方防衛のため、極寒の地、宗谷などので越冬の際に多くの犠牲者を出しており、オランダなどから暖房対策の情報を得たことによるものでしょうか。
それにしてもこの設計図で、日本初めての鍛鉄のストーブを作ったアイヌ「景蔵」の腕と、努力は、驚くべきものです。
2009年8月2日函館旅行の時、「箱館高田屋嘉兵衛資料館」で見た、「日本初のストーブ復元品」です。
頂いたパンフレットに印刷されていた写真で、梨本弥五郎が宗谷へ赴任する前に製作を依頼した鋳物製ストーブの復元品と思われます。
函館で展示されていたストーブにこのような史話があったとは知りませんでした。
棺桶を少し大きくしたような木製の箱「寝棺」が展示されていました。
極寒の地で考えられた寝具で、「寝棺」には蒲団が詰められ、すぐ横に箱のフタもあります。
地元のアイヌや、間宮林蔵が探検した樺太などの北方民族は、どの様な防寒寝具だったのか興味が湧いてきます。
江戸時代末期、東北の諸藩が極寒の北海道で、越冬に失敗して多くの犠牲者を出した歴史を思うと、この「寝棺」は死と隣り合わせで生きた人々の切実な対策だったことを教えられました。
■「宗谷の寝棺」説明文です。
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宗谷の寝棺
1792年(寛政4年)に宗谷を訪れた幕府の串原右仲(正峯)は、『夷諺俗話』のなかで宗谷の寝棺について記録しています。
「ソウヤで越年する時は、寒気をしのぐ「キツ」という厚い板で、一人前一畳敷ほど、高さ三尺ほどの箱をこしらえ、その中に笹の葉を厚く敷き、上へ熊、その上にフトンを敷き、夜具にくるまって横になり、箱に蓋をして寝る」と書かれています。考えてみれば、恐ろしいほどの切実な知恵です。
来る夜も来る夜も、寝棺で寝なければ、冬の夜の寒さを防ぐことができない。このまま死ぬのではないか。口にこそ出さないまでも、そんな恐怖を武士たちは毎夜、感じていたことでしょう。
ここに展示している寝棺は、当時を想像して再現したものです。実際に横になって、当時の武士たちに思いをはせてください。
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宗谷岬から約1Km西の稚内市宗谷村の「宗谷歴史公園」にある「津軽藩兵詰合の記念碑」で、「北方記念館」で頂いた資料に印刷されていたものです。
徳川幕府の命令で防衛のために宗谷に派遣された津軽藩士が越冬で水腫病となり、多くの死者を出したようです。
その後、水腫病の予防となるコーヒーが飲まれるようになったことから郷土「津軽」の人々によってコーヒー豆の形の石碑がこの地に建てられたようです。
「日本初のストーブ」、「宗谷の寝棺」」、幕末のコーヒーなどは、寒い東北地方の人々が、この宗谷地方にやって来た頃の驚きの物語でした。
■「北方記念館」で頂いた資料です。
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梨本弥五郎と宗谷警備
梨本弥五郎は、1856年(安政3年)6月、妻子を伴って宗谷に赴任した最初の人です。当時、日本海に面した神威岬[かむいみさき](積丹半島突端)以北への婦女通行は禁止されていました。女性を乗せた船が神威岬の沖を通ると神の怒りに触れて必ず沈むとアイヌが信じていたからです。梨本は、幕府に願い出て、妻子とともに舟に乗り込み、無事宗谷に着きました。これがきっかけとなって、幕府は女性の航海を解禁しました。
梨本弥五郎は、厳寒の地ですごす武士やその家族のために、ブランケット(毛布)やストーブ(カッヘル)も導入しました。それらによって妻子といっしょに赴任する武士も増えていきました。
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コーヒーと宗谷警備
この時代の越冬に用いられたものにコーヒーがあります。
水腫病予防薬として「和蘭コーヒー豆」が配給されたのです。当時コーヒーは-般に出回っておらず、庶民が口にしたのはこの頃がはじめてではないかといわれています。
「黒くなるまでよく煎り、細かくたらりとなるまでつき砕き、二さじほどを麻の袋に入れ、熱い湯で番茶のような色にふり出し、土瓶に入れて置き、冷めたら温め、砂糖を入れて用いるべし」と飲み方も記録されています。
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「北方記念館」の入口近くに置かれた大きなヒグマのはく製が出迎えてくれました。
そばで見る巨大な熊は、実に迫力があります。
今年の秋、熊や、猪の被害のニュースが多く伝えられていますが、熊の多かった昔の時代、人間はどう対処していたのでしょうか。
もっと昔に学ぶことがないのでしょうか。
■説明文です。
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ひぐま
昭和56年4月21日
宗谷管内猿払で射止められたもの。
推定年齢 12~13才
性 別 オス
体 長 2.3m
体 重 250Kg
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「蝦夷地実用ストーブ」と書かれた一見平凡なストーブが展示されていました。
説明文によると江戸時代末期、この地で作られた日本初のストーブの復元品だったことには驚きでした。
「カッヘル」、オランダ語で、ストーブのことだそうです。
■ストーブの説明文です。
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蝦夷地実用ストーブ(カッヘル)
1856年(安政3年)、宗谷に赴任した梨本弥五郎は、景蔵という名のアイヌにストーブを造らせました。
箱館奉行の許可を得て、赴任前に箱館で製作を依頼したストーブ「カッヘル」が、冬までに間に合わないことがわかったからでした。
日本初の西洋式ストーブとして箱館で完成したストーブは鋳物でしたが、鋳鉄が手に入らない宗谷では鍛鉄[たんてつ]で造りました。その結果、重さが約53kg(14貫300匁)と鋳鉄製よりはるかに軽く、耐久力があり、価格も3分の1で仕上がりました。
完成した第1号は、お産を控えた大塚良輔の役宅で「蝦夷地実用ストーブ」として赤々と燃え、煙をあげました。その後も現地で生産され、各地に配備されたと記録に残されています。
この復元「カッヘル」は「稚内歴史・まち研究会」が鋳物製ストーブの設計図を参考に、宗谷では、素材が手造りの鍛鉄に変わったことを考慮検討して復元したものです。
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ストーブの説明文に添えられていた「鋳物製ストーブの設計図」です。
説明文に「箱館奉行の許可を得て、赴任前に箱館で製作を依頼した」とあり、これはその設計図と思われます。
北方防衛のため、極寒の地、宗谷などので越冬の際に多くの犠牲者を出しており、オランダなどから暖房対策の情報を得たことによるものでしょうか。
それにしてもこの設計図で、日本初めての鍛鉄のストーブを作ったアイヌ「景蔵」の腕と、努力は、驚くべきものです。
2009年8月2日函館旅行の時、「箱館高田屋嘉兵衛資料館」で見た、「日本初のストーブ復元品」です。
頂いたパンフレットに印刷されていた写真で、梨本弥五郎が宗谷へ赴任する前に製作を依頼した鋳物製ストーブの復元品と思われます。
函館で展示されていたストーブにこのような史話があったとは知りませんでした。
棺桶を少し大きくしたような木製の箱「寝棺」が展示されていました。
極寒の地で考えられた寝具で、「寝棺」には蒲団が詰められ、すぐ横に箱のフタもあります。
地元のアイヌや、間宮林蔵が探検した樺太などの北方民族は、どの様な防寒寝具だったのか興味が湧いてきます。
江戸時代末期、東北の諸藩が極寒の北海道で、越冬に失敗して多くの犠牲者を出した歴史を思うと、この「寝棺」は死と隣り合わせで生きた人々の切実な対策だったことを教えられました。
■「宗谷の寝棺」説明文です。
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宗谷の寝棺
1792年(寛政4年)に宗谷を訪れた幕府の串原右仲(正峯)は、『夷諺俗話』のなかで宗谷の寝棺について記録しています。
「ソウヤで越年する時は、寒気をしのぐ「キツ」という厚い板で、一人前一畳敷ほど、高さ三尺ほどの箱をこしらえ、その中に笹の葉を厚く敷き、上へ熊、その上にフトンを敷き、夜具にくるまって横になり、箱に蓋をして寝る」と書かれています。考えてみれば、恐ろしいほどの切実な知恵です。
来る夜も来る夜も、寝棺で寝なければ、冬の夜の寒さを防ぐことができない。このまま死ぬのではないか。口にこそ出さないまでも、そんな恐怖を武士たちは毎夜、感じていたことでしょう。
ここに展示している寝棺は、当時を想像して再現したものです。実際に横になって、当時の武士たちに思いをはせてください。
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宗谷岬から約1Km西の稚内市宗谷村の「宗谷歴史公園」にある「津軽藩兵詰合の記念碑」で、「北方記念館」で頂いた資料に印刷されていたものです。
徳川幕府の命令で防衛のために宗谷に派遣された津軽藩士が越冬で水腫病となり、多くの死者を出したようです。
その後、水腫病の予防となるコーヒーが飲まれるようになったことから郷土「津軽」の人々によってコーヒー豆の形の石碑がこの地に建てられたようです。
「日本初のストーブ」、「宗谷の寝棺」」、幕末のコーヒーなどは、寒い東北地方の人々が、この宗谷地方にやって来た頃の驚きの物語でした。
■「北方記念館」で頂いた資料です。
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梨本弥五郎と宗谷警備
梨本弥五郎は、1856年(安政3年)6月、妻子を伴って宗谷に赴任した最初の人です。当時、日本海に面した神威岬[かむいみさき](積丹半島突端)以北への婦女通行は禁止されていました。女性を乗せた船が神威岬の沖を通ると神の怒りに触れて必ず沈むとアイヌが信じていたからです。梨本は、幕府に願い出て、妻子とともに舟に乗り込み、無事宗谷に着きました。これがきっかけとなって、幕府は女性の航海を解禁しました。
梨本弥五郎は、厳寒の地ですごす武士やその家族のために、ブランケット(毛布)やストーブ(カッヘル)も導入しました。それらによって妻子といっしょに赴任する武士も増えていきました。
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コーヒーと宗谷警備
この時代の越冬に用いられたものにコーヒーがあります。
水腫病予防薬として「和蘭コーヒー豆」が配給されたのです。当時コーヒーは-般に出回っておらず、庶民が口にしたのはこの頃がはじめてではないかといわれています。
「黒くなるまでよく煎り、細かくたらりとなるまでつき砕き、二さじほどを麻の袋に入れ、熱い湯で番茶のような色にふり出し、土瓶に入れて置き、冷めたら温め、砂糖を入れて用いるべし」と飲み方も記録されています。
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