昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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白滝山頂上の石仏群と柏原伝六

2010年01月20日 | 山陽地方の旅
前回に続き、尾道市因島重井町「白滝山」の記録です。

白滝山の頂上を散策すると、おびただしい数の石仏が並び、眼下には海と島のパノラマが展開しています。



山頂に作られた展望台から観音堂のある北北西方向を見た景色です。

山頂からなだらかに下る尾根沿いに約700体余りの石仏が並び、壮観です。

手前の二体の石像は、江戸時代末期に「一観教」を開き、石仏を造った柏原伝六と妻の像だそうです。

■持ち歩いた本、森本繁著「備後の歴史散歩」にあった白滝山の説明文です。
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・・・この白滝山を有名にしたのは山頂の尾根にずらりと並ぶ石仏である。
江戸時代の末期、文政五年(1822)に重井村の柏原伝六が四十二歳の時発心して白滝山の観音堂に籠り、儒仏神と邪蘇の四教を融合した新宗教を興し、その教祖となった。伝六は観音堂一観と号して四十六歳のときから釈迦三尊像と五百羅漢の彫造に着手し、白滝山頂に石仏の並ぶ観音浄土が出現した。
すると村人たちは競ってこの一観教に入信し、一観夫妻の石仏まで彫られたから広島藩庁は大いに驚き、これを邪教として伝六を召し捕り、伝六は文政十一年(1828)三月十五日、広島の獄舎で病死した。石仏は全部で七百余体もあり、中には十字架を手にしたマリア観音像もあるから、藩庁がこれを危険視した理由がわかる。
 現在、重井町東浜港に立つ柏原水軒翁築港碑は、安政四年(1857)に重井東港および新開を築造した柏原伝六水軒の頌徳碑だが、碑文を読むとこの水軒翁は重井村旧庄屋長右衛門家の亜流で、一観伝六の子であったことがわかる。
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白滝山山頂の案内図に施設・石像の名をアレンジして作った図です。

最初の頂上から見た全景写真と照合して見て頂くとよく分かります。



観音堂の境内から頂上に向かい石段を登った左手に「柏原林蔵像」があります。

「柏原林蔵」は、一観教の開祖「柏原伝六」の弟子となり、他の弟子を指揮して石仏を造った人のようです。

■石像の後方に案内板があり、「柏原林蔵」が石仏の台座に刻んだ碑文の説明が書かれていました。
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 碑 文      碑 文 の 意 味
吾卿居士一観   釈迦は「いつでもどこでも人の立場を
者世興以修善   考えて人のために努力することは最高
而自利自他人   の徳である」と教えられた
所知職矣又    伝六はこの教えをよく勉強し又これ
相値其勝因    を人にも伝えて世の中を平和にしようと
願而造立於二   心がけた
八尊者五百聖   善行を積み重ねている家は末代栄える
者永今人住一   多くの石仏を作っていつの時代の人にも
念不退地爾    熱心にに正しい信仰をしてもらいたい
六十一歳発願   石仏造りは六十一才に願かけし六十四才
六十四歳願成就  の時完成した
 柏原林蔵
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左右に沢山の石仏を従えた「釈迦三尊像」(普賢菩薩、釈迦如来、文殊菩薩) が一際高くそびえていました。

最初の写真にも写っていますが、一番前に並んでいる大きな石仏です。

釈迦三尊像は、中央に釈迦如来、両脇に普賢菩薩、文殊菩薩が並んでいます。

写真には右の一体しか見えませんが、両脇に「十大弟子」が並んでいました。



「釈迦三尊像」の両側にコの字型に突出して並ぶ「十六羅漢」です。

石に彫られた姿は、他の五百羅漢と比較してかなり個性的でした。

「釈迦三尊像」(上段の写真)や、「十大弟子」、「十六羅漢」を囲むように四天王(多聞天、持国天、広目天、増長天)が四方に立っていました。



向かって左が、「西国三十三番札所」と案内された石仏群で、右手が「過去七佛」だそうです。

仏教では、お釈迦様以前にも悟りを開いた仏様が六仏いたとし、お釈迦様を含めて※過去七仏[かこしちぶつ]と言うようです。

※毘婆尸佛[びばしぶつ]、尸棄佛[しきぶつ] 、毘舎浮佛[びしゃふぶつ]、拘留孫佛[くるそんぶつ] 、拘那含牟尼佛[くなごんむにぶつ]、迦葉佛[かしょうぶつ]、釈迦牟尼佛[しゃかむにぶつ]



案内図に「三大師座像、達磨大師・弘法大師・道元承陽大師」と書かれていた石仏です。

参道の両脇には五百羅漢が並んでいます。

「達磨大師」は、南インドの王子に生まれ、5世紀後半から中国で活躍した禅宗の開祖と言われる人です。

「道元承陽大師」は、禅宗の宗派の一つ「曹洞宗」の開祖「道元」です。

「弘法大師」と禅宗の二大師を組み合わせた教祖伝六の発想はよく分かりませんが、様々な宗教を統合しようとした意欲が垣間見られるようです。



展望台の前に柏原伝六夫婦像がありました。

台座には「一観像」「一観妻」と刻まれ、往時の面影がうかがえるようです。

なぜか台座は、向って右が空席のようです。

又、空席の台座の後方に後ろを向いた弘法大師立像が見えます。

他の仏像に背を向け、南に向いたこの立像の意味は謎です。

弘法大師立像の足元に「四国八十八ヶ所御本尊」の小さな石仏が並んでいました。



展望台の横に絶壁に建つ鐘楼があります。

ここから見下ろす西の景色は実に雄大です。

帰りの麓の道で、車を停めて白滝山を眺めていたら懐かしさを感じるこの鐘の音が聞こえて来ました。



頂上の展望台の横に「阿弥陀三尊像」が安置されていました。

手前に見える仏像は、勢至菩薩[せいしぼさつ]で、観音堂に置かれた案内図には「知恵の仏」と書かれています。

頂上で、最後列に仏教の「阿弥陀三尊像」があることから「一観教」の教えは仏教を主体とした教えだったと推測されます。



展望台の東側に「日本大小神祇」[にっぽんだいしょうじんぎ] と刻まれた石碑の後方に大きな岩が、並んでいます。

「大小神祇」の意味は、もろもろの神々といったところでしょうか。

高くそびえる岩は、その下にある両脇の岩に乗せられたような形跡がありました。

この巨石群は、古代祭祀の施設にも思われます。



上段の「日本大小神祇」の巨石群の裏側に廻って見ました。

巨石群と、岩の下の「御嶽神社」と刻まれたの石碑で、社殿のなかった時代の祭祀を彷彿とさせます。

向って右上の岩は、左を向いた顔にも見えます。

古代祭祀は、この方向から岩を見上げ、磐座に鎮座する神々に祈ったのでしょうか。