1月2日、尾道市因島外浦町の「本因坊秀策記念館」を訪れました。
本因坊秀策<1829(文政12年)~1861(文久元年)>は、江戸時代末期に当地で生れ、幼い頃に母に教えられた囲碁で、歴史に残る最強の棋士となった人です。
2008年9月に開館した「本因坊秀策記念館」です。
向って右隣が、石切神社、左奥の山に小さな神社が見えます。
館内に入ると受付の男性に勧められ、本因坊秀策の生涯をまとめたDVDを見せて頂きました。
展示品を見る前にDVDで概要を知り、とてもよく理解出来ました。
「秀策母子愛用の碁盤と碁石」です。
長年使い込まれたためか、碁盤の線はだいぶ消えかかっていました。
秀策の幼名は虎次郎で、商家だった桑原家の次男として生まれ、5歳頃に母から碁を教えられたようです。
碁盤の裏には「慎始 克終 視明 無惑」、「安政四丁巳[ひのとみ]初秋 十四世本因坊跡目 秀策」(1857年-安政4年)と書かれていました。(丁巳は60年周期の干支の一つです)
秀策29歳の年、第4回目最後の帰郷の時に書いたものとされています。
頂いたパンフレットにあった本因坊秀策の絵です。
亡くなった後に描かれたようですが、本因坊門下に入った子供時代の顔にも見えます。
6歳の頃、父に連れられ尾道の祭りに行った秀策は、尾道の豪商橋本吉兵衛に碁の才能を認められ、生涯後ろ盾を得ることになったようです。
7歳になり神童のうわさが広がり、碁好きの三原城主浅野忠敬に望まれて対局を行い、碁の相手として召し抱えられました。
秀策は、登城に先立ち、桑原虎次郎から安田栄斎に改名しています。(安田:養子に来た父の実家の姓で、城主に会える格式だったそうです)
浅野忠敬は、碁では芸州随一の竹原宝泉寺葆真和尚に秀策の育成をたのみ、しばらくすると葆真和尚をしのぐ実力になったようです。
9歳になると、浅野忠敬の計らいで本因坊家に弟子入りし、着実に実力を伸ばして行きました。
パンフレットにあった「秀策自筆の扇」です。
二十歳になった秀策は、本因坊家から後継者の要請を受け、十四世本因坊跡目 秀策と名乗り師の娘と結婚することになります。
江戸時代、碁の晴れ舞台は、将軍が開催するお城碁で、本因坊家、井上家、林家、安井家と家元四家がしのぎを削っていたようです。
秀策は、21歳時、初のお城碁から亡くなる33歳まで12年間負けなしの19連勝という素晴らしい戦歴を残しました。
碁の研鑽の他、体調や、精神状態を12年間最高の状態で対局することは天才の言葉では語れない努力と、人格を感じます。
■受付のカウンターに「秀策自筆の扇」の説明文が展示されていました。
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本文
戦罷 両 奩収 黒 白一 坪 何處 有 虧成
読み下し文
戦い止みて両奩[りょうれん]に黒白を収む
一枰[いちへい]いずれの處[ところ]にか虧成[きせい]あらん
戦いが終わり、互いに碁石を片づけた後の何もない碁盤を見渡せば、そこには戦った跡などひとかけらも残っていない。
NHK「その時歴史は動いた」訳
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「本因坊秀策記念館」で開催中の特別展「よみがえる本因坊秀策」のパンフレットです。
何気なく訪れましたが、幸いにもこの特別展が開催されていました。
各地から本因坊秀策の資料や、遺品が集められ、本因坊秀策をよく知るにはとても良い展示だったと思います。
この秀策の像は、記憶している説明文では生前に描かれたとしており、顔が長く、上の丸い顔と明らかに違います。
「本因坊秀策記念館」の建物の裏に再現された秀策の生家です。
当時、藁葺きだった屋根は、さすがに再現出来なかったようです。
■家の中にあった案内板を転記します。
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本因坊秀策生家(再現)
本因坊秀策は、文政十二年(1829)五月五日備後国御調郡外之浦(現広島県尾道市因島外之浦町に桑原輪三の次男(幼名虎次郎)として誕生しました。
秀策の生家は、万延元年(1860年)に建て替えられましたが、この時秀策は、両親のために六十両という大金を送ったと伝えています。
この家もまた、老朽化のため昭和四十七年(1972年)に取り壊されましたが、記念館の建設に併せて、現存する生家(桑原)家相図をもとに、秀策の子ども時代を偲べるよう、できる限り当時の姿を再現したものです。
尾道市教育委員会
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生家の案内板にあった昔の家の平面図です。
①玄関口、②土間、③土間台所、④6畳間(板張りの上り口)、⑤お茶の間4.5畳、⑥6畳間、⑦6畳間、⑧便所
「本因坊秀策記念館」で頂いた付近の地図で、本因坊秀策の墓への道も案内されています。(少し修正しています)
因島北インターから「本因坊秀策記念館」までは、分かりやすい案内標識があり、迷わずにたどり着きました。
「本因坊秀策記念館」の裏山に小さな神社がありました。
記念館の係の方に訪ねると、秀策の生家、桑原家の一族が祀る「桑原神社」だそうです。
一族の方々が、板張りの拝殿に集まり、お祭りをされるそうです。
「桑原神社」から見下ろした秀策の生家で、向って右隣が、「本因坊秀策記念館」です。
建物の手前に細長く突き出ているのは便所でした。
「本因坊秀策記念館」の手前にある「石切神社」で、生家の屋敷内に建てられたそうです。
鳥居を入り、右手奥に神社建物、左手奥に「本因坊秀策記念碑」があります。
「本因坊秀策記念館」の係の方に聞いた話では「石切神社」は、秀策の兄が実家を継ぎ、その子孫が他の地から神社を勧請し、宮司をされているそうです。
上の地図には「石切神社」、拝殿前の石柱には「因島石切神社」、両脇の提灯には「石切風切宮」と書かれ、神社名が特定できません。
碁盤の形をした台座に「本因坊秀策記念碑」が建てられています。
石碑には「本因坊秀策碑 本因坊秀哉書」と刻まれています。
本因坊秀哉は、世襲的に引き継がれた最後の本因坊(21世)で、本因坊の名跡を日本棋院へ譲ったそうです。
1939年から本因坊戦が始まり、タイトルを5回連続で保持した棋士が本因坊を名乗ることになっています。
今回の見学で、記念館の係の方に丁寧な説明を頂き、本因坊秀策の素晴らしさを教えて頂きました。 感謝
本因坊秀策<1829(文政12年)~1861(文久元年)>は、江戸時代末期に当地で生れ、幼い頃に母に教えられた囲碁で、歴史に残る最強の棋士となった人です。
2008年9月に開館した「本因坊秀策記念館」です。
向って右隣が、石切神社、左奥の山に小さな神社が見えます。
館内に入ると受付の男性に勧められ、本因坊秀策の生涯をまとめたDVDを見せて頂きました。
展示品を見る前にDVDで概要を知り、とてもよく理解出来ました。
「秀策母子愛用の碁盤と碁石」です。
長年使い込まれたためか、碁盤の線はだいぶ消えかかっていました。
秀策の幼名は虎次郎で、商家だった桑原家の次男として生まれ、5歳頃に母から碁を教えられたようです。
碁盤の裏には「慎始 克終 視明 無惑」、「安政四丁巳[ひのとみ]初秋 十四世本因坊跡目 秀策」(1857年-安政4年)と書かれていました。(丁巳は60年周期の干支の一つです)
秀策29歳の年、第4回目最後の帰郷の時に書いたものとされています。
頂いたパンフレットにあった本因坊秀策の絵です。
亡くなった後に描かれたようですが、本因坊門下に入った子供時代の顔にも見えます。
6歳の頃、父に連れられ尾道の祭りに行った秀策は、尾道の豪商橋本吉兵衛に碁の才能を認められ、生涯後ろ盾を得ることになったようです。
7歳になり神童のうわさが広がり、碁好きの三原城主浅野忠敬に望まれて対局を行い、碁の相手として召し抱えられました。
秀策は、登城に先立ち、桑原虎次郎から安田栄斎に改名しています。(安田:養子に来た父の実家の姓で、城主に会える格式だったそうです)
浅野忠敬は、碁では芸州随一の竹原宝泉寺葆真和尚に秀策の育成をたのみ、しばらくすると葆真和尚をしのぐ実力になったようです。
9歳になると、浅野忠敬の計らいで本因坊家に弟子入りし、着実に実力を伸ばして行きました。
パンフレットにあった「秀策自筆の扇」です。
二十歳になった秀策は、本因坊家から後継者の要請を受け、十四世本因坊跡目 秀策と名乗り師の娘と結婚することになります。
江戸時代、碁の晴れ舞台は、将軍が開催するお城碁で、本因坊家、井上家、林家、安井家と家元四家がしのぎを削っていたようです。
秀策は、21歳時、初のお城碁から亡くなる33歳まで12年間負けなしの19連勝という素晴らしい戦歴を残しました。
碁の研鑽の他、体調や、精神状態を12年間最高の状態で対局することは天才の言葉では語れない努力と、人格を感じます。
■受付のカウンターに「秀策自筆の扇」の説明文が展示されていました。
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本文
戦罷 両 奩収 黒 白一 坪 何處 有 虧成
読み下し文
戦い止みて両奩[りょうれん]に黒白を収む
一枰[いちへい]いずれの處[ところ]にか虧成[きせい]あらん
戦いが終わり、互いに碁石を片づけた後の何もない碁盤を見渡せば、そこには戦った跡などひとかけらも残っていない。
NHK「その時歴史は動いた」訳
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「本因坊秀策記念館」で開催中の特別展「よみがえる本因坊秀策」のパンフレットです。
何気なく訪れましたが、幸いにもこの特別展が開催されていました。
各地から本因坊秀策の資料や、遺品が集められ、本因坊秀策をよく知るにはとても良い展示だったと思います。
この秀策の像は、記憶している説明文では生前に描かれたとしており、顔が長く、上の丸い顔と明らかに違います。
「本因坊秀策記念館」の建物の裏に再現された秀策の生家です。
当時、藁葺きだった屋根は、さすがに再現出来なかったようです。
■家の中にあった案内板を転記します。
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本因坊秀策生家(再現)
本因坊秀策は、文政十二年(1829)五月五日備後国御調郡外之浦(現広島県尾道市因島外之浦町に桑原輪三の次男(幼名虎次郎)として誕生しました。
秀策の生家は、万延元年(1860年)に建て替えられましたが、この時秀策は、両親のために六十両という大金を送ったと伝えています。
この家もまた、老朽化のため昭和四十七年(1972年)に取り壊されましたが、記念館の建設に併せて、現存する生家(桑原)家相図をもとに、秀策の子ども時代を偲べるよう、できる限り当時の姿を再現したものです。
尾道市教育委員会
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生家の案内板にあった昔の家の平面図です。
①玄関口、②土間、③土間台所、④6畳間(板張りの上り口)、⑤お茶の間4.5畳、⑥6畳間、⑦6畳間、⑧便所
「本因坊秀策記念館」で頂いた付近の地図で、本因坊秀策の墓への道も案内されています。(少し修正しています)
因島北インターから「本因坊秀策記念館」までは、分かりやすい案内標識があり、迷わずにたどり着きました。
「本因坊秀策記念館」の裏山に小さな神社がありました。
記念館の係の方に訪ねると、秀策の生家、桑原家の一族が祀る「桑原神社」だそうです。
一族の方々が、板張りの拝殿に集まり、お祭りをされるそうです。
「桑原神社」から見下ろした秀策の生家で、向って右隣が、「本因坊秀策記念館」です。
建物の手前に細長く突き出ているのは便所でした。
「本因坊秀策記念館」の手前にある「石切神社」で、生家の屋敷内に建てられたそうです。
鳥居を入り、右手奥に神社建物、左手奥に「本因坊秀策記念碑」があります。
「本因坊秀策記念館」の係の方に聞いた話では「石切神社」は、秀策の兄が実家を継ぎ、その子孫が他の地から神社を勧請し、宮司をされているそうです。
上の地図には「石切神社」、拝殿前の石柱には「因島石切神社」、両脇の提灯には「石切風切宮」と書かれ、神社名が特定できません。
碁盤の形をした台座に「本因坊秀策記念碑」が建てられています。
石碑には「本因坊秀策碑 本因坊秀哉書」と刻まれています。
本因坊秀哉は、世襲的に引き継がれた最後の本因坊(21世)で、本因坊の名跡を日本棋院へ譲ったそうです。
1939年から本因坊戦が始まり、タイトルを5回連続で保持した棋士が本因坊を名乗ることになっています。
今回の見学で、記念館の係の方に丁寧な説明を頂き、本因坊秀策の素晴らしさを教えて頂きました。 感謝