昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

岩手旅行に誘ってくれた「兜跋毘沙門天立像」

2008年04月13日 | 近畿地方の旅
昨年10月の東北旅行の続きです。



遠野市から猿ケ石川に沿って花巻市東和町北成島の「三熊野神社」にある「成島毘沙門堂」へ到着しました。
ちょうど予定通りの朝9:00でした。
遠野市の民宿を朝早く出発して小友町の「巌龍神社」「千葉家の曲り屋」「宮守のめがね橋」と、駆け足の見物でした。



2006年10月、東北新幹線の中でJR東日本の雑誌「トランヴェール」の特集記事で「東北新幹線・岩手古寺巡礼」「仏像が語る歴史の道」が掲載されているのを目にしました。
表紙には「成島毘沙門堂」の「兜跋毘沙門天立像」のイラストがありました。
今回の岩手旅行は、JR東日本の雑誌「トランヴェール」の特集記事にあった岩手県の仏像の不思議な魅力にひかれ、一年後にやっと実現したものです。



特集記事のトップにも「兜跋毘沙門天立像」の写真がありました。
大きな毘沙門天を見上げた迫力のある写真でした。



記事には、(写真左から)二戸市天台寺の聖観音立像(桂泉観世音)・十一面観音立像、奥州市黒石寺の増長天・持国天などの平安時代の仏像が紹介されていました。
都の仏像にはない縄文時代を感じる力強さ、素朴さを感じ、岩手へ旅立つきっかけとなりました。



入口の石柱に「熊野神社」「毘沙門堂」の名が見えます。



入口の横にあった案内標識です。
「泣き相撲の宮 三熊野神社 表参道」「木造日本一 毘沙門堂 入口」とあります。

インターネットの観光案内サイトでも「三熊野神社」「成島毘沙門堂」の名で紹介されており、「熊野神社」「毘沙門堂」との違いはよく分りません。

又、「木造日本一」とありますが、ケヤキの一木造りで日本一のようで、他の木の一木造りではもっと大きな仏像があるようです。



緑色の屋根の「三熊野神社」の拝殿と、その後方に本殿が見えます。

■拝殿前に神社の説明板があり、転記します。
岩手県指定有形文化財 「三熊野神社」(みくまのじんじゃ)
三熊野神社の本殿は、向拝流棟造りで、御祭神は熊野の三神で、伊弉冉之命、事解男之命、速玉男之命を祀っています。
言い伝えによると、延暦年中(782~806)征夷大将軍坂上田村麻呂がエミシ征伐の時、この地で紀伊の熊野三山の神威(しんい)を崇(とうと)び熊野の神三を勧請し、三熊野神社を建立したと伝えられています。康平(こうへい)5年(1062)に源義家が安部貞任を追撃しここに立ち寄った時、熊野神社に鏑矢を収めて戦勝祈願をしたところ安部を破り奥羽を兵隊する事ができたと伝えられています。
中世には、和賀領主より社領七十石を寄進され、元和四年(1618)に南部利直公より社領二十三石をいただいています。
県内では数少ない古代建築様式をもつ建造物であることから昭和54年に県の有形文化財に指定されています。



拝殿の前にしめ縄で囲われた大木の切り株がありました。
御神木が枯れてしまったのでしょうか。



拝殿のすぐ横に相撲の土俵がありました。
小雨で、土俵の屋根が光っています。

■土俵の前に「泣き相撲」の説明板があり、転記します。
東和町指定無形民俗文化財
熊野神社十二番角力式(泣き相撲)
ここで行われる泣き相撲は、古くから三熊野神社の特殊神事で、正式には九月の例祭に行う十二番角力の式の事を言います。
言い伝えによると、延暦年中(782~806)坂上田村麻呂がこの地で部下に相撲を取らせたのが始まりと伝えられています。
その後、猿ケ石を境とした南・北成島の青年(二十二歳)による相撲は、勝利した方に豊作をもたらすという占いが流血の争いとなったことから宝永三年(1706)神社氏子の長男で、数え二歳の幼児による泣き相撲にかわり、南北にわかれ六組で取り組みを行い、先に泣き出した方が負けと決められています。現在は幼児成長と豊作を祈る行事として続けられています。
江戸時代から続く民族行事であることから平成五年に町の無形民俗文化財に指定されています。



土俵の中に祭壇がありました。
良縁・子授・健康祈願・安産・学業などのごりやくが書かれています。

神社の奥に坂道があり、いよいよ「兜跋毘沙門天立像」などを納めた収蔵庫に登って行きます。


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