昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

「楽音寺」を拝観

2007年02月12日 | 山陽地方の旅
仁王門を右に曲がり、道なりに行くと「楽音寺」があります
本堂[写真上]は、慶長三年(1598)に再建されたもので広島県重要文化財です。
厳粛さの中に少し優美さもあり、すがすがしさを感じます。
正面左には「楽音寺縁起絵巻」の写真と、音声案内があり、次回の掲載とします。

本堂[写真中段]は、1月25日本堂の前で「初薬師紫燈大護摩法要」の火渡りが行われた跡です。
ニュースウェーブ三原のサイトで動画を見ることができます。
 http://www.mcat.co.jp/modules/auth/onair0701.htm

本堂[写真下]は、本堂の右隣にある「竜王弁天社」です。
弁天(弁才天)は、インドの川の神サラスヴァティが元で、日本では、市杵嶋姫神と同一視され、宮島の厳島神社、琵琶湖の竹生島神社、神奈川県の江ノ島神社の三大弁天が有名です。
寺院の中に神社があるのは、明治維新までの神仏習合のなごりのようです。

楽音寺の創建は、平安時代の天慶年間(938~947年)、藤原純友の乱を平定した藤原倫実(ともざね)によるものと伝えられています。
藤原倫実は、沼田七郷を与えられ、沼田氏となって当地を開発したようです。

平安時代末期、当地は京都東山の蓮華王院(三十三間堂)の荘園「沼田荘」となっています。蓮華王院は、当時の「楽音寺」と同様に天台宗です。
後白河天皇が平清盛へ命じて創建した関係から、沼田氏が所領安堵のため平氏を通じて蓮華王院へ寄進したものと考えられています。

平家滅亡後は、小早川氏が沼田荘地頭職になり、楽音寺は、小早川氏の氏寺となりました。(嘉禎元年(1235年)米山寺が小早川総領家の菩提寺となるまで)

江戸幕府成立後、福島正則が領主になり、楽音寺は寺領没収により急速に衰退したようです。

「卜部俊孝」さんの日展特選を祝う会

2007年02月11日 | 妻の油絵
2/11 17:00 福山ニューキャッスルホテルで「卜部俊孝さんの日展特選を祝う会」が開催されました。
卜部先生の飾り気がなく、心優しい人柄に、270名と多くの方々がお祝いに出席されました。

来賓の方々からの祝辞の後、卜部先生から心がこもったお礼の挨拶があり、お孫さんからの花束贈呈に顔をほころばせていらっしゃいました。

しかし、受賞してこんなに盛大な祝賀会だと日展特選の受賞保険が要りますね。

下記のアドレスは「卜部俊孝」先生の作品が紹介されているサイトです
http://www.hiroshima-e-art.com/file/main/kaiga/urabe/index.html

写真は、祝う会で頂いた出席者名簿、会場風景、おみやげで頂いたお酒と生花です。(受賞作品の油絵「画室の静物」が印刷されていました)

本郷町「楽音寺」の仁王門

2007年02月11日 | 山陽地方の旅
平安時代の創建(940~950年頃か)とされる「楽音寺」は、本郷大橋から国道2号線を少し西に「本郷バイパス西」の信号を南に折れます。約300m進むと右に案内表示に従い、右折した突き当たりにあります。

小早川氏の氏寺でもあった「楽音寺」の仁王門は、本堂と共に江戸時代の「紙本著色楽音寺伽藍絵図」(写真下-右下の門)にも描かれています。
慶長3年(1598)、本堂再建の記録があることから仁王門は、本堂と同時期か、それ以前の建物とも推察されます。
かっては護摩堂・釈迦堂・18の僧坊など多くの建物があったそうですが、江戸時代に福島正則が領主になり、楽音寺は寺領没収で急速に衰退したようです。

慶長3年は、小早川隆景が亡くなった翌年で、小早川の家督は、その6年前に豊臣秀吉の正室ねねの甥である秀秋が小早川の養子となり継いでいた頃です。
(秀秋は、関ヶ原の戦いで寝返り、東軍の勝利を決定付けたことで有名です)
又、慶長3年は秀吉が慶長の役(二度目の朝鮮出兵)の最中に亡くなった年でもあります。

左右の仁王尊は、関ヶ原の戦い(1600年)の前から現代まで、長い時代を見つめられていたのかも知れません。
しかし、長年立ちっ放しのためか、肌の色つやがわるくなっていました。
(仁王像は、文化財に指定されていないため少し時代が新しい可能性もあります)

「甑天満神社」に行きました。

2007年02月10日 | 山陽地方の旅
「菅公手堀井戸」の次に「甑天満神社」(こしきてんまんじんじゃ)に行きました。
(三原市本郷町)
長い石段を登ると神社があります。

祭神は、菅原道真ですが、宇気母智神(ウケモチノカミ)、速玉男命(ハヤタマノウノミコト)が別の神社から合祀されているようでした。
宇気母智神は保食神と書くのが一般的です。

拝殿は神社らしくない建物ですが、本殿にはかなり丁寧に作られた細工が施されていました。獅子が梁を上から噛み付いているのが印象的です。(写真中段)
この中にご神体の甑(こしき)が入っているのでしょうね。

2月4日でしたが、神社のすぐ裏にある梅のつぼみが少しほころび始めていました。(写真下段)

三原市本郷町の「菅公手堀井戸」

2007年02月10日 | 山陽地方の旅
三原市本郷町にある「菅公手堀井戸」です。

場所は、国道2号線の沼田川を渡る本郷大橋の東詰を広島空港方面に右折、次の本郷橋の信号を左折、東洋製罐を過ぎた当りを右折すると右手に案内板があり、そこを右に入った所です。

梅の古木があり、花が咲く時期はとてもきれいになると思います。
向かいには小さな建物ですが、「殻(こう)神社」があります。
又、すぐ西のこ高い山の上には甑(こしき)天満神社があります。

「菅公手堀井戸」の説明板より
およそ1100年ほど前、都で右大臣という位についていた菅原道真(菅公)という人は、朝廷で大変重く用いられていました。
しかし、延喜元年(901)藤原氏の策略のため、都から遠く離れた九州の大宰府に大宰権帥として送られました。
途中この地に上陸したところ、人々は水不足でたいへん困っていました。
みかねた道真が自ら井戸を掘りはじめると、こんこんときれいな水が湧き出しまし人々を救ったのでした。人々はお礼に干し飯を甑(蒸し器のこと)で蒸して差し出しました。その後、このご恩を忘れないようにと、みんなで丘に社を建て、甑をご神体として祀りました。
これが岸ケ岡の甑天満宮です。そのときの井戸は菅公手堀りの井戸として大切に守られ、今も清水をたたえています。
                   三原市教育委員会

琉球王朝時代「中村家住宅」の油絵

2007年02月08日 | 妻の油絵
この写真は、2005年春に妻が描いた「中村家住宅」の油絵で、2004年4月、2005年3月と、二回訪問してそれぞれ同じシーンを描いたものです。

門を入って左に行くと、裏庭に続く小路の途中にある井戸と、その後ろに畜舎がある場所です。紅い花、石垣のある井戸、赤瓦の畜舎など、妻がとても気に入った場面です。

中村家住宅」は、沖縄県北中城村にあり、国指定重要文化財にも指定されている琉球王朝時代の建物です。琉球王朝時代の18世紀中頃に建てられたと伝えられています。
赤瓦の屋根上に迫力のあるシーサー、どっしりとした石塀、フクギの生垣など、古きよき沖縄の魅力を感じさせてくれるスポットです。

恵美寿神社に「子連れの唐獅子」

2007年02月07日 | 山陽地方の旅
写真上段は、拝殿の様子です。
古い額には「恵毘壽神社」とあり、大国様・恵美寿様のお面が奉納されています。
神社の案内板では、現在の社殿は、太閤時代の頃のものと言い伝えがあるそうです。

写真中段は、左の獅子は、子獅子に乳を与えているようで牝の唐獅子です。右の獅子は、子獅子を頭に乗せて遊ばせている牡の唐獅子のようです。
これまで多くの神社に参拝しましたが、こんな唐獅子は初めてです。

写真下段は、本殿裏にある松の木に小鳥の巣箱が二つ掛けられていました。

ファミリー神社と呼びたいような、なんとも心なごむ神社でした。

恵美寿神社に「石の鯛」があった

2007年02月07日 | 山陽地方の旅
三原市米山寺の次に本郷町の恵美寿神社に行きました。

写真上・中段は、恵美寿神社の全景と、鳥居の額に飾られているとても珍しい二枚合わせの鯛です。
写真下段は、鯛の形に彫られている手水鉢です。
これまで多くの神社を参拝しましたが、鯛の額や、手水鉢は、初めてです。
鯛を抱え、釣竿を持った「えびす様」にちなんで作られたものと思われます。

神社の案内板には「恵美須神社」は、天文年間(1532~1553年)地元の有力者や、商人達が恵美須様を勧進し、建立したものと書かれています。
祭神は、事代主命、大国主命です。
境内社は、稲荷神社-宇迦之御魂神、八坂神社-素盞嗚命です。

「恵美寿神社」は、山陽本線本郷駅の近くの郵便局がある通りにあります。

小早川氏一族の墓所

2007年02月06日 | 山陽地方の旅
「米山寺」の小早川氏一族の墓所には鎌倉幕府三将軍の供養塔、小早川家歴代の「宝筐印塔」※が十七基あります。
写真上は、「小早川隆景」のお墓で、前列の向かって一番右側にあります。ワンカップ大関(日本酒)が供えられていました。
お殿様のお口に合いますやら・・・。
写真下は、「土肥実平」のお墓で、後列のやや左付近にあり、「小早川祖」と書かれています。
お墓に刻まれている字を見ると、「小早川平隆景郷墓」「土肥平実平墓」と、姓名の間に「平」があり、変に思えますが、「小早川」「土肥」は地名で、正式名は「平隆景」「平実平」と考えられ、平氏と分かります。

「土肥実平」は、桓武平氏 良文流 中村宗平の次男で、「土肥」は、相模の領地土肥郷にちなむといわれています。
「土肥実平」は、息子「遠平」と共に1180年源頼朝の挙兵から側近として活躍した武将で、瀬戸内海での平氏打倒の戦いにも活躍したようです。平氏滅亡後は、相模の領地の他、備後の守護となったようです。小早川性の始まりは、2代目「遠平」のようで、頼朝から与えられた相模の早川荘の名にちなむといわれています。

「遠平」の養子「景平」は小早川の名字と安芸国沼田荘を譲り受け、本格的な基礎を築いたのは四代目「茂平」のようです。「茂平」の墓は、広島県本郷町の永福寺にもあります。

「小早川隆景」は、毛利元就の三男で、政略的に竹原小早川家の養子となり、その後沼田本家を併合したことはよく知られています。
小早川の城は、高山城から新高山城、更に三原城と移り、現在の三原は城下町として発展しました。

※「宝筐印塔」
経典「宝篋印陀羅尼経」に基づく供養塔で、笠の四隅の「隅飾り突起」が特徴です。室町時代以降は、供養塔だけでなく、墓標としても建てられたようです。

小早川隆景の菩提寺「米山寺」(べいさんじ)

2007年02月04日 | 山陽地方の旅
写真は、「東盧山米山寺」の山門です。
二階が鐘楼となっており、本堂、庫院、霊堂、日光坊がありますが、往時は七堂伽藍十二坊がある大寺院だったようです。庫院には三原市重要文化財となっている「絹本著色小早川隆景寿像」、鎌倉時代の「木造行道面」八面、鎌倉時代末期の「木造狛犬」二対、戦国時代の米山寺古文書七通が保存されているようです。

寺伝によると仁平3年(1153年)誓願禅師により天台宗寺院「巨真山(こまやま)寺」として建立、後に「米山寺」の字となった。嘉禎元年(1235年)小早川茂平(四代目)が不断念仏堂を建立、伽藍を整備し、小早川総領家の菩提寺とした。関ヶ原戦後の慶長5年(1600年)毛利氏に従って周防に「新巨真寺」、長門に「隆景寺」を創めた。1608年には建物が消失したが、隆景100年忌に曹洞宗として再興されたとあります。

小早川隆景は、1597(慶長2)年に65才で没し、小早川家最後の埋葬となっていますが、関ヶ原戦後の小早川家の菩提寺は、毛利の移封とともに泰雲寺(山口市小鯖)に移ったようで、どうも寺伝とはちがうようです。
興味のある方は下記の「月光山泰雲寺」紹介サイトがありましたのでご覧下さい。
http://www1.ocn.ne.jp/~itoku/sekiguti.htm

お寺の前には駐車場や、トイレが整備され、きれいに掃除されており、気持ちよく拝観させて頂きました。小早川17代のお墓は、斜め向かいにあります。

米山寺の参道になつかしい「水車小屋」があった

2007年02月04日 | 山陽地方の旅
2月4日、春のようなお天気で、三原市沼田東町納所にある小早川の氏寺、「米山寺」(曹洞宗)に行きました。
写真上は、道中の「石の道標」です。
写真中段は、だいぶお寺の近くなった所にあった「水車小屋」です。
昔は茅葺屋根だったようですが、今の屋根は比較的新しい瓦葺で、風情がなくなっています。(数十年したら落ち着くのでしょうが)
「水車小屋」のすぐ脇に建物の石の基礎が残っていました。(写真下段)
昔の山門か、僧坊だったのでしょうか。

池田湖「大うなぎ」の起床時間

2007年02月03日 | 九州の旅
池田湖畔にある道の駅 池田湖パラダイスの店内左奥に「大うなぎ」のいる水槽がありました。
中央の水槽には、巨大うなぎが静かによこたわっていました。(写真上)
ちょうど夕方5時になった時、横の水槽の「大うなぎ」がのっそりと奥から出てきました。
写真下は、水槽の角の水面で空気を吸うように登って来たところです。
お店の女性から聞いた話では、夜行性の「大うなぎ」が目覚めるのはだいたい夕方5時頃だそうです。
ちょうど良いタイミングだったようです。

「大うなぎ」のプロフィール
■資格:指宿市の天然記念物に指定
■身長:180cm、体重:20Kg、ウエスト:30cm
■好物:ニジマス、ハエなどの小魚
■性格:夜行性で、昼間はいたっておとなしいが、夜になると寝ている小魚を
    ねらうセコい一面もある。
    決まって17:00に起床する几帳面な性格。
    色黒だが、腹が白っぽいことから腹黒さはない。
■寿命:最長40年といわれている。
■由緒正しきオオウナギの学術的分類名:
 動物界・脊索動物門・脊椎動物亜門・魚上綱・硬骨魚綱・
 ウナギ目・ウナギ亜目・ウナギ科・ウナギ属・オオウナギ

イッシー伝説の池田湖に湖底火山があった

2007年02月01日 | 九州の旅
枚聞神社を後にして、「池田湖」(写真上)に行きました。
「池田湖」は、約5000~4500年前の火山活動によって出来たといわれる九州で最大の湖で、直径約3.5km、周囲約15kmのカルデラ湖です。
開門岳でも紹介した巨大な「阿多カルデラ」の中に出来た「池田カルデラ」に水がたまったもので、最深部は233m(海抜マイナス167m)と、海面よりはるかに深い湖だそうです。

等高線のある地図(写真下)を見ると「池田湖」の東部に山が確認され、水面下42mに頂上がある高さ約170m(水深210m~42m)の湖底火山となっているそうです。湖底火山は、世界的にとても珍しいものといわれています。

湖畔にとても愛らしい(?)恐竜「イッシー」の看板がありました。
1978年、湖面に高さ約50cmの黒いコブのような物が移動しているのを発見、その後も目撃が相次ぎ恐竜「イッシー」の新聞記事で賑わったことがあります。

しかし、以下の定説を前提に考えれば、恐竜ではないと推察されます。
①恐竜の大部分は、約6,500万年前に絶滅した。
②「阿多カルデラ」は、約10万年前の巨大噴火で形成された。
③「池田カルデラ」は、約5000年前「阿多カルデラ」の中に出来た。
④1978年に「イッシー」とされる正体不明の物体が発見された。
しかし、多くの人が目撃した物体の正体は今も謎のままです。